あきよしブログ

南埼玉郡旧百間(もんま)村 地区と家の古今

興津療養日誌(1)大正三年

2012-01-10 | 興津療養日誌 大正三年(1914)

    轉地日誌  No.Ⅱ      小島

 (第二編)   興津日誌 

 大正年  一月十日 土曜     晴 夜小雨

  病後の體も熱海転地で大抵恢復したが、まだ思わしく無いので、第二回の転地として、年来多忙の時期にも係らず家務を抛て、とうとう興津へ出発する事にした。
 朝五時半起床、七時十分自宅出発上ノ一番七時二十一分に乗て八時半浅草着、十時四十分新橋発岡山行に乗て丁度日一杯午后五時少し過ぎに東海ホテルに着いた。朝の模様では雲が充ち満ちて居たので、今度は雪かと思って居ると、幸に浅草へ着いた位には麗かに晴れた。新橋停車場で豫て打合わせ置いた通り、信次が見送りに来て呉れて、買物も整いて呉れた。二等待合室の入口に「熱海梅園のたより」と木札をつけて、桶の中に梅の枝が満開の花をつけて差してあった。トむらむらと胸の内に過ぎし日次度々足を運んだ梅園の事がありありと浮かんで来た。矢張り一度行った処は何となく恋しい者だと感じた。国社津あたりからホカホカと馬鹿に暖かくなり汽車の中は、いやに蒸蒸して気持ちが悪くなって来た。此辺から梅の木々は大抵花をつけて居た。富士も白雪を頂いて眞白に見え出した山北から二ツ機関車を着けて出かけたが、途中御殿場までの間のトンネルの多いのは少なからず閉口した。駿河と云ふ停車場に着くと例の森村の富士瓦斯紡績工場の壮大なのには非常に驚いた。と云うのは位置がかかる山間僻地であるので場所不相応な大工場であるので、何となく足尾の銅山を思い浮べた。同室の客に国社津と三島で大抵降り尽した。察するに前者に熱海又は湯河原行で、後者に修善寺行の人と考えた。興津に着いたのは丁度五時頃でぢきに日が暮れた。風呂に這入って夕食後、自宅と花崎と信次とに書状を認めた。それから此日誌をつけ初見だが身体が非常に疲労して居るので、もう書くのが厭になった。外ではポツリポツリ雨が降り出した。
                                               注)抛て(ほおって)
 
            興津停車場

  一月十一日  日曜    快晴
 
  興津ホテル前海水浴場
 
   井上候の別荘入口
  
      清見寺と鐘楼

   一月十一日  日曜    快晴
  昨夜の雨も今朝は名残なく霽れて午前中からホカホカ暖かい。興津は風が無いばかりでなく、矢張熱海と同じに非常に気候が暖かいのを感じた。昨夜の約束通り今朝十時頃二十四番と云う室に転居した。此の部屋は南の方の離れでなだ新しい八畳の座敷で稍々気に入った。然し鈴木屋に居た揚句には、此家は年中掃除が行き届かぬので不潔なのには聊か閉口した。其癖、中々不□であることに再び恐入った。然し病気!と思いになれば先ず先ず暫くここで辛抱することに観念の臍を埋めた。
 然し、此処の家は静養の場所にしては、先ず興津第一であると思う。旅行案内に「興津の風光は当家に抱て独在して居る」と廣告してあるが、実際水口屋などに比して建築の地は劣るとも、位置としては全く当地第一在めて居る。庭下駄をはいて下に降りると芝生の庭園で尽くる處、すぐ海岸の砂原で其處には妙な形をした岩が島の様にあり、電燈まで点す様になって居る。そして島から、いや岩から岩に橋を架けて行ける様にしてある。ここから海面を見渡せば遥か先きの方に一つの大きな島のように見えるのは島では無くて、三保の松原の末端であるといふ、然し惜しいことには霧の為め、三保崎ははっきりと見えなかった。此の三保崎の根元、即ち海岸の西の方には人家が密集して見えるのは江尻だそうだ。此の先きが清水湾であろう。三保崎の後ろに高く見える山は久能山だそうだ。午前十一時頃、カメラを持出して前の岩の処で五枚ばかり取った。一枚は昨日沼津で汽車の窓から弁当売りを写した。熱海の鈴木屋でさへも暗室が無かったから無論こんな処は無いだろうと思って、暗室灯を準備をして来た。然し念の為めと思って、女中に聞くと暗室があると云う。イヤハヤ余り見くびり過ぎて僕の方で不覚を取ったと考えた。こんなことなら蝋燭などを沢山仕入て来るのでは無かったものを!!!早速女中に案内させて第一暗室へ行き現像した。大抵いい加減に写って居たがおしい事には何れも光線が感じて居た。矢張安物は駄目だと思った。午后二時頃から散歩に出た。先ず庭の前から海岸通りを西の方に行き街道に出て、汽車の踏切にかかるとそこに鳥居形のペンキ塗りの丸柱の門があり脇に「無用の者猥りに入るべからず井上家別荘」と云う表札がある。吾輩は所詮無用の者だから中に入る事をさけ、門から中の方を覗いて見ると両側に松を植えた砂利道が曲線を画いて奥深く木立の間に消えて居る。此の突き当りの見当の処の□山があって此頂上に井上候の銅像が観音様然と立って居る。銅像も恁ふ云う処に立てると何だか妙に佛然として崇高の念が起らなくなる者だ。と思って歸って来ると往来の真中でフロックコートの紳士や袴をはいた書生然たる者が大勢来るから何だろう?と思って見ると其のあとから井上老候が例のうば車に乗って書生が引いて女中が跡押しで御帰りの途中であった。見れば老候は偉大の体をうば車に乗せて、もうろく頭巾をすっぽりとかぶって、真赤な顔をして口を尖らせてプウプウいきを吹いて居た。イヤハヤ豪けつも恁りなってはおしまいだとつくづく感じた。それにしても能くまだ生て居ると感心する。井上候を見送ってから清見寺に参詣した。石階を登って山門をくぐると鉄橋がある。見ればここを汽車が通って居るのだ。ここを渡ると更に第二の山門があって直ちに本堂に至る。見れば本堂と云い鐘楼と云い、中々立派な建築であった。のみならず位置が高くて丁度山の中腹に当り、後ろは森林に被はれた山を繞らし、前は興津町を眼下に見降ろし海を隔てて遥かに三保の松原を一望の中にながめる事が出来る。庭内には今上陛下有栖川宅殿下の御手植の木が数本ある。本堂の左手には五百羅漢ものが陳列してあった。歸ってから御湯に這入った。此家で一番親切氣な面白い人は湯番の爺さんだ。「あなたも長く御出なさるなら、恁易くね。ハー」と云って、能く湯をくんで呉れたり、背中を流して呉れたりする。色々な話をして聞かせて中々面白い爺さんだ。
 夕食の時、海の方を見ると暗中にピカピカ燈台が明滅して居る。給仕の女に聞けば灯台(三保崎灯台)だと云う事だった。興津は静養にはよい処であるが、遊ぶ処のないとは閉口する。熱海は無いと云っても梅園や奥見崎や�尭氣室やら数えれば数い来れば数ヶ所あるけれども興津と来ては単に景色がよいと云う計りでこれと云って見に行く処も無い。いくらよい景色でも毎日見て居れば見厭きるもの、…何だかもうここも少しあきて来た。困った者だ。

    一月十二日   月曜    半晴
 今日は薄ぼんやりした厭な天気だ。午前中は写真焼付をなす。今朝の計画に井上老候の吾シップと云う記事があったが、丁度午前十一時頃其御本人が海岸の入口から乳母車で東海ホテルへやって来た。先ず庭先きの石段の処で車を降りた。老候は御付きの婦人に左腕を抱えられて杖を付いて正に上らんとした時車を引いて来た。二十才ばかりの書生が右腕を執って助けやらんとしたら候は口先するどく「イイ、ヨセッ!」と怒鳴り付けた。書生は面食らってツト手を放した。それから右に向って離れの方へ上って行った。御付の連中は三大夫やら書生やらで総勢五六人。打連れて本家の縁側に腰をかけて茶を呑んで居た。多分此処で昼食でも食って行くのだろうと考えて、乾板を取り枠に入れ、珍しき乳母車や御歸りの姿でも取ってよろうと思って居たら、一二時少し前になって歸られてしまった。イヤハヤ千歳の遺感!!!残念なことをした。何れ其中、心掛けて居て此度は往来で行当りばったり撮ってやらうと決心した。
 午後POPの調色を為してからカメラを持って出掛けた。停車場へ行って見ると急に曇って来て迚も写せそうも無いので拠無く其儘踏切を超へて園藝試験場の方へ行って見た。今しも五六人の実習服を着た連中が果樹の剪定をして居た。此の天気では這入っても写すことは出来ないので試験場参観は後日に納して引返して帰途本屋で春葉作「女四人」を一冊借りて来た。
 五時頃風呂から出ると急に前の海岸でがやがや騒がしいので女中に聞くと鰯船が着いたのだと云ふので自分も庭下駄をはいて行って見ると人が二三十人も居て、今しも船から鰯を斗桶で計って籠に入れて数えて居る処であった。寒くなったので歸らふとするといつの間にか木戸も戸も閉め出しをされたには聊か閉口した。
 七時の汽車で東京の華族さんだと云うのが四人連れで前の離れにやって来た。夜になると例の蓄音機が又始まった。
 興津よいのは漁と茶と蜜柑だ。殊に此処の家で出す茶は非常に飲みのよい茶で、又食事の時に出す番茶も甘い。
 午后九時頃寝ようと思うと、ドヤドヤと一団の酔人が芸者二三人を連れて僕の二階にやって来た。それからドシンバタンドシンバタン騒ぐやら歌ふやらぐづるやら、とうとう十二時頃まで煩さくて寝むれなかった。恁麼(こんな)奴に度々来られては誠に以て恐入る。

      一月十三日   火曜    快晴
 午前中手紙を数本書いて、写真を仕上げて、午後から局へ行って出した。それから興津園芸試験場へ行って?多茂一郎君を訪問したら谷川君も居て久方振りに三人で事務所で話した。聞けば当場は創立以来丁度十一ヶ年で面積十三町歩の処、今度参町余地所を返すので十町余だそうだ。一ヶ年の総収入凡二千円弱だそうで、肥料を切れば差引零だろうと云う話。勿論労力を見たら太したマイナスだろうと思ふ。イヤハヤ園芸もつまらないもの、ヨシ二千円を純益金と見ても高が知れた端た金ではないか。然も年々の経費は数万円を要するそうで一割にも当らぬそうだ。井上別荘も面積十何町歩で主に蜜柑畑で今年の売上高二千何百貫だそうだ。(一人日の値八九銭)ここは特別会計で何でも経費位は取れるそうだ。暫く茶を呑んで話してから?多君に案内されて園城を参観した。?多君は蔬菜部専門で谷川君は品種の方だそうだ。蔬菜の促成栽培は木枠が二十六あって十二日頃から市場に出して目下盛る胡瓜,茄子采豆(インゲン)等を出して居る。胡瓜は長さ二寸位で一本五銭、采豆は一本二里位だとの事。一ヶ年の収入六百円位、然し随分経費がかかるそうだ。当場の果樹で一番よいのは蜜柑で、次は梨、葡萄等で林檎と桃は一番馬目だそうな。実際梨は何れも元気な木になって居るが桃や林檎はさっぱり結果枝が見えなかった。二三枚写真を取って来た。
 
 

 
 興津園芸試験場

   一月十四日   水曜    大暴風雨 雷雨
 朝の内は曇って居たが九時頃から雨が降り出した。午前中昨日取った写真の現像をして、室に帰ると盛に降って来た。然し午前中は風も小さく此分ではしけるのかと思って居た。隣客(青年)は午前十一時の汽車で帰ったので離れは僕一人となった。
 午后になるとそろそろ西風が噴出して来た。丁度一時十分前頃ピカピカと電光一関!!!ゴロゴロと時ならぬ神鳴が天の一方に鳴り渡った。その中に風は一時に強く吹き起り雨は戸を打って凄まじく、浪は岩に激して物凄い響きを立てて来た。大暴雨風雨!!!風は刻一刻に強くなって来る。家は震動して動いた。海は異様な音を立てて咆えて居る。女中は大騒をしてあわてて雨戸をしめに来た。室内は電燈を点した。……嗚呼此の先きどんな事になるであろう。海嘯(つなみ)!と考えると身の毛が立って来る。イヤこんな入海だから、まさか恁麼事のあろう筈は無い。大丈夫だろうと考え直し手見たが、然し東京湾でさへも洲崎の時の様な大海嘯が襲来する事があるのではないか?
 まして、ここは三保崎に依って一部分囲まれて居るとは云い正に太平洋ではないか。(ここまで書くと電燈が一時にパッと消えた。暴風が初まってからこれで三度消えた)殊に此の駿河湾は近頃気候の顛状や何かと悪いことのある時だから如何なる予想外の変事が出来するか知れぬ。現に数日来の今迄眠って居た桜島は大爆発をして九州の一角に大被害を足して居るではないか。…と思いは先きから先きへ運んで行く。外では荒れ狂う風雨は一秒の休みもなく益々激烈になり行く。然し雨戸を締めてあるので外を見ることも出来ない。いや廊下に出てさい寒い風がフッと面を打つ。何だか余り可い心持もしなくなって来た。おまけに電燈が時々パッと消えるので室内は真黒々、益々陰気になって来る。世に美人は夜又の如く例えてあるが、実際興津のような風光明媚な処、平生はこんな処に住居して居る人々はどんなに幸福であろうと羨ましいが、一朝暴雨風雨でもある時は海嘯と云う誠に非常に恐ろしい事がある。嗚呼凡ての物には一利一害のまぬがれぬことであると云う事を痛切に感じた。して見れば、平常は景色と云ふ事に就ては此処の価値をも持って居ない吾が郷里も恁うやう心配の毛頭無いと云う事に思い至れば却て安全と云う点に於て優って居るワイ……矢張郷里程可い処は推しも無いと見える。之れが日本民族の所詮愛国心の根源たる家族的心理ではないかしら?
 午四時になっていくらか風も少なくなったかと思われる位だ。イヤ耳に馴れたのかも知れぬ。能く聞けば海は随分荒れて荒れて居る様子である。湯番の爺さんの迎ひに従って風呂に這入って、海嘯事を質問すると、安政の大地震の時に此地も海嘯を食ったそうだ。然し三保の明神様があるから太した事はなかった、と云う話であった。室に居るともう夜だか昼だか分からなくなった。電気が余り度々消えるので、女中を呼んで聞くと独りで消えるのですと云う。困った電気だ。夕方雨だけは止むだので庭に出て海を見ると、浪は益々高くなって来る。食後興津は平生は至極平穏な海であるが、今日の浪は亦馬鹿に激しいのに驚いた。處が一哩位沖の中に少し大きいが一隻の漁船が抗柱を仆して浪のまにまに進退を失ったかの様に一上一下漂って居るのに更に驚いた。乗って居る人はどんなに恐ろしいだろうかと人事にも思われぬ位だった。又清水港の方面に港深く大きな汽船が避難して居た。
 夜になっても海は盛にゴーゴーとうなりを立てて居る。夕食の時桂子から書面が来た。そして花崎からの手紙と同様今度伊坂嫁話の事が書いてあった。
 今夜まで「女四人」を読み終った。終りの方は実に悲劇だ。春葉の作物は僕は一番好きだ。
 小説も読み終わったので味気なさに困って居ると幸いなるかな桂子から国民新聞を送って呉れた。実に嬉しかった。今夜は又発熱して三十七度五分になった。僕には恁麼(こんな)天気は一番禁物なのだ。何だか身体がだるくて仕方ないので按摩を呼ぶべく女中に命じた。

   一月十五日   木曜    快晴 軽風
 昨夜の暴雨風雨も今朝は全く止むで紺碧の空は水と共にいやが上にも青い。殊に今日は珍らしくも伊豆の山々がはっきりとひだまで見え三保崎の方も機稿が能く見えた。然し朝の内の風は興津では・珍らしく冷え風であった。浪はまだ威勢よく海水浴場の黒い岩の上を打越して居る。
 午前の内に写真を焼えて調色した。午後からカメラを持って清見寺から井上別荘の方へ行った。試みに井上別荘の南の境界について北から西へ一周して見ると驚いた。囲ひは凡て汽車の古枕木を焼いたもので、まだ使わないのが沢山積んであった。中を見ると建物のある処を除けば殆ど庭園と云ふものは無く一坪の余地も無く凡て蜜柑畑で、其の下には麦や蚕豆(そらまめ)が一面に作付してある。此老爺中々抜目の無いこすい奴だワイとつくづく思った。人は別荘などと聞くと誰しも「贅沢なもの」と云う感じがすぐに胸に浮かぶものであるが、井上候のは全くの世の一般の別荘とは趣きを異にして、寧ろ「銭儲」にやって居るのだ。と考えると何だか人品が窺われて浅猿く思われる。然も別荘の真中に自分の銅像を高く立ってあるが、蛤も蜜柑畑の番人然としているのは寧ろ滑稽で見る人をして噴飯に堪えざらしむ。
 興津で街道を通って能く目に付くのは女が臼で何かしらん搗へて居る。そして一つ杵で打つと振上る時に必ず杵の先まで臼の端をコツンと一つ打って上げる。これは何処の家でも見ても一致して居るので妙な感じだ。或は其の搗いて居る品が杵の先きに転着するのを落とす為めでは無かろうかと考へた。これからもう一つは色々の荷を積んだ荷車が非常に多く通るが、其の後押しに何れも若い女が居るのが目に着く。此辺では若い女が恁(こう)した激労に馴れて居ると見える。「よそいき言葉」は熱海でつくづく感じたが、亦興津へ来て更に感を深くした。此処へ来ると兎に角新橋から百八哩以上も離れて居るので関東とは余程違ふ様に思う。町を通って人々の話して居るのは勿論の事、宿屋の人達の御互同志の対話を聞えて居ると何だか分からぬ事さへ有る。処が一朝御客さんに対して話をすると丸で違ってアクセントは少し違ふが稍々東京弁を真似て居る。殊に其感を起したは今日、松永と云う例の本屋の娘が僕に対して話をして居るのは殆ど東京の人の言葉と大差が無い。処が丁度其所へ一人の町内の人が来たら、その人に対しては丸で言葉が違って変梃な事を云って居る。凡て恁した土地の人は「言葉の使分け」が上手な者だとつくづく思った。
 夜八時頃小説「妻の悔恨」を読んで居ると海岸の方で兵隊の号令をかけたり喇叭(ラッパ)を吹いたりして居るので、子供のいたづらかと思って居ると、暗中海水浴場の電燈が今夜に限りて光々と光って居る。そこで庭に出て見ると、切られるような西風の中に約百人位の消防夫が揃ひの半纏を着て、役員らしいのが五六名提灯を持って一人が号令をかけて小隊教練をやって居たのだ。左右両翼の教導は消防の提灯を揚げて、整頓の目印にして居た。恁麼(こんな)町にしては能く消防が整頓して居ると思って感心した。殊に此の寒空に於いておや。誠に自分の村の消防夫を考えて見るとなさけなるなる感じだ。
 注)蚕豆(そらまめ) 恁した(こうした)  恁麼(こんな)いんも

 
    興津町内

   一月十六日   金曜    快晴 軽風
 興津は風が無いと聞いたが、暴風雨から此方毎日の西風で驚入った。外に出ると切られる様で寒いので一寸買物に出たばかりであとは終日家に居た。午前中は現像した。滑稽に感じたのは例の荷車挽きが荷を送り届けて空車になると歸りはキット後押の女を車の上に乗せて男が之を挽えて行く。で今日も五六台の荷車が何れも後押女を一人づつ乗せて、一車縦隊で往来を行くのに出会った。僕は非常に妙に感じて見送ったが、乗ってる御婦人は平気なもの、又之を引いて居る男達も機困せず焉と湧きして居る。亦町内の老若男女皆凡ての人々が之を見て敢て怪しむ者も無い。否笑ふものも無いのは益々不思議と思った。察すれば所詮「女は弱者」であるから重い車を押させた上句は帰りには空車に乗せて夫が引いて之を優待するのだろうと考えた。僕の言、適中せるや否や?

   一月十七日   土曜    快晴
 今日は風が吹か無いで誠に良い天気であった。朝起きて海岸へ出ると、ぢき近くの冲を軍艦が東の方指して清水から出帆して行く処であった。午后三時頃になると又雄姿を現して海中をあっちこっちと遊戈して居た。恐らく●鷹丸沈没の死体捜索の任ある軍艦でないかと思う。兎に角恁うゆう入海の云わばたらひの中見たいな処へ大きな軍艦が来たのだから壮快だった。三時半頃清水港へ引き揚げて行った。
 午后から風の無いのを幸いとして「親知らず子知らず」の険を訪問した。興津の町を東の方へ蒲原の方へ向って行くと興津川と云う大きな河に出る。そこの長い長い板橋を渡ると鉄道線路について直き薩埵(さった)峠のトンネルに出る。ここが所謂親知らず子知らずなのだそうで、海岸からすぐに見上げる様な岩山が屹立して昔は盛に波が打ち寄せたので此処を通ると被る危険があったので此名あるのだそうな。然し今日では石垣で築き上げて道を高くし立派な国道になって居るので唯昔の体を偲ぶのみである。然し此処の景色のよい事は一通でなく実に何とも居えない景色だ。早速カメラの中に収めた。此の峠がサッタ峠というので旧道は此の上にあるのだそうだ。興津川の西岸付近には紙濾工場が幾つもあって、何れも駿河半紙を製造して居る。
 夜になると今日に限って海は油を流した様で、少しの浪もない。其為か漁船の出た事夥しかった。坐敷に居ても浪の音は少しも聞こえず何だか海岸に居る気持がしない様に感じた。
 興津と云ふ処は海岸通りを何処に行って見ても景色の良い処だ。道が昔から有効な処だけあると思った。是に至っては熱海なぞの遠く及ばざる処だ。
  
      興津川橋(サッタ峠方面)
 

 
 薩た峠(遠方の山並みから推測
 
薩たトンネル


   一月十八日   日曜       曇    
 午前中は時々日光を漏らしたが、午后からすっかり曇って今にも降って来そうな空になった。朝の内現像したが昨日のは不結果であった。降られない内にと思って午后中食后すぐに町出て郵便を出したり、本屋から加●みどり女著「新潮」とかへで生著「若き女」と二冊持って来た。此の前借りて来た宮崎一雨著「妻の悔恨」と云うのはつまらなかったが一緒に持って来た。北島春石著「歌意慕」は中々面白く出来て居る。
 興津に来てから隣り近所の室に面白い御客も居ないので、日記の種子が尽きて困った。熱海に来た「変教な女」の様な喜劇でも見たい者だ。離れは閑静で良いが閑静すぎても困る者だ。殊に今日の様に頭から押被される様な厭な天気の日には気がくさくさして仕方ない。何麼しても僕は話相手なくして長居する事は出来ぬのかしら?そこに行くと子供は呑気な者で此家に越後から客に来て居る小供は近所の子供を集めて盛に遊んで居る。如何にも楽しそうだ。
 弐時三十五分雨がポツポツと降って来た。と庭先でガヤガヤするので見ると井上老候が又やって来た。そして例の原田とか云う人を訪問したのだろうが、女中が出迎て今日は留守ですと云うと仕方なく歸ることにした。處で前から左へ切れて東海道に出ると候は云うので、御付のものが「道が切れて居ていけませんが…」と云ふと老候声を怒らせて「道が切れて居らりや降りて歩く」と云ふ。そこで一人が駆歩で実地偵察に行って来て「実際断崖になって居ます…」跡は聞えなかったが、そうそう今度は坂を降りて海岸の砂原の中をザクザクと車を引かせて矢張自分の云った通りにさせた。然も雨が降って居るのに傘なしで皆がヅブ濡れになって居るのに思いやりの無い人だと思った。要するに随分頑固な爺さんと見える。あゝ云う人について機嫌取って居るのは僕らには(いくら偉い人にせよ)迚も馬鹿馬鹿しくて出来ないとツクヅク思った。夜になっても雨はシトシトと軒を打つ。

   一月十九日   月曜   快晴
 少し朝寝をして七時四十分頃起きる。洗面してから体温量を脇下に挟んで海岸へ出ると、昨夜の雨は名残無く晴れて海面に輝く旭日の光はキラキラと眩しい。砂は雨に濡れてキシキシと歩く度び庭下駄に軌んで綺麗に歯の跡を印して行く。丁度朝露を含んだ雪原を行く様な気がして誠に気持がよい。岸に引揚られた漁船は今しも五十余りの頑固な(其の中にも何にやら柔私な処のある)青銅色した漁師と三人の男の子(何れも八才位から十二三才位の)とに依って海中に送り出す処であった。子共が代り代りに枕木の棒を先きへ先きへと運ぶと父なる漁師が声をかけては船を海へ海へと押して行く。いよいよ船が浪の中に這入ると漁師と二人の子共はすばやく船に乗上る。跡の一番小さい弟は尻まで出して裾をまくって水の中をインヤインヤと船の跡押しをして十分鱸でこげる處まで押してやる。ヨーシヨーシと父なる漁師の声につれて兄なる男の子が三人の下駄を岸に投げやって「これを皆な家に持って行くんだ」と命令する。小さい弟は此れを拾い集めてから、枕木を片付けていそいそと我家を差して帰って行く。…嗚呼何たる楽しみぞや、此の暮しの漁師にも恁うした親子の情憹があるとは……父ある人の喜びは如何ばかりであろうか?僕は子なき自分の未来を思い見ると云うに云はれぬ淋しさを感じると共に、亦一種の嫉妬らしい心も起った。室に歸ろうとして海を見渡すと、今行った漁船は兄なる子供も鱸を取って父を助けて楽しげにこいで行く………
 午前中は花崎への送事を書いたりPOP仕上をしたりして暮した。午后からカメラを持って江尻町へ出掛けた。実は馬車で行こうと思って居ると丁度来た奴が満員で乗れないので止むを得ずブラブラ東海道を西下した。と云うと太相だが興津から僅か一里位しかないので一時間余りで目的地へ着いた。興津の町を出放れると(実は興津界で町続きになって居る)すぐに横砂と云う處でここを通り抜けると松原になって両側は水田になって居る。それから少し行くと、又町へ這入る。ここが袖師と云う村で暫く行くと、又松並木になる。其の次は辻町と云うので江尻町の入口で江尻軌道株式会社の軽便線路が丁度此街道を横切って居るのだ。だんだん町に這入って行くと興津の様な一本町で無くて左右前後に通りがあって中々繁華なのに先ず驚いた。停車場は此本道から左に這入って僅か二町ばかりの處にあって其のすぐ前に前記軽便の停車場兼本社がある。此軽便は辻町を通って何とかと云う北の方へ行くので未だ僅かの賃銭八銭の距離しか出来て居ないのだ。停車場の西側から清水町へ行く道と静岡の方へ行く道とに分かれて此辺は最も賑やかだ。立派な芝居小屋があった。これから海岸の方へ行って見ると、更に驚いたのは立派な波止場の出来て居る事だ。丁度海岸から三四町の幅宏で長さは幾らあるか殊と計り知れぬ位広大な面積が一面の砂原で建築物や樹木は一つも無く満月廣茫として丁度満州へでも行った様。其の砂原の終りの處に迄も城壁の如く、水面から二丈位の高さに石垣を築き(地上から六尺位)其の上が歩める様になって居る。そして其の長さと云ったらいくらあるか迚も見通す事の出来ぬ程一直線に出来て居る。此工事費は何十万金を要したか実に宏大なのに驚いた。此波止場の上に芸者らしい女が二人の半玉めいた少女をつれて盛装して海を眺めて居た。早速カメラに中に収めた。丁度此海岸に石炭船が着いて盛に石炭を卸脱して居るのを見受けた。試みにそこに居た書生に聞いたら「此廣場は鉄道の用地になるのでしやう。そしてこの波止場は二三年前からやって居るので慚く出来上がったのです云々」と云う話であった。ここからは三保の松原が近く能く見える。要するに江尻の町は中々交通頻繁で一般に活気に満ち満ちて居る様に見受けられた。交通機関も中々開けて居て東海道線の外に前記の軽便と更に江尻より清水、静岡に至る軽便鉄道もあるのだ。劇場も二ヶ所あって芸者、貨坐敷まであるそうだ。兎に角何と云っても東海道にはかなわない。そこに行って埼玉あたりの町は岩槻にせよ粕壁にせよ実になさけない程、活気無く淋しい物だとツクヅク思った。将来とても此辺の様な海を抱えた傍地は盃々繁華になると反対に僕等の方の町々は幾年たっても依然として旧態を脱せぬだろうと思ふ。午后三時四十七分の上り列車で四時半頃ホテルに歸った。妙な者で興津へ来ると家へ来た様な心持がした。
 帰って見ると隣りへ此間帰った青島と云う人が又来て居た。
注)迚も(とても)
 
 
      辻村

          江尻停車場
 

 
    江尻波止場
 

  清水港に向かう汽船




 



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興津療養日誌(2)

2012-01-09 | 興津療養日誌 大正三年(1914)

   一月二十日   火曜       小雨 曇天
 起き様とすると枕元へキラキラと朝暾が差込んだので今日も快晴だろうと思って居ると、九時頃から模様が悪く成り、とうとう降り出して来た。午前中現像したら昨日の江尻六景は皆合格の出来で嬉しかった。僕の心を慰むる者は何物でも無く、唯此のホトグラフあるのみで、此れが善く出来ると非常に言ふに言はれぬ楽しみで、反対に此間の様に取った奴が全部不出来の時は大に心持が悪く、いっそ器誡を壊そうかと思うことがある位だ。
 小説「若き女」と云うのを読み始めたら少しも面白くない。否に怎麼して恁麼下手な小供じみた小説を書いた者かと作者の事がなさけなく思われた。それにしても之を出版するだけ押が強い。三四十頁読んで止めて終まった。それから「新潮」を読みだしたが之も五十歩百歩で矢張つまらぬ物だ。扨て外出をしようと思ったら雨が降って居るし家に居れば気がくさくさして頭が重い。何と云う厭な天気だろう。
●●から小包で台紙を三打送って呉れた。徒然で困って居る處へ、幸にも㐂多君が尋ねて来て呉れた。今迄、身延桜で師医の送別会があったので、其の帰りだと云う話だった。宴会の帰りでも仝君は酒をやらないので丸でしらふであった。今では僕は恁う云う人を見ると自分でも禁酒したので非常に心持がよく感じられる。。久々で色々と学校時代の懐旧談や友人の消息で時間の行くのを知らなかった。実際友人と云ふ者は何處となく気が置けないので嬉しい者だとツクヅク思った。それにしても僕は興津へ来て同窓の友人と話しをしやうとは豫期しなかった。これも矢張何かの嫁因と云う者だろう。

   一月廿一日   水曜       雨后曇
 曇天で時々雨を降らしたが夕方から、どうやら晴模様になって来た。午前中は調色仕上げてから新聞や小説を読んで暮らした。午后から傘をさして出かけて床屋に行って来た。久振りで髪を刈ったら頭が軽くなった様な気持ちがした。
 例の本屋から「己が罪」三冊借りて来た。毎夕方、前の砂原へ漁からか帰った漁船が幾隻も幾隻も押し上げられていると、家族が待ち遠しそうに出迎に来る。そして此等の対話を聞いて居ると何が何やらさっぱり僕には意味が通ぜない。それから町へ買物に行って町の人々と色々話をして見ると、こっちの云うことを解譯するに稍困難の様に見える。之を以て見ると此辺の言葉は余程東京辺とは異なって居ると同時に東京辺の人の言葉を解する耳を持たぬと察した。此處に行くと熱海辺では女中でも町の人でも何でも僕が不用意に発した言葉でもづてづて意味が通ずるし又彼等の云うことも能く解るのだ。之れは此土地へは東京の人が余り多く来ないと云う事の立證となると共に、熱海辺ようにも此点の様に未開であると断定を下した。
 「興津鯛」と云ふのは甘鯛を開いて塩水に一晩浸けて、翌朝之を水洗して塩を切って、すのこに並べて一日乾かしたものだそうな。それで興津鯛を食するは、味淋をつけて二三辺焼いて食べるのが、一番よいそうだ。又ここでも、いつもそうして出すのだ。處で全体此甘鯛と云う奴は本鯛の様に塩焼にするとか、煮とかすると、肉がベロベロして軟らか味のまづいものだそうだ。それ故、之を開いて所腺興津鯛として食するのが一番此鯛を甘く食はせる方法なので有名なのだろうと思ふ。

   一月二十二日   木曜    快晴
 今日は久振でよい天気になった。然し外へ出ると少し風があって寒かった。午後からカメラを以て薩埵峠から田子浦の方へ出掛けて此間失敗した奴を再写に行った。丁度田子浦まで行くと自動車が二台路上に留って御客が四五人海辺を散歩して居た。其の内の一人は若い洋服を着た男で、彼もフェルム用手札形カメラを持って居た。今しも下り汽車がトンネルに差しかかると彼はカメラを向けたので僕もまけずに、すぐそばで写してやった。僕の方は汽車が来てから懐からカメラを出して一寸写したので、紳士は勿論自動車の運転手まで皆、僕を注視して居た。
  
 
      田子浦

   一月二十三日   金曜    快晴
 興津は風が無いと云う話だったが、此頃は毎日いくらか吹く。殊に温暖な気候に馴れたせいか、外に出ると風が身にしみて非常に寒い。此では家の方と大差が無いかと思われる位だ。
 僕は宿に就て此頃少し迷い始めた。熱海でも一時恁麼事が在ったが、とうとう鈴木屋に居づくようになってしまった。然し此度は何處か外へ転地しやうかと毎日しきりに考えて居る。勿論興津の内に転居するので無くて、外に転地する積りだ。何処にがよいかしら?
 要するに興津にもつくづく飽きた。午后から何処にも行く処が無いので停車場から踏切を超えて阿部家邸の浦の方の山へ登って見た。そこには「宋徳院」と云う宗洞宗の寺があって此墓は前の高い山の上にあった。誠に此山に登って見たら非常に展望がよく、興津の町は丸で眼下に見え三保から伊豆の山々もよく見えた。
 三時頃帰って見たら、あんころが盆の上にのせて出してあった。


   一月二十四日   土曜    半晴 夜雨
 今日はいやにどんよりした曇った天気で、時々は太陽が顔を出すが海面を吹いて来る風は冷かった。
 午后二時四十分の汽車で隣りの客(青島)は又一先づ帰った。能く度々出這入りする人だと思う。二三日過ぎて又来るのだそうな。
 午后一寸散歩に出ると横砂海岸で僕に言葉をかける者があるので誰かと思ったら、三号に居る客であった。二人で話し乍ら散歩して居ると雨が降って来たので大急で帰って来た。
 夕刻父上様に又手紙を出そうかと思って書いて居ると丁度宅から手紙が来たので、すぐに返事に旁転地の件を書いて送った。何だか此頃は胸痛と頭痛で毎日苦しめられるので実に厭な気持だ。又病気の再発かも知れんと思うと心細くなる。それで毎日の日記を書くのがいやでいやでたまらない。
 

興津海岸

   一月二十五日   日曜    曇后晴
 朝の内は又降って来そうだったが十一時頃から天気になった。気持ちが悪いので海岸に出て見ると浪が中々高くやって来る。誠に海小浜場の例の岩の上に登って海を見ると浪の来るのが中々壮快であった。ト少し高いうねりが来たなと思う間も無くドシンーーと岩にぶつかると、イヤハヤ僕は頭からすっかり海水をあびて、茲に目出度「浪の洗礼」を受けた訳だ。痛快だったね。然し帰ってから、すぐにドテラをぬいで見ると、背中の方がビッショリ濡れて頭からはポトリポトリ雫がたれて居た。仕方がないからドテラを日なたに出して乾かして、着物をすっかり着替えた。
 昼から夜にかけて風は益々激しく吹き出した。迚も外出が出来ないので終日家に居て小説を読んだ。「己が罪」中節の終局の處は中々面白くなって来た。
 今夜も亦腹痛がするので懐爐を入れた。今朝は腹痛に加えて胸中が痛み出して迚も起きられそうもなかったが、九時頃少しよくなったので、やっと起きた。何だか、又病気が再発の兆候では無いかと怪しまれる。

   一月二十六日   月曜    快晴 無風
 珍しく今日は風が無くて暖かなので、日頃の希望であった三保見物を思い出して朝食を急がせて九時0九分西行の汽車に乗て出掛けた。江尻で降りてそれから道を聞き聞き清水町を通って「羽衣橋」と云う長い長い橋を渡って三保林に這入った。それから畑の中の平凡な道を稍々暫らく行くと「三穂神社」に出る。それより数丁東の方へ行って砂原を越いると「三保崎燈台」に着いた。里程表で見ると江尻から燈台まで丁度一里二十五丁に当る。燈台は砂山の杉原の内にあって、八角の真白なシックイ塗りで其の下に灯台守の住家らしい新しい洋館があった。今しも妻君らしいのが土製の炊飯釜を井戸端で洗って居る處であった。恁麼處に住んで居たら随分呑気だろうと思ふ。ここから引返して更に一里ばかり行って「鉄舟寺」に行き、更に左手数丁にして「龍擧寺」(りゅうげい)についた。龍擧寺は三保の松原と富士を見るに最も適当の場所をきめて居るのだそうで中々景色がよかったが、思った程でも無かった。此處には大きな蘇鉄があるので有名な者だとの事。庭の上に高山林次郎の墓があって、寺に参詣者名簿が備んてあるので吾輩も記念の為め書きつけて来た。僕の豫想は大分違って何處へ行っても余り感心しなかった。此時、丁度一時半だったが、中食を便ふ處が無いので止むなく清水まで行って中町の「梅本」と云う料理屋で中食をやった。丁度三時になった。実はここから静岡へ行ってのぞいて来ようと思ったのだが、遅くなったので止めて、江尻停車場から三時十七分の上りに乗って四時頃宿に帰った。
 今晩は大工勇農学士が東海ホテルに宿ったので試験場の連中が来て宴会でもやるのだそうで、谷川君が一寸僕の處へやって来た。今日は旧暦の御元旦だそうで三保のあたりでは皆遊んで居た。

 
 
三保松原(明記されていない)
 

  三保崎燈台

   一月二十七日   火曜    晴 風
 いよいよ興津を立つ事を決心して、今日は家へ手紙を出した。「花崎は佐野の老人が死亡したことに就いて悔をやった。自分では今度小田原へ行く事にきめて見たが、恁う事が決まって見ると早く行きたくて仕方がなくなった。それでお為替が来るまでには二三日間があるので仝月三十一日でなくては立つ事が出来ぬだろうと考えて居る。午前中風が吹いたので一寸手紙を出して行ったばかりですぐ帰って来て「己が罪」後編を一心に読んだ。丁度午后三時頃読み終わったので松永書店へ行って今度は黒法師作「新生さぬ仲」を一冊借りて来た。僕は何となく興津で松永書店が一番心易くなった。
 今日は旧暦の正月二日で町の内は(新暦だが)近住から人が出るので大変賑やかであった。
 夜九時頃になると、又々二階の客めらがドヤドヤと帰って来て、喧々嘼々と騒ぎ出し、しまいには三味線を引き出して歌を歌って騒ぐので、トウトウ十二時過まで少しも眠れなかった。聞けば井上候の處へ御機嫌伺いとか来た奴等だそうだが、実に癪に障って仕方なかった。速く此んな處は出るに若かずとつくづく感じた。

   一月二十八日   水曜    快晴
 何処と云ふて行く處も無いが余り所在無いので午后一時半から一寸散歩に出て、すぐ帰って来た。来て見ると御隣りへ新しい客が来て居て主人と話をして居た。此人は六十位な老人であるが、誠に丁寧な人で態々僕の室の外の廊下に膝までついて挨拶に来て呉れた。僕は非常に気持ちよかった。それにしても前項の様な二階の奴等の様な傍若無人の客もあると思ひば、又恁ふやう質朴な丁寧な人もあるかと考えると実に奥行かしく思はれた。
 夜になると襖越しに隣から話しを持ちかけられたので、実はこっちも退屈で困って居る處だから、これ幸いと九時半頃まで話した。其の話によると沼津東静浦の保養館、牛臥の三島館なども暖かでよいと云ふ事を聞き出した。之れで自分も此人によって少なからず参考になる話をされたので思はそちらに転居する考になった。

   一月二十九日   木曜    晴
 朝九時頃書留郵便が父上様から届いて嬉しかった。昨日は餅搗でさぞ御忙しかろうと思ふと、態々杉戸まで行って送金して下さったことを考えると、実に涙が溢れる程感謝に堪えなかった。嗚呼親の恩は忘れ可からざる事である。為替が来たので早速明日は沼津に行くことに決定して、早速金円受領並に明日沼津行の事を宅へ電報を出した。處がまだ僕の行くのが早かったせいか、局の方へ案内状が来て居ないそうで、来次第局から私に電話をかける事にきめて帰った。待遠しいので三時頃局に行くと「今あなたの處に電話をかけ様と思って居る處でした。丁度今来ましたよ」と局員が窓から首を出して言った。為替を取ってから停車場へ行って時刻表などを見て帰りに「潮屋」で菓子を買て来た。
 興津の町も明日は別れるので、借りた本を松永に帰しに行った。例の娘に色々沼津の事を聞えたら地図を出して見せて呉れて牛臥や静浦の事を説明して呉れた。これで倉々明日は牛臥(静岡懸駿東部揚原村牛臥)の三島館へ行く事に決定した。
 夜になると家から小包が届いた。開いて見たら風月堂の菓子であった。多分伊坂の結納の引出物だろうと思ふが恁ふしてたべずに送って呉れる御恩の程は実に有難い。何だか嬉しくて涙が出さうだ。夕食後、着物や何かを鞄につめて出発の順備をした。

   一月三十日   金曜     快晴 午后風
 今日は急ぎ興津を出発して沼津に向ふので朝の内から支度して会計を済まして午后九時五十五分の上り列車に乗った。丁度ホテルの三号の御客も此汽車で東京に帰るので沼津まで二等で一緒に行った。沼津から車で牛臥まで二十町余あるので暫らくかかった。それでも午前十一時半頃三島館へ着いた。(以下沼津日誌に移る)



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