放熱への証/アルバムインタビュー
尾崎豊にとって6枚目、そして独立後初めてリリースしたオリジナル・アルバムにして遺作となった「放熱への証」のアルバム・インタビュー。
まずは、『汚(けが)れた絆』から――。
互いが互いを演じている
何も知らなかった自分が大人になると、互いが互いを演じていることを知る。
人間って、互いが互いを演じているだけの存在だということが納得できれば、たとえ人がそれ以上のことを求めて何もできなかったからといって、そしてそれ以上のモノをもしくは、今まで求めていたものが失われたとしても、お互いの哀しみは少ないと思う。
例えば、裏切られて遠くに離れていってしまう、もしくは、すれ違うようにして遠くに離れていってしまう、もしくは、すれ違うようにして離れ離れになってしまう、そういう人間関係があると思うんだけれども、一度出会ってしまったらもうそこに絆が生まれてしまって終わりはない。
「誕生」の『永遠の胸』の中でも言いたかったことなんだけれど、“人間という名の一個の個体は、あらゆる触れ合うもの全ての集合体の集まりである”という気がする。
『汚れた絆』は、その時にサヨナラを言わなくてはいけない立場に立った人間の歌なんだけれども、たぶん憎しみもあれば哀しみもあったと思う。
そのことのどこまでが人間らしさなのかということを、自分の中で肯定的に問い正したかった。
共同幻想と共通言語
人と人との間、つまり心というのは「街路樹」を作っている時に感じた。
“心という実体のないものから、現実に関与できる言葉を生む”というのが人間らしさということなのかもしれないと思う。
どこまで共通言語で話せる集合体になれるか、という……。
例えば、吉本隆明さんの『共同幻想論』という本があるんだけれども、吉水さんが本に書いた時点でもう“共同幻想論”というのは打ち砕かれているんだと僕は思う。
言葉にすることは、そういうことだと思う。でも、言葉にすること自体が、吉本隆明の“共同幻想論”に対する思いやりであったと思う。
吉本さんが他者に対して思いやりがあるからこそ、あの“共同幻想論”という自分の頭の中に存在するものを、もしくはその汚物を吐きだして、みんなに認識させることによって、彼の望むもの、より良い平和を作ろうと思ったのかなっていう気がした。
そういう彼の思いやりとか思い入れみたいなものを感じるところがあって、彼と似たような気持ちというと怒られるかもしれないけれども、僕の中にもそれは普遍的にある。
“幻想の中からどれだけ共通言語を捜していくか”ということが。
と同時に、言葉なんていうのはそんなものだけれども、心で感じることはもっと正しいかもしれないと思う。
心で感じている言葉は、本質的には言葉でなくて感覚なんだ。
それを現実にどう関与させていくかということが、『汚れた絆』や『自由への扉』に一貫しているテーマ。
【記事引用】 「Album Interview『放熱への証』Confession for Exist」
【画像引用】 「放熱への証 / 尾崎豊」