内観作業も外界とも、内心良く戦ったなと思う。
見ないふりをしていた自分の堕落ぶりも無能さも理解したし、「私が聞いて良い器か?」と思う程の人様の悲しい過去を語られもした8月だった。
偉そうにブログなどで語る私には、
「大丈夫」とか
「癒える時がくる」などと
簡単に言えない経験をもった人々が心の傷や記憶に蓋をして、目の前の生活を先行きも解らぬままに必死に生きている。
私は自分の世間知らずや傲慢な視野を反省させられたし、助け術を知らない。
しかし、遠目で見る限り親の成長段階から負の連鎖が始まっているのではないかと感じる以上、言葉では伝わる答も無く、絡まった糸は神に委ね祈るしかないと思うが、本人への何の即日解決にならない。
「一番良い道へと導いて下さるようお願い致します。」
これしか祈れない。
私の内観は現時点でMAXになり、今の環境ではこれ以上浮かび上がる課題は無いような気がする。
そして、現在が結果そのものならば・・・今世での課題は未完成で終わるのかも知れない。
私としてはあれやこれや内観して見いだした今の自分が好きだし、それで良かったと思っている。
ただ、この長い内観生活によって失った感覚というものがある。
老化現象と言われてしまうかも知れないが、なぜか後10cm先の感覚・・・五感では言い尽くせない感覚が失われてしまった気がする。
聖なる感覚(カトリック時代の感覚)の喪失。
此は、奉仕や犠牲的な精神を手放し、自我を取り戻した事によるもの。
自分の幸せを願う事は、欲も伴う。
社会的な神経感覚の喪失
仕事内容、人への警戒、職場に対する接点角度や身の置き方の読み。
過去には、精神安定剤を使ってまで働いていた時の張り詰めた感覚。
この2つの感覚は失って良かったのか振り返り考えているが、過去には帰れないものだとも思う。
あと10cm先の感覚。
これが、新しい感覚を掴めるのか、このままで終わりなのか・・・不安に感じている。
波動が下がるので、ハ―トチャクラに光✨の玉があるイメージを。
上からは光の粒々シャワーが降り注ぐイメージを。
此れだけでも、心は軽くなる。