あきよしブログ

南埼玉郡旧百間(もんま)村 地区と家の古今

はじめに

2015-07-04 | はじめに

東京浅草から日光や伊勢崎方面に東武鉄道の電車に乗って外を見ると変わりない家並みが続いていきますが、北春日部を過ぎて初めて田園風景がちかほら見えてきます。この辺りから、まだ昔の情景がまだ少し残っています。次の姫宮駅西側に見えるところが、ここで紹介する地区、昔の百間村あたりです。 

 現在の宮代町ですが、主要な道もなく、開発から取り残された地区とも言えるかもしれません。それでも近年、沿線に家が建ち始め田園風景が見えなくなりつつあります。
 この田園地帯の標高は5mくらいでかっての海だったところで、私の住んでいる昔の村のあたりは9mくらいの標高です。縄文時代に半島状の地形からか貝塚があり、一万年前の土器などが出てくるところです。
 ここから南のほうは海だったわけでさえぎるものもなく、姫宮駅近くではスカイツリーがはっきり見えます。
  以前、宮代町郷土資料館に英文学者 島村盛助展をやったことがありますが、ここにあげた日記を書いた正行と同じ年齢のいとこです。正行が従兄のことを書いたものは、まだ見ていません。また、文学書もありませんので従兄と違い文学には興味がなかったのではと思っています。             

追> PDFファイルが利用できない状態でしたが、gooleドライブで出来ることを確認し、一部UPしてみました。現在、古地図や写真機や農具などのカタログがあり載せてあります。まだ、テスト的なもので見られなくなることもあると思います。たぶん多くの人はこれらに興味があるのではと思っています。これらの資料は宮代町資料館に一時提出したもので番号はそのときに付けていただいたものです。このブログに出すために戻したのでいずれは資料館のほうで保管してもらうつもりです。

 


 最近、家の中を整理していると古い文書や写真が出てきました。今しばらくは、それらをここに公開して行こうと思っています。  
 ここに大正初期の時代に書かれた療養日記も載せました。小島正之という人物で我家の先代のものですが、読み進むうちに公開すべきものと強く感じました。この人は家の近くの英文学者 島村盛助氏の従兄にあたります。優秀な人物だったようですが、若く逝ってしまい、子供もいませんでした。くわしいことは分かりません。
 熱海・興津・沼津日記(日誌)。当時の漱石などの文学と視点の違った感じがします。20代初め軍人だったこと、文学では無く浪花節調の好みのだったこと。一般庶民に近いのではないかと思います。ただし、東京帝大農科卒となっています。(一高にはいっていないようです。)明治17年8月27日生(盛助氏は8月9日生)
 上の写真は正之の妹の連合い青木正(名もですが、深い因縁を感じています.私の祖父)の書いたものを彫ってもらったようです。この祖父の家が取り壊されるときにもらい受けて、現在、家の玄関に飾ってあります。


 日記 と 中学時代の従兄の盛助氏との写真

 私の住んでる旧地名ですが、縁起記に、東西の神外と西光院(参道)の間隔はそれぞれ100間だから百間(もんま)という話が載っています。その昔の長さの単位は尋で腕を横に伸ばした長さで1.5mくらいだったのではということと、間という単位は奈良時代以降に中国から来たらしいので、100間という意見には後付けような気がしています。もともと文字のなかった時代のアイヌ系統かなにかの「もんま」と呼ばれていた地名に、「百間」と言う漢字を宛てたものではないでしょうか?しかし百と数については意味もあった考えると、縁起話も間違ってはいないと思えます?

 

 
西光院に向かう道と宝生院・青林寺方面です。(東神外にある我家の前の道)昭和46(1971)年5月ころ
 この道は東神外の道でばんば(ばば)道と呼ばれていたようです。たぶん、鎌倉街道に繋がっていた道と思われ、行基も弘法大使も歩いたかも知れません。

 下の写真は隼人堀川の土手の遊歩道から見た、かっての西光院参道です。2012年

左に見えるのが前原中学校で中央あたりに西の陣外です。その右に西光院への参道です。


左にある道は内牧(春日部)に至る道で道の先に見えるのが五社神社でその先が西光院です。右の木々の切れるあたりに東陣外があります。見える木々の中に参道があり、こちらの田圃はその昔、海の入り江だったと思われます。
西光院縁起(PDF)
  家にあった冊子です。詳しいことはわかりません。下の絵は図書館で見た江戸期の絵図をもとに描いてみました。


下は現在の地図です。想像した旧道を記入してみました。御成街道(鎌倉街道)は現在の道とは異なっていたと思われます。
 地図の下のほうの隼人堀川の土手からは30キロ先のスカイツリーが見えます。このあたりから南側はその昔海だったので
高台地もなく
遮るものがないためだと思います。 




 今から五六十年前にはまったくの田舎村で、味噌や醤油も自宅で作っていましたが、そのころ春日部辺りから自転車の荷台に箱を付けて魚を売りに来ていました。その人はおばあさんなどと世間話をしていました。 その中によく覚えている話があります。「いずれこの辺りも東京のようになるだろうよ!」とその人は言っていました。私は子供でしたが、とても信じられないことでした。
 今浅草から東武線に乗って窓の外を見ていると、かって荒川を渡ると田園が見え始めて、やがて草加・越谷・春日部・杉戸と町以外の窓風景は田園でしたが、いま街景色しか見えません。すべてが街です。いま春日部をすぎてやっとすこし田園が見えます。あの魚屋さんの言ったことが現実になってしまっている現実に戸惑っています。 
 この地域は周りの開発され街に囲まれた数少ない昔のままが残された辺地かも知れません。この辺りも少しづつは変わり始めて、若い方が少しは増えている気もしますが、わたしの住んでいる農村地区では老人だけの世帯が増えて寂しい風景になりつつあるようです。


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