第三編 興津日誌からのつづき
沼津日誌(静岡縣駿東部揚原村牛臥 三島館)
当時の沼津周辺地図
大正参年 一月三十日 金曜 快晴 午后風
熱海や興津の海を見た揚句に牛臥の海を見ると、南東北と山で囲まれて其の内に湖の様になって居るから何となく鼻がつかいそうだ。然し景色は確かに興津より良いと思った。目下、皇太妃殿下つけ避暑地にされて居る沼津御用邸は三島館から東南に当って杉原の中にあるので僕の坐敷から能く見えるのだ。
午後手紙をポストに入れながら一寸出て見たが、風が激しく吹き出したのですぐ帰って来た。此辺は全くの田舎なので煙草を買う店が無いのは閉口した。
二階の八畳の間に一人ツクネンとして居ると、何だか心細くなって来る。そして今まで居た東海ホテルの二十四間の坐敷が恋しくなって来た。そのくせ興津に居る時は早く此処を立って沼津へ行って見たいと思って居たに来て見たら矢張慣れた処の方がなつかしくなって来た。妙な者だ。とツクヅク考えた。
今日は少しばかり汽車や車に乗った処が非常に身体が披露して苦しくなったのは驚いた。此分ではまだまだ暫らく静養を要すると思ふが、然し迚も長居は出来そうも無いので困った者だ。
沼津御成橋 獅子濱・淡島
一月三十一日 土曜 快晴
午後から夜にかけて昨日は非常な西風が吹いたので、今日は午前中御用邸の方へ出掛けて見た。三島館を出て湾に添ふて南の方に松原の内を三四町行くと、御用邸に出る。此處は一抱もある大きな雄松の沢山ある内に石垣を囲らした宏大な構へで、すぐそばに御料の乳牛が養ってある。御用邸の後方は石垣になって、海岸に接して居る。要するに此處は御用邸として最も適当な場所で自ら崇高の念が起る。衛兵の歩哨を一瞥して御正門を街道へと出て、それから南の方へ無暗に行って見た。然し何処まで行っても唯いわし臭いばかりで平々凡々で詰まらないので途中から引返して帰って来た。途中で丁度散歩で出た大山巌と夫人と令嬢にに出會った。 三島館のすぐ裏手は所謂牛臥山でここに大山家の別荘がある。試みに坂道を上って見ると山を切り開いて道を作り行当り、つまらない門があって、それから中は又坂になって見えた。
我輩今度は飛んだ處に来たものだ。此三島館と云う家は宿泊料が高くて、御馳走が悪くて(殊に飯がまづく、料理が大下手)不行届で、不親切で一つでも取り處が無い。のみならず座敷が悪くて、場所が不便で此位可厭な處は殆ど無い。一日で何だか帰りたくなった。それにしても吾輩昨日茶代を出したのが、つくづく不覚の基だった。まあ仕方ないから十日ばかり辛抱する事に決心した。處で「本木に優るうら木なし」と云う諺があるが、此言の適中にして能く当て得て居る事を今更深く感じた。初め熱海へ行った時、鈴木屋が面白くないと思ったが、今になって見ると一番廉価にして行き届いて居る事を悟った。次には興津の東海ホテルで、一番悪いのが、ここの家だ。其の僻宿料は一番高いと来て居るのだから言う事は無いのだ。これなら一っそ、小田原の亀屋へ行くのが一番良かった!と今更残念でたまらない。
今となって女の腐った様な愚痴を云ったって納らないと断念めて、気を散ずる為め、午后一時頃から飄然宿を出て沼津の町に行った。途々知らない人に話しかけて一緒に話し乍ら行った。御成橋にさしかかると若いハイカラさんが女乗のサイクルに乗って同じ方向に行ったので町の人が皆注目して居った。そして「あれは産婆だよ」と云うのを聞えた。沼津町の地図を買ふとしたが品切れで無いと云うので、盲ら滅法足に委せて歩いた。そして立派な本屋があったから此處をひやかして文藝倶楽部一冊を買って来た。此處で道を聞えて「沼津公園」に行って見た。さぞかし立派な公園だろうと思って行くと唯見る大きな雄松の森林で何とて一つも見る物は無い。そして入口から左の方に午砲を打つ石垣の䑓があった。突き当り「東京亭」と云う旅館があり其の南隣りにも何とか云う大きな料理兼旅館があった。是等ら皆海水浴客を目的とした旅館なのだ。これから「千本」に向って引続き別荘が並んで居る。小僧に道を聞いて此道をどこまでも真すぐに行って橋を渡り、それから狩野川の渡しを渡って「我入道」に出て牛臥に帰って来た。一寸見る處によると沼津の町は大火後未だ普請が出来上がらないが中々立派な町なのに驚いた。そして活動の常映館も「金鳥飴」と云うのがあり、其の少し先きに寄席がある。此辺には又小さい貸坐敷が幾軒も見えた。帰って来ると御茶桶として甘落の蒸したのが皿にのって出してあった。此んな物を出すとは人を馬鹿にして居ると思った。湯が出来たと云うので、すぐに這入った。此家の湯番の男は矢張恁ういう處の渡り者で一昨年頃、熱海の鈴木屋別荘に居た事があるそうで色々熱海の話をした。
旅館として恐らく此家位設計の下手に出来て居る家は見た事が無いと思った。第一客間の間取の変梃な事は勿論、湯場と来たら六角形の建物で這入って見ると湯場は誠に狭いのだ。そして何処もかくも不潔で建物はガタピシで驚くの外無い。何でも熱海の鈴木屋別荘の普請位安全な物は多くあるまいと思った。夜此家では餅を搗いて居た。
牛臥山 牛臥海岸から三島館
二月一日 日曜 半晴
今日は田舎の御正月元旦だと思うと何となく故郷の事が偲ばれて、恁うして居る身がなさけなくなる。
午後から散歩に出た。今日は静浦の方へ行って見様と思って途中から馬車に乗って「保養館」の前で降りて海岸に出た。成る程保養館は海岸の松原の中にある家でいかにも日当たりの悪い家らしかった。先づ先ず僕は三島館へ来たのが、まだ不幸中の幸であった。それから矢鱈に南の方へ行って見ると「獅子屋」に出た。此辺は村ではあるが家続きで一寸町らしくなって居る。然し何処へ行っても例の鰯の臭気が鼻を突いてやりきれなかった。江の浦まで行かうと思ったが、まだまだ中々ありそうなので途中から帰ろうとしたら幸に馬車が来たので、それに乗って御用邸前まで来て降りて帰った。
夜になると又風が激しく吹き出して暫らく眠れなかった。
二月二日 月曜 快晴
午後から沼津停車場まで散歩に出かけて旅行案内を買って来た。帰って見ると三島館の前に自動車が一台来て隣座敷に五六人の男客を二人の芸者が来て居た。一時間ばかり騒いで帰って行った。二階の窓から見ると、皆つまらない人間ばかりで湯番の男に聞えたら,修善寺の貸自動車の社長が廣告的に来たとの話であった。どうせ其麼事だろうとった。
僕は一体湯殿と便所の汚いのは何より大嫌いだ。そこで三島館は最も此二つが不完全極まるので番頭に話すと、彼曰く「私も恁麼汚い湯場ではいくら掃除をしても甲斐がありませんので、いい加減にして居ます。それでも来たばかりには尚ほ汚なかったのですが、此頃私がチョクチョク掃くのでチョトは綺麗になったんです」尚ほ話を次で「此處の家は何処もかくも汚い家ですが、昔しは本陣をした家だそうで、今でも中々良い御客さんが来ます…」と辨解して居った。此男は見かけによらぬ主人に忠実な男だと思った。
今夜は静かで海上には鰯船のアセチリン瓦斯燈の光が綺麗な程並んだ。
二月三日 火曜 快晴
何処からかもう手紙の来る時分だと思って、心待ちに待って居ると午前十時頃花崎から手紙が来たので嬉しかった。午後になると宅からと新聞が届いた。
まだ写真の原料が沢山あるので、カメラを持って近処を取った。然し近頃は写真も余り進まなくなった。丁度三島館の入口の處を写さうと思って居ると自動車が二台来たので是幸ひと写した。矢張修善寺の自動車で客を置いて空車で二台共帰って行った。番頭に聞くと修善寺から此処迄十七●(七里)あって一台の賃銀八円だそうな。そうすると之れに五人で乗ると一人前当たりに一円六十銭で一里はには二十三銭にしか当たらない。是では人力へ乗るよりも安い者だ。其癖自動車の御客様と言われては恁麼割の良い事は無いわいと思った。
夜になって暗室ランプを点して今日撮った写真の現像をした。
三島館入口
二月四日 水曜 快晴
今日は節分で愈に年を一つ取る訳だ。今夜は各地で年取が盛な事であろう。
豫義を立てて見て愈に来ル十三日には沼津を出発する事に決定した。何だか早く家に帰りたい様な気持ちがして来た。
午後誠に静かで風が無いのでカメラを持って我入道から沼津公園へ行って写して来た。
夕食後現像六枚、皆好結果なり。
沼津公園千本濱海岸
沼津公園の午砲台 公園内にあった別荘
二月五日 木曜 快晴 軽風
午後我入道へ行って見た。先づ宿を出て間も無く道を左へ切れて砂山をこえたら急に視界開けたに出た。今處も例の鰯が一杯に広げて乾してあった。ここから右の方へ行くと面白い岩が折重なって一ヶ所トンネルになった處もあるし、其岩の上に乗って見ると牛臥山の西南端即ち三島館の大きな岩から続えて大山候別荘の石垣も見えて中々良い景色の處だ。僕は此処に恁麼處がある事は今迄少しも知らなかった。なぜ土地の人は此処を何とか名をつけて名所の一つにせぬのだろう?と怪まれる位だ。
夜現像したら半分位しか物にならなかった。
我入道渡船場から千本濱 三島館の大岩
我入道(狩野川対岸より) 我入道渡船場
二月六日 金曜 曇 小雨
朝寝坊して八時半になって起きた。外はボーと曇って雨は糸の様に細いのが音も立てずに降って居る。雑誌も読み切って退屈して居る處へ此天気では益々閉口するので朝起きるや否や女中に命じて沼津の本屋から実業之日本と婦人世界を買って来させた。
午後二時頃一寸雨が止むで太陽が雲の切れ目から顔を出した。丁度六隻の漁船が僕の坐敷のすぐ前の海の中に網を下ろして一生懸命ツキヤスで魚をついて居た。面白い様にヒョイヒョイ取れる。何だか銀色に光る七八寸位の魚で多分鰹だろうと考へた。
昨夜御用邸へ来た岡玄卿が三島館に泊まって、今朝御用邸から馬車で迎に来た。玄卿も今迄汚い生命を貪って居るがよく人に合わせる顔があると思われる。不忠な奴だとツクヅク
思った。
三島館の料理の下手でまづい事と来たら実に驚いたものだ。第一此処の料理番は調理の仕方を全然知らないのだろうと思はれる。今日の中食なども「切りどろろ」を生醤油をかけて食はされたには驚入った御手並だ。何れ女中も馬鹿で何も知らないだろうと思ったから「切どろろ」の食い方を説明してやった。それからいつも出す吸物が実にまづい。まづいと云うよりは汁が魚臭くて食へた者でない。焼魚はいつ出すのも冷たくて、いつ焼いたのやら分からぬ位なのを出す。今日初めに出した鎌倉いびの「ぐそく煮」も煮方が下手で食へなかった。恁う云う風に此処の家の料理として一つでも甘いと思う者は薬にしたくてもありはしない。之れでよく高名の方(所謂)が泊りに来るかと怪まれる。何れ恁麼家に宿りて来る高名の方と云うのはほんとうの料理の味を知らない成金でもくるのだろう!
二月七日 土曜 快晴
昨日は雨天で一度も散歩に出なかったので、今日は御天気を幸に午前中カメラを持って静浦の方へ行って四五枚写して来た。午後買物など沼津の方へ行って来た。途々色々考えて見たが、急に帰宅の日限を繰り上げて来る十一日にここを出発する事にきめた。そして帰ってから父上様と桂子と信次とへ、それぞれ手紙を書いて夜投函した。イヤハヤ急に思い立ったので中々大忙はしだった。それにしても三島館で一番便利だと思ったのは玄関前にポストのある事だ。こればかりは外の宿屋では見る事は出来まいと思った。雨が降っても下駄をはかずに郵便を出しに行けるので頗る便利だ。三島館の取り處は唯此の一つと暖かいと云う事ばかりだ。夜、最後の現像をした。
静浦海岸(富士山とあるが見えない)
二月八日 日曜 曇 后雨夜風強し
今日も朝寝坊して八時半に起きた。戸をあけて外を見れば空は曇って今日も降って来そうである。吾輩が朝寝をする時には必ず天気の悪い時に決まって居る。之れと云うのも矢張天気の悪い位の時は體の具合が悪くて起きられないからだ。それでも午前十時頃にはチラチラ太陽が出たが、午后二時頃になるといよいよパラパラ降って来た。可厭な天気だ。其癖新聞を見れば今日は天気豫報は西北風晴になって居るから頗る豫報も当てにならない者だ。
午前中最後の写真燈付をして仕上げた。丁度混合液も乾板もすっかり使い
切って良い塩拇であった。
夜になると雨は盛に降り出して風さへ激しく吹き出した。午后九時寝に就けば雨戸を打つ雨の音と、岸に打寄せる浪の音は何となく旅の淋しさを一しほ覚えた。
二月九日 月曜 雨后晴 夜雷雨
今朝起きて見ると、アーラ珍らしや海を距てて打連なる連山には薄く雪を頂いて化粧して居る。惜しむらくは「あれが真白になったらば」と雪の少ないのが物足りなかった。然し三島館付近は無論の事、山の低い處にさへ雪は少しも見る事は出来なかった。女中が持って来た新聞を見ると昨八日は東京辺は午后から雪がドンドン降ったそうだ。そうすると、こっちの雨は東京の雪なのだ、と考えると今更此辺の暖かさが感じられる。然し昨夜はこっちさへ降雪したのだから東京辺はさぞ降った事であろう。嗚呼雨三日にして帰る故郷の空は什麼にか寒いだろう。
天気豫報にたがわず昼頃からだんだん雲が切れて太陽が出て来た。誠に何共言えないよい心地だ。
三島館の不行届な事は再三記載したが三度三度の飯の遅いのは実に困る。朝も八時半か九時頃、中食は一時過ぎ、夕食は七時半頃ときまって居るので閉口する。什麼にしても、もっと早く出来そうなものだが、此處の家ではこうする事が此通り不規則でズボラに出来て居るのだ。吾輩の如き時間の整然と決って居るのを、すきな者には誠に以て不快千萬だ。
そこで改めて牛臥三島館の不行届な点を列挙すれば……
一、 客室、湯殿、便所、其他一般の建築物の設計最も拙劣にして且つ
古くて何れもガタピシ普請ある事。
二、 宿料不廉にして然も食事は他頗る下等なる事。
三、 料理の方法拙劣にして余が口に適せず。
四、 食事の時間常に遅く到底他の旅館には見られざる事。
五、 客人に対する主人並に女中等の取扱不親切にして誠に不快なる事。
六、 位置偏僻にして所要に便を缺く事。
幸に天気になったので、午后から沼図へ御土産物を買いに行った。名物の「鯛でんぶ」は思ったよりもあまいので宅と花崎とへ二つ買った。それから「桃羊羹」は食べて見たら頗るまづいので、到底花崎には向かないと思ったから、ほんの印だけ宅へだけ買う事にした。あとは東京で残りの土産物は買調いる事にした。これですっかり仕處が出来たから、いつでも出かけられると思うと十一日が待遠しくなった。
午后八時頃から一天遽かにかき曇り時ならぬ雷鳴が初まった。そして雨がポツポツ降り出した。今年は寒中から雷鳴があったが、何という可厭な天候だろう。此分では今年の夏が思はれる。
二月十日 火曜 快晴 風
昨夜の雷雨も今日は名残なくはれて、気持がよい。然し強い風が吹き出して来たのは閉口した。
三島館で僕について居るおせいとか云う女中は見掛けは一寸人並面して居るが、性質は余程莫迦だと思った。それは常々の挙動を観察して居るとアレモコレモと胸に浮んで来る。二三日前の如きは夕食の時三膳付けたら誰れも沢山とも言わぬのにサツサツと御櫃を持って行って仕末った。.何と云う タワケだろう?吾輩所々に流浪して歩くが恁麼馬鹿な女は一度も見た事が無い。此一事を以ても彼が如くに馬鹿であるか推計られる。それから彼には吾輩の言葉が解せない。否僕の質問する事の意味を解釋する能力を持たないのだ。二度三度噛んで含ある様にに質問しても「何だか解りません」とはあきれて物が言はれない。鈴木屋でも東海ホテルでも随分見た處は馬鹿な様な女も居たが、それでも僕の聞く事は何でも能く解って貰えたのに(否むづかしい事でないから解るのが当前だ)此のおせいに限って話をするのに非常に骨が折れる。これでは丸で野蛮人の中へでも這入って居る様だ。どうせ恁麼女中に利口な奴が居る筈が無いが、恁うやうのも珍しいから日誌にのせる事にした。今日は余り解らないから癪にさわって「お前の様な者は東京へ行ったら言葉が通じないでさぞ困るだろう。通譯でも連れて行かなければ、お江戸の言葉は尚ふ分からないで…」と言ってのけてやった。馬鹿!
午後風が吹くので散歩に出るのを止めて見たが、最早読む本も無し退屈で仕方ないので湯に這入ってから、四時頃一寸松原の方に出た。然し風が激しいので間も無く帰った。帰りがけにいつも前を通るが一度もツクヅク見た事が無い「新稲荷神社」「天照大神」とか云う色々な神を一緒くたに祭った社を這入って見た。入口に石の鳥居と赤い鳥居とある。成る程天照大神と稲荷さまとでは恁う無くてはならぬ筈だと思ったが、それにしても妙な対照だ。之を入ると右手に「妙法」として世在何とか云う三島館の主人が建てた碑文がある。試みに読んで見ると職業上鶏を殺すが一千羽に達したら末代とも供養する、と云う事が書いてある。冒頭に「割いたる難に引導を招ける文」としてある。イヤハヤ滑稽至極な者だ。
突当りに石造の小さな宮があって其の後方から坂を登ると所謂奥の院式の更に小さい社がある。前者が稲荷で後者が天照大神らしかった。僕は来詣よりも寧ろここへ登って海を見渡すと非常に見晴がよいのに感心した。夕食後から少々帰り仕度に取りかかった。
二月十一日 水曜 半晴
午前十時頃宿を出発して沼津発午前十一時〇分上り列車で午后四時十分無事新橋へ着いた。信次が停車場まで出迎に来てくれたそうだが、人込の為めお互に姿を見失ったので、次の汽車まで待って居たとの話。夜川島更に●(新哉家へ来て十一時位まで快談に耽る。
二月十二日 木曜 晴
午前神田辺で買物をして新哉家へ帰ると思いがけなく花崎の御父上様と清、更に僕の處を訪問せられた。三人一緒に牛屋行て中食を認メ僕は豫定通り午后一時五十分浅草発に乗り三時半無事帰宅した。
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