そんな中、小共同体とも言える人達が集まる場所が外部に必要になる。交代で家を提供するには、その広さも家族の負担も重い。
30年程前であっても、都内でしかも大使館や旧士族や政治家が土地を持つ界隈では、部屋を借りるにも高額でマンション購入なら更に相場も高い。
保育園や教会受付のアルバイトをしていた世間知らずの若い頃、教会裏にあるマンションを見て
「ああ、このマンションがあれば祈りの集まりや持ち寄りパ―ティが出来る・・・神が与えてくれれば」と思った事があった。
「そんな事を考えるのは貴方位ですよ」と嗜める様な言葉が聞こえた。
まぁ、当たり前と言えば当たり前。
一等地にマンション購入など・・・苦しむ人をどれだけ助ける事が出来るかと思えばそう・・・。
モルタルアパートに住んでいた小娘の私が望む事は大風呂敷が多く嗜めらる事ばかり。
しかし、その反面神に「良し」とされれば「何でも叶う」という思いは根底にあった。
その結果は、私以外にも同様に願っている人達が沢山いたらしく、少し離れた所にお金持ちの信徒がマンションを提供する結果となった。
その後別の件で
「神はス―パ―マンではないですよ」
と司祭に嗜められもしたが、過信心と言う事では無く、何故か
「何でも叶う」感は消えなかった。
そして、神が「最善」とするその結果は人々の望みと同一で無い事も知った。
病気の子供を助けて欲しいと沢山の人が祈るが亡くなるという結果を何度か見ている。
これは祈りが聞かれないのでは無く、「神がその子供にもたらす最善」と
「人の感情」との違いがある。
祈れば祈る程に(苦痛から解き放つ為に?)早く亡くなる事すらある。
現世で生きる事の辛さよりも神の元に招く事の方が幸いとされる愛もある。
苦しくても苦しくても
「まだ生きよ」の愛もあり
まだ生きたい、まだ生きたいに
「もう十分学び生き抜いたよ」の愛もある。
「何でも叶う、創造主の愛に叶えば」
それでも、今もそう思う。
詳しく説明は出来ないが、霊界段階の神界では相念だけで美しい山や自然を造り出す事が出来る話がある。
昔は知らない事ではあったが「何でも叶う・・・」感は、過去生、カルマ、魂の曇りやブロックを排除し、針穴を通る一点を突き創造主の愛の同意を得ればは可能のだと、私は今も思っている。
ただ、所詮砂漠の中の一粒に過ぎない人間。神が「良し」とするその結果は、人間の感情予想に反する事に繋がるかも知れないし、コツコツ祈り続けても叶う範囲は微々たるものかも知れない。
実際この件で祈ると
「学び(カルマ)以外の範囲であれば・・・祈りは届く」と返ってきた。
またもう止めようと断念し、祈りの範囲を子供に限定した際には、人々が高い所から落ちていくビジョンを見せられた。多分、
「僅かづつでも助けになっている、祈り続けよ」
という励ましだったと思う。
元の原因を辿ると悲しいのだか、人間の繁栄の為に成した医療の負の影響や人災に対しては神は手を出さない。
集合意識で形成された目先限定繁栄は、後に人間に返っていく。
私は現況の発達障害の増加の原因は遺伝のみでは無く、過去の繁栄反動だと思っている。
今の50代の障害は中国の地下核実験。
(女優の夏目○子の白血病死も中国での撮影、その影響と思う)
30代以降はチェルノブイリ原発事故。
その他、農薬関係、化学薬品。
原発も農薬も化学薬品も、その恩恵に浮わつき生きた世代の子供達から害を受け始めた様に私は思っている。
此処に道理に学ぶ事よりも感覚や体験した事を頼みに生きてきた私が思考し、また大風呂敷の願いを広げている。
太古の頃と迄は行かなくとも、水が浄化されれば水の循環により土壌も浄化され、人の口にする物もバランスを取り戻し、病や障害は癒えていくのではないかと。
神々様を超えて厚かましくもこんな事を夢見願う事が許されるのは、肉体を持っている人間だけの特権と思っている。
(亡くなった人の霊体は個人レベルまでしか現況に関与出来ないと感じている。)
願いを叶えるのは、意識の心の奥にある
超意識という話がある。
そしてそれが神の分け御霊であると。
誰もが現世に生きる神であると。
別の視点を取れば、宇宙意識に繋がる。
若い頃から「何でも叶う」と思う私の大風呂敷意識は、この超意識体との関係をなんとなく感じとっていたのか?。
願望の具現化。理想の具現化。
思考世界は自由。
ならば、負の妬み、怨みを宿すのでは無く、改善され良くなった未来ビジョンとして描くのも自由。
足を踏まれたら「痛っ、何よ❗」と
幼稚な相念管理しか出来ない私ではあるけれど、大風呂敷の願いを持って未来を夢見ている。