それでも、長く生きてきた分経験値だけは高く、祈ろうとする。
寧ろこういう時に自分を神の前にさらけ出し、祈りの中に避難し自分を休ませる。
半分意識もなく、上の空で祈る祈りは神々様も「迷惑」だろうな・・・と思う反面、思い出す話がある。
私達の祈りとはエゴ剥き出しの事もあるし、投げつける様な怒りを伴う事もあるから、粗末なリンゴを神に差し出す様なもの。
しかし母性や慈しみの深い聖母は、ロザリオ(聖母への祈り)を通して(祈る願いの形としての)粗末なリンゴを、銀製の皿にのせ大切にキリストに差し出し渡してくれる。
これが、世間では偶像崇拝と揶揄される本当の仲介者としての聖母の愛。
しかも、その願いの重要性によっては、母としての立場を行使し、拒む事の出来ない息子のキリストの前に膝まずき
「願いを受け取って頂くまでは・・・」と膝まずき続け代願して下さる。
カトリックが聖母に信頼し信仰に不可欠な母として崇める理由。
そんな事を思いだしながら、今日の祈りを終えた。
始まりは、ただボ〜っとしながらでも良い。
1~2分、そんな聖母や観音様等慈悲のある神と感じる神を思い出し眺める事を繰り返せば、心の避難場所としてのご縁は少しづつ繋がる。
何れそれは信頼を産み、心地よさや安らぐ時間へと変化していく。
今更宗教と思うかも知れないが、宇宙意識を求める人々が最終的に問われるのは愛だと思う。
エゴを乗り越えた愛をしっかり見、感じ、備えるなら、求める次元へと神々様は送り出し、妨害から守って下さると私は思っている。
安全に・・・
そして優しく。
今日は体調不良で、このくらい☺️。
新月です。少しは楽になるかな?