放熱への証/アルバムインタビュー
尾崎豊にとって6枚目、そして独立後初めてリリースしたオリジナル・アルバムにして遺作となった「放熱への証」のアルバム・インタビュー。
今回は、『太陽の瞳』。
クリスマスの日に出来た
デモテープを作り始めたのは、去年の12月の半ばぐらい。最初に『太陽の瞳』を作った。クリスマスの日に出来たんだ。
この曲に限って、詞と曲が両方同時に出てきた。
クリスマス・ソングを作りたいという願望があった。クリスマスって結局、キリストという十字架に磔 (はりつけ) られる人が生まれてきた日。
つまり、過酷な試練を背負った人、もしくは全ての罪を贖う人、そういう宿命や運命を背負った人が生まれてきた日であって、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎしたり、賑やかに遊ぶ日じゃないっていう気がしていた。
もちろん祝う、祝福するという意味はあるかもしれないけど。
それがこの歌を作るきっかけだった。そういう風に考えている僕と、僕の心の中に住むもう一人の自分に語りかけてくるものの葛藤かな。
もう少しわかりやすく言うと、例えば前のアルバム「誕生」の『LOVE WAY』だと、“愛という名のもとに作られた道は多くの試練がある道である”と。
でも、なぜそんな風に心が痛むのか、悩まなければならないのか、それを考えることから始まった。今回も、キリストのことを歌うっていう前に、そのことを考えた。
『LOVE WAY』に「ひどく煙たい朝に目覚める」っていう部分があるんだけど、これはもしかしたらみんな経験したことのない、僕だけの特異なことかもしれないと思った。
僕は、光化学スモッグの煙の中にいる様な感覚で、朝目覚めたことがあった。
で、心が凄く痛んで、全ての幻想と現実の間に自分が立たされて、どちらを信じるべきかわからなくなっている。そのことが歌いたかった。
『太陽の瞳』は、『LOVE WAY』に比べるともっと日常的かもしれない。
目覚めた瞬間ではなくて、日常的に生活している自分に対する煙たさ、もしくはやり切れない気持ち、切ない気持ち、罪悪感とかに誰もが縛りつけられているけれども、誰もが自由になりたいという気持ちで他人を見る。
誰もが自由に他人のことを見て判断するだろう。そこにたった一人の僕がいるんだけど、みんなが知っている僕と、そして僕も知らない僕がいる。
そのもう一人の僕が、もしかしたらあなたなのかもしれないっていう気持ちがあって、それが僕を苦しめるのかなとも思う。
“集合体と個体の対比”というのかな。今回のアルバム『放熱への証』は、かなり個人的な内容だと思う。
包含するというような気持ちよりも、「自分は一人だ」と主張することによって共通言語を生み出していくという論法を使っているのかもしれない。
【記事引用】 「Album Interview『放熱への証』Confession for Exist」
【画像引用】 「放熱への証 / 尾崎豊」