見出し画像

日々のスピリチュアル日記です。

阿弥陀如来様

昨日も体調がスッキリせず、ダラダラしがちだった。しかし夕方になって、流したスマホ動画から阿弥陀如来様の真言が聞こえた瞬間に私の顔がファッと明るくなった。

その時にちょっと不敬なビジョンも見えた。

ステージに阿弥陀如来様がでて来ると、私や他の人々が一段下がった所からステージにかぶり付き、手にペンライトを持って「キャ―キャ―」喜ぶ姿。
心は好きなア―ティストを瞬時に見せられた様なウキウキ感。

私は阿弥陀如来様の真言を通して、慰めを頂いたのだと感じた。

お墓を預かって頂いているお寺が阿弥陀如来様が本尊の古いお寺で、以前にも記したが父他界後には初盆にお経を上げて頂いた際に、初めて阿弥陀如来様がビジョンでお姿を見せて下さり私の憂いを慰めて下さった。

この時の恩恵が、今も仏教を信頼する元の一つとなっている。

一方で私は、自分が正式な仏教徒でも無いのにblogで人様に仏教系の神々様を語って良いものか疑問に思っている処があった。
「神々様の承諾も無く、仏教の正統な知識も無いのに厚かましいのでは無いか?」

夜の祈りの際に、また阿弥陀如来様の存在の訪れを感じた。

私の方が願いをお伝えする気持ちが急いてしまい、記す事が出来る御言葉はあまりないが、
「種を蒔く事・・・解っていますよ」と
励まして下さった。
疑問に思う処に私の望む承諾を下さり、励まして下さったのだと思う。

このblogで神々様のご縁と御加護が1人でも多くの方に届く事を願っている。
それも実生活レベルで。
更に、何々教とか何々に所属してとかでは無く、人々の生活日常に「愛・慈しみ」として神々様に寄り添っ頂く。
今どうこう受け入れられ無くても

「そんな事どこかで読んだな」

という程度であっても、受け入れ安い事象、タイミングで記憶を呼び起こすのは神々の技であったりする。
反発や不快感すらその技の前ではタイミング待ちでしか無い。
私はその技を神々様に願っている。

今日の私。
この年になって私はマンガを読む。大体は良い影響のある物とは思っていないが、学生物の暴力的なマンガの隅に今の子供達の思考を垣間見る事が出来、葛藤や行動の根底にある心の動機が描かれていて驚く事がある。
そして、シンクロで受け取れた学びがあった。
「人を許せ無いと言うことは、
自分を許せ無いという事だよね。」
という会話に目が止まった。

重いブレーズだった。
私「あぁ、これ私だ」

神々様の御加護の中で生きると、何気無く引っかかり、何気無く聞こえる言葉、何気無く話した相手から伝わってくる事に・・・現況への慰め、自分が知るべき事、愛ある知恵が示唆されたりする。

神々様に生活に介入して頂き、助けて頂く事で気付き現れる現象。

注意したいのはこの逆の現象。
加護が無いフリーの状態で人の話に耳を傾け過ぎると、メンタルを引きずり下ろされたり利用されたりする。
また偽りのワクワクドキドキを煽られ、知るべき事を放棄、逃避させられたりもする。

この危険からも神々様は守って下さると私は思っている。

話が散らかってしまい申し訳無いが、社会的に家庭が以前より壊れてしまいがちな昨今、その皺寄せは母親に重くのし掛かっている様に感じる。
特に忙しく自分を省みる余裕も無く、子育てという神の仕事を1人請け負い、身をすり減る程頑張るsingleのお母さんに神々様の助けが届いて欲しいと願ってる。


*追記
今も仏壇を他の兄弟に渡す話が出来ないのは、私の執着かもしれない。
私が仏壇に向かう時は先祖をスル―してお世話になっている仏様に向かってしまう。そして、私のだらしなさの為に埃を取りきれない仏壇に庭で咲いた花を供える時、見守って頂ける心地よさを手放す事を惜しむ自分を感じる。
blogを目にした方にも、仏壇があるという事は幸せな事と感じられたらと思う。



日々のスピリチュアル日記です。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る