共同体と言える人脈の中、修道院へ巣立つ人が次々と産まれ、洗礼者を誕生させた。私の代母(洗礼上の母)を中心とした信仰者共同体は、時にその活動的な共同体の為に司祭から危険視さえされた。
この共同体を通して洗礼を受けたにも関わらず一般信者になった者が、共同体に反発や非難を向けるというオマケも付いていたが、多分修道者を産み出す為の厳しさ故に距離を置いて行ったのだと感じている。
若さ故に、私は深い心配もせず、有りの侭を当たり前の様に見つめていた。
この共同体に接して生きた日々は自己の人生の土台となり、その後この共同体に匹敵する人々に会った試しが無い。
その頃知った事、学んだ事は数多あるけれど、その中の一つでここ最近思い出す事がある。
「《解放の神学》は読んではいけない」
と言われた事。
行動制限の様に思うかも知れないが、霊的な意味があった。
『共産主義そのものが、人の自由を奪い人を奴隷にするものである。』
という事に共感する何かを感じる人にしか伝わらないかも知れない。
私が「読んではいけない」に気付いたのは、いけないの注意を受けた数年後だった。
共同体を離れ帰郷した私が通い始めた教会で、信仰深く霊的にも敏感な婦人とミサでよく会い食事も共にしていた。そんな何気ないある日、
「これ、素晴らしいのよ」と《解放の神学》を勧めてくれた婦人の顔が般若の形相になっていた。
「読むな」は・・・こういう何かしかの悪質な存在の憑依や影響を受けるからなのだと、はっきり理解した。
サタンとは巧妙で、庶民側に立つ見せ掛けの善なる未来を描いて見せ人を取り込む。多分、霊的に長けた人だからこうした反応が現れたのであって、経験値の低い信者なら人に勧め捲って教会内で勉強会を開いたりしかねない。
共産主義者がマイノリティを使って神父を育て、時間を掛けて内部崩壊させる仕込みをしている話も昔から聞いている。
ニューエイジ思想よりも更に昔から、愛に基づく繋がりや生活を破壊するやり方が共産主義なのだと私は思っている。
外的に起こる非難や中傷は、どんな宗教にもある事。それに惑わされないで欲しい。
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教会に通う事が出来ない環境でも、洗礼を受けた者には霊的な御聖体拝領がある。
(教会を離れた私が言うべき事ではないかもしれないが・・・・。)
国や世界の頭的な部分をサタンが支配する現象が終末と言われてきたが、多分・・その支配計画は自滅すると私は思っている。
バチカンがあるから信仰がある訳ではない、末端信者の一日一日があるからバチカンが存在できたに過ぎない。
怒りで物を叩き付けても、さめざめと「もう駄目だ」と泣き疲れても、落ち着き正気を取り戻せたら、キリスト教、仏教、神道、どんな宗教であれ、人を世に送り出した神に顔を向け直せるならば、誰もが「神」に愛される存在だという事を思い出して欲しいと願っている。