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ナポレオン ー革命の申し子ー
フランス革命による社会の混乱と荒廃を治め、国家の新しいシステムを創造し、フランスを近代国家へと生まれ変わらせた“革命の申し子”ナポレオン。
ナポレオンを題材とした映画が公開されているということで、政治的にも軍事的にも成功を収めた彼の人生を簡単に振り返ります――。
ナポレオン誕生
1769年8月15日、コルシカ島の港町アジャクシオで、ナポレオンは生まれた。
9歳で兵学校に入学。士官学校を経て、16歳でフランスの砲兵連隊に配属されたが、駐屯地での生活や軍事演習に興味を示さず、本ばかり読んでいた。
この時期、彼はルソーの思想に傾倒し、その中に自分の進むべ道を模索していた。
フランス革命に衝撃
1792年に大尉としてパリに赴任したナポレオンは、フランス首都の革命運動を目の当たりにして、その思想に強い衝撃を受ける。
「フランス革命は、民衆を自由へ導こうとしており、新しいフランスのために戦うことは、故郷コルシカ島の自由にも繋がるのではないか」
そう考えたナポレオンは、フランスと共に歩む道を選ぶ。
港町奪還作戦
フランス革命の混乱に乗じてイギリスに占領された港町トゥーロンの奪還作戦において、ナポレオンは作戦面に優れた才能をみせ、トゥーロンをイギリスから奪還することに成功する。
彼の軍事的才能を見た人は皆、彼が着々と権力の座に登りつめていくことを予見したが、ナポレオンが行ったことは、砲兵隊を合理的に活用しただけだった。
それだけでも革命軍の軍事力が飛躍的に増大したのは、それまでのフランス軍が組織としての体を成していなかったからである。
第一次イタリア遠征
ジョゼフィーヌとの結婚後、わずかな新婚生活を送ったナポレオンは、フランスの総司令官として軍を率いてイタリア遠征を行い、オーストリア軍を撃破してイタリアを征服した。
このイタリアの地でナポレオンは初めて政治権力を行使し、総裁政府の指示を受けないまま占領地を衛星共和国として再編し、行政機関の設置や税の徴収などを行った。
そして、独自の判断でイタリア遠征を終結させる条約をオーストリア軍と締結する。世論に迎合する必要のあった総裁政府は、それを不本意ながらも認めざるを得なかった。
また、ナポレオンがイタリアから送ってきた戦利品のおかげで厳しい財政が建て直されたため、ナポレオンの専制君主的なイタリア支配も黙認せざるを得なかった。
ブリュメールのクーデター
エジプト遠征から帰国してわずか3週間後、ナポレオンはクーデターによって総裁政府を打倒した。そして、それから2ヶ月も経たないうちに、第一執政(大統領)の座に就く。
ナポレオンは、新しい通貨法を導入して通貨の統一と安定を図り、新しい公共教育法により、第一執政時代の3年間で4500の小学校、750の中学校などを作った。
彼が改革を行った分野は、立法、行政、経済、教育、治安、医療、宗教等多岐に渡り、「彼は何でもやろうとし、何でもやり方を知っていて、実際に彼にできないものはない」と驚嘆された。
第二次イタリア遠征
ナポレオンは、フランスとの平和条約の締結を拒否したオーストリアと戦うことを決意する。彼は、敵を欺くために、厳しい自然で知られるアルプス山脈を軍の進路とした。
深い雪で覆われた峠を進軍の末、無事アルプス越えに成功したフランス軍は、ドイツでオーストリア軍を打ち破り、フランスにつかの間の平和が訪れた。
皇帝・ナポレオンの誕生
もはやナポレオンの歩みを止められないことを悟った政府高官たちは、「不滅の地位」を彼に与えるよう提案し、国民投票が行われ、大多数の国民が彼の皇帝即位に賛同した。
そして、ナポレオンの載冠式がノートル=ダム寺院でとり行われた。彼は、本来教皇から授けられる王冠を、自分の頭上に掲げ、皇后ジョゼフィーヌの頭上にも掲げた。
彼は、パリを世界一の都市にするための近代化計画を立案し、街の番地や墓地、広場、市場、海岸などの整備、ルーブル美術館の拡張、民法典の編纂、凱旋門の建設などを行った。
ナポレオン戦争
ナポレオンの率いた大陸軍は各地で勝利を収め、"軍神" としてその名を轟かせた。
度重なる戦いで勝利を収め、フランス史に残る栄光の時代を築くが、スペイン戦争での敗北を機に、彼の巨大帝国には様々な亀裂が生じ始める。
運命のロシア遠征
政治的対立により一食触発状態にあったロシアが、フランスとの戦いの準備を進めていることを察知したナポレオンは、50万を越える大陸軍を率いてロシア遠征へと出発した。
大陸軍は、ロシア国内の街を次々と占領し、モスクワに入ったが、ロシア軍が街を焼き払って退却したため、大陸軍は食糧も宿舎もないモスクワで大混乱に陥った。
焦りを感じたナポレオンは、ロシア側に和平をもちかけるが一向に応じないため、物資不足と冬将軍の到来により、大陸軍は飢えと寒さに苦しみながら退却を開始する。
軍にはもはや規律もなく、隊列はすっかり乱れ、ロシア軍の追撃や農民のゲリラ攻撃などにより、50万人だった大陸軍は、ロシアを脱出した時には2万人に減っていた。
百日天下
対仏軍事同盟によって連合した周辺国の攻勢が強まり、パリを陥落されてしまったナポレオンは、自ら皇帝を退位して、コルシカ島の東に浮かぶエルバ島に身を隠す。
その後、フランス王朝の反動的な政治に不満を募らせた国民のナポレオン待望論により、彼は、身の危険を感じて亡命したルイ18世に変わって再び権力の座につく。
再び連合国との戦いに臨むが、気力と決断力の衰えにより敗戦、2度目の退位に追い込まれ、連合国によって絶海の孤島セント=ヘレナ島への流刑に処されてしまう。
セント=ヘレナ島での晩年
1815年、ナポレオンは少数の同行者とともに、南大西洋に浮かぶセント=ヘレナ島に到着した。
彼は、自分自身を"自由を認めない保守的なヨーロッパ世界の犠牲者"と位置づけ、自らの栄光を永遠に留めるために、回想録の口述筆記をさせる仕事に没頭した。
そして、1821年5月5日、51歳の生涯を終えた――。
編集後記
ナポレオン語録に「天才とは、彼らの世紀を照らすべく運命づけられた流星である」とあるように、彼は自らが天才であることを自覚していたように思います。
「余の辞書に不可能という文字はない」という言葉は、そんな彼の天才への自覚から来る自信から生まれているといえます。
フランス革命が引き起こした乱世の混乱がナポレオンの才能を開花させ、彼を皇帝の地位にまで上り詰めらせたといえるでしょう。
そういった意味で、英雄は乱世にこそ生まれるのかもしれません。まるで、天が乱世を沈めるためにこの世に派遣するように――。
【出典】「Wikipedia」「ナポレオンの生涯/ティレリー・レンツ著/創元社」