昭和2年に書かれたものが家から出てきました。埼玉県百間村(現宮代町)の奈良時代の集落起源に近い縁起と思われます。この地区はもっと古く一万年以上前の遺跡も出てきますが、私がいま興味あるのはこの年代以降です。
西光院縁起(PDF)
この原書を揚げます。たぶん謄写版によるものだと思います。崩し字で、さらにかすれた文字もあり、かなり難読です。意味不明なところが多々。とりあえず、読んでみました。
西光院縁起
百間山西光院ノ草剏ハ藐カ聖武帝ノ御宇、行基菩薩也。安スル所ノ本尊
阿弥陀如来ハ㚑験新タニシテ遠近ノ帰依深シ。
這回、当院事歴ノ提示ヲ折原校長先生ヨリ嘱望サルレニ当リ、痛感
スル所ハ、小衲、迷蒙ニシテ入院以来、日猶ホ浅ク、院内外ノ史実ニ暗、
シ、尓ルニ設シ徒ラニ忘見ヲ夛列シ、為メニ一犬虚ヲ伝フルノ罪ノ
譲成サルノコトナキヤニ想到スルノ、真ニ奥底忸怩タルモノアリ、殊ニ
本編ノ諸賢ノ高覧ニ供サレントシテ秀策シ呵スベク与ヘラレクタル
日時ノ数日間ナルニ於テオヤ、於其乎。左記参考書中、当院中
興第一世日雄法印ノ記述ヲ憑據トシテ記セリトイク馬真文著、
消閑録巻五、諸寺縁起尤モ詳記シアレバ、是ヲ幹根トシ其他類
似書中ヨリ抜萃シテ小集成ニ止メ、私見ヲ入レサルコトニツ同意セリ
覬ハクハ、他日完成セシト竊カニ祈念スル西光院史ノタメ、研鑽
惓ムコトナキ諸賢ノ指南ヲ玉ハルノ機橡トシテ、其の一残片ニ存在
性ヲ持タラシメラレンコトヲ。
昭和二(1927)年六月廿六ノ夜半、老杉ニ囲綾セラレン僧房ノ
一隅ニテ 不生庵主 真也敬白
勧進帳 元禄十二(1700)年西光院住職 宗彬法印第十大前房住秀應
西光院殿再建立勧化状 寛政六(1794)年 西光院住職 尊明
消閑録 馬真文
田●太田考 田宇呼高
武蔵風土記 安閑紀 古記録 口碑 往説
一、西光院建立由来
古代史ハ夢幻的怪奇的ナル事象多シ、特ニ寺院草創ノ由
来ノ如キ宗教的現象ニ至リテハ尤モ其ノ傾向著シ。当院亦タ
其ノ規ニ洩レズ。是レ一ニ開山行基菩薩ノ聖ナル人格ニ帰依
シタル地人ガ菩薩ヲ超人トシテ神格化シ其徳行ヲ賛仰セ
ル余リナルベシ。単ニ荒唐无稽等ノ妄評裡ニ笑殺セレメザレ。
信ハ力ナリ。創造ナレバナリ。馬真文著、消閑録ヲ引カン。
(別紙 古代百間図 参照)
余天明元(1781)年八月二日西光院に置いて其の橡起を見る。慶長
十(1605)年四月朔依旧記なり録名印日雄となり、晝し中其日雄上
人の日記の本と見えたり。其記の大意に曰く其の地は古昔慢
々をたる滄海に臨みたる所にして里俗出土の台と称す聖武皇
帝神亀三(717)年の状行基菩薩東國遍歴の果て、武蔵の鼻より
舟に乗りて出土の崎に着き玉へり、其所より上がり玉りて靴を
御足に掛けて下り立ち玉ふとて後世地跡を建立しこれを丹
山地乍、又靴掛地乍とも申せしはこのゆわれなり。
又舟より岸に上りたまふ碕、携ふたる菩提樹の杖を力草に
突き立て之になりて上がりたまひしか、其の添根さして大木となり。
逆さに杖をさしたりしかは逆菩提樹とて今になり。かくて出土の
台に神明の社なる所にて里人に遇ひ玉ひ其所は何と云ふ
里とを尋ね玉へしに里人出土の台と申し又海辺なる故出
土の浜とも申候と答ふ。行基菩薩其所の東神外西神外の榎
の間を測りしめ給ひしに百ついほどありしかは菩薩もんまの里
と仰あり。其夜神明の社に団夜し玉ふ夜半の頃に及いて
白髪白衣の神人鬼児して曰く我は其地に有縁の
者なり法師に頼みたき事あり。そは他事あらず。後世此地
佛法繁昌の為に仏像を彫刻し玉へ本土有稼の佛は薬師
如来されば、十二神将をも併せて作らせ玉へ未来の尊師は慈悲
弥陀佛に趣向のもの工し当来住生の為に弥陀佛をも彫刻
頼み奉る其仏眼の料にもとて二十八個の宝玉を行基に投げ
参りかきけす如く失せ玉へり行基神告に従い降水を尋
ねむふ東神外の浦に貴船長鈴木日向とて兄第の長者
ありけるか深く行基の徳を仰ぎ資料斉飯を供し奉りて
造佛の功徳を助けたりけれは其年師走五日に全く功を授りて
十四の佛像活けるか如く神授の宝玉を眼中に篏め
たりしかは端厳の相云はん方なし。かくて十四体の仏
像は求敦せしにて長は弥陀殿を作りて弥陀佛を容れ
奉り日向は菩薩殿を作りて菩薩師如来と十二神侍とを
安座し奉る其時行基●は別に五社権現を勧清ふ
白衣の御人祭し又弁財天を祀りて浜の繁昌を祈念し
玉ふへしとて或説には行基●出土の浜より船出し玉ひ
しかは出土の浜の名出来たりとあれとも詳ならす悛に
長の美を稲荷に祝い、日向の美を金比羅宮に祀りしと
かや大同元(806)年光福寺房初めて寺院となし法相宗華
●兼学の宗㫖たり僧て後大同坊と号す弘仁十二(821)年
弘法大師東國直歴の節其の寺に掛錫し玉ひ後慈覚
大師中興し玉ふ是れより台蜜の道場たり菩薩如来
弥陀如来を以て本尊となし十二神侍に因みて十二坊を
立つ源三位頼政郷の室菖蒲前深く当寺の弥陀仏
を信仰し玉ふ依りて弥陀堂を再興すといふ(中略)
以上ヲ以テ草創当時ノ大●ヲ覗ヒ得、右ノ地散見スルモノ
ヲ記サルカ
草劔 行基菩薩 (象説一致)
同年代 一、神亀元年(715) (施工) 秀 應勧進帳
二、神亀三年(717) (施工) 消閑録
三、天平十一(739)年起工 同十三年辛巳状竣工―尊叮勧化状
殿岸建立寄附者 一、土地ノ長者、長、鈴木兄第一消閑録
ニ、百間ノ●領ニシコノ常陸領主阿部仲麻呂(秀應ノ
勧進帳ニハ阿部仲丸と記セリ、入唐セル阿部仲麻呂名ニ
非ズ)――百間記、勧化状、口碑、勧進帳
ニ、草創後ノ変遷
天正(1573)以前 巳二末寺等シ多数有レ権勢ヲ振ヒタルモノ如シ次
ニ記ス岩槻城主ナリノ文書其他ハ●辺ノ慣息シ悟ルカ
百間六供之事如前々不可有相●本叮其他寺社領任
置候永不可有異議猶当城繁栄正祈念●●
慢可社柚精識者也僧如件
天正十四(1586)年丙戌三月十一日 氏房 花押
西光院
徳川家代々御朱印 天正十九(1591)年辛卯十一月 家康公ニ始
マリ十四代家茂公々候マデ御朱印五十石
境内不入地 六千坪余
十二坊个外 三万八千二百余坪(十二坊ノ外十五ヶ寺
ノ末寺アリ 辻末寺二十七ヶ寺 援出)
百間之寺家中当番象改狼藉生一悦非俄矣於白
今以後毛頭横合之人有之注交名可承小田原会扱
露急●可処裏科候矣為其証文如此候恐レ敬白
元禄十三(1700)年庚牛二月廿日 北条善九郎康誠花押
百間西光院
旧寺家中
家康公ヨリノ坪領承、中央第一日雄法印家康公ノ帰
依厚ク属シ江戸城内ニ拝楬アリ、茶揚ノ茶碗、同公ノ
御像●ツ拝領ス
(右記ノ諸承現在)
主寺門徒二十七ヶ寺 ―――動仏村医王院 中曽根村海姜院
西原村明智寺 杉戸町宝性院 土木村廣照坊 同東光院
同明積坊 同池之坊 同大前坊 同不動坊 同大善坊
同観音ち 同弥勒寺 同宝正院 同青林寺 金谷原村遍照院
同安崎坊 ●戸村地前院 内牧村観音院 同智明院 久米島村大照院
●安村青●院 内牧村生福坊 杉戸町●●院 三本木村国福寺
●●村西方院 倉松村香取坊 (延亨二年 今は廃寺ト
ナレルモノ、他派ニ●セシモノ等アリ)
火災 寛政二(1790)年正月廿七日、尊●代、客殿、書院、庫裡等
再建 同十二年(1800)(現存セルモノ)
乗用駕籍 棑網代許可、 挟箱、金紋、菊花
当山鎮守五社権限、山王、白山、雷電社、天神社、稲荷社、弁財天、
其他ノ神社ハ●●ニ入リテ神仏分産ノ頃村社ナリ。又御朱
印地ノ上地アリ
新義真言宗智山派ニ封末、従来三宝院末ナリシモ明治廿
七(1894)年十二月一七日智山派ニ入ル。
世代、中興第一世日雄法印天正年中入院以来現在ニ至ル●
二十七世ノ間ハ分明ナレも、天正以前ハ詳カナラズ
本尊――本堂本尊弥陀如来、両脇土勢至菩薩、観
世音菩薩 客殿本尊薬師如来、十二神将、日昇天
三、西光院ニ干連セル本地名其他
古代文化発展ノ道ヲ辿ルニ概ネ寺院教会等宗教的
殿堂ヲ中心トシテ其ノ外廻ノ拡大ナランカ如ク、本村興ノ
例ニ依ラザルカ。
古来百間ノ地勢ノ現在ト甚だしく遷庭アリシコトハ諸記録
ニ徹シテ明カナリ、今地名起固了解ノ便ノタメニ、当所本編
作製ノ主㫖ニ●カ戻ルコトノ怒シタ●ヒ、行基弁渡御ノ交ノ
ニ於ケル、古代百間想像図ヲ抽出セシカ、差シ上来参考
書二表ハケラル他名ヲ忠実ニ單ニ地図ニ代フル作用ニ止メント
欲見ナレノ、●定妄想図ナルベシ、御叱正ヲ乞フ。
以上
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