日々のスピリチュアル日記です。

癒しへの思い

まだカトリックだった頃、奇蹟はけして不可能な事ではなかった。
過去日記に記したが、日本では珍しいエクソシストから解放された代母(洗礼上の母)の元では、祈りによって弱い視力の回復等はみられたし、日神会では癌から難病の癒しもあると聞いている(私は聖様にお世話になっているが日神会に所属した事は無い又癒し目的で聖様に祈った事も無い)。

私は癒しの現象に興味は無かったし、それによるアストラル界の強力な負の霊からの報復は凄まじいものである事を知っていた。
私は、小物の自分の身分をわきまえていた。
神が必要として見せてくれる背景や状態以上の事を見る必要性を感じていなかった。人の霊域に入る事も失礼だし、人様の心を読んだり読まれたりは、生活に支障をきたすと思い拒否していた。ただ、天地創造主に少しでも近付く為に生きる事、死んだ後に神に仕える者として、産みだして良かったと喜んで頂ける魂で在りたいと願っていた。(素行は悪い人間だったけど)

それが、癒しに目を向ける出会いがあった。
結婚は出来ないと、東京を離れ実家に帰り田舎の教会に通い始めた頃。
その教会は、大学が近く韓国人の学生や研究者が多くいた。その中に、障害を持つ子供を連れた韓国人家族がいた。出会った頃、子供はまだ10才にもなっていなかったと思う。言葉を発する事もなく意志の疎通も出来ない子だった。

同じ頃、日本人の家族で子供が5才にもならないのに、母親が死の病になった。私は、犠牲と引き換えに祈りが聞き届かれる事を知っていたので、独り者で子供がいない自分の寿命を10年神に差し出した。答えは、NOだった。せめて10年あれば子供は思春期まで母親といられると思ったが、祈りに気付いた司祭が微笑み慰めてくれた。同時に「そんな、簡単な事ではない」と思った様だった。その母親は亡くなった。

毎週末に韓国人の障害児に会う度に、私はその子をとても愛す様になった。そして、せめて家族と意志の疎通ができる位、ロザリオの祈りができる位まで癒して欲しいと祈る様になった。話を交わした事もない母親が、感じ取ったのか私を見つめ何とも言葉にならない様な眼差しを向けていた。
韓国の主婦は日本と比べものにならない程、障害児を産んだ事を身内に責められているだろうし、夫の障害児への無関心さは見てとれた。

癒しの変化は無いまま、何年かしてその家族は帰国し静かに別れ、私自身にも大きな変化が起こりカトリックを辞めた。その子は今は成人しているだろうけれど情報は何もない。

カトリックを辞め、犠牲と引き換えの祈りを止めたのに、私は今も根拠無く、出会った韓国人の障害児を「この子はいつか癒える」と思い細々と祈っている。

そしてこの癒しへの思いが今世最後の目標、祈りのテ―マへと繋がるピースの一欠片だった。

もう50代半ばの私。大きなテ―マの祈りというのは、叶えられたと感じたり、駄目だったと確信するのに10~20年以上かかる事もある。「死んでみなければ、叶えられたか不明」そんな思いで続ける祈りもある。そして、新しい目標の祈りに取り組む時は10年後を見据えなければいけない。・・・私には余り時間が無い。魂が望む祈りは、死ぬ日まで細々と日常の中で続けるしかない。




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