あきよしブログ

南埼玉郡旧百間(もんま)村 地区と家の古今

熱海療養日記(1)大正二年 

2013-10-16 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

  家の蔵を整理していて、出てきた日記です。書いたのは先先代の正之という人ですが、ほとんど知りませんでした。ただ、優秀な人でしたが、35才の若さで逝って、子供もいませんでした。ということで、今の私がここに居ます。なを、近所に家のある英文学者の島村盛助氏とは、母親の実家ということで、いとこ関係でした。
 再近、朝のドラマや夏目漱石の時代を多く聞くような気がします。丁度、同時代の人の書いた日記になので、改めて私なりに仔細に読んで見たところ、意外と100年前でも現在と変わらぬ書き方をしていて、気持なども同じだと感じています。この時代にはこの人物を通して見ているようで身近に感じるようになりました。
 日記は大正二(1913)年で正之30才の時に書いたもので、今では差し障りありそうなところもありますが、すべて原文のまま載せます。、読み取れない文字や、ここに表示できない文字もあり、意味不明な部分もあります。この熱海にて作った「忘れ易き文字」というメモ(冊子)がありました。

    
 正之日記     正之(左)兄弟
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     大正版 静岡縣・神奈川縣地図

熱海周辺地図

轉地日誌  No.1      小島

          熱海日記        琴月生

大正弐年   十月一六日     曇後雨風

 昨日は終日雨なので此れでは明日もだめだろうと思って居ると珍らしく今朝から晴れて一時はキラキラと太陽の光さえ見え出した。これで出発しようと支度もそこゝゝ午前七時二十五分杉戸発上り列車で浅草に着き腕車で新橋迄一走り丁度間がよく午前九時につき国社津行に間に合った。中食を大船弁辧当で済まし十二時六分国社津着、新橋よりの気本賃二等で壱円以下なり、午後十二時十四分国社津発小田原電車に乗車、運賃二等で三十三銭、午後一時四十五分小田原発熱海行軽便鉄道に乗る。四時三十分頃熱海温泉場鈴木屋別荘に着く。軽鉄二等壱円弐十九銭 但し荷物運賃超過額金十八銭(三貫目超過。二等での一人三貫目まで無賃、一貫目を増す毎に六銭宛)小田原を出るとポツポツ降り出し熱海に着いた時には大分降居た。出迎の番頭と会傘で徒歩別荘に入る。身体非常に疲労し何をするのもいやになった。然し一人で退屈で退屈で仕方ない。何は兎もあれ夕食後、自家と花崎と神田の弟二人へ書面を出すべく書いた。茶代三円、女中番頭へ二円渡す。夜雨尚ほ止まず風強く波は益々高くゴーゴーとやかましいことは夥しい。此れでは夜寝られれむないが……モー書くのがいやになった。然し僕の日程の一たる此の日誌を然も第一日から不勉強では困るから疲労を拊して大奮発で、あらましをかいつまんで書く。されど文章も何も成って居らんのは当たり前さ………
 午後八時十五分書き終わり八時四十五分寝に就く。

十月十七日  金    雨一時晴 浪高し

午前六時半起床、轉地第一日の冷水摩擦は刑の如く行ひ直ち、庭下駄をつっかけて庭前の芝生の上に降りた。幸ひ雨はやんで居たので雨後の露を帯びたる芝生を裾をつまんで抜足で垣根の処までたどりついた。垣の下は直ぐ崖で前を町家の屋根が木葉を散らした様に散在し其の先きは展開して太平洋の大海原。昨日からの浪はいやが上にも荒しくゴーゝゝと鳴りを立てゝうなって居る。空は今にも降り出しそうにどんよりと雨雲に被われて居るが、それでも初島がかすみの中にボーッと見えた。折から一隻の汽船がボーとけたたましく汽笛を鳴らすと見る間にへさきを南の方に向けて出帆した。朝食の時、下婢に聞けば昨夜東京からきた船でこれから伊東網代方面に行く船だそうだ。歩を轉じて庭内を漫歩すれば樹下雨垂れ、首を縮めたる事幾度び。当鈴木屋別荘の庭は大そてつの幾株もあるのは驚いた。能く見れば鉄棒にて折られぬ様支えてあるので悟見した。庭一面、隅から隅まで短く刈り込まれた芝生で誠に青毛せんを敷いた様で気持がよい。兔に角僕は大に気に入いった庭だ。家の庭もこんな風に作りたいと思った。
  ………午後から一時晴れたので此機逸す可かざると直ちに支度して外出した。町を歩くのは初めてで懐に地図は無し行き違ふ人に聞きゝゝ漸くして大湯の噴出口に達した。
 午後三時頃出ると云う話だったが三時三十分になっても出なかった。そこで又盲滅法に歩き出しトウゝゝ海岸に出た。人まねをして浪の打寄せる際に立って魚をつる人を馬鹿面をして見て居た。大きなやつが、かかったと見えて先生大力を出してグッと引くと糸はプッリと切れて何物をも得なかった。海岸轉へに家に歸ろうと思って出かけると浪のしぶきでやり切れない様にどこから左へはいったら行けるのやらイクラ行っても左へ切れる道が無い。極無く小僧さんに聞くと元来た道へ逆戻り・・・何だ馬鹿ゝゝしい。廣告を見て若野屋へ行き地図、熱海案内誌、絵葉書を求め、更に再び大湯の方へ行くと丁度盛に熱湯を湧出し居る處なので暫らく垣の外で見て居た。M学の大学生数名も来て共に見物した。
 その内、又もやポツリゝゝと雨が降り出したので急いで宿へ歸った。歸宅後大に熱海案内誌を研究してコレカラ熱海通となるの第一歩と取掛った。夕食後依然として浪高く遥か沖を見れば初島の燈火が漁船のかがり火か知らないがチラゝゝと数十個の燈火が一列に並んで見えた。今夜は単衣物で寒くない。東京辺の気候と大差あるに実に驚いた 午後七時雲の切間から一寸月が顔を出した。即ち庭に降りて例の垣根近く行くと今熱海着の汽船が赤い色の燈火と白い色の燈下を光らせ汽笛を鳴らして入港して来た。かすかにガラゝゝと云う音が聞えた。多分碇を下した音だろう。岸からは出迎の小舟がかがりをたいて本船めがけて出て行った。

   十月十八日  土    曇
 隣の客が今朝立ったので当別荘は吾輩一人となった。別に話もしなかった居なくなって見れば矢張淋しい午後一時三十分より外出し噏氣気館を見て来宮神社参拝その後の水道貯水場を垣の外から見、引返て変電所、温泉寺、御用邸の前を通り海岸に出て帰って来た時に三時十分 非常に疲労した。
 本日も入浴三回(毎日三回位にきめた)今夜の寝ぎわになって日誌をつけるのを考え出したので眠いから、これで御免を蒙る。午後八時二十分寝に就く。

    十月九日  日    快晴
 今日は珍しく朝から晴れた。熱海に来てから毎日が雨天であったが今日ばかりは心地よく晴れて誠に気持がよい。病人には雨天は禁物だと云う事をシミゝゝ感じた。午前在京の弟からはがきと一八日の毎夕、報知の二枚を送って来た。何れも早稲田三十年祭記念祝典の盛大であった事が記されて居た。又以て自校の自慢と推案するの外無し呵々。今日は例に依って日曜(休重検査日)であるので浴後浴衣一枚で秤台をかかった。然る当地へ来てまだ二三日ならざるに十三貫二銭(出発前は十三貫目)となった。二銭目の増加は大ならざるも僕にはなんだか転地の効能かと思われて嬉しい。早く十五六貫の大男となって見たいものだ。徒然を慰むる為め鈴木屋別荘新築三階の間取図を取って見た。僕の目から見ると余り関心出来ない。何とかまだ良い設計もありそうなものと思った。……午後から散歩に出かけた。大湯前の湯前神社ではいつ行ってみても五六人の腕白小僧が神社の家内に入って太鼓を打つやら騒ぐやらしている。こうなると何だか神様も小供の為めに蹂躙されて威厳を損せはせまいか?少しも有難いと思ふ心は起らなくなるものだと感じた。今日も今宮様の御祭りを見ながら曽我浦まで出かけた。今宮神社は当町の西南海岸の近くあって何とか云う水車のあるそばの橋を渡ると大通、子供相手の商人が数人出て柿、蜜柑、かるめやき、菓子などを売って居た。小共は大勢手織木綿の晴着をきて、ワイゝゝ騒いで居る。少し行くと左側に丸太作りの二間三間位の舞台が出来て今二三人の若衆が敷物を敷いたり幕を張ったりして居た。舞台正面左手の花道(と云ふと大相だが実は幅三尺長サ二間位の花道で舟板の古か何かを並べたもの)には花札が五六枚張り出され金十円何々様、 二床何々様、金五円何々様と云うのがあった右側には人家から垣根の上へ跨いで不正三角形の屋根と何も無い見物席が出来て居た。然しまだ板を並べたままで小供が其の上ではねて居た。僕も馬鹿の標本となって暫く双方ながめていた。気がついて見ると此の粗末な舞台は舞台には三四個の電燈が引込んである。感心な物だ。何々ハイカラだわいと思った。これから少し行くと右手山の中腹に二本の幟がヒラヒラとして居る。然し神社はどこにあるか見えなかった。又見る気にもならなかった。兎に角「田舎の祭り」と云う表情がハッキリと僕の頭にしみ込んだ。これから更に南の方綱代通を行くと左手は見下す様な崖で遥かに熱海の町が点々として一円に見える。尚ほ二三町して熱海トンネル(観魚胴)に達する。ここを出る一人の爺さんが休み所を出して居る。これから先きが錦浦で奇岩老松行くに従って変じ、下は断崖幾十丈、青い水は激しく岩に砕け前方には大島、初島を望み中々景色の良い處だ。追々進んで行くと道は少し上り坂となり岩を切り開いて道路を作った處や石垣で積み上げた處がある少し行くと曽我浦に出る。ここに一軒の茶居あるので先ず一服やった。左の方入江の辺に人家の点々たるのは網代港だそうだ。此邊の婆さんに聞いて案内記にある不動の瀧と云うのを見るといやはや驚いた。谷の落水が一丈ばかり上から落ちて居るばかり。其の下に不動尊の像があるそうだが見る気になれない止めた。岩谷の観音と云うのはここのぢき下で舟なれば行けるが上からは危険で行かれないそうだ。聞けば此の観音の洞には眞水の池が海中にあるとの事だ。是れも行って見ればつまらぬ者だろう。前にはこんな立派な道はなかったのだが本年四月に初めて熱海網代間の新道ができたのでこの前までは山道で峠を越えて僅かに人が通れるに過ぎなかった相だ。文明と云うものは実に難有いとつくゞゝ思った。
 僕が茶居に休んで居ると熱海の方からテクゝゝと一人の歩兵二等卒が外套を巻いてかたにかけメリンスの風呂敷包を二つさげて(御土産だろう)やって来た。ハテ何処の兵隊さんだろうと思って見て居ると茶居の前にくると婆さんに対して不動の姿勢を取り挙手注目の敬礼をして何だか話して居た。婆さんは前垂で手を拭き乍ら「ハテどなた様で…?」と「何々の何々で…」「ハハーそうですか、誠に御見それ申しました。何日のお休みで?」「一週間の休暇を貰って来ました」「そうですかマー御かけなすって御休みなさい、マーほんとに暫らくで御戻りましたね…」「ハイ難有ふ又歸りにゆっくりと上ります…] 又丁寧に敬礼して出て行った。
 僕は思った。自分も兵隊の時には能く世間の人に向って挙手注目の敬礼をしたものだ。「如何なる人にも脱帽して敬礼をする必要はない。否軍人としての敬礼は挙手注目の外に無い」と考えて居た。又のみならず軍服を着けた時には今でも大抵脱帽の敬礼はしなかった。然し今日はツクゝゝ感じた。如何に軍服を着ても軍人以外の世間の人に向かって挙手注目の敬礼をするのは自分はさ程にも思わないが、傍目で見ると甚だ高慢ぶって見えて映る感心出来ない者だ。殊に今日のは一茶店の婆さんに対して恰も中隊長に敬礼する如くに堅くなってやったので益々滑稽に見えた。今から考えて見ると二週間計の前に粕壁で丸八へ休んだ兵20の中隊長某氏は歸る時に脱帽して家の者に礼をして行かれたが、此の方が殊に丁寧らしくて(少なくも一般人の目から見て)穏当で好いと感じた…… 
 此邊から引返して歸途に就いた。トンネルを出ると一五六の二人の少女がすそをからげて赤いメリンスの腰巻を蹴出して睦ましげに行くのに行き遭った。
 信次に宛て繪はがきにて返事を出す

   十月二十日  月曜    快晴  浪穏
 朝から馬鹿にキラゝゝして珍しい天気となった。午前六時四十分起床。歯を磨き乍ら庭に出た。今しもさし昇る旭が海面に輝いて眩しくて、まともに見ることも出来なかった。午前九時前に下り一番軽便で湯河原から御江戸の客が小供二人をつれて伺勢五六人でドヤゝゝとやって来た。そして僕の御隣の室に陣取った。小供は天性を発揮して急には取るやら走るやら泣くやらわめくやら一通りの騒ぎでない、イヤハヤ困った者だわいと思って居ると、幸に午後湯河原に歸って行った。又々別荘は僕一人となった。結局静養には此方が結構だ。午前九時頃に川島と桂子とから封書が来た。十一時頃に宅から小包が届いた。開けて見たら仙台の堀越君が祖母に送って来た葡萄かんを宅で食べずに殊更、僕に送って呉われたのであった。実に此の温情のこもった菓子は非常に僕の心を㐂ばしめた。早速二つ三つ御馳走になった。気のせいか甘かった。直ぐに宅(桂子宛)と川島へ宛てて封状の返事を出した。良平にもはがきを出した。
 午後四時頃国民新聞が届いた。実に今日は郵便や小包の来る日だった。こーして方々から手紙が来ると何となく嬉しくて心強い様な気になれる。午后二時頃から散歩に出かけた。今日は極く手近で汽船発着所まで行った。幸に一隻の汽船が来たので客や荷物の積下しを見て、それから引返して釣堀へ行き庭内を散歩した。写真で見ては大変良い處だと思って居たら、矢張つまらない池には鮒鯉が沢山居て真中に五六尺の噴水が吹て居た。植辺の向ふに家はあるが誰も何とも言わない。すぐに此処を出て家に歸った。
 今日も近宮様の御祭だそうで一日太鼓の音が聞えた。

 十月廿一日  火曜    半晴后曇
 体温を取ってから起きたら七時二十分になった。朝は非常にねむいので中々早く起きられない。今朝は洗面するとぢきに御飯を持て来られたので、せわしかった。午前中此處の家の間取図を三枚清書した。すきな道だから面白い。午後一時から出かけるて、小學校方面から陸東第一衛成病院熱海分院から院の前に出て山道を通って汽船発着所に出て、又今日も釣堀に入った。熱海に来る時、軽便の中で小田原から一緒に乗った二人づれのチャンゝゝ婦人が釣って居た。一匹も取れなかった。当り前さあんなのろまなチャン女につられるような魚は日本には一匹だって居やしない……それから海岸づたいに本町に出て大湯の方を通って家に帰った。丁度一廻りわけさ……熱海へ来てから常に感じる事がある。それはここの女と小共であるが…女は一般に言葉は先づ御江戸なまりで余りききぐるしくも無い(但しよそいきの言葉)がみなりと来たらドーモ成って居ない。殊に美人とまでは行かなくもいい女だなと思ふ様なのこは まだ不幸にして一度もブッツかった事がない。それから小供は殊に女の子共の学校へ通ふのや町を遊んで居るのを見るとまるで片田舎のがき供と同様で(片田舎には間違ないが)衣物の品質は勿論の事。からと云ヒきかせたと云ひ、髪の格好と云ひ面構と云ひどこといって一つでも取り處がない。殊に出来もまづいが皮も悪い。隋分東京から立派な人々が保養に来るから少しは見様見まねでモット見能く出来そうな者だ。但し顔の不出来は致方ない。これは宜しく熱海の夫婦達は尚一層勉強してモー少し甘くでっち上る工夫が必要である。次には何処へ行っても蜜柑の木のある事だ。これは気候の温暖なる為めであるが実に能く結果として居るのは驚く。又ソテツの大きいのがあるのも感心した。シレニアムは何処の家にも土間などへ植えて、よく青々にそして花が咲いて居る。要するに冬が大変暖かであるのが風に原因らしい。
 今日は母温のミチシ君から、かなばかりで書いたはがきが来た。いつも乍ら私の病気について同情してくれるのが何より嬉しい早速返事をかいて出した。家から送って呉れる国民新聞を見て。すぐに送って呉れる為めか昨日の新聞が今日の午后三時頃に見られる。御手紙も恐入るが父御の恩沢もありがたいとつくゞゝ感じた。今夜はすっかり曇って眞の暗黒で漁火も今夜に限って余り見えない。浪の音ばかりだんゝゝ高くなる。明日はキット雨だろう、困った者だ。

  十月二十二日  水曜    曇 雨 夜半晴
 朝から一面かき曇って誠に気持が悪い。午后になったら一時は大雨となったが夜は晴れて星が雲間からキラゝゝと見えた。昼の中は外出が出来ず終日室内にとぢこもって新聞や小説を読んで暮らした。当家では毎日男女の下ぺ一同で大掃除をして居るので今日は僕の前の硝子障子の掃除に取掛ったのでカタゝゝゝゝ枕元でされるので実に終日いやな気持がした。散歩には出られず家に居れば騒々しいし何となく誰れも一様に感じる「旅の徒然」といういやな感じを覚えたそれと同時に思ひは種々に馳せて何だか急に故郷が恋しくなった。イヤ故郷でなくも東京でもよい……アノ今鳴った軽便の気笛を聞くにつけすぐあれに乗って小田原から国社津を経て気車に乗って新橋に行きたい。そして弟や靖に會って色々話しをしたい。すきな品物を買って見たい。…ーと云ふ小供の様なつまらない心がムラゝゝと起った。…ー実につまらなく成ってしまった。クソッ湯へにでもはいって一つ元気をつけてやろうと飛び起きて湯に這入った。矢張りなをらないのみならず何だか頭が重くなって熱が出たようだったが、大した事も無くてすんだ。まだ例の神経衰弱がなをらないわいと殊に感じた。夕食後少し星が見え出したので、はがきを出しながら一寸散歩に出た。通りも暗くさみしいのでつまらないから三十分ばかりで歸って来た。いつになっても此の家は僕一人で何だか少しいやけが差して来た。早く御正月が来て早く雛の御節句がくればよい。否や早く夏が来て此度は伊香保か塩原に行って見たい。

 十月二十三日  木曜    曇
 午前中は当別荘第一号館(残ず吾輩の僉名せる所也)の間取図を製図した。午后からフラゝゝ出掛けた。実は西洋到煙草が吹て見たくなったので芦沢や若野屋やそれから鈴一商店など、ありそうな洋服店できいて見た。處が煙草は一つか二つあるが、かんじんな煙管が無い。拠無く止めた。
 それから海岸へ出て漁師が魚を釣るのを見て、あちこち町の内を小一時間ぶらついて居た。何だかつまらないので御用邸の裏道を通って田浦に出てだんゝゝ上の方へ行く気もなく行って見ると道は益々上り坂となり遂に丸山の麓へ出たので日頃から行って見たいと思って居る矢先であるからこれ幸ひと此山へ登った。上るは八畳二間位な家が一件立って居るが人一人居ない。イヤモー呼吸の切迫する事夥しい。誠に時計を出して見ると計って見ると一分間百四十打った。暫時に朽ちはてた腰掛に腰を下ろして休みながら前方を見るとすぐ前に松の大きいのが二三本あって(然かも大事な處にあって)視界を遮って居るには少なからず閉口した。これさいなければ熱海の町はは勿論の事、海岸一帯から初島は手に取る様に見えるものを……なぜ、こんな木を切らずに置くのか知ら……と思った。イヤ不平でたまらなかった。それから歸りがけに(二度と来るあてもないから)一軒家をのぞいて見ると中々凝った普請だ。柱は皆丸太杉(皮付)で濡縁は径一寸位の丸太たを並べたもの、屋根は草葦で、それでも障子だけは硝子のはいった紙障子が立ってある。その東側に一間ばかりの高さの瀧が落ちて居る。こんな□山の頂上 注(艸太田)に瀧のあるには驚入った。あちこち土をまくって道を造り此処の御客を待って居るらしい。丸山はつまらなかった……
 それから、ここを降りて梅園に行った。僕全体熱海各所なるものを訪ねて来たが、常に錦浦の物は、これぞと云って感心した處は一つもなかった。皆行って見ればつまらない處ばかりだった。處が今日は驚いた。実に梅園は熱海第一の名所であるとつくゞゝ思った。第一面積が中々廣く土地の起状に富み中央に岩を噛む急流があって、或は瀧となり、或は瀞となり、曲折千変万化、之れ架するに木橋、泥橋あり庭一面に梅の古木繁り遍々には流れに望んで紅葉が今や色づいて見える。其の間に二三軒の休茶屋があって何れも客待ちの準備に忙しい様子…梅の木は何れも古木で余り大きいのは無いが皆こけが一ぱいについて居る。まだ葉が落ちきった位の時だから花処か蕾もふくらまない。何れ時が来て此の花が一パイに咲いた時にはさず見物だろうと思ひやられる。処が此の見事な梅園の中に今度熱海迂回線が出来る事付ての鉄道敷地の中枕が何本も打ってある事は少からず驚いた。聞けば追々敷地買い取りも進捗して居るそうだが若し此の園の中央を鉄道が通る様になると丁度二つ分割されてしまうので、それこそ貴ぶべき閑静をやぶるは勿論誠に没趣味なものと成りはせぬかとそぞろに思れた。
 あヽ実に梅園は僕の気に入った、又時々ここに技を引く事にして、今日は先ず歸る事にした。それから来宮神社の前から停車場へ行く新道を通って見ると、此の辺一帯非常に見晴しの能い處で至る処新築別荘で満たされて居る。それら別荘の内には建築法や家の格好が殊に僕の気に入ったものがいくつもあった。こんな處にこんな建築の別荘を持って毎冬転地に養生したらドンナン愉快だろうと人の事ながら思ひやられる。午后四時半歸る。今日の散歩は降らず照らずの御天気で誠に面白かった。歸って見たら隣りに五六人連れのすれっからしの御客が来て居た。
 父から封書が届いた。例の一力才生命保険へ私の保険料半ヶ年分金四十四円二銭振込の通知だった。良平からも見舞いの手紙が来た。
 夜は隣から義太夫があった。さっき来た客達はすぐ前の大倉別荘の連中だそうで、夜になってから花房のおやぢと家内とが来て夕食後先づ花房舞の三味線で大倉の客が太十一曲を謡った。イヤすっかりあてられてしまった。それでも師匠は「どうも此前聞えた時とは大変な御上達で全く驚きましたよ。節と云い、すじと云ひすっかり本物です」と皆んなで御だてるのを御本人本気にして喜んで居るから御目出度い物だ。一段ドウカコウカ済むと此處は花房師匠が謡った。此奴も師匠とは名ばかりで素人に毛のはいた位な者ドーマ声をはり揚げて兎に角、会甫一段仕上た時に午後九時五分過ぎだった。徒然な折とて三味線の音だけでも大に心を慰めた。すぐ床を伸べて貰って寝る。

   十月二十四日  金曜   晴
 よく晴れたけれど浪高し。隣の御客は舟を仕立て錦浦出掛る計画で女中に命じた。船頭四人は一隻金弐円五十銭の内(時間に限無し)處が浪が少し高いのでとてもお嬢さんには乗れまいと云ふので忽ち撤回となり中止となった。それから皆連れ立って散歩に出掛けた様子だが、午后一時僕が出る迄に未だ歸らなかった。
 花崎から先日の手紙に対する懇なる返事が届いた。いつもながら父上様の親身の及ばぬ御親切には涙がこぼれる様だ。信次からも赤羽からはがきが来た。昨日父(百間の)から来た書面の返事に旁近況を通知すべく封状を出した。又信次に宛て買物の依頼の手紙を出した。
 午后一時から伊豆山温泉場へ行った。片道十八丁と聞えたから一度の積りでテクゝゝ歩き出すとぢきに伊豆山に着いてしまったのには驚いた。陸軍病院の先きは幾らならずして伊豆山なのだ。尤も伊豆山も熱海町の行政区域なのだから……先づ七百何十段とかある石段を五丁登て伊豆山神社に御詣した。イヤハヤくたびれた事は甚しい。石段を登るのが僕は何よりもつらい。第一胸騒ぎがしてドンゝゝゝゝ動脈がはげしくなって居ても立っても居られなくなる然し途中まで登ったものだから一思いにヤットの事で頂上(神社のある所)まで行った。これも骨折損のくたびれもうけで実につまらなかった。社の庭を一まわりして見たが唯拝殿の右手前に池があって水が満ちて居た。早速引返して降った。処が今度は登る時より尚わるい。或程いきは切れないが石段がすべってころげそうであぶなくて仕方がない。
 やっとの事で往来へ出て線路を踏切で尚下へ三丁降り海岸へ出て温泉宿の前を通って見た。僕の想像とは大分違って居て実に伊豆山と云う処はつまらない處だ。能くこんな處に健ちゃんは二週間も辛抱したなとつくゞゝ感じたよ。私では三日も居られない。熱海の十分の一もありはしないもの。第一往来から海岸へ出るまでの道の(石段)危険なことといったらとても御嬢さんたちには通れない様だ。急激な傾斜の處へ自然石を並べた石階と来て居るから実にあぶない。温泉宿は此の海岸通り前に並んで四五軒あるばかりだ。
 然し折角来た者だから能く見て行かうと思って先づ右の方が探検に取掛ると「海門橋」と云う小さな橋がある。それを渡るとハヤ崖に行き止りで家などは一軒もない今度は右の方へ進むと道とは云うものの実は丸石を積み上げてせめんをぬった言はヾ宿屋の軒の下を通るので巾も五六尺しかない。一町ばかり行くと「さがみや」につきあたる。これで御終らしい。何とつまらない處ではナイカと来たのがくやしい位だった。兎に角、さがみやに行って茶代でも奮発して何が食い度く無い料理の二三品も取ってご飯をたべて御湯に入って緩くり遊んで歸ろうと云う計画で玄関に向って居った。
 處が番頭か主人か知らないが女中と二人で上りはなに立って居ながら僕の面をじロゝゝ見て居て「いらっしゃい」とも言わない。何だか少しばつが悪くなった。そこでコッチもすまし込んで上がれとも言わない家へ、ツカゝゝと上って行った。無言で上りは上ったがドッチへ行ってよいか分からない、少しチュウチョすると其の男が「御湯ですか?」と聞く「然り」と答へたり「この廊下を真ぐに入らっしゃい」と言ったので其の儘「千人風呂」入ってしまった。ハテサテこれでは失費はないが少しあてがはづれた。疲れた處だから兎に角見晴らしのよ坐敷に通って御産一つ召し上ってから一風呂御召しになると云ふ考えであったがすっかり違ってしまった。然し僕の方から「コレゝゝにして呉れと」と云う事は第一来た時に最前の取扱を受けた以上「死んでもこんな家で銭を費ってやる者か」‼と云う気になる。其の気だから緩くりと千人風呂につかったり湯瀧に肩を打たせたりした。減に此の風呂場を見ると浴室の大サが三間半に十一間の建物。これで浴槽の大サ三間に六間あった。深さ僕の乳の高さ位で周囲も底もたヽいてあった。それに湯滝が三本二間位の高さから落ちて居て之にかかる人は階段を降りて六尺ばかり下に行って、から様に出来て居る。約二三十分這入ってから出た。それから二階の方を見て玉突場を聞えて行って見たら戸が閉めてあって見えなかった。一般に建物の粗末できたない事と言ったら甚だしい。鈴木屋別荘綺麗な家に居た目から見ては実に成って居ない。丸で熱海の海岸通りの小さな温泉宿に行った様だ。先づ湯にもはいるし、これで別□見る者もないので歸りかけた。そこで此までだまって歸ってやろうと思ったが、玄関に男が居たから(以前の男)いくらかと聞えたら五銭ですと答へたから五銭置いてサッサと歸って行った。「有難う御座います」とも何とも言はなかった。湯銭の五銭は決して安くはないと思った。然し面白かった。一円や二円は使ふ積りで来た者が僅か五銭で大威張で千人風呂を一人占めにして御歸りとはアー安い者だ。と思い返した。==そこで僕は商人の御世辞なる者の非常に必要である事をツクゝゝ感じた。若し僕が玄関へ這入った時「イラッシャイまし サヽどうぞ御上り下さい。御花や十番へ御案内………とか何とか言って御茶よ御菓子よと丁重にもてなされると元来湯だけで済まそうと思って来た人でも(何も食わないにむせよ)いくらか茶代を置て歸るであろう。まさか五銭では歸れないから……處が客が来てもウンダトモスッタとも言われないと「糞っ馬鹿ゝゝしい。人を何と見て居やがる。此れは御客様だぞ」と云う考えになり料理を取って茶代でも奮発してやろうと思った人でも「ナーに馬鹿らしい」と云うので尚更こんな處では一枚も余計に費はぬ様になるのは敢て僕ばかりでない世間の人誰でも同感であろうと思う。――実に商人殊に宿屋の様な客商売の家ではこの掛引きが最も大切なことであろうと考へられる。
 さがみやを出てから往来へ出て、とある茶店で腰をかけ店先にある柿を三つ四つ食って此の家の御上さんと暫らく色々の話しをした。さがみやと違ってこの御上さんは中々如才ない。
 軽便には間があるので、又歩いて歸った。歸りは軽便の線路を通って来たら尚更近かった。熱海に着いてから(午后三時半)未だ早いので町内を散歩した。いつ見ても熱海の温泉旅館で建物もよく坐敷の見晴のよいと思ふのは玉久別荘、露木、玉屋別荘などだ。玉屋別荘は最も海岸に近く余り上等の家では無いが二階はたしかに見晴らしがよいと思った。建物も余り古くない。玉久別荘は大湯の前で新築三階で立派な者だ。露木は勿論一二を争う旅館だけ建物も珍しく三階の大な者だ。此の頃でも露木には中々客が居るそうだ。
 今夜は東隣り一七番に一人客が宿った。大倉組の一人だ。伊豆山の湯は非常に冷えると言ふが実際だ。風呂から出て三十分ばかり立つとゾクゝゝと身体中が冷えて来た。そして夜分になってから何だか肛門が少し痛み出したので見ると伊豆山の湯は痔の気のある人には頗る有害だと悟った。


  当時の冊子
当時の冊子です。この冊子は私が痔の手術でお世話になった先生にあげてしまいました。また、この日記の転記作業のほとんどはこの時の入院時に行いました。

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熱海療養日記(2)

2013-10-15 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

轉地日誌  No.1    熱海日記(2)

   十月二十五日  土曜    晴
 今日から又暫らく「ピラドミン」の服用を中止した。十日ばかり持続した為めか少し皮膚に発疹した様だ。終日何処となく気持ちが悪かった。午后散歩に出たが非常に足がだるくて歩くのがいやになった。トンネル迄行かうと思ったが止めて和田磯で地引を引いて居るのを見て居たが一個僅かにカマス一六尾に過ぎなかった。漁師見物人を顧みて曰く「コレダカラ漁師は止められないね!」と皮肉った。取れる時には随分取れるのだが此の頃は一体に不漁だそうだ。
 熱海も廣い様で狭いので僕が一週間か十日位の間に大抵は見て終ったのでモー行く処が無くなってしまった。これからは又一つ處を幾度もくり返すより外は無い。
 夜食後日誌をつけながら海上を見ると空より星がキラゝゝと光り海面には漁師の漁火が無数にきらめいて居る。微風徐に吹き浪の音殊に高し。今夜は非常に寒さを覚える。早く寒くなって客がふいればよい。

   十月二十六日  日曜    快晴  暖かし
 朝の内はドンヨリとして居たが九時頃から非常によく晴れ昨日と異って、なかゝゝ暖かく実に小春日和だ。午前中乾潮(ヒケシオ)の海を見るべく海岸に出た。それから今井写真館へ行って手札を取った。初見はイヤに写真屋が色々私の首や衣物をつくろうから「コレデ面白くない、却て自然の方がよい」と云って彼れの干渉を受けずに出来たなりの姿勢で新聞を見て居る処を写した。ピオピーで三枚一組五十銭だった。塩瀬で蒸菓子二十銭を求め歸ってから茶を入れて食べた。今夜から熱海娯楽部で(銀行の二階)結域孫三郎とか云う人形芝居がかかるそうだ。行って見ようかしら。
 庭を通ると「お早う御座います」と云って此の家の主人がよく挨拶するが、主人と云うのは名を鈴木良三郎と云い年は今年三十三とか(召使婢御竹どんの話)丈けは先つ大きい方で小肥りに肥って顔は少し赤味を帯びたきれいな角ばった形ち眼はパッチリとして怜悧の相あり髪はいつも短かく刈って居り衣物をダラリと着て、柔らかい羽織を引かけて麻裏草履をはいて、大工や植木だの指図をして居る。細君も女としては少ない位背が高くすらりとした、やせすぎな人だ。顔も細面てで年は聞い見ないが三十近いだろう。御竹さんの曰く当家の御主人夫婦はつれそうて十三年にもなるが未だ一人も子共が出来ない。色々な事をして見たり病院へも行って子宮の手術もしたが矢張出来ないと云う話だった。そうとするとやはり彼の樌田友作の言い草では無いが「金が敵か知らない為か……云々」で誰でも相当な人は皆内腹掻把位する者と見えると同情に堪えなかった。今日は日曜なので例の通り午前十時単衣一枚となって体重を計ったが別状増加もしなかった。矢張り十三貫二百五六十匁位だ。此の三四日植木屋が七人這入って手入れをして居る。此辺の松は凡て雄松なので木振りなぞは成って居ない。唯真すぐに一本立ちになって、それから四方に短かい枝が出て居るばかりだ。それは植木屋が手入をするのも、家の方の様に丸太をなげかけて、それに梯子をたててのるので無く、直ちに木に登って枝に足をかけて手を伸ばせば皆届くので至極い間便な者だ。そして手入れの方法を見て居ると先ず親方が木に登って鋸で枝をすかし更に鋏で枝を切り其のあとで弟子共が指で手入れする順序だ。處で此の親方が暫らくやって居ると降りて来て坐敷の方から見ながら煙草を一プク付ける。それから又登って仕事を始めるので、丁度植木屋の善公がよくやるのを見受けるが、何処の植木屋も同じ者だと思った。此家では茶道具に名産の木製の茶たくや土瓶敷を用ひるが全体木だから軽い處に持って来て水がこぼれると茶碗や土瓶の下に付いて共に中途まであがりパタンと下に落ちる。それが一度や二度で無く毎日度々だから実にやり切れない。こればかりは使ふ者で無いと思った。今日隣へ(一五号)へ御客が来た。二人の男連れらしい。一七号には大倉道に来た一人でまだ宿って居る。無口な静な男で何とも言わない。能く手紙を書いて居る男だ。少し嘆息ようだ。時々喚気館に行って吸気をしてくるらしい。夕方になって又二組の客が来て大分賑かになった。今日二枚折りの屏風を僕の室の入口に持って来た。下手な白菊が書いてある。それでも表装はヘリ金だぜ。夕食後七時半頃から結城弥三郎一座の糸あやつり人形を見るべく熱海娯楽部へ行く。隣の客は一人で疾くに出掛けた様子。僕が行った時には場内は殆ど満員で丁度一段目塩原多助の三場目祝言の場から見た。木戸二十五銭は余り安くないが、それでも熱海軍人分舎で忠魂碑の外面を造る為めの寄付興行とも言ふべき者であると聞いて見れば我儘も出来る。客は今浴客の少ない季節であるから大部分は土地の者が多くは婦人子供であった。右記番組に見る通り補召として例の熱海の義太夫師匠、花傯太夫が山の神の才糸に三味を引かせて見呂、上下形の如クチョボに厳然と和へて二幕ばかり語ったがイヤモー高□に出てはカラキシ駄目で声が少しも通らず語ってる御当人より見物の方が冷汗が流れる様だ。あれでも此間鈴木屋別荘へ来てデカイ事言って居ると思ひば、おかしくて御臍がお茶をわかしそうだワイ。又□体のチョボ富竹登太夫というのは花傯とは反射で殊に声を能く通しチョボとして却て声の抑揚がある處なぞは素人だましは至極結構であるが、吾輩が聞いて居ると時々義太夫を脱線して歌を歌っている様に聞えた。これも余り感心出来ない。それから大切な役者だがドーモ、コワイロが小さくて能く聞き取れない。否寧ろカメの中へ首をつっ込んで物を言って居る様だ。尤も糸をあやつる絡めては着手仕方にに気を取られるのは当り前だろう。要するに人形の使い方は中々上手にやった様だった。僕には「甘い」と云うよりも「面白かった」十一時五分はねる。番頭の繁さんが提灯をつけて御迎に来て居た。当日から向ふ三日間あるのだが初日の番組左の通り

 △一番目                                                        役 割
 塩原多助                                文家多左エ門、塩原多助                  孫三郎
            塩原松 坐敷の場              、妙角実ハ又旅●角
沼田通小松原の場    客 再次、道連小平、五八              小舟遊
 返し庚申塚の場              、角九エ衛門
塩原税言の場       後妻、おかめ、原再三郎、玄菴       結治
返し馬小屋前の場           娘お栄、円次郎                                孫若
横堀山中草菴の場              惣右衛門、仁助                                結三
仝山中山内丹三郎殺し       お六                                                 糸城造
        塩原御長家の場
         四目条屋より桜馬場

△中幕
 本朝二十四孝
    御 殿 場                         八重垣嬢         孫三郎 
                                                        譲 信          小船遊 
  松の庭狐火の場                         六 郎          結治
                                                        勝 頼          孫若
                                                        ぬれぎぬ         結三
                                                        小文治          糸城造
△大切
 恋火鹿子
    八百屋の場                       御 七               孫三郎 
                                                        お 杉             孫若 
    火の見の場                         久兵衛             小舟遊
                                                        武 平             結治
                                                        吉三郎               結三

                                          長唄 はやし  連中
富□國登太夫                     補助       富竹花傯太夫
鶴澤 勇六                                       鶴 澤 方 泉

 それでも僕の前に居た二人の婦人は塩原氏長家の場で多助に同情してか盛んにハンケチを目にあてて、シクシクやって居た。寧ろ気の毒な位だ。コレダから活動を見て泣く人があるのも無理の無い筈 阿阿。

   十月二十七日  月曜    曇風  寒し
 今日は朝から曇天で風が少し吹いて馬鹿に陽気が寒かった。午后一寸大湯まで行って見たが出て居なかった。こっちへ来てから毎日の様に大湯の前に行くが未だ来たてに一度見た切で其后運悪く一度も湯の出て居る時に出会った事が無い。通りを一まわりぶらついてから、すぐに歸って来た。
 午后四時過ぎ国民新聞と一緒に桂子からの手紙が来た。父上様が数日来食欲不進の也、薬を送って貰いたいと云うことであるから、すぐにタシコン酸オレキシン0六、重曹二、0乳糖一,0 分三包服用を六日分一八包こしらえて小包で出した。それにこまごまと手紙を書いて小包をこしらいて出かけたら丁度午后七時になった。すぐ郵便局に行って差し出した。
 こんなに急いで一時も早く小包の届く様にと思ひばこそ夜分出かけて行ったので局員に小包発送は何時ですかと聞えたら明日の午后五時発と云ふ事であった。イヤイヤこれでは明日出しても同じ事だった。知らぬと云ふものは皆こんなもの………
 歸りがけに下駄屋で麻裏草履を一足買って来た。熱海と云ふ處は道が石がゴロゴロして坂道で下駄のいたむ事甚だしい。買って来たばかりの駒下駄を大無しにしてしまった。然しまだ今のうちなら他町行きにはけるからいよいよ草履を買って散歩のときには之をはくことにした。第一歩きよいから……今夜もあやつり人形にさそわれたが昨晩見たので沢山だから止めた。隣りの客は先日の大倉連中が今日又やって来たので、共に今夜もあやつり見物に出掛けた。よく度々行く人だと思った。夕食の時に御歌さんが私にまだ あやつり人形はドンナ物か一度も見たことがありません。と云ふから、そんなら御客様が出て行って用が片付いたら行って見て来たらよかろうと云ったら、トテモだめよ!と云ってあきらめて居るらしかった。矢張雇人はつらい者だと思った。そこへ行くと田舎の女たち(奉公人)の方が余程楽だ。某居などがあれば夜はキット行かれるに相違無い。家では木戸銭まで呉れて皆なを見にやったでは無いか。昨夜遅かったから今夜は一つ早寝としましやうワイ………
 午后九時頃から雨がポツポツ降り出して来た。今夜は行かなくて善い事をしたと思った。

   十月二十八日  火曜    曇  微風  浪高し
 天気予報には晴とあるが朝からドンヨリと曇って今日も中々寒い。
朝、伊坂姉上様から見舞の御手紙と信次からの煙草を贈った事、清からカステラを御父上の代で送って呉れた手紙が来た。一時間ばかり立つと(午前九時頃)小包が二つ一緒に来た。嗚呼今日は何たる吉日ぞや。私にはこーして居ると手紙や小包の来るのが何より楽しみだ。花崎からは風月のカステラ大釜一箱(小包料二十銭)送って呉れた。いつに代らぬ御親切には誠に感涙にむせぶの外は無い。伊坂の姉上さまも私の為に神仏に祈願をこめられ御礼まで貰って之れだ由、実に他人に出来る事でない誠に感謝の外無し。すぐに返事を書いて花崎と伊坂へ御礼の手紙を出した。信次と清にも同封して出した。
 今日は待ちに待った西洋到煙草とパイプと煙草入とが小包として信次から届いた。見計らって安い者と注文なので清と二人で行って買って呉れたそうだが中々気に入った物だった。煙草は「リッチモンド ミキステューア」(The Richimond Smoking Mixture 1/4 /b Price Y.100)でパイプは四十五銭 煙草入は和製のゴム製で七十五銭計壱円十銭内十銭割八金二円で出来たそうだ。(神田小川町川手商店)サアこれで仕度は出来た。
 今日午后から手紙を出しながら昨夜買った麻裏草履をはいてハイカラパイプを口にして御散歩に出かけませうと楽しんで居ると、午后から折悪しくも今日に限って雨が降り出した。何のことだい。うらめしさに天なる□ゝゝと恨んで見ても追付か無い。その内止んだら出掛けよう。
 午前二階で大倉達の一人十八九のハイカラさんが薩摩びわを初めた。上手だが下手だか知れないが色香たっぷりな細い声を出した。盛にパランパランをやって居た。御竹さんが「御二階へ行って聞いていらっしゃい」と言ってくれたが、何本も手紙を書くので中々それ処の騒ぎでは無い。又ノコゝゝとそばへ行てあんな奴原に頭を下げて下手なびわを聞くのも男が降ると思ったから止めた。
 四五日以前から身体中へポツポツ汗草の如き発疹がして痒くて仕方が無い。湯に入れば塩気がしみて痛む。実に閉口した。多分ピラミドン連服の為だろうと思ふ。此薬を服むと熱は大に障るが副作用があるので困る。二三日前から暫らく服用を中止した。
 順天堂で手術時もそうだが、特に近頃は頭髪が非常に抜ける様にいやな気持だ。どんな原因だか花崎の父上様に手紙で伺ってみた。まさか病気の為めに抜けるのではあるまいが兎角肺患者に頭髪がダンダン薄くなると云ふ事だから僕もそれとすれば心細い。
 夕方になったら二階で又もやびわをどなりだした。僕にはあの声を聞くと何だか身を切られる様なイヤな気持ちがする。今日階段の処で一寸御面相を見たら驚いた。丈けばかり大きくてさっぱり感心しない……新しい女か?それとも古い賎しい女か?能くも臆面も無く男ばかりの中であゝもどなれる者だと思った。
 夕食後、又々今夜もあやつり見物にみな出掛けた。一七号の客は初日から終わりまで丁度三日間かかさず毎晩行ったのは少なからず驚いた。尤も今日は最愛のワイフとベローが来た為であろう。僕だけは今夜も行かずに一人つくねん浪の音を聞いて茶をいれて今日送ってくれたカステラを御馳走になった。突然今夜も亦雨が降り出して来た。ナンテ間がいいんでしやう!

   十月二十九日  水曜    半晴
 「大湯がわいたそうですお出掛けになりませんか」と女中からの御中信により今日こそはと思って忽ち出掛けた。昨夜の雨も今朝名残無く晴れたので先ず草履のはきぞめをし
それから例のパイプの吸い初めと相成った。噏氣館へ行ったのが午前十時頃だ。直ぐ噏氣券(五銭)を買って 噏氣室に這入った。丁度今盛んに大湯の奮出して居る処なので、室の中は湯気で一ぱいで何物も辨ずる事が出来ぬ位、其の中にすかし見れば二人の人がはだぬきで吸入をして居る。僕も入口から二番目の穴に陣取りハンケチを首にかけ羽織をぬいで吸入した。丁度穴から二尺位隔てて居ても盛に湯気の出る時にあると、とてもはげしくて我慢が出来ぬ位だった。それに湯気が廣く顔に当るので目をあいて居る事は出来ない。イヤハヤ顔中しづくだらけで衣物までしっとりと濡れる位、十分間ばかりして出た。外の二人の男と女も出て来た。廊下には湯の出るのを見て居る人が大変居て我々を異様な眼で見て居た。

 歸り貸本屋から柳川春葉の「生さぬ中」上巻を借りて来た。歸ったのが午前十一時半頃午後は何処へも出無いで一生懸命「生きぬ中」を読み続けた。春葉の作物は何にせよ実に面白い。常に順天堂病院入院中読んだ「女一代」も中々好評がある通り確かに真価があると思った。これから「生かさぬ中」全四冊終わりまで読むのが楽しみだ。
 熱海倶楽部のあやつり人形は昨日で打止めだと思ったら尚も二日間日述べ興行なる由。いくまいと思ったが、退屈の余り夕食後六時行って見たら一寸今初まる處で今度は前の方で充分よく見る事が出来た。で此の前見た時は極く後の方なので細かい処は、とても分からなかったが、そばで見ると中々あやつりも馬鹿に出来ぬ者だと思った。よく見れば一つの人形に何十本の糸をつけ五寸四角位な糸まきの様な枠に結び付け之を左の手で持ち右の手で一本ゝゝあやつって身振から眉の上下、口の開閉等は勿論、義太夫に合せて愁嘆する処などは却て下手な芝居よりも 甘い位であった。然も之をあやつる人は時々よそ見なぞをしてやって居るが、それでも人形はチャンと身振をして、寸時もボンヤリとして居ることはないのだ。要するに劇とかオペラとかむづかしい側から観楽したら一丈の価値もないかも知れぬが、兎に角手を以って糸で人形をあやつって芝居をさせると云う事だけは中々相当の練習と手腕とを要するであろうと初見て感じた。今晩の番組は一番日佐倉浅民傳で印旛沼の小家の場。宗吾住家の場。東叡山直訴の場。佛光寺祈会の場。印旛沼長吉殺しの場等で、中幕が佛所桜三如月慶上使の場、弁慶上使の場、次が一番目の続き織田屋敷怪異の場。同返し宋吾神社禮祭場で大切かっぽれ傯踊り、と云う順席であった。入りは先ず六七分位だった。十時半番頭のよしどんに迎へられて歸る

   十月三十日   木曜    快晴
 今日は朝からよく晴れて点に一点の雲なく、実に日本晴れになった。ほかほかと暖かくて丁度四五月頃の様で何だか桜でも咲きはせぬかと思われる位だ。明日は天長節なので東京はじめ各地で寿祝の催しが大分盛大らしい。此家の主人と主人の母と天長節見物(?))の為め料理人と番頭と二人供につれて今朝一番で東京へ行ったそうだ。そして歸りに箱根へ廻って来月三日に歸宅そうだ。何れもこんな水商売の者はあんぷく銭を取る代りに一体がはでな者だ。そこへ行くと百姓などは二三十万の財産家でも中々おごった事はしないから驚くね。
 当別荘も又客が大部歸って残りは一七番のお楽しいご夫婦ばかりとなった。そのご夫婦も今日は御天気のせいか午前から伊豆山へ御立かけになって宿は吾輩タッタ一人居残りとなった。何だか天気はよし、つまらなくなっワイ。
 かねがね心掛けて居た湯ヶ原見物を急に重い立って出掛る気になり女中に昼食を急がして正十二時発の軽便に乗った。片道通行税共二十一銭。午后零時四十二分湯ヶ島着、これよりぶらぶら徒歩で行く積りであったが車屋が如アですゝゝとついて来て、弐十銭で行くと言ったが、しまいは十五銭で参りませうと云う。そこで兎に角三十丁の坂道を十五銭とは安いと思ったから乗る気になった。「御宿はどちらですか」と聞くから「ナここ宿るんではないから」と云ったら立場の様な処で降した。全体吾輩其度湯ヶ原を見くびって居た。伊豆山ゝゝと云っても行って見ればあんなつまら無い処だから湯ヶ原だって、こんな者だろうと思って行って見ると驚いた。宿屋の数も沢山あるし道もよし、景色もよし、見る処も中々あるし像想とは太した相違であった。特に停車場(海岸より二十位)から吉浜にかけても又湯ヶ原にかけても穏やかな傾斜で山と山との間から海岸に至る辺一面に水田で稲が穣々として黄金色をなして居る。そして何れも大層な出来で一反八斗位も取れると云う。それで稲を刈ればすぐに耕転して麦を蒔くのであるが、それが同じ二毛作とは云ヒ家の方の田と違って田一面に鋤き起した整地すると丸で畑地の如くで、とても水田とは見られぬ位乾燥して居る。普通反金売買四百円位だと車夫は云ったが、それでも山間の田としては安い者だ。それから少し山にかかって傾斜地になると至る処蜜柑畑でこれも中々太した者だ。斯くの如く農業の適地なばかりでなく一方には海に出れば漁業おする事が出来ると云ふ良い処、は何と羨ましい土地では無いかと僕はツクゞゝ湯ヶ原と云ふ処が羨望に堪えなった。温泉宿は前に記した通り停車場(小田原熱海街道ニアリ)から三十丁降れて後傾斜を以て上り水田の盡る処、山と山との間、川に沿ふて両側、配列している中西。富士屋。伊豆屋。その他大きな旅館が沢山ある。それで湯に這入るのは後日泊りがけて、中西へでも暖っくり来て這入る事にして、今日は名所を見ることにした。先ず地図を一枚買って、それによって弘法大師のそばの清瀧と云うのを見に行った。ここの川に沿ふて天野屋から二十丁ばかり行くとすぐ左の方に弘法大師堂(坊屋)があって向かって左手に崖から落ちて居るのが、即ち清瀧なのだ。高サに三間か四間はあろうかと思はれる。小さな瀧だがそこに一寸した休み茶屋なぞある。これから引返して滝の流れを渡り小徑を五丁ばかり行くとだんだん山はせまり流れは急になる、と小さな危なそうな土橋を渡ると、即ち不動の瀧ニ出る。此処にも休茶屋がある。二十七八位の丸まげの女が茶をくんで出す。瀧は高サ十間以上ありそうに見え細いが、然し中々よい。殊にそばに行くと霧がかかってひやりとする。丁度夕日がこの霧にさして虹を表して居る処は実に何とも言いえぬ趣きがあった。暫らく見とれて茶をのみながら、ながめて居た。瀧の下に小さな不動尊の石像があり、三四間もはなれて、さいせん箱が置いてある。茶屋の神さんが五六冊の本を持って来たから,見たらここへ来た人が発句や歌や□至は狂歌、出たらめ、ポンチ画等ありとあらゆる者が書いてある。この茶屋は頓狂菴と云って御汁粉を出すのだそうだが、なのだが客が少ないからこしらいぬと云ふ事だった。
 ここから山道を更に上に十丁も行くと今度は酔狂菴と云ってそばの名物があるそうだ。これは昨年からとか始めたので元からあった百姓が蕨狂や楠尊に来る都人士を当て込んで休憩所をこしらえたのだとの話し(頓狂菴の御上の話し)少し寒くなったので引返した。今度は公園を見る。此公園は丁度温泉宿のある場所の中央にあって天然に人工を加えて池や花壇を作り噴水は二間位高く盛に噴出して居る。花壇には日本種苗会社何々と云う小さな草花の名を書いた札が立って色々な者があった。主たるものにダーリア、百日草、筑波根草、コスモス、カンナ、ナスター、チュームなどで、もはや盛りを過ぎて汚い位であった。池の中に四方室(あづまや)があったが、これが中々よく出来て居た。然も新しかった。此時二時四十分になったので車に乗り停車場に行ったが、まだ時間があるので海岸へ出た。停車場の前に来るとここからは不相応な八間に九間の芝居小屋があった。今丁度芝居がかかって居る處であった。午后三時二十九分の軽便で四時十分位熱海着それで帰宅した。

   十月三十一日  金曜    快晴  暖
 天長節 祝日
 朝はよく晴れたが午后から大風となり少し曇った。今日の天長節で熱海町でも午后六時から提灯行列があった。
 午前桂子より手紙が来た。父上様が此間上京して栄太桜のあめを買って来て、それを私に小包で送ってくれたと云う報知であった。親の慈愛!今更乍ら何とも言えぬ暖か味を感じた。花崎からもはがきが来た。すぐに両方へ返事を出した。丁度此間写した写真が出来たので一枚づつ百間と花崎に送った。何だか大分やつれて写ったと自分乍ら思った。
 生さぬ中上巻を昨晩で読みうつたので、今日、中、下の二巻を借本屋から持って来た。
 今日送ってくれた国民新聞に依って百間の●●●次郎妻けさが、今度教育会で節婦として表彰されたと云うことを初めて知った。それ程の女かしら!今でも思い出すと「さよふでざんすよ!」が目につく様だ。 「生かさぬ中」上巻読み終る。

   十一月一日  土曜    晴后曇
 十月の月も昨日の天長節を名残に去って、今日は十一月を熱海に迎ふる事となった。隣の客は(夫婦と子供一人)今朝八時の軽便で帰って仕まったので、又別荘は吾輩一人となった。閑静もよいが何だか一人と云う者もいやな気持の者だ。そうかと云って別に居たとも話をするで無し、洗面所で行き違いに「御早う」と云う位に過ぎないのだが……
 午前中は一生縣命「生かさぬ中」中巻を読み始めてとうとう一冊よんでしまった。実に渥美俊策と妻真佐子は可哀想だ。殊に真佐子が生かさぬ中の滋を愛する情と云ったら何とも云えぬ程哀れで、それと同時に産みっぱなしで鳥の如く子をすてて出奔せる滋の実母珠枝に至っては其の無情な程酷ふこと、なぐってやりたい位だ。真佐子の継母御夏も生かさぬ中の真佐子に対する情愛の寧ろ実子たる志津子(子□夫人)に対するも濃かである処には自分の身に引較べて実に涙の出る程、お夏や真佐子がけだかい人に見える(真佐子の滋に対するを意味する)嗚呼世の中にもこんな継母があるかしら?と不信でたまら無い。彫刻家の日下部正誠がのんきな男に似合わず真実一生懸命に渥美一家の為めに尽力し見ては自殺せん。そして路上に倒れたる真佐子を引取って(谷中で九段本間の一人暮しの日乍朗が)懇ろに世話をしてやる處などは実に親友のなさけが目に見える様だ。之に反し編中悪くい奴等は珠枝を始め兄の巻地大造、その他真佐子の実父赤沢売輔である。嗚呼、彼等悪人の末終は如何になり行くか下巻後篇が楽しみだ。
 午前十時頃 □から小包が届いた。それは昨日桂子から 知らせがあった栄太桜のあめ一缶で非常に重い。其の外にいきな組識の紐が一本這入って居た。今日散歩の時に早速それをつけて出た。吾輩こちらに来てから実に親の情愛の厚きに今更乍ら感謝の限りに堪えない。□乍ら私は此小包を推し頂いて有難く頂戴した。 午後から散歩に出た。今日は行く處が無いので二度目の魚見崎見物に出かけた。それでトンネルを出て錦浦へ行くと浪の打ちする處に自然に出来た岩のトンネルがある。その上の方は黒ボク(磯ボク)とも云うのか、処々水の触った様な穴處のある岩で一つかと思われる様に切り立った崖をなし、其の間に二抱もあるかと思う様な松の木が枝ぶり面白く海面にのり出し、小さいのは沢山あって、しかもその松葉の色の緑と云ったら実に何とも言われぬ程よい色だ。さすがに錦浦と言ふ名称にはぢずと感じた。と見ればこの新道から曲りくねって下におりられる。小路のあるのを発見したので早速行って見たが浪ぎわまでは行く事は出来なかった。然しここに来ても例の先のトンネルがよく見える。……帰りに山を歩き百姓が蜜柑を採収して居るから十銭が蜜柑を買ってハンケチに包んで之を食べながら山を散歩し、丁度四時少し過ぎに帰宅した。
 熱海へ来てから体温は三七.〇位で、低い時は三六.八位になったので大に喜んで居たら昨日は突然三七.四になったので少なからず驚いた。然かも昨日は午后も安静にして本を見て居たのだ。今日は三七.二であった。又暫らく発熱するかも知れぬ。何だか今日は日誌を書くと頭が痛んで仕方がない、からこれで止める。

 十一月二日  日曜    晴后少雨
 今日は手紙も来ず返事も出す必要もなく殊に手持無沙汰なので午前中は矢張り生かさぬ中下巻を一冊読んでしまった。兎に角、毎日午前中は滅多に外出はせず大抵家に居て本を読む事にして、午后は二時間位□□運動する様に勉めて実行して居る。昨日からと云うもの当別荘も実に静かで聞かせるのは浪の音ばかりと云ってもよい位、却て田舎に居るよりも余程閑静だ。
 午後此の本を返し乍ら梅園を再び訪づれた。今度は道順を知って居るので来宮橋を渡って三島街道を行き二三町して曲角に大きな松の木の下に右三島道東梅園と記された石の處から左へ切れて丸石を庭石の様に並べた道を行く事数町そして梅園に至る。今日も唯一人園内を散歩して居る人の影だにない。丁度梅園新道を行くと園に入る前の一軒の茶坊の庭を通らねばならぬ様に出来て居るが内をのぞいて見ても人のけわいも無いので、勿論「御休みなすっていらっしゃい」という声も聞かれやうはづが無い。私には此方が却て良いと思った。入口の草葦の四方屋で一服つけてから徐ろに園内を散歩すれば、梅は□□られて堅く蕾を閉じていつ開くかと云うあても無いやうに見える。それは無論花が開いた方がよいかも知れぬが、私には却て此の開かうとしても開く事の出来ないと云う堅いゝゝ蕾の中が丁度可愛い少女の様に無邪気で神聖で何となく床しい思いがした。然し此の梅も一陽来復して或る時期がくればいやでも応でも独り手に蕾がふくらんでしまいにはパッと奇麗な花を開き世の人々は花よゝゝと持て囃されるのか?とおもうと……更に一歩進んで考えるとその奇麗なゝゝ花がさいて幾日か立つと次第ゝゝに風や雨にもまれて色は退せ逐には一片二片風のまにゝゝヒラゝゝと散ってしまうのか?云うなれば前には「アヽ奇麗な花だ!」とほめそやした幾千万の人々もパッタリ来なくなって誰一人散った跡の梅を訪れる者は無い……と云うまで考えて来ると何だか急に哀れな感じを催して来た。思えば丁度若い女も同じ事。娘盛りは蝶よ花よと世間の男からヤンヤと持て囃やされるが一紀にして三十路を数ふると見れば最早世の人は散りきった梅同様見向きもせぬ。たまゝゝかかる女を訪れる者ありせば梅の実を取らんとする欲張り位な者!!嗚呼似たる哉ゝゝ此の梅の木と若き女子よ………イヤハヤ愚もつかぬことをことを考えた者だな。何だかツマラナイ「そんな事は今更れいゝゝしく君が言わなくても当り前だよ」……誰タイ後の方で僕の悪口を云って居るのは、もう……」
 此の前来た時とは違って今日はあちこちにある紅葉が大変仕葉して居て、それが流れに写って実に奇れいだった。右の方松山の間にも点々として中々沢山の紅葉の木がある。紅葉の盛りも間近で、さぞ奇麗だろうと思った。昨日百姓の前で買った蜜柑の食残り三個をハンケチに包んで腰にぶらさげて出掛けたので幸ひここの腰かけにおいて渇いた喉を濡した。四時頃帰って見たが、とうゝゝ今日は国民新聞が来なかった。夕食後一天にわかに暗くなったと思ったらドンゝゝ雨が降り出して来た。八時頃には又やんだようだった。
 今日はクシャミをすると非常に胸に響いて痛みを覚えた。僕は「カステラ」に就て近頃知識を得た。これは須部て甞て順天堂入院中合室の患者野田幸次郎と云う人が「カステラと云う者は握って見て手を放すと自然に複の形に返るのでなければ良い品でない」と云うことを言って居たが、僕はそれに附け加えて更に「握って見て楽に潰れるのは良い品で(即ち多孔性)握った時にジクジクと云う様に質が緻密で水分を含んで居るのは劣等品(少なくも出来損ひの品)である」と言ったことを発見した。それが然も風月のカステラでも見る事が出来る。殊に一釜の内でも火のよく通った處は多孔性に出来て、火のよくまわらぬ處は水気のあるまづい者が出来るらしいと思った。それで食べて見てその後者の方は大変まづいのであるから、買う時は成るべく火の能く通って少し焦げる位に焼けた奴を買ふ事とするが上分別也と悟った。



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熱海療養日記(3)

2013-10-14 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

轉地日誌 No.1     熱海日記(3)

    十一月三日  月曜    快晴
 昨夜の雨も名残なく晴れて海面を射て来る旭日の光は客赥も無く室内にあふれて目も眩む様な御天気になった。今朝、朝食の膳の上に手紙が二本乗って来た。一通は此前の父上様で一通は丹過の三千三君で絵葉書は第七回父展鏑木清方筆「かろきつかれ」であった。それに「カンバスで見ると仲々いヽ女でございます。実はちとほれて買って来たのでございます」は振ってる。午前中、淑女画報を読む。
 二三日来大変寒むなったので実はシャツや胴着やら冬の腰巻やら冬仕度を沢山持って来て、荷厄介な飛んだことをしたと思って居た處であるから、早速今日は是等の冬物を取り出して一切日光にあててから午後着込むだ。毎日の散歩も最早行く處が無くなったので困った。今日は矢張あてども無くぶらゝゝ出かけた。先ず停車場に行って見ると丁度軽便が着いたので沢山の宿屋の出迎人が出て居たが、それらしい上等の御客も無く何れも番頭連手持無沙汰に「何だ馬鹿馬鹿しい」と云った様な面付きをしてぶらゝゝ話し乍ら帰って行った。其の跡は又依然として元の静寂に帰った。と見ると今しも着いた軽便の小さな機関車が客車を離れてポイントの停車止りにシュウゝゝ蒸気を吐いて居た。其のそばでは年頃十二三才位の油じみた汚ない洋服を着た小僧が金槌で一生懸命石炭の塊を打ち砕いて居る。乗て来た機関手は上着をぬいで鑵(かま)の湯を石油空缶のバケツに取って石炭の煤煙で煤けた手や顔を洗って居る。以前の小僧は漸く石炭を打ち砕くのが終わると其の小さな至極汚ない機関車に乗りハンドルを緩め蒸気を通ずると忽ちシューゝゝとナリ風石相応の音を立てて前進を始め五六間行って止ると先きの砕いた石炭をシャベルで機関車に投げ込んで居た。こんな小さな小僧が機関を運転させるのかと思えば何だか妙な感じがした。
 僕は鉄道とか蒸気機関とか云う者は子供の時から非常に好きだったので、今でも考え出すが母さんや御祖母さんの膝に抱っこして車で高鳥の天神様へ行く時の往き帰りには日鉄線の堤に上っていつも気車道をうれしげに眺め汽車の来るのを楽しみにしたことを覚えて居る。今でもまだこうゆうことに就ては趣味を持って居るので一心にホームの方を見て居ると、一人の車屋が「伊豆山へ御出ですか」と聞く。「イヤ」と答えると「御出になれば丁度私も帰りですから」と云う。人を馬鹿にしてやがると思って、気力が付いてテクゝゝ出掛た。医王寺の山門を這入って見たら小供をおぶった老人が「今日は」と詞をかけた。外から本堂の中を見ると何宗だか知れないがシュミ壇の飾付が家の方の寺と丸で違って居た。寺に似合ず庭の突当りに藁屋根の汚い四阿があった。その後から杉の間をくぐって向側に出ると道があったので何の気なしに其道を上へゝゝと登って行った。處が向ふから十三四の小僧が汚い着物を着て草履ばきで背には梯子に樽を結付けてせおひ、こっちへやって来たが通りすがりに其の小僧奴が「どこへ行くんダイ?」と僕に聞く。妙な奴があった者だと癪に障ったから「何處に行かうと己の勝手だ。貴様はそれを聞えて何うする?」とあべこべにやりつけてやった處が「しかられるぜ!!」と言ふ。「誰にしかられる?」「うちの御父さんにキットしかられるから」と言へながらジロジロ僕の顔を見乍ら下に降りて行った。行き乍らも時々ふり返っては「ドウスルカ」?と云う様な目付きで、こっちを見て居るので其の度び毎ヽにこっちもにらめ付けてやり、しまいには「馬鹿野郎」とどなりつけてやったら奴さん何とも言はずにスタゝゝ行って仕まった。変てこなこともあるものだと思って上の方を見ると一軒家があって蜜柑の木が沢山ある。ハテ蜜柑を取りに来たと僕の事を思ったのだろうと跡で感付いた。
 それから軽便の軌道を通って行くと例の松下園と云う木札の出て居る處を過ぎ、陸軍病院の門の處から右に切れて小徑を通り、汽船発着所へ出たら丁度汽船が着いた處であった。そこに四十ばかりの年頃の西洋婦人と其の子供らしい十二三才の少女が引上げた船につかまって海を眺めて居た。思い出せば桜ヶ岡に居る西洋人らしかった。
 帰ったのが三時半頃、御竹さんが「つまらない者ですが召上れ」と云って珍らしく 御八ツな住よしの寿しを一皿持って来て呉れた。茶を入れてたべて見たら、とても私の御口に合いませんかった。それでも今日は御竹さんが「何か御洗濯物はありませんか?」と言って呉れたから肌襦袢を一枚洗って貰った。夕食の時聞けばあすは家の若い神さんが江の島から東京へ遊びにいくそうですと云うことであった。未だ主人たちが東京へ行って帰って来ないのに、又神さんが出て行くので家は丸で一人無し御留守になるのだそうだ。のん気ん者だとつくづく感心した。
 この家の若い神さん(良三郎の嫁)は江の島の恵比寿屋から嫁に来た人だそうだ。この人の姉妹は女郎屋だの待合だの水商売の家に嫁いで居ると云う話であった。「そうで無けりゃ肌が合わないからね」って僕が言ってやった。試みに「熱海の中に鈴木屋の親類になってる宿屋は無いのか?」って聞えて見たら「ありますとも、露木と山田屋が両方とも古い親類です」と云った。聞いて見て良い事をしたと思った。
 帰らないと思った良人一行は終列車で帰って来た。

   十一月四日  火曜    快晴
 国民新聞掲載伊藤銀月の小説「女王國」(4)は……
「いいじゃねえかよお光さん、上って遊んでいかせえよ」とお新が引留めを「家が忙しいだから、そうしちゃ居られねえだよ」と振切って立上がると「どうも御邪魔を致しました。又御嬢様の御對手に伺いますから」と恭して頭をさげた。三崎の女は娘も婆も、土地の者と都の人とへの此応対の使方が皆鮮かな、且つ巧みに出来るのである。
==と云うことが書いてあったが、此熱海の土地でも男と女も御互い同士の話は聞いて居て分からぬ位ぞんざいであるが、さて御客さんに対して話す時になると丸で言葉が違ってしまって、其の使分けの巧妙な事は驚く位である。して見ると温泉場だとか、海水浴場とか多く都の人達の出入りする處人達は何處の土地でも自然に言葉の上下二通りが出来る者かと感じた。
 熱海の湯は丸で石鹸は不溶解なので使ふ事が出来ないが水道の水でも余程硬水の様に思われる。故にこっちへ来ては石鹸を使う時に泡が立たないで誠に気持が悪るいのには少なからず閉口した。
 今朝貸本屋から生かさぬ中後篇を届けて呉れたので午前中読んだ。
 昼飯後御湯に這入った。何だかだるくなって何處ゝゝ出るのも嫌になったが、それでも終日室内に閉加護って居ては身体の為に悪いと思ったから、午后二時頃から散歩に出た。然しどこと云ふて行く處も無いので足に委せて御用邸前から和田磯の方へ出かけた。糸川を渡って右に入るとそなる木挽工場があるので、こういう徒然の時には替った者なら何でもよいので早速其の工場を見に行った。動力は蒸気で曲がりくねた節だらけの松の木を四分板に割って居た。相変わらずアヽ恐しい丸い鋸が木に食込んでキーゝゝと云う命でも取られるかと思う様な嫌な音を立てて居るので暫くして此處を出た。水車の脇から海岸に出た。此辺は町はづれで皆百姓家ばかりであるが、それでも文明は恐ろしい者で、何處の家も焼けた汚い草葦の小さなに駿□電鉄の電燈線が引込んであるには驚いた。聞けば電気はランプよりも得用だと云う話であった。それにしても家の方はどうして電気が出来なかろう?と此辺の農家が羨ましくなった。水車のある川が海に注ぐ處に一人の四十位の女が妙な姿をして、二間ばかりの建竿で魚を釣って居た。見れば餌はめヽずで浮かしをつけて流れにひたして居るがイツになったら釣れる事やら。此人も少しキ印ではあるまいか?と思った。目付などは確かに、そうらしかった。
 今日は空は少しどんよりと薄絹をかけた様に曇ったが、海は油を流した様で誠に浪が穏かであったから、河原に降り立ってセロゝゝくる浪打際に、踏んで静かによせては返す水に見とれて居た。フト気がつくと、心は丸で故郷にうつり父上様は今頃は何をして御出だろう?田や畑はどんなになったろう?と色々とそれからそれへと空想に耽った。転地なのでと云うと、知らない人はさぞのんきで面白くて良いだろう!と想像するかも知れぬが、病の為めに一人なつかしき故郷を後にこころして知らぬ處に月日を暮らして居るのは決してはたで考える様な、そんな楽しい者では無い。身体さへ達者なら決して、こんな處に長く居たくは無いのは山々だが、病では仕方が無い。矢張此世界に、故里より良い處は誰れしも無いであろうとツクゝゝ考えた。
 帰りは「百合子」(菊池幽芳作)上巻一冊借りて来た。近頃はどうゆう者か、散歩に出ると非常にくたびれて来て足を運ぶのが嫌になり、遠方なぞへ出かけるのは真実御免と云う様になってしまった。どうゆう者かしら?。

   十一月五日  水曜    快晴 暖かし
 今日は終日嫌な気持の日であった。此四五日に熱が出初てから何だか又身体の具合が悪くなり、倦怠を覚え何事をするのも嫌になって散歩さへもする気がなくなった。追々病気が進むのではないかと思ふと自然と自分の影が薄々なる様な気持になる。殊に今日「百合子」を読んで見ると可憐なる二十一才の百合子は肺結核に冒されて然も両親の為め、金に買はれて結婚をすると云ふ悲惨な冒頭であるが此の先き如何なり行きや小説ながら人事とも思われぬ様な気がする。
 花崎の父上様から色々と心配されて福島先生に聞えてピラシドンに代るべき薬を態ヽ当方まで添へて言って来て下すった。夜になると桂子からも細々との書面が来た。今日は方々へ手紙やはがきを書いたので非常に疲労したので日誌も書くのが嫌でゝゝ仕方ないから之れでやめる。

   十一月六日  木曜    快晴 暖
 妙な者で手紙の来る日には方々から申合せた様に一度に三本も四本も来るが、又間を置いて来ない日には一本も来ない。思う様にならぬ者だ。
 鈴木屋では小供の無い為めか(確かなことだろう)非常に犬を可愛がって、別荘に五頭、本宅に二頭、合計七頭居るそうだ。番頭共は時に犬を温泉の湯で石鹸をつけて、身体中綺麗に洗ってやって居る。犬の奴も嬉しそうにして凝手として為すがままにして居る。然し行儀の悪い犬共で、庭の綺麗な芝生の上に遠慮意酌無く脱糞するので、それはゝゝ庭中何処へ行っても犬の糞だらけであるのは聊か閉口する。けれども宿の者は主人初め召使まで皆んな平気で居るから驚く。僕にはとても我慢が出来ぬと思った。家で皆が可愛がる為めか、犬共は決して門から外へは出ないで、いつも家にばかりへばり付いて居るから、尚更始末が悪い。
 近頃、頭が非常に馬鹿になって、物忘れをすること夥しいが、特につまらぬ字を忘れることはホトゝゝ閉口する。それ故、此頃気を付けて日誌や手紙を書く時にも成る可く勉めて本字を書く様にして居る。又句読点を付ける事も、勉めて実行して居る。然し此の日誌も、とても文章を練って書くなどと云う事は、てんで頭から出来ない。それ故何でもかまわず出鱈目を書綴ることをして居る。
 今日も相変わらず散歩に出るのが大変嫌であったが、思い切って出かけた。別旦 行く處とては無いので、和田の方から御用邸の方をフラついて、すぐに帰って来た。宿に来て見ると、僕の室の左右に御客が這入って居た。今迄暫らく別荘は一人占めであったが、今日から三組となった。
 毎日ゝゝ天気は能く快晴を持続して、ホカゝゝ小春日和であるが、それでも東京や田舎の方は降霜があると云うから驚く。此頃では熱海と家では大変時候が違ふだろうと思ふ。
 此處の家では少し御客が二組も来ると例の御竹がドヤゝゝバタゝゝ、モウ外の女中番頭も一緒になってドヤゝゝ大騒ぎをするのが、御きまりであって、其度毎に僕は非常に嫌な気持ちがする。全体旅館をして居る以上は、御客の来るのは当然であるから不意に一組や二組の御客が来たからと云って、其の度毎に火事でも初まったかと思う様な大騒をするのは、チト平常からの用意が足りない為かと考える。殊に今夜は夕方から大騒をして居る上句、十六番の電気が点かないので、御客は一人真暗の處につくねんとしていたが、気が着いたと見えて呼鈴のあるのも知らずにパタゝゝ手を鳴らしたが女中は一人も来ない。其の中に客が廊下で女を見付けて「電気が点かないぜ」と言ったので、又もや御竹が「繁さん」「吉さん」何さんゝゝと大声で呼び乍ら、家中を駆けずりまわって居た。イヤゝゝ嗜みのない女だと思った。之を見ても、何處の家でも坐敷はチャンと片付けて置いて、何時来客があっても差支無い様にして置きたい者だ。御客が来てから家中でドヤゝゝ騒ぐのは、外目にも平生の様子が覗かれて、主人主婦の心機が客に読まれる様な思いがする者だ。とツクゝゝ日頃の様子を見るに付け思い起こされた。それは一体、此處の家では金を使ふ度々来る御客は非常にチヤホヤ大事にするが、初めて来た客は取扱いが頗る粗末な様に思われる。現に今日電気の点かない室に来た客も新来らしかったが、隣で様子を見ると、余り取扱がよくない様に思われた。何處もそうした者であろう。世の中は凡そ現金な者だ。
 今夜は久振で三味線の音を聞えた。二階に宿った客が芸者を上げて騒いで居る。芸者は確か二人で何れも年増らしい声がした。今迄毎日一人で淋しく暮らしていたが、今日は急に客が増えて、芸者まで来たので、何となく家の中の空気が騒がしい様な心持がした。十七番では今(九時)按摩を頼んでもんで貰って居る。イヤハヤ世の中は様々な者だ。

   十一月七日  金曜    雨  浪高し
 何時頃から降り出したか、朝目をさまして見ると、大変雨が降って居た。殊に風まで吹き出したので、浪は高くゴーゝゝと云う音が物凄い様に聞こえた。今迄随分長く天気が続いたので、又暫らくしけるだろう。机に寄って、見渡す處、海上には漁船は一隻も出て居ないが、それでも例のいつもあるトマを切った漁船は二三隻知らぬ顔に碇を下ろして居た。昼飯を済ますと雨は一寸止むで、初島が浮き出した様に見え出した。然し大島は少しも見えなかった。
 今日は終日、何處へも出ずに宿に居て、本を見た。身体の悪い處へ持って来て、此の陰鬱な天気にはツクゞゝ嫌になった。旅行案内をみて、国から熱海まで来る気になって電車の時間表を造った。
 温泉と云えば何處でも風呂はドウゝゝとかけ流しで、常に適当な温度の湯が一杯に満ち満ちて居る者の様に思って居たら、熱海は丸で反對で湧き出したばかりの湯は熱湯であるから、之を適当な温度まで冷却してから這入る様に成って居る。それが為め、一見した處は、丁度並の風呂の様で(殊に湯が無色透明の為め)一向温泉らしく無い気持ちがする。それは良いとしても、一人か二人も這入るとすぐに湯が汚くなって、後から這入る者は気持ちが悪いのみならず、かい出す毎に風呂の中の湯は減じて行くので、とても伊香保や箱根の様な風に湯がかけ流しで新陳代謝する如き快感は無い。全体此旅館などで、湯の立て方を聞くと、熱湯である處の元泉を風呂に満し、之を十二時間位放置して冷却せしめて、初めて人が這入る様になるのであるが、未だ冷め切らないで熱い時には之をうめる事が出来ない。水でうめれば温泉の効力が減ずるから、慎重に自然と冷めるのを待つより外致方が無い。(但し冷め過ぎた時には蛇口をねじれば熱湯が出るから自由に加減することが出来る)これで吾輩考案したのは、外でも無いが温泉の冷水を作って置いていつでも加減する事が出来る様にして置いたら大に便利ではあるまいかと思うのだ。その方法は面積が廣く深さの浅い湯船を造り、之を風呂場の外に放置し、常に温泉を之に湛へて冷却温泉を常致し、更に之れを各風呂桶へ鉄管で導き蛇口を付けて熱湯の出る蛇口と二つ行儀能く並べ、之に「熱湯」「冷泉」とでも、何とでも誰でも分かる様な瀬戸か何かのハイカラな目印を付けて置いたら非常に便宜では無かろうかと、湯に入る度びに、いつもそう考える。なぜ旅館で恁んな簡単で便利なことを実行せぬのかと、怪まれてならない位だ。又更に客の快感を起す様にするには、今云った冷熱二つの蛇口から一と二とか、二と三の比例とか云ふ様にチャンと一定量の湯が同時に出る様にし、之を桶の外で一つにして風呂桶に導き、絶えずかけ流しにする様にしたら、尚更結構なことになるであろう。要するに客から一日一人六銭の湯銭を徴収するのは、モー少し何とか便利で清潔で快感を興ふる様に改良してほしいと考える。

   十一月八日  土曜    晴  浪高し
 天気が快復した為め、今日はいくらか、心持が可かった。それでも此一週間ばかりは時々胸部が痛むので閉口する。又本を読んで居て、どうかすると急に呼吸苦しくなって来る事が有る。何れも病のせいだろうと思ってる。全体熱海に来てから未だ幾日も立たないが、病気は可いのか悪いのか、さっぱり譯が分からない。
 昨日一日何処にも出なかったので、今日は御天気を幸ひ、午后から一寸散歩した。例に依って例の如く、何処とて行く處も無い。下卑の話に今日は大変「そうだ鰹」が取れるそうだと云うう事であったから、海岸へ出て見たが、一人も釣って居る人も無しがっかいして帰って来た。
 帰って見ると、御八ツとして牡丹餅が三つ朱塗の木盆に盛って其の上へ丸い蝿除をかぶせて御竹どんが持って来た。珍しいので二つ平らげた。
 客は今日も両隣りと僕と三組だ。今日は徒然なるまま「忘れ易き文字」と云う一冊を書いた。そして雑誌や新聞で始終使っている有触れた字で然も忘れ易い文字を集めて之を集録したのである。手紙や文章を書く時に大に参考となり、又自然と文字を覚えるに最も適当であろうと考える。
 貸本屋へ百合子を二冊返して、今度はつまらない者を二冊借りて来た。それは●桜痴居士著「伏魔殿」と三宅晋軒著「奇々怪々」の二冊だ。


    十一月九日  日曜    曇  浪高し
 終日曇天で海面に渡る風は、身にしみる様に寒かった。満潮時の浪は風に操られて折重なって来る様な高く激しく岸に打寄せて来る。海岸の小石の上に下り立って、渚近く海面を見渡せば洋々たる水は大きなうねりを打って、漁船は時々波間に影を没し、沈んだかと思うと、今度は高く打上げられる。然も漁師は平気で舟の上に立って、一生懸命網を海中に投込んで居る。いつもならば此の位波が高ければ漁船は出ないのだが、昨日からそうだが沢山漁れるので浪を冒してまで漁に出て居るのだろうと思った。
 午后一寸出て、辰床で顔をそって来た。熱海で一番の床屋だけあって、中々立派な者だ。その代り、刈込二十銭顔そり十銭だから。
 午后左右御隣りの客は立って終まった。其の代り散歩から帰って見たら、又両方とも御客が這入って居た。十七番は若い夫婦(兄弟では無いらしい)と七十ばかりに成る御爺さんとの三人で、其の御爺さんが中々面白い滑稽な人らしかった。禿頭で大きな眼鏡をかけて藍縞の綿入り羽織を着て雙眼鏡を持って庭に出て大きな眼鏡の上から更に雙眼鏡で海を見て居る處は滑稽だった。何でも此の爺さん何度も此家に来たらいかった。然し若い男と女は未だ初めてで熱海の西も東も分からなかった。第一何処から来たか分からないが話の様子では東京の人の様であったが、四時頃皆で飯を食って居るから、ヒドク半端な食事だと思ったら、それが中食なのだ。それから御竹どんが夕食の料理を伺いに来たら雙眼鏡で眺めながら「アー私は卵焼きにしましょう。一番軟かで可い。卵焼きだゝゝ。」と一人言を云って居る。中食の遅れた原因として爺さんの曰くさ「電車(軽便のことをイツも電車ゝゝと云ってる)に乗って揺られると吐きたくなるから、それで中食を食はなかった。」と云うと傍から若い男が「ナーニ時間の都合で飯を食ふひまが無かったのさ」と辧解して居た。若夫婦(?)が食后二人ではがきを出しながら海岸の方を見てくると云って、御竹どんに道を聞えて出かけたら爺さん曰く「まいごになってはいけなよ。気を付けなよ!!」は振ってる。

   十一月十日  月曜    快晴 暖かし
 今丁度十二時半、僕は散歩に出かけ様と思って仕度をしたが余りに面白いので忘れない中にと思って早速カメラならぬ日誌の中に採録することにした。全体何度の老人と云ふものも皆なせっかちな者だとは承知して居るが、それが又「若い御夫婦対老人と」云うコントラストだから、その両者の間に於ける会話応対、其他起居動作、実に面白いので僕は熱海に来てから初めて竊(ひそ)かな笑いを洩らした。御夫婦は今朝一寸拝顔すると、男は二十四五位の商人風(何でも浅草辺らしい)女は二十二才名は千代(之は昨夜宿帳をつける為御竹さんが質問した時答えたのを聞えたのだから正確だ)と申し、一寸拝める。 (男は浅草本材木町高◎孫◎郎)と分かった。代物だった。處で此の二人は以ての外の奴等で御爺さんそっちのけで朝から晩まで二人で散歩に出たり、其の間々には睦まじ相に小説を読んだり読ませたり、イチャツイて居るかと思えば、二人で一緒に必ず湯に這入っては小一時間も何をして居るか分からない。「アラいやですよ」「随分だわ」「アラ怒って?御免なさいな!」「随分御人が悪いワ」の連発で恐れ入った。ハテサテ猫のお化でもあるかい?と思ってだんゝゝ、それとなく(別に嫉ける訳でも無いが)探って見ると、御爺さんのほんとの孫で、女は嫁に相違なく、確かな堅気者とは知れた。それでも御爺さんの前で、あんまりだと思うよりは寧ろ御爺さんは気の毒の様だった。
 處で今の滑稽と云うのは、元来此爺さん頗る気短かで、今日午后二時五分の汽車で帰ると云うのに、朝から騒いで居る。丁度午前十時頃、二人は例に依って釣堀に行って見ると云って出かけると、御爺さん曰くさ「もう時間がないから行かん方が可いだろう」と云うと男が「ナーニ未だ緩りですよ」女「御爺さんまだ九時位ですよ四五時間もあるワ!」と言捨てて出かけて行った。実に此時十時跡は老人一人でカタとも言わずツクネンとおとなしく室に待って居た。すると十二時過ぎになって、御竹さんが御飯を持って来て「アラ皆さん未だ御帰りになりませんか?」と云ふと爺さんしたり顔に「ほんとに若い者は困ってしまいますよ。御昼になるのも分らないで何処をふらついて歩いて居るか知れないが、全体これでは汽車に間に合ひはしない。其の釣堀とやらにお世話でも迎えに行って貰ひましやうかね。第一時計を持って行かないから時間も何も知らずに遊んで居るのでしょうよ。困った者だ!」と先づ不平の第一矢を放った。御竹さんも「御迎えに行っても何処を御歩きになって居るか分かるもんですか。然しご隠居さん、まだ二時間もありますから其内には御帰りになるでしやうよ」と云って向へ行って仕まった。處が爺さん飯も食わずに一人で頻りに二人の帰りを待って居た。約二十分も立つとドヤゝゝと二人が帰って来た。サアー此からが騒動だ。二人が「唯今」と這入って来ると、爺さん待ってたとばかり「オヤオヤ、二人は何をして居るんだい。もう汽車が間に合いませんよ。時間も知らずに遊んで居ては困りますね。サアゝゝ早く御飯だゝゝ」「御爺さん未だ御飯を食べてないのですか」「食べないさ。待って居たのだ者。もうとっくから御飯が来ているのだよ」「そんなに急がなくっても大丈夫だよ。御爺さん、まだ二時間もあるんですよ」「ナンニそんなにあるものかね。間に合いませんよ」暫らく男と女で一緒になって御爺さんと対向して居た。すると男が膳部を見て「こんな者誰があつらいたのだい。私は大嫌いだから食べない」と云うと御爺さんが「ソレハゝゝ御爺さんが女中に何でも見計って拵(こしら)えてくれと頼んだのだと云ふことだぜ」「ナニ私が頼むものか?」女「ほんとに誰もこんな者あつらいないわね」「兎に角、これでは御飯がたべられないから、御魚を注文しやう」と云うと御爺さん「ナーニ云ってんな我儘ばかり言って、そんな事をして居ると汽車に間に会わないぢゃないか。サーサー生卵でたべてしまう方がよい」と又々一問題持上ったが遂に二人して廊下に出て御竹さんに注文した。すると爺さが「ソレなら料理の出来る内、早く仕度をした方が可い。サーゝゝ早くゝゝゝゝ」とせかす。「ナーニ未だ緩りですよ。御湯でも這入って来やうかね」と女に話しかけると「とんでも無いことだ。今から湯に這入るなんて、そんなのんきな事を言ってる暇はありゃしない。それより仕度を早く、鞄は可いかい。その土産物はどうして持って行くかね。着物を畳んでしまいな。サーゝゝ早く」「うるさね。ほんとい御爺さんぢや嫌になっちやね」「御爺さん大丈夫ですよ。時間がありますからさ」其内に男の方が見えなくなると「オヤどうしたい」女「たしか、はばかりでしゃうよ」「アーはばかりかい。またあいつの便所は長いからね」と云う。兎角する中に料理が出来た。爺さん大急ぎ「サアゝゝ出来ましたよ出来ましたよ。早く早く御飯にしなさいよ」とどなり立つれば「大丈夫だよ。うるさいね。御飯なんか食べるのはすぐですよ」「ナニ御前の御飯は又馬鹿に長いからね……」「人を莫迦にして居ら」………騒ぎゝゝ暫く御飯になった。すると爺さんどうゆう気か食後御湯に出かけた。「妙だね。今まであんなに騒いでいたくせに、御湯に這入ってぜ」「ほんとに御爺さんたら急ぐのネ。いやになってしまうワ」御爺さんの留守中盛んに色々なことを云って笑って居る。「大急ぎで一風呂這入って来ましたよ」と云って出て来たが、「私は足が遅いからソロソロ停車場へ出かけましやう」とやおら出かけ様とすると嫁が「御爺さん、まだ御早いですよ。まだ一時間前ですよ。今から行って一時間もあんな汚い停車場に待って居るのは馬鹿らしいワ」と言って今度は亭主に向ひ「ネーあなた」と跡をつけたした。「ウンそうだともゝゝ、さっき停車場で時計を合わせて来たのだから大丈夫だ。御爺さん全体時間も分からないで一人で騒いで居るのだね。莫迦らしい!」「御前そんなことを言ったって、若し二時の汽車に乗り晩れたらドウする気だい?急がしい身体を持って居ながら其麼呑気な事を言って居られるかい!」「だって時間が有るんぢゃないかね」と云うと、御爺さん今は客赥成り殅くと云った様な風で「ハヽ御膳何かい、未練があるんだね。帰る時に思い切って行かなければいけませんよ。」と一本真向いから参った。ハテサテ未練とは変な事だが一体「熱海に未練があるのか」と云うのだろうと解釈した。嫁さん見兼ねて「サアゝゝあなた行ましやう。いくらはやくったって可いぢゃありませんか」と仕方無しに御爺さんの説にに同意する。其の内私は可い加減に見切って散歩に出た。(散歩のことは後に記す)午后三時半帰って見ると、隣に一人の若い婦人が新聞を見て居る。ハテナ先の御客は帰った筈だが。能く似た人もある者だ、と思って能くゝゝ見ると間違い無く例の御千代さんだ。そうこうする中に御爺さんが湯から上がって来た。オヤゝゝ之れは皆居るのかしら?と聊か不審に思って居ると、実は帰ったのは若い男一人であったのだ。
 それにしては前の話の様子では全く府合せない様な處も有ると思ったが、それにしても先きに「未練があるのかね?」と御爺さんの言ったのは是れで慥かに読めた。矢張り「御上さんに未練があるのかね?」と云う意味だったのだ。御爺さん中々隅に置け無いと初めて思った。サーそれからと云う者は若い娘と七十の老人と二人きりであるから、さっぱり話も無い。至て静かな者だ。お千代さんは時々本を見て居ては、「ハー」と云って何事をか頻りに嘆息している。「御前どうかしたかい?」と御爺さんが聞くと「イヤ、少し頭痛がして……」「それでは早く休んだ方がよいよ。アー女中さん、お床を伸べてお呉れ。これが少し頭が痛いと云うから…」女「イヤ未だ早いからよござんすよ」「ナンニ、床を伸べて置いて貰ひば休むとも本を見るとも、お前のすきにしなさいよ」と親切に云って呉れる。然し、いくら御爺さんが親切に話しかけても御千代さんの方では碌々に返事もせず、矢張何か考へ事をして居る。読めたゝゝお千代さんの心中、大にお楽しますよ!何だか片臀もがれた様でしやう」と云ってやりたい位……御爺さんは相変わらず、時々独言を云って居たり、大きな眼鏡をかけて本を読んだりして居る。片ッ方お千代さんの方では庭下駄をはいて垣根近く出て、海を越いて遥かに東京の空を眺めて居る。今しも月は雲間を離れて青く庭を照らし、初島はボーッとかすみの様に見え、海面には無数の漁火チラゝゝゝゝ……の体宜しく幕。
 午后、梅園の紅葉を見に行く。此前行った時とは違い、急に紅葉して非常に可かった。桜が岡の新道を行きながら、遥か南の方の丸山には緑濃き杉の古木の間を紅葉や雑木が真赤に紅葉して埋め、丁度綿を織り出した様。梅園では今日は撫松庵に行って、名物の汁粉を二杯食べた。中々旨かった。此家、一人二十三四位のハイカラさんが居て、御相手をして居る。中々敏く饒舌えて居た。酒ならぬ汁粉を食って女に対す。亦妙ならずや。そこゝゝに辞し去る。
 嗚呼、今日は時ならぬ日誌の種子に有りついた。又明日も面白い種子を見付けましょう。
 夜になって終列車で十六番へ一組の御客が来た。又何か日誌の材料も有り相なもの……。

    十一月十一日  火曜    晴 
 此頃、又神経衰弱の再発の為めか、毎晩十一時過ぎまで眠れないので閉口する。
 今朝御竹さんから頼まれて、手紙やはがきを四本書かされた。一本は家の御上さんで宛名は日本橋 町一丁目花屋敷、大常磐桜へ 鈴木屋御内□様と云うので封状、他は皆絵はがきで宛名は麻布三河島町十三溝渕熊吉。横浜市元町五丁目梅原徳治。麻布市兵 町二ノ三十六坂井富次郎の三枚だった。必要は無いが念の為め記して置く。序に良平へも絵はがきを出した。
 「問題の女」お千代さんも今日はからきし沈んで居て、少しも日誌の材料が無い。困った者だと考えて居ると、幸に御竹さんが夕食のお料理を聞きに来たので、やっと一ツ見付け出した。此前から此御爺さんはとろろが大好物なので、醤味の時に女中が見計って、とろろを出すと大㐂び「オヤゝゝ私の大好物で……幾度でも可いいから若し御連があったら私にも拵いて下さい……」とホクゝゝして居る。其次に好きなのが卵焼で、今日も刺身は何の魚か?たつた揚げと云うのは何か?(これにえびのフライの様な者)と色々聞いた上句、お千代さんに向ひ「お前の好きな者にしな」「イエ、御爺さんの御好きな者を御誂いなさいな。だって私の好きな者は御爺さんは御嫌いなのですもの」と云って居たが続えて「私の好きなのはやっぱり唐人料理ですわ。…フライがいいわ…」と云って笑って居た。御爺さんは西洋料理の事 を唐人料理と云ってると見える。「そうかい、それではお前はそれとして」と少し考えて居たが「私はやっぱり卵焼にして貰ひましやう。軟らかくて、おいしくて一番好い…ハー」とうとう又卵焼にきまった。
 此御爺さんと今日は一緒に御湯に這入ったら、粕壁、岩槻辺の事を能く知って居た。そして「粕壁近在なれば東京も同じですよ。汽車で直ぐですからね。私は東武のパースが二枚あるから、度々乗る事がありますよ…」「「ハヽ、それではアノ大株主で?」「イヤ、大株主も何もありませんがね」と謙遜して居る。「岩槻は一寸不便な處ですネ」と云うから「ナンニ今ぢきに電車が出来ますよ」といつ出来るか知れない電車の事を今にも出来る様に言ってやった。「失礼ですが浅草付近ですか?」と聞くと「そうですよ。材木町です。私は向島の曳船と云う停車場から降りて行くとぢきそばの處に居ります。イヤハヤあの辺はさみしくて丁度此辺と同じ様ですよ」話の様子につれあいの婆さんと二人で隠居して居るらしかった。嫁さんのお千代さんの実家は日本橋槇町だと云うことも知れた。兎に角、室に居ると隣りの話しは何でもかんでもすっかり分かってしまうので、聞くとも無しに色々なことが耳にはいる。それでこっちは日誌の材料を鵜の目たかの目で見付けて居るので兎角近来不漁続きの時だから、何でも御話に取上て書いて居る処さ。
 十五番の客は昨夜終列車で着いたので四五十位の夫婦連れ。何でも関西の人で東京初め、處々方々関東見物に来たらしがった。縛らく滞在するらしかった。此二人の話が実に滑稽で殊にお婆さんの方は大声で話をするので、関西丸出しの語気は頗る振って居た。
 今日落花生を五袋(五銭)買って見たら、中からつじうらが出た。一寸角位の西洋紙に綺麗な五号活字で印刷してあるからハイカラなつじうらだ。出たのは次の様な都々逸であった。
              〽あいそづかしは いつでもできる
                    とつくり しあんをしたがよい
              〽あまり 返事が ありがたすぎて
                            だましやせぬかと くろうする
              〽口ぢゃ ゆわれず しろちじやできず
                            おしと つんぼの 色ばなしーーー

 例の関西物御夫婦は夜になると二人で盛る謡を歌ひ出した。流は多分宝生流であろふ。二人とも余り御上手では無い様だった。御爺さんの方は振へ声で聞こえて居られない位、丸で風前の燈と云った形。又御婆さんの方は余り振へないが是又御經の如し。然し、どっちかと云ひば、御婆さんの方が、上手だった。約二時間も謡曲をやって、それが暫く終わって、ヤレゝゝと思って胸を撫下すと今度は二人で囲碁を始めた。尤も之れは御爺さんの方の発起だった。然し二人とも揃れも揃って謡をやったり碁を打ったり、器用とと云うか、多藝というか、アー御婆さんも中々やり手だワイとつくゞゝ感心した。

      十一月十二日  水曜    快晴
 毎日ゝゝ、起きて見ると旭がキラゝゝとして、海面を映し迚も障子を開けて置けぬ程眩しい。洗面をしてから庭に出て朝露を含むだ芝生の上を漫歩し、太平洋を渡る新鮮なるオゾンを思い存分吸入し深呼吸を終わってから、朝の煙草一ぷくを喫するは何とも云ひしれぬ快感である。そうだ、その筈だ。之れが熱海の生命ある所と共に、態々転地するのも是有るが為めであるまいか。
 連夜の不眠症に苦しまれるので昨夜は試しに夕食後、茶、飲むことを廃し、入浴の回数を増し、尚ホ床を伸べてから寝際に一度入浴して、都合一日五回入浴して見た。處が十時には自然と眠気を生じ丁度魔酔にかかった様に可い気持に知らずゝゝに何時の間にか眠って仕末った。朝も七時まで非常に可い心持に十分睡眠する事が出来たので、起きてからも今朝ばかり大変心地が可かった。 朝食の時、お鶴さんが言ふに「今朝お竹さんはお中が痛いて休むで居ます」と云ふ。之をキッカケにお竹さんの事を聞えて見たら僕の想像通りお竹さんは年四十二才とかで一度嫁入をして今年十六になる女の子と十三とかの男の子を残して亭主は過くる年死んだので、其の後引続き二十年も此鈴木屋に奉公して居るそうだ。生れは熱海で新渡町花月の近所だとの事だ。お歌さんが鼻の治療の為め小田原に行って休むで居るので、昨日から一人の女中が新しく雇れて来た。二十四五位の色の黒い丸顔の女でお栄さんと云った。手塚在とかの人で前に箱根あしの湯紀伊國屋に居たのだそうな。大変、御顔に似合はず言葉のしとやかな女だ。本宅に居る、旦那の従妹はお六さんと云うので今年二十七才になるが、まだ適当なむこさんが見付からないそうだ。十七番の御爺さんは今日は十五番へ行って碁を打って居た。幾面か打ってから帰りがけに「どうぞ、又いらしッて下いな」と言われたら「ハイゝゝ又晩程参ります。どうも暇でゝゝ御湯に這入るか、寝るか歩くかですが、歩けば足が痛いしネ。ほんとに困りますよ」と言ひ置いて出て行った。中々面白いお爺さんだ。夕方、神谷とか云う客が入り込んだので平屋の方を明けるやら、ドサクサゝゝ大騒ぎだ。此客は二三日前、気船で荷物を三四個コモ包にして送って来てあった。
 今日から英亭に何とかいふ玉乗曲藝がかヽった。其の間貸本屋から借りて来た「伏魔殿」と「奇々隆々」の二冊を返し、改めて江見水僚「海水浴」と風葉の「恋慕流」の二冊を借りて来た。

     十一月十三日  木曜    快晴   暖かし
 昨夜も能く眠れる様にと思って入浴して見たが、怎してものか十二時が打っても眠れぬので大に閉口した。時間が立てば立つ程、隣り近所の人々の鼾息や寝言などが耳に這入って、目は益々さいて来る。何でも眠ったのは午前一時近くであったろうと思う。奈何しても又神経衰弱の再発に相違ない。朝起きてからも何だか頭痛がして困った。
 今朝は起きるや否や気持が悪いから、一つ湯にでも這入って見たらと思って洗面せずにすぐに入浴した。出てから庭に出て昨日着いた御客の男の子二人と遊んで居た。無邪気で可愛らしい。
 朝飯がすむと、十七番の問題の女と御爺さんは伊豆山に出掛けた。だんゝゝ様子を見ると此の問題の女お千代さんはほんとに嫌な女だ。十五番の関西者の例の謡曲をやる面白いお婆さんが見かける度びに「お姉さん、チト御遊びにいらっしゃいませ。御退屈でせうから。御話に御出なさいませ…」と関西弁で親切に言って呉れるのを、こっちは鼻であしらって碌に御辞儀一つせず「ハイ」と言ったきり見向きもしないでスクゝゝ向ふの方へ行ってしまうのが例だ。苟も二十二になって、人の妻となって居る以上は、モー少し何とか挨拶の仕様もありそうな者。実に此女は内気と云うか(イヤ内気處にあらず)世慣れないと評せうか高慢と云うか、其の変挺さ加減は迚も話に成らない。イヤハヤ大きな御世話。人の嚊(かかあ)の批評を兎に角した處で何の益も無いが、最初の縁故から「問題の女」として名を出した以上、是も矢張其の人の性格を表はす為め、是れとも御見捨ならぬ事の件だ。今朝又々実況を一見したまま、書くことにした。要するに是も退屈凌ぎの一策。人性観(僕一流の)の第一歩と見て差支無い。
 此頃又天気続きで、今日の如きは綿入一枚でも熱くて仕方ない位之では日中は単衣物で充分居られる。世間では日増に寒威凓烈とか何とか言って居るけれど、此處ではいつになっても寒気は襲来せぬのみならず、此分では日増に暖かくなりそうだ。実以て熱海の有難味は寒くなるに連れて顕然と著れて来るには驚いた。
 今日は余り暖かくて、ムサゝゝする程であったから、身体が倦く散歩に出るのも厭であったが、思切て二時頃から伊豆山まで行った。此處は二度目だから、すぐ其処の様な気がして、間もなく到着した。行く時に停車場の處で撫松庵の人に遭ったが、途中で軽便に追掛けられたので、道を避けて居たら矢張り其の中に乗って居て笑って居た。伊豆山に見る所の無いのは知って居るが、近頃熱海通になって、何処へも最早行く處が無いので、隣の爺さんが伊豆山に行って帰って来たのを見て、面白くも無いが行って見る気になった。一人でブラブラ気侭に道草を食って歩くのも呑気な物だ。行く道々の畑では百姓が甘藷を掘って居たり、畑耕耘したりして居る。田は大抵刈取って仕末った。此辺では排水が最も良好なので今では丸で立派な畑になって居るので、百姓は田の稲を刈取ると刈干しにして暫く置き、乾燥した頃を見計ひ小束にさへも束ねないで丁度陸稲を扱う様に、田の中で直ぐに少しづつ分けてい扱(しご)いてしまい、其の籾(もみ)を風扇でザットあをいですぐ俵に入れて家に運ぶのだ。陸稲も未だ刈らないで薄青いのがいくらも畑に残って居る。僕の地方で麦薪は大抵十月下旬から晩くも十一月三日頃までと思って居たら、此辺では、まだ何処でも麦薪をした處は一つも無い。之れと言うのも気候が温暖だから早く蒔けば年内に敏茂して生育を害する為であろう。それ故水田も稲刈取の終わったものは、すぐに耕耘して整地をして居るが、未だ蒔いた者は無い。傯て此辺では稲や陸稲は先づ相当の出来であるが、蔬菜と来たら実に情無い様である。その癖熱海は澤庵の名物だと聞いて呆れた。其の大根はどれも皆猫の尻尾位の者だから。
 伊豆山へ行ってからは例に依って井の口桜の脇から海岸に出て、東の方へずっと相模屋の前に行き、今度は千人風呂を一寸覗えて上に登り、線路に出てすぐに帰って来た。二時に家を出て帰って来たのが、三時四十分頃だった。
 別荘も今迄静かであったが、急に客がふいて殊に三人の小供が来たので騒ぐやら駆けるやら実に騒がしくなった。 夜、徒然を慰むる為め、詰らないのは知りながら英亭へ出掛けた。豊田何菜とか云ふ玉乗曲芸の芝居でイヤモー八九才位の女子が演るので、見るに堪えぬ。九時途中で御暇をする事にした。それでも人は可成一杯で殆ど満員の好景気には驚いた。鈴木屋の主人も、料理番の栄さんも来た。兎角熱海の人は何でも此に生れ凡ての興行物は非常に好きな者と思った。翌朝御飯の時、お瀧さんに話したら旦那が来たことを少しも知らなかった。「旦那様は昨晩で三晩本宅へ泊まりました。それでは本宅から行ったのでしょう」「ハヽどうして本宅へ泊るのだろう?」と聞いたら女は笑って居て話さない。「何だか裏面には深い意味が潜んで居る様に思われた。何故なれば目下御神さんが東京に行って暫く不在だし。本宅にはお六さんという出遅れの従妹が居るのだもの。……と考えて来ると何だか邪推でも無いらしい。然し之は、吾輩一個の想像だから真偽は僕の関する處に非らずさ。 此項を十四日午前記す。



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熱海療養日記(4)

2013-10-13 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

轉地日誌No.1            熱海日記(4)

     十一月十四日  金曜    曇 小雨  風
 空は一面に掻き曇って、風は激しく、浪の音はゴーゝゝと耳を聾する如く。話には聞えて居るが、熱海の風は実に非道い者だと思った。九時頃からザーゝゝと一しきり驟雨が夏の雨の様に降って来たが一時間秤りで止むだ。昼から空は未だ曇って今にも降りそうであるが、それでも水平線の處は曇切がして居るので、珍しく大島がハッキリと見え出した。変挺な女は双眼鏡を持って庭に出て大島を見て居た。室に帰って「お爺さん大島がよく見えますよ」「あヽそうだネ。あれが大島かい。あそこまでは五里もあるかいな」とは何処までも呑気な爺さんだ。十八里を五里と思ってる。他人の空似と云うことはあるが、こっちへ来てから二人見付けた。一人は此のお爺さんで顔は余り似て居ないが蔭で話を聞えて居ると丸で東京青山の福田のお爺さんいにそっくりだ。其の話の様子と云うと、声の調子と云ひ球に能く似ている。次は今此家に来て居る大工の棟領だ。此の人は顔から声から、森川少佐に能く似て居る。あれでは「わっちは森川少佐の兄貴でがす」といわれても、嘘とは思われぬ位だと思った。
 今日は風が南風のせいか,厭に蒸暑くてポカゝゝして実に何とも言わぬ嫌な御天気だ。その為め終日頭が重くて気持が悪かった。
 月日の立つのは早いもの。僕が来てから今日で丁度三十日目と成った。一ヶ月を経た今日に於て、顧みて見ると大体に於いて経過は良好と思ふ。熱は依然として変わらないが、幾らか気分の良い事。食欲の進むこと。運動後の疲労減少。等は確かに家に居る時より可い証憑だと思う。此分で寒中を熱海に過ごしたならば大丈夫、立派に快復する事に、自ら堅く信じて居る。
 午后に成って、又一仕切り雨が降って来た。今日は終日何処へも出すに宿に居て、小説「恋慕流」を読んだ。古い作ではあるが有繁は小栗風葉の作文であって、文章と云い、結構な云い、中々面白く良く出来て居るに感心した。此の前に読んだ名も知れぬ桜癡居士とか云う人の「奇々隆々」などの下手さ加減と来たら迚も見るに堪えぬ程であった。此の「恋慕流」と云ふのは尺八の曲名で、主人公は秦純之助と五十樓葉子の二人である。菊版三百十二頁の大作である。此の後篇とも見做すべきものは「歌恋慕」と云うのである。江見水薩作「海水浴」も面白かった。 今夜も又隣りで、謡曲を合唱し始めた。度々聞えて見ると怎して御経謡曲に相違無い。先づ僕の處に糠味噌が無いから幸な様な者だが、実にハヤ何共批評の境界を脱して、聞えて居るのが骨が折れる。それでもあの婆さんが先に立って、いけ洒々と怒鳴り出すから推しが強い。それで此頃漸く此夫婦の様子も少し分かって来た。爺さんは大柄な体で金縁の眼鏡をかけて髭を生やして居る。凡そ六十位の人だ。全体此夫婦は少し嚊天下で亭主は至て静かで穏なしく、一寸無口の方であるに引替へて婆さんの方は亭主の二人前も二人前も饒舌って、一人で切り廻して居る。兎に角何商売だか知れぬが、女の身で謡曲をやったり、碁を打ったりするのだから、大抵想像は付くと思う。見た處年も爺さんより若く、唇の出た女で、一見聞かぬ気の、嫁いぢりでも仕相な女と睨んだ。要するに両人とも驕傲心強くあることは平気で下手な謡曲をやって居るに徴しても明らかである。例の人生観案、右の通り。
 ここまで日誌を書き終わってから、又小説「恋慕流」を読み始めた。既に終わりも近いたし、又面白いので寸暇を吝んで読んで居る。處がお葉の母お庸が又々肺病で喀血した。僕は何だか肺病で血を咯いた處を読むとムラゝゝと厭な一種言う可くざる気持になって来ると共に、亦進んで読む気になるのは実に妙だと考える。兎に角、肺病と云う病気は迚うゆうものか知れぬが、小説には持って来いの病気と見える。要するに詩的を帯びた読者の意識を引付ける一種の威力を具えて居ると見える。
 肺病と云えば、隣の変挺な女も今日の話の様子では、テッキリ此病に相違ないと思った。曰くさ「お爺さん、私はこっちに来てからいきの切れるのと胸の痛いのが、大変善くなりました」と言って居た。のみならず時に服薬して居るのを見かける事があるので大丈夫其れに相違なさそうだ。

     十一月十五日  土曜    快晴
 今日は十五日なので例に依り、赤の御飯と言ひ度いが醤油飯であった。余り甘くもない。
 朝から厭な陰鬱な天候で、丁度何物かを以て頭を押付けられる様な気がした。昨日と引替て、今日は非常に寒さを感じた。天気予想は後晴とあるが、午後になっても時々日光が射すと思うと、直ぐに雲に被われて、捗々しい天気と成らなかった。昨夜で「恋慕流」を読み切ったので、今朝は新聞を一通り目を通すと、すぐに貸本屋へ出掛けて続きの「恋慕流」を見付けたが無かったので,止むなく、小栗風葉作「鬘下地」(カツラシタヂ)と山岸荷葉作「洗恋境」の二冊を借りて来た。序に今朝新聞の広告で見た十一月十五日発行「実業之日本」に「富永冬樹翁が其愛甥益田太郎に□へて書翰父の作法を教えたる書」と云うのが載って居るのを知って居るので、一冊買って来た。早速通読して見たら余り僕等の利益になる様な事でも無かった。
 「忘れ易き文字」として様録すべき文字の多くあるのは小栗風葉の作物には非常に多い様である。然し時には妙な当テ字を使ったのが無いでも無いが、兎に角有りふれた字で一寸書く事の出来にくい文字が、氏の小説には沢山載って居る。又文章としても明治三十二年の作ではあるが、この「鬘下地」などは大に参考とすべき価値ある様に感じて、内容の如何を知らず持って来た。
 此頃、毎日本を読む内に「忘れ易い文字」へ書込んで居る所為か多分文字を覚えて来た。要するに字と云う者は(何でも然り)覚える気にならなければ、いくら読んでも覚える者で無い。且つ第二には字を覚えんとすれば、宜しく文章を成るべく綴るべし。然る時は書いて行く中に後からゝゝ忘れた文字を生じ、之を字引なり何なりで研究して行く時は自ら覚える者である。と云う事を只管感じた。
 熱海の湯はかけ流しでないから、四五人も這入ると非常に汚れて穢くなる。それで我輩思ひらく。何とかして風呂を独占する工夫もがなと考えた上句、常に「あつき口」と云う木札を立てかけて置くに限ることを意見した。尤も之れは一寸手を入れて見られたらお終だが、様子を見ると大抵の人は一寸障子をあけて見て此札があると「オヤゝゝ此れもあつ湯か」と云って入らぬ人が多い。そんなで僕はコッソリ此の熱湯(実に丁度好い熱海の奇麗な湯)へ一人で這入って出る時には又元の通り木札を立てかけ、小桶や腰掛を片付けて行くと、其次に行って見ても誰れも這入った様子も無く、相変らず御湯は奇麗でいい塩梅になって居る。處が知らない人は馬鹿な者で幾人もゝゝ這入った汚い湯に這入って居るので可笑くて堪えない。何んと之れは「新案風呂独占法」ではあるまいか?
 今夜夕食の時、女中が餉台を十七番へ持って行くと、お爺さんが曰く「お前のは、それは何だい?」と変挺な女に聞く「こりゃお爺さんの御嫌いなものです。ホ…」と笑ってから「オムレツってのよ」と言っても爺さん未だ分からない様子。で「やっぱり御魚あい?」「イヽエ、肉ですよ」「それでは豚かい?」「イヽ豚か牛でしやう……それとも鳥ですかしら!」爺さん肩をひそめて(実は見もしないが)「オヤゝゝそんな者かい…」「オホ…」笑って、いよゝゝ箸をつけた様子。「お爺さん、臭いますか?お嫌いでしやう」「アヽ少し臭いネ」「それでは此皿はこっちに置きましやうか」「イヤゝゝいいよゝゝ」。変挺な女は新しがる為めか知れぬが、よく洋食を取って居る様子。處で爺さんは唐人料理は大嫌ひと来て居るから面白い。「老人對新しき女」の俤はこんな處にも偲ばれる。

      十一月十六日  日曜    快晴
 昨日までの陰鬱な天候も、今朝名残なく晴れ渡り、枕辺近く障子に写る旭の光に驚かされて、やおら起き出て見れば、庭のかなたの雄松の木の間を距て、中天高く差昇れる旭日の、一天拭ふが如き碧空に輝き、太平洋の金浪銀浪に相映して眩しさ言はん方無く。岸辺近く河原のほとりに寄せては返す、此波其浪の岩に砕けて玉と散り霧と散ずる心地よさ。夜の疲れを忘れ果てつヽ、此景色に見とれて居た。
              小説「霧」
 「ゆうべから暁方まで夜ひと夜暴れ狂って居た暴風の余勢もいつの間にか吹き落ちて、灰色に濁った大空には漸次と迫ってくる黄昏とともに何とも名状することの出来ぬ不安な静けさが一面に漂って来た。海は見渡す限り蒼黒く澱んで、沖の方で巻き返している波浪だけが真白な鬣を振り乱す群馬の列のように彼方此方で音も無く奔騰してゐる。遠く河口の方まで展がった。荒寥とした砂原にはいつに変らぬ奇怪な姿をした砂丘の群が縦横に起状して、ゆうべの風で吹き平げられた、その灰色の西には漣のような小さな皺が数限りもなく描き出されてゐる。その間には人間の歩み過ぎた気勢もなく僅かに海鳥の足跡が異様な曲線を画きながら点々と續いてゐるばかりである。二箇月の余も病みあがりの體を此地で静養いている僾子は今日も亦いつものように宿屋から砂丘の一つを綴る松林の傍まで歩いて来て、露気を含むだ砂の上へ腰を休めながら、刻一刻に暮れて行く四辺の光景を眺めてゐた。……
…彼女はかうして寂しい落日の影を浴びながら砂漠のやうに荒び果てた一家の有様や自分の身の行く末などを、いろゝゝに思い廻すのが、今では彼女に残された唯一つの慰籍であった。無限の虚空に連なる大海原を背景に蜿々と断江つ続きつ起状してゐる砂山の姿が彼女にはどうしても自分の寂しい運命を暗示してゐるように思われてならなかった。寂、孤獨、そうした言葉の意味は委く今の自分の境遇に当て嵌るやうに思はれて、砂丘の色を眺める毎に彼女の心の底にはかすかな歔欷の声が充ち渡るのであった。………」。あヽ何という可い文章であろう!是れは今日から朝日新聞に出て居る長田幹彦氏作の小説「霧」の発端の一節であるが、二度三度読み返して見ても飽くことを知らぬので、そうゝゝここに採録する事にした。文章と云い、筆の廻し方と云い、非常に僕の気に入ったので、今後は毎日の楽しみに「霧」を読む事にした。
 珍しく晴天なので午后から久振りで散歩に出た。梅園の紅葉眞盛なりと聴いて、先づ其處へ足を向けた。幾度見ても此處ばかりは中々飽きないと云ふのは、第一位置が町から十町位にしては中々幽すいであろう。土地が自然の起状に富みて余り人工を加へざること、思ったより紅葉樹の多いこと園の中央を貫流する谷川の水之音、茶屋に飼育される鵞鳥の声等は、先づ主なる要素である。紅葉は丁度、今が盛りで日当りの強い處である。木の頂上は最早凋落したのも見えた。然し園の奥へゝゝと進めば益々樹木鬱蒼として日光を遮り其のほとりにある紅葉は、まだ青赤お半して、其の美観は中々捨て難い。殊に渓流に架せる土橋の上る立て下流を見渡せば、丁度午后三時の日光はまともに紅葉に照りと其の真紅の色は各河の流れに反映じて、赤き水の流るるかと思わせる位。我を忘れて此の自然の美にあこがれ、暫くは立去りかねて居た。今日ばかりは三四人連れの人々、老梅の間をあちこちと彷徨ひては紅葉の下に足を停め、空を仰いで賞して居るのを見受けた。梅松庵の汁粉をと思ったが余り腹も空かぬので中止した。
 いつぞや家から送って呉れた栄太桜の有平糖は非常に僕の心を慰籍して呉れた。毎日茶菓として三ツ四ツ楽しみに食せしが、最早今日は愈々千秋楽となった。そんなで□無く今日は風月でビスケットを一袋買って来て、後継者とした。
 十五番の関西者(実に富山様と言う事である)も毎日ゝゝ十七番のお爺と囲碁をしたり、其の間には下手な謡曲を唸ったりして居たが、これも愈々明日は出発、伊豆山に一泊して國へ帰るとの話し。爺さん曰く「そんなに急いで帰らなくともいいでいしやう。もう少し遊んでいらっしゃいな。私が淋しくて困っちまう!」とは飽くまでも自己本位な爺さんだ。
 本郷聯隊区将校団から偕行社記事附録二冊(明治三十七八年戦没ノ残例に微し視襲を論ず。東部蒙古小史)宅から廻送して呉れた。

     十一月十七日  月曜    曇午后雨 寒し
 豫告の通り十五番の老夫婦連は今朝八時五十二分の軽便で立った。朝早くから起きてガタピシ仕度を整えて居たが、会計も済んで、先づ一服とチョコナンと火鉢に向ったが、何を思ひせん、お爺さんを招へて「御名残に一席やりませうやー」と云って、立ち際に笑い乍ら碁盤に向った。全体上手か下手か知らぬが、此の連中の碁の早さ加減には驚く。始めたかと思うとモー一席は終ひとなる。「まだ時間には早いからモー一席狂ひませうやー」で又始めた。其の中、軽便が少し後れますからと云う繁さんの御注進に益々御輿を据へて又一二席。イヤハヤ呑気な者だ。暫くして番頭に促されて、いよゝゝ騒がしい婆さんも伊豆山へ出発となったのでホッとした。玄関で召使共の見送りの御世辞の切れた跡は丸で火の消えた様。
 がっかりしたのは十七番の爺さんだ。好い御相手が居なくなったので変挺な女に向ひ「熱海もさみしくて飽きたから、私等もモー帰りぢゃないかねー」。然し女は余り進まない様子であった。其の筈だ。肺が悪くて避寒に来て居るものが、一週間やってならで飽きたからとて帰京するのは虎穴に入りて虎を獲ざるが如き感あらんと思った。然し例の一轍な爺さんだから言い出したら承知しない。そうゝゝ明後日十時の軽便で帰ることに決まったらしかった。
 午後からは、やっと今迄堪えたと云う様に一度に雨がザーと降って居た。折柄在家の倉の壁塗りに来て居る左官共は急いで石灰の蓋をしてかけまわる。女中は乾物を取込む。一時は大騒ぎであった。騒々しい婆さんは歸るし、雨は降って来るし宿は非常に陰気になって、浪の音のみ高い。
 午后からは夜に至るまで雨降りなので、陰気でゝゝ気が腐る様であった。「鬘下地」を読んで居たが、電気が点る頃には、それも最速飽きて来て、唯々旅籠生活の従然さが犇々(ひしひし)と胸に迫り、何となく人戀しさの念、湧き出てて独り物思いに耽った。天気なればとて何處とて散歩に行くあてもなけれども、雨に終に閉じ籠れるは尚更愁らく。隣りの御爺さんの帰りたくなるも無理ならぬと思った。恁のやうな折には家から送って呉れる国民新聞が又なき友となって,暫し読み行く中に心の愁も忘れて間もなく夕食となった。それに引替えて平家の方に居る小供は四五人で馳せ廻り御守の女中を困らせて独り愉快気に騒いで居る。
 今朝お竹さんが、梅園の紅葉の一枝を、竹筒まがひの瀬戸の花瓶に投込んだのを僕の室へ持って来て呉れた。昨日も梅園へ行った時、あの真赤な紅葉した紅葉の一枝を非常に愁しかったが、苟も公園殊に御料地の樹木を折り取る事の大なる罪悪の様に心得て居たので、一枝も取らなかった。が然し思いがけなく、お竹さんが持って来てくれたので嬉しかった。此日誌をつけながら、フト後を振返って床の處を見たら、電燈の光に映して一段引立って華やかに見えたので、気が付いて書き足した。
 軒端近く雨滴の音の激さに、障子を開けて見たら、一面暗黒で眞の闇。雨は盛に降って居る。平生は左程にも思わぬ庭の電燈が、今夜ばかりは殊に明るく、庭一面の芝に宿れる霧は輝いて無数の真珠を散いた様であった。海は闇に閉されて、あやめも分からぬが、浪の音はゴーゝゝと風に和して凄きまでに猛り狂い、唯海上に一点の紅燈輝き居るは今しも熱海に入港の汽船であった。軈(やが)てボーゝゝと云う太い声の汽笛は暗を破って聞えた。

     十一月十八日  火曜  雨  波浪頭 高し

 昨夜来の雨は、少しも絶間なく、今朝になっても盛に降って居る。浪は益々高く、魚見崎あたりは岩に激しく打ち上る浪は二丈位の高さもあるだろうと思われた。大抵な浪では退却する事のない例のトマをかけた二隻の漁船も、今日ばかりは天候険悪と見てか、午前七時頃引上げて帰って行った。最早沖には一隻の舟も無く雨は蕭々(しゅうゝ)として降り、浪の音はゴーゝゝと百雷の轟くが如く、隣の話声も●●には聞えぬ位であった。
 昨日の言葉に、明後日帰ると言って居た十七番の客も、怎うよう都合か急に今日帰る事になった。朝、寝耳を欹てて聞いて居ると何でもお爺さんに内所で御亭主が迎ふがてら昨夜小田原まで来て泊り、今朝一番で熱海に来る事になって居るそうだ。変梃な女の方では、前からチャンと手紙で打合せをして置いて、殊に昨夜は電話で小田原と話をして置いた位、御念が入って居るのを爺さん、そんなことは少しも知らないと見える。何でもかんでも、今朝は十時半の軽便で東京へ帰る積りで居る。思ひらく、これは又々一活劇が見られるだろうワイと、実に内心楽しみにして起きて見た。食后、僕が入浴して居る内に一番の軽便は着いて、御亭主は来た。そして早速二人で風呂に這入った。暫し喃々喋々と隣の一号湯で盛んにやって居た。僕が出てから三十分も過ぎてから漸く二人は上って来た。室に入るや否や、浴場で作戦計画をして来たやつを、早速実行に取掛ったらしい。変梃な女曰く「お爺さん今日は恁麼な雨が降って居るし、それに昨夜晩く小田原へ来て、今朝一番でこっちに来たと思うと、直ぐ十時で帰るんでは、兄さんも随分ひどいから、是非今夜はここへ一晩宿って、明日早く帰ることにしませうね。ネーお爺さん、いえでしやう…」と媚びるが如く先づ斥候を放って見た。處がお爺さん、例の短気者とて、中々そんな娘の策の攻撃に驚けむことこそ、こっちの目論見はガラリとはずれた。「又そんなことを言って居るね。帰ると言ったら帰りますよ。未練な事を言ふもんではないよ。それよりか、そうゝゝ仕度をおしよ。十時の軽便に間に合わないよ。ぐづゝゝして居ては……」サーゝゝ亦初まった。恁う来なければ日誌の材料にならないと心配していたら、すっかり豫想通り着々進行して行く。男も言葉を添えて「お爺さん、家の方は明日帰っても差支無い様にして来たのだから、今夜宿っても大丈夫なのだよ。私だって躰がやり切れないぢやないかね……」お爺さん、せせら笑って「ハヽ…からだがやり切れなければ、来なければよかった。帰ると云ったら帰るのだよ……」、又暫し、すったもんだの言合をして居たが、結局、爺さん少し怒り気味で「それぢや、お前はいつまでも宿って居るさ。私は帰るから……」恁うホッては最早居方無し。此の次はいよゝゝ喧嘩となるので夫婦も●無くあきらめて、帰る事になった。こうなると爺さん孟々急ぐ。自分で出かけて行って女中に時間を聞えて十分しか間がないから早く立てとせかす。こっちはもう十時のには間に合わないから、次の十二時で行こうと云う「第一私は腹がすいて、たまらないから昼御飯たべてから行く」と男が言ひ出した。處が爺さん「また、飯かい。オヤゝゝ」とあきれ顔「飯なんか、今から食べなくても、いいぢやないか。それより早く行かう」とせかす。然し実は其の時は、爺さんの留守に、最早中食の注文をして置いたのであった。之を聞えて爺さん「私は沢山だから食べない。それでは御瓣当にして貰って中で食べるがいいよ。」「中で食べるって、軽便は十二時発だから、それまでには終り、食べられますよ」……… 又ぞろ例に依って飯騒動が初まった。此連中は如何なる前世の宿業にや。来た時と帰る時と、二度とも飯騒動が持ち上るのは殆ど呆れた。十一時二十分餉台が来た。男が「お爺さん、御飯が来ましたよ」と云うと「私は食べない」と慳鈍な挨拶。「たべなくってもいえですよ」と男の言葉。此間に女が口を添えて「お爺さん、それでも一ぜん召上っていらっしゃいよ」と云ったが食べなかった。其の中にお竹さんにも勧められ、途中で食べるのも不便だから一ぜん召上がれと言われて遂に箸を取った。何のことだい。どうせ食べるなら、そんなに頑固を言わずに初めからすなをに食べればよいものを、と思った。全体若夫婦も若夫婦だが爺さんも随分一刻だ。モー少し、くだけて若い者の云うことも聞えやった方が善くはあるまいか。どうせ長く生きるでは無し頑固にして若い者ににくまれるだけ損だろうとつくゞゝ思った。十二時五分前、やうゝゝ一同「さらば」と出かけて行った。跡にはタッタ僕一人。家はシンとして浪の音のみ、いや高し。
 午後になって少し雨は小降りとなった。天は一面暗雲に閉されて西南の方を囲む山々には雨雲を以て頂上を覆はれた。それでも水平線に近く雲切れがして初島や大島ははっきりと見え出した。少し買物もあるし頭も刈ろうと思って宿で傘と下駄を借りて出かけた。雨は霧の如く降って居た。辰床で頭を刈って居る中に天井の切窓からパッと日光が映し込んだ。ハッと思って見ると空は雨雲が切れゝゝになって久し振りに太陽が顔を出したのであった。「お天気になればよいですがね」と床屋の言うのも御世辞ばかりで無く、僕も二三日雨天にホトゝゝ閉口して居る處だから、大に同意を表した。然し余り安心も出来ないと思った。代を拂って外へ出ると雨上がりの日光は眩しい様に照り付けた。恁うなると雨傘が荷厄介になって、殊に素敵な重い番傘と来て居るから大に閉口した。
 此頃ビスケットが大好きになって来た。先頃風月で十銭買って、今日は塩瀬で半片(十銭)買って見たら非常に差を見出した。それは塩瀬の方が遥かに甘かった。全体熱海の菓子屋は東京の出店か何か知らないが、塩瀬と云い、風月と云い、名を聞えては大変立派で甘まそうに見えるが、実際買って食べて見ると矢張り田舎流の菓子に過ぎない。塩瀬の練羊羹なども煮つめ様が足りない為か、いやにベトゝゝした、だらけそうな羊羹で東京出来の様にシコゝゝしない。徒に味も不味には推して知るべしだ。酒を止めて甘党になって見ると、矢張り可い菓子屋が無いのは非常に不便だ。何となれば酒飲みは灘の鶴でも正宗でも何地に行っても求めることが出来るが、風月や塩瀬の菓子は東京以外に求むる事は不可能であるかしら。
 夕方から空はすっかり晴れて、雨後の涼風はあながち寒いと云う程でも無く。、何共言ひない快感を覚えた。夕食後独り庭に出れば、天には無数の星が砂を撒いた様で、月も無き海上は徒らな浪の音のみ高く、眞暗であるが、珍しくも今宵ばかりは漁船の篝火チラゝゝと初島のあたりに輝き始めた。漁師も此二三日のしけで出る事が出来なかったが、漸く天候快復したので安心して業いに就けるものと思った。

     十一月十九日  水曜    快晴  暖し
 空は処々切れゞゝに薄雲に被われて居たが、朝食を済ました頃から,旭日がキラゝゝと輝き、九時頃からは眩しい程の好天気となった。昨日までの寒さに引変って、ホカゝゝとここち善く暖かい。湯から上って縁側に白毛布を敷いて、日なたの方に足を伸ばして今来たばかりの朝日新聞を開いて見て居ると、背中の方からヌクゝゝと暖さが體中に沁み渡る様な心地がして、何とも云えぬ好い心地であった。然し今朝は起きてから、それまでと云うものは非常に気持が悪く、徒らに呼吸のみ急わしくて息苦しく、頭はシンゝゝと壓附けられる様に痛み、胸まで痛んで大に困った。
 午前中から平家の方の客(浅原神谷)は子供や女中を連れて遊びに行った。然し自分は何処となく倦怠いので、湯から出て此の候、横になって、新聞や武侠世界を読んで午前中は暮らした。午後から運動にと思って散歩に出た。
 今日は四時十分の軽便で桂子が来るかも知れぬと思って、伊豆山までブラゝゝ散歩がてら出かけた。處が小田原行きの貨車が脱線して熱海行の軽便が来る事が出来ない。凡そ一時間位遅れるでしやうと云う車掌の話に、仕方なく歩いて熱海まで帰った。もう此時は五時少し過ぎで真っ暗になったので宿に帰ろうかと思つてる中に汽笛が聞えたので、多分此の内に居るだろうと考えて番頭に聞えたら「もうとうに二時三十分のでお着きになって御待ちになって居ます」と云うのでイヤハヤ知らぬと云うものは致方のない者。大に馬鹿ゝゝしくて話にならない。聞けば家を一番で出て来たそうだ。花崎に早速安着の電報を打つ。
 花崎の父上様から風月の練羊羹を一箱頂いた。いつも乍らの御親切には実に感謝の外無い。夕食後、早速茶を入れて御馳走になったが,有繁は風月本店(京橋南陣馬町大住㐂右門)だけあって肉がしまって実に旨かった。久々で家や花崎の話を聞き、皆々無事なので安心した。

     十一月二十日  木曜   雨  寒し
 昼食後、間も無く雨が降り出した。とうゝゝ終日どこにも出ることが出来ず非常に退屈な思いをした。
 午前九時頃、花崎から電報が来た。昨夜の電報が未だ配達にならぬと見える。実に田舎は恁うゆう時には不便な者とつくゞゝ感じた。花崎と自家へ桂子安着の手紙を出す。
 今日からお作さんに頼んで、御料陳は「伺い」にして貰った。此の方が好きな者が食べられて都合がよい。
 今朝は珍しくも大な帆船が一隻汽船発着所の処に碇を降ろして居たが、午後、帆を上げて初島の方向へ出向した。午後になっても雨は糸の様に蕭蕭として降り、いつ天気になるとも思われなかった。
 十一月十五日発行実業之日本に日雨桜主人の告白として==
 「東京に帰ったのは七月の初めであった。熱海の女は其後私の跡を追ふて来て、一週間も同居した。独身者の私は少なからず寂寥を慰められた。彼女が宇都宮へ帰った後、一の石幸なる報告を齎らした。彼女の朋輩が僅か三百円の金の為めに、学校を罷めて醜業婦に身を売らねばならぬ破日に陥れて居る。自分は朋輩として其境遇を見て居ると忍びない、といふて金を融通することは出来ない。此際便りのするのは貴下ばかりです。どうか私と思ふて救ってやって下さい。と涙諸共の手紙である。私は少なからず動かされた。まだ返事を遺らぬ内に、又々畳みがけに彼女から手紙が来た。三百円と思いの外五百円だそうで、其れが二三日内に調達が出来なければ、家屋敷は抵当流れになる。朋輩は吉原へ売られてしまうと、情に迫った走書だ。そして兄と私の身が片付次第、五百円が千円でも直に私から返瓣するからと書き加えてあるーーー私は五百円を銀行為替で送ってやった。
 ………それから二週間ばかりして彼女は困った顔をして私を尋ねて来た。姦しい継母は容易に財産分配に同意しない。父は好人物で継母に捲かれている。此節は毎日ゝゝ口論が絶えない。兄は怒って裁判所へ訴へるといふ騒になった。其れとしても兄は無一物で訴証の費用すらない。私の衣物から頭の物まで、買拂ったところが知れたもの。其れよりも、寧ろ貴下に、縋って、千円ばかり如何にか都合をつけて貰いまいかと思って、急いでやって来たとのことだ。(翌朝、宇都宮の弁護士だと云う男が彼女を尋ねて来た。現在の彼女の家庭の有様を細かに語り膝を拍って意気を示した。)私は自身の神経を亢奮せずには居られなかった。然して千円の訴訟費用を一時貸興してやった。彼女は嬉涙を咽んで弁護士と共に宇都宮に帰った。
 四五日経つと、会社へ一人の男が私を尋ねて来た。名詞に「呉田高子の夫、呉田武四郎」とある。「何に!高子の夫!!」私は吃驚した。呉田高子と云うは則ち彼女のことだ。其夫とは何事ぞ。「彼女には夫があったのか?!」私の血管は冷え切った私の胆は縮み上がった。私の体は物に驚きたる石像のようだ。私はペンを措いて、目を瞑ったまま我と我を失っている。……此男が私の前に腰を卸すや、其風末の険悪なるを見て、私は早くもそれを覚ったが、私は態と悠揚に構えた。すると彼の男は可然初対面の挨拶を鄭重に述べて、真向に主題に切込んだ。「時に私は棄置きがたいことを発見しました。貴下は私の妻たる高子の貞操をお破りになったではないか。私は名誉にかけて黙って居ることは出来ない。何とかして言譯を立てて貰はねばなりませぬ」「妻は私の質問に対して悉く自白しました。貴下も良心にお聞きになれば直ぐに分かる事だ。然しお考にならぬでも尤もらしく、イヤに構えないでも、貴下御自身に能く御承知の事だ。サア如何がして貰いましやう」「貴下も聞けば相当位置のある方です。私はことを荒て、貴下の名誉に泥を塗るようなことは固より好みません。だが私の胸一つでは、貴下は社会上の位置を失ってしまうことにもなりますよ。宜しいですか」彼の口よりは緑青なやうな青い焔が迸っている。私は蟒の前の鬼だ。「如何です。私は姦通の訴を起す考ですが。それで宜いですか」彼れは私に肉薄した。私は悪黨に対する智力を欠いて居たのだ。……「彼の女の奴、熱海以来,充分此辺の事を研究して行けやアがったな」私は胸に此う思ひ定めて、残念ながら劣者の位置を自ら認めねばならなかった。私は此際局面を俊敏を穏便に済ますことが、總ての智慧の中で最も賢い方法であると信じたので、二三日押問答の末、二千円の金で有耶無耶の中に葬ることになった。悪黨は不満足な顔で請取ったが、門を出るや定めし赤い舌を出して首尾を㐂んだであろう。私は実に馬鹿であった。取敢ず宇都宮に行って内々取調べて見たら、呉田と云う男も女も、又彼の弁護士何某というものも居たとはない。若しいたとすれば其れは一時宿屋の二階にでも、轉がって居たであろうということだ。「これは、すっかり計られたワイ。大枚三千五百円を瞬く間にマンマとやられた」宇都宮停車場のプラットホームへ茫然と立って居る私は、ポンチ僧にでもしたいようだ。此世にはどん底の又どん底があるものだ。美人に化けた社会の毒々しい底。私は三千五百円の入場料で一寸は其れを見物したのであった。社会学講義の謝礼と思えばアゝ腹も立たない。
………(幾年か立って、国から東京に帰るさ)国社津に来ると、突然後から私を呼びかけるものがある。見ると鎌倉の恩人だ。私は恐れと㐂びの中央を少なからず摩胡付いた。「どうした。あれから後は」と云って恩人は私の側へ勝を卸された。今熱海から鎌倉に帰るところであった。私は御無沙汰を謝まる外出す言葉もない。心臓の慄ひを勉めて制して、目今の職業を汚すと恩人は、其れは能く知って居るといって呑み込み顔である。恩人は私を食堂に誘はれた。幸に人は居ないので五年前の罪悪を白状して宥しを乞ふと、「恁んなことはどうでもよい。若い時はあるものじゃ。足下は其れを修練の一歩と思って居ればよいのじゃ」といって一向念頭に置れなかったらしい。私は過度に恩人を怖れていたことを今でこそ始めて悟った。「君の悪事だと悟って後悔すれば其で宜しい。是れからは遊びに来るがよい……」恩人は相変らず大なる人格の人であった。寛仁大慶の人であった。私が恐しい人のやうに思っていたのは私の心の処 めに過ぎなかった。私は晴れた朝に富士山の其れを仰ぐやうな気がした。…(彼れは友人の横井某に礦山事業の資金の一万円を貸した。處が横井は事業失敗の為めに、其の金を返金はおろか、娶るさいも養ふことが出来なくなった。勿論其の一万円は貸倒れとなったのである。嗚呼彼れは熱海の沃婦に三千五百円取られ、横井に一万円凌はれ、又数名の友人に借取られて、去年弟から請取った三万円の金も、今や僅か五千円しか、手に残って居ない。其の五千円も近来も待合道楽の借金を差引いたら、幾ら残るであろう。彼は  る心細くなった。其の結果、掻き乱れた頭を慰むる為め、彼は会社からの帰路は毎日ゝゝ待合入りに耽った。遂に部長から二三度は注意を受けたが、矢張一晩と免も酒と女が坐辺に居なければ寂しくて堪らぬ。とうゝゝ彼は「飲むで騒いで居りや可いのだ」という気になって、世間に対する真面目な考が総て錯乱してしまった。)
 遂に私は会社から首になった。其れが日露の風雪日に険悪を加ふる三十六年の歳暮であった。其の夜、鎌倉の恩人の病俄かに革るとの急報に接した。其の時私は蘭燈暗き待合の奥の室に酔潰れて居た。ーー耽溺の夢は破れた。駆付けん時はもう遅かった。恩人は冷たい骸となって永遠に眠って居られた。「勝雄君へ」と書いた遺訓がある。
 「請ふ真実の生涯を送れ。少なく語りて多く実行せよ。常に前に向て進め。後を見て惜む勿れ。人は日に新たなるべきものなり。」
 私は遺骸の前にて三度四度び之を読み返した。僅々五十字の枯れた筆跡も、私の衰いた面前には烈日の如く輝き渡った。私の弛んだ骨を秋霜の如く引締めた。いつのころよりか堕落の淵に陥った。私の耳に巨砲の如く響いた。私は恩人を弔ふよりも先ず自己の理性に立帰らざるを得なかった。私は是より新たなるものとならねばならなかった。酒臭い此臓腑を抉り出してしまいたい。移りゆく心の誘悪物たる此眼を打ち潰してしまいたい。反省の新しい光明が恩人の眠り給る修久の床より輝き出るかの如く感ずると共に、私は我知らず其前に倒れた。……(以下略す)
 彼れは恩人の遺訓に依って少なからず勵まされ、残り少ない数千円の資金を以て、陸軍の御用商人となり、遂に成功するに至ったのである。……嗚呼、何たる活きた教訓ぞや!何たる告白ぞや!世の数多の疲れたる人、道を踏み違えたる人、罪を冒せる人々には、実に此告白は千金の価値あるものと言わねばならぬ。 彼れは「熱海の女」に欺かれて大枚の金をせしめられ,甘き恋も幾何ならやうして、今更の様に彼女の毒刄に驚いたと共に、非常なる後悔をしたのである。「己は罠にかかったのだ!?」と初めて悟った時の彼れの心中や、そも、どんなであったろう!彼れは、此の冒せる罪悪に就て、恩人の前に何とも申訳が無いと思って、恐るゝゝ来実を告白になどと計らんや、恩人の大なる人格は既任を処にめずして将来を戒め、膵な裁判をして呉れた。かみならず恩人は死期に臨んで前に揚げた五十字の然かも千金の價ある遺訓を彼れに残された。嗚呼金を失い地位を失い、将来を思ひ、過去を悪む、冒せる罪悪に泌々後悔せる彼は遂に煩向の絶項に達し、遂には自暴自棄に陥り蘭墱燈影暗き待合の奥に酒と女に耽溺した。嗚呼、彼れは無と知りつつ、遂に悪鬼のなすがままに奔走せらるるに至り、其の結果は怎りであろう……自殺! ……と思ひ来ると誰れしも肌に栗を生ずるになるであろう。然かも世の多くの人は、かかる境遇の末路は期せずして「自殺」に一致するものが多いのである。嗚呼恐る可 たびゝゝ。然し彼の最後は此の外に手形は無かったのであろうと思ふ。然るに茲に「救ひの神」は表われた!鎌倉の恩人の一言は非常なる大なる力を以て、耽溺せる彼の心を深き眠から呼び起こした。「そんな事はどうでもよい。若い時はあるものじゃ。それを修練の一歩と思って居ればよいのじゃ……君が悪事だと思って後悔すればそれでよいのじゃ!」何たる力ある、なさけある言葉であろう?彼れは恩人の此一言に依って永きゝゝ夢から本然と醒めた。そして絶大なる力を得た様に思った。砂漠に水を得た様によみがいった。更に恩人は死期に臨み、彼に與へたる最後の遺訓。万人の以て坐右の銘となす可き千歳の金言を残した。是に依って彼は将来の自己の方針に立った。「過去ばかり悔んで居った所が仕方ない。私も丁度三十だ。人は日に新にならねばならん! …」斯く自覚した彼は千万の味方を得た様な強い心になって専心奮闘して、遂に成功の鍵をを掴むことが出来たのであった。嗚呼,偉なる哉!
 僕は此記事には非常に動かされた。それは熱海の女とは何物か知れないが、現在自分の転地して居る此の熱海の女!と思ふと此一片の記事も全く没交渉でなく、少なからぬ興味を以て読むと共に、亦自ら大に反省すべく決心したしたのである。嗚呼恐る可るは美の假面をかぶれる魔女なる哉!世の多くの人、自殺、罪人それら忌むべき事件の根元は何であろう!?皆「女」と「酒」に源因せざるはない!と思うと正宗の綺麗なペーパーを貼った酒!美服をまとひ脂彩を施せる窃宨たる美人! 嗚呼、何たる うべき悪魔であろう?

     十一月二十一日  金曜   雨         (日誌二冊目)
 昨日からの雨は今日になって止まない。暗黒なる雲は一面に天を被ふて、糸の様な雨は䔥々として降って居る。午後一寸雨止みを見て桂子を伴に大湯から海岸の方を散歩した。處が二三日来の雨で道は泥濘甚だしく、走行に少なからず困難を感じた。約三十分位で帰宅した。
 今日は一大事件が持上がった。二時半頃帰って見ると、花崎から電報が来て居る。見れば「ケイコヲトトイツイタハヅヘンマツカワシマ」と云うのだ。僕は此電報を見て少なからず驚いた。兎に角早速「ケイコ十九ニチブジツイタスグデンウツタツカヌカマサ」と云ふ返電を打った。実は十九日に桂子が来てから午後六時頃安着の電報を打ったので勿論其の夜の内には遅くも花崎へ届いた事と思って居たら、翌二十日の午前九時頃に花崎から問合せの電報が来たので、多分配達延着の事とのみ思いその旨手紙を書いて出した。
 それで事件は一段落を告げたることと思って居ると豈計らんや今日になって、又前記の電報に接したので非常に驚いた。早速局へ行って電報を打つと共に局員に「十九日の夕刻に是々の電報を受付けたる事なきや?」と問合わせたら、頼信紙を取調べて見たが、一向加須局宛の電報は受付せずと云うことであった。扱てはいよゝゝ女中か番頭の怠慢か過失か横領かに相違なしと思い、早速主人を呼んで断判に及んだ。処が兎に角云って中々出て来ない。しまいには本宅に行って留守だと申し出した。それなら女将にてもよし早速是れへ、と云付けたが矢張来ない。面倒臭いから呼鈴を長くゝゝ押して女中を呼び、又催促した。漸く女将が出て来たので、僕は先づ悠揚に構えて時候の挨拶から愈々本題にと切込み、委細話して召使の失態、将来の注意等を説き聞かせて女将の反省を求めた。「誠にすいません。召使から局の方まで充分取調べますから」と云って引下がった。それから帳場の方では主人等が召使を取調べ又局の方へも電話で問合せたらしかった。暫くすると、お竹さんと男の吉どんと云ふから、本人たる本宅の男菜とを伴って来た。そして吉どんから委細報告に及んだ。曰く「あの電報は此の本宅の下男に頼んで確かに局に出しました。然し当人がまだ馴れない者ですから、局へ行って頼信代を出し、局員が見て居たから其の侭帰って来ましたそうで、能く頼んで来ないのが、こちらの手落ですから許して下さい」と云う意味の弁解やら謝罪やらを長々とヤ述べた。僕はそんな下らない瓣解は敢て念頭に置かないので、否余り馬鹿ゝゝしい言い分けなので、皆まで聞かず「宜しい、そうやうことなら分かったから帰れ」と云ってやった。其の後は外の番頭やら女中やら皆来る度びに、電報事件に就て謝罪した。終りにお竹さんが二十銭銀貨を一つ持って来て、取て下さい、と云うから僕はムッとした。余り人を馬鹿にするも程がある。何もその銭が欲しくて言うわけで無い。断然、断ってやった。兎に角事件は有耶無耶に葬り去られたが、それでも皆んなで手をついて立派に謝罪したから許してやった。
 それにしても、花崎では什麽に心配して居るだろう! 家を出てから三日目になっても未だ何とも便りが無いのを見ると、何処かに行衛不明になったのでは無かろうかと今頃は一体どうして御じやろやら?とご両親様の御心痛はいかばかりかと考えると居ても立っても居られなくなった。然し今頃(午后六時)は三時に打った返電がついて居るであろう!と思って聊か心を押沈めて、兎に角、電報不着の委細の事を書面にして、花崎へ出した。處が合なもので夕食後手紙を出しに行こうと思ふて居ると、雨は沛然として車軸を流す様に盛んに降って来た。とても出る事も這入る事も出来ない。と云ふて此の大切なる手紙を一刻も早く出したい。さて什麼したらよかろう。今度  は番頭などに頼めば尚更不安心だし……仕方ないから思切ってどんゝゝ降る中を傘をさして裾をからげて郵便局まで行った。外は真暗であやめも分からぬ位、道は泥濘で急な坂道を雨水は滝の様に流れて居る。上からは遠慮なしに盆をくつがえす様なドシャ振りイヤハヤ何とも形容の仕方もない位、然し一心と云ふものはひどいもの、とうゝゝ局まで行って確かに、ポストへ入れて、ホッと安心した。ここまで来た序だから桂子の依頼は委て、貸本屋から小杉天外作「新學士」を一冊借りて来た。……電報事件は先づ斯の通り。要するにから無責任の下男を使って平気で居る此家の主人と云ふ者の心が、僕には見え透えて、少なからず憎悪の念を催すと共に、此家の将来が思はれる。兎に角、之れで最早や此家では僕と云う一人の新たなる得意を失ったのだ。イヤ僕ばかりでなく僕の知己朋友親戚等の凡ての得意を失ったのだ。嗚呼、無責任なる召使使ふ事は、取も直さず主人の人格に堕し、延えて大切なる得意を失ふになる事を思ひば「自ら完きを慾せば完全たる下べを使へ」と云ふ事は一つの金言に成りはせまいか。

      十一月二十二日  土曜   晴  夕刻少雨
 桂子が来てから、毎日雨天で、何処にも出る事も出来ず室内に勢居して暮さねばならなかったが、今日は朝から晴天で嬉しいかった。然し昨夜の雨は実にすごい程激しくて、夜半には強風となり丸で暴雨風雨であった。「こんなに降っても明日は御天気になるだろう」と予報言は的中した。
 午前八時頃、花崎から二十日夜出の書面が来た。此度の事件に就てすっかり花崎の父上様に怒られてしまった。然し昨日午后の第二電報で最早分かった筈だとは思ったが、念の為め「恁んなへまな時には、又人什麼間違いであの電報が届かぬとも限らぬ」と思って、無駄とは思ったが、萬一何かの故障であの電報も着かなくて来度に心配して居られる様な事があっては、此度こそは愈々花崎から父上様の御出馬を煩す様な事にでも成っては其れにも一大事だわい。と考えたので更に午前八時半頃第三電報(ケイコブジニドデンウッタ イサイテガミマダツカヌカ ヘンマツ コ)を打った。此度は何とか返電があるだろうと思ったが、尚出詳細に書面に書いて謝罪の手紙を花崎へ出し、序々自宅の信次に宛て、二十五日帰京の事を通知した。正午頃丁度花崎から返電(キノウヘンアツタチヨテンシタアンシンアレ)だ来たので、これで漸く双方とも安心が出来た。イヤハヤ桂子が来たので、イヤ番頭の不都合の為め、飛んだヘマを打って、花崎へ心配をかけると共に、こっちでも少なからず気を揉んで、恁麼莫迦ゝゝしい事は無いわいと思った。然しこれも矢張修練の一歩だと思ひば腹も立たないが、今朝まで云ふものはこっちでも痩せる程心配した。花崎の此心配は実に思いやられと考える。何だか熱海もつくゞゝいやになったので、帰京を繰上げて廿五日に帰る事にした。
 午後から、桂子を連れて、御案内旁、トンネルから魚見崎錦浦へ行き、それから御用邸の裏を通って梅園まで行った。先ずこれで熱海の名所は皆な見たのと同じ事だ。
 トンネルを出ると錦浦の出鼻にある例の空家に一人の若い男が居て、錦浦の景色を写生して、油絵を書いて居た。其若い男は身に茶縞の古い洋服をつけ、スボンの股あたりの鍵さきの処から毛のはいた足が見え、頭ははいからで鳥打をかぶり、古靴をはいて、カンバスに向て筆を取って居た。僕等が行った時には丁度一時過ぎなのに係らず、今弁当の立食をやって居る處であった。僕は此の若い画家を見て、何だか、あの「生かさぬ中」の画家、日下部正哉を思ひ出した。
 トンネルの例の爺やの腰掛けに、ついて一服やった。持って来たものは汚いかけ茶碗に渋茶一杯と幾度役に立ったか知れぬと云う様な履歴付きの柿三つと林檎二つを塗りのはげた御盆に載せて持って来た。私は我慢して茶を一杯飲んだが、桂子は汚ながって何にも食べなかった。漁師の話を聞えて、そこゝゝに辞して去る。梅園に行った頃には何だか、空は急に黒雲に被はれて、今にも大雨卒然として降って来そうな天気になった。実に撫松庵で名物の蕎麦を食って来る積りで居たが、園内を半分程歩いて居ると、山の方でゴロゝゝと云う時ならぬ雷鳴が初まったので、さては愈々夕立にでもやって来られては一大事!と思って碌々見もしないで大急行で尻端折で飛んで帰った。来宮様の前まで来ると、先づこれで一安心と思って、未分急に降って来そうもないので、大楠木を見せた。「しまった!」「何ですか?」「ふんづけたよ」「何を」「糞を…」「イヽ」と驚いたが、見れば僕の草履の左の内側にペッタリ踏みつけてしまったにはホトゝゝ閉口した。止むを得ず紙で足を拭つて、それから谷川の流れで手足を洗った。どうも此頃は碌な事はないと思った。 桜ヶ岡の新道を通り、鈴木屋の前の通りに出ると停車場出迎のどこかの番頭さんが「あなた、時計が…」と注意されて「ハッ」と思って見ると、僕の金時計が帯の間から、ブラリとつまらなそうな顔をして、ぶらさがって居る。イヤハヤ僕は熱海へ来てから、時計を人から注意されたのが、丁度これで二度目だ。随分自分では注意して居るのだが、知らぬ間に時計の奴、あきると見えて世間の見物に出かけるには閉口する。然し時計のぶらさがったのを知らずにすまして歩いて居るのは、実に見っともないも、取りも直さず莫迦の標本だ。嗚呼、僕も此の名誉ある肩書を得たわけか、と思ふとなさけなくなる。
 宿に帰ると、ぢきに雨が降って来た。実に危機一髪の處だった。帰ると間もなく、女中が「つまらないものですが…」と云って、みかん九つと林檎四つを朱塗の盆にのせて持って来た。丁度喉が乾いて居るので、非常に甘かった。



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熱海療養日記(5)

2013-10-12 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

轉地日誌No.1            熱海日記(5)

     十一月二十三日  日曜   晴
 もう明後日、帰ると決まって見ると、何だか東京が恋しい様にもあり、亦熱海が残り惜しい様な感じも起って来る。午前中余り天気がよいので、一寸出て病院の方から汽船発着所、釣堀を経てすぐ帰った。午後からは土産物を買ふべく町へ行き、渡辺で白菊さいはい一打、雁皮紙半切三状、椿油二本、封状、雁皮製懐中髪道具入等を求め、次に塩瀬で温泉せんべい、温泉あめ、梅羊かん、わさび羊かん等を買って来た。
 それから大湯の前へ行くと丁度今盛に湯を噴出して居る處なので、折よく桂子に見せる事が出来た。今日は旗日と日曜の所為が珍しく噏気館の中は見物人で一パイであった。いいかげんに切上て梅園に行き、撫松庵でそばを食って行かうと思って立寄ると此処も御客で満員で例のハイカラさんが笑いながら来て気の毒そうに御合憎様だというので、仕方なく退却して、今度は住吉へ行き麦とろを食った。此処に中年増のハイカラに結った女中と二十四五の隤しのいちょう返しに結った女中と二人居て、盛に謡猥な話をしては高笑をして居た。これも矢張淪落の女だろう。
 久しく鼻の治療の為め、小田原に行って不在だったお歌さんも昨日全快して帰って来たとの事、今朝物干場でそう云った。

     十一月二十四日  月曜   快晴
 朝から莫迦にキラゝゝして、室内に居ては単衣物でも丁度善い位、何だか余りほかつく所為か、頭痛がして困った。午前髪結女が来た。
 午後に成って益々気持ちが悪いので、外へでも出たら直るかと思って出て見たが、矢張いけない、のみならず倦くてゝゝ足が先きに出なくなり、頭は痛むし目はくらやみ、実に何とも名状し難い厭な心持になり、そこゝゝに帰って来て、其侭三四時間も寝て居た。恁麼事なら死んだ方が楽かと考へる位だ。実に世の中に生きて居ると云ふ事の真理が何物であるか僕には捕捉する事が出来ない。町を通って見ても人々が働いたり、遊んで居たりするのが、何の目的で恁うして居るのか実に莫迦らしい話だ。一生懸命働く人は、金を蓄めて楽に暮さうと云うのが目的か。又温泉場なぞへ来て沢山金を費って威張って居る人は、唯湯に這入って遊んで居るのが楽しいのか。…恁う考へて来ると実に世の中の人間程莫迦揃ひの者は無い。離て遠くに見ると、自分は何の目的で恁麼處に来て金を費って居るのだろう。病気を療す?莫迦!出た病気が何をしたって療るものか。博士の処方の薬でも、世界第一の霊泉でも病気には少しも利きはしない。それで療ったと思うのは間違で、療る病気は何もしないでも療るのだ。若しこれが真理ならずとせば、天子様や金持は何時になっても死ぬ事無しに三百年でも五百年でも否永久死ぬ事は無く、これに反して貧乏人や乞食は一人も生きてる人は無い筈だ。處が事実は全く之れに正反對で、前者は虚弱者多く、後者は強壮者多きは、之れ僕の主張の活きた証明ではあるまいか。僕は何も好んで生きたいとは思はない。どうせ時期が来れば一度は死ぬもの。早かれ、遅かれ帰着する處一ツだ。説や世の中に活きて居ると云ふ事の終局の目的さへも分からぬる於ておや。焉ぞ生を楽しみ、死を恐れんやだ。世間の人が十人が十人、無闇に活きたがるが何の為めか僕には解するに苦しむのだ。そうかと思うと無理に死にたがって、身を投げたり、首を縊たりする者も時々有るが、此れも亦何の目的でそんなに生きる云ふ事を恐れるのか、世の中が恐ろしいのか譯が解からない。そん麼に急がずとも、時期が来れば厭でも應でも目的は達するに決って居るのは、扨てもわからざるやもあったものだ。僕の考へでは以上挙た二つとも、不同意だ。活きたがるも、死にたがるのも全然間違って居る。そこが凡人のかなしさで活きると云ふ真実も解からなければ、死ぬると云う目的も解からないのだから致方もない。

     十一月二十五日  火曜   晴

 豫定の通り、今日はいよゝゝ熱海を出発する事にした。午前八時五十二分の軽便で宿屋の者共大勢で見送られて、鈴木屋を出発した。今處は二人だから三等で行ったが,左程に混雑しなくて結構だった。小田原に至る途中、蜜柑が真赤になって累々と結果して居るのを見受けた。国府津へ来るとヒヤゝゝと寒さを覚えたには驚いた。此處で一時間待合せて、其の間に昼食のサンドエッチを食った。午后一時五十分の汽車に乗る。桂子は来る時に軽便で吐いたので、今日は昼食は取らなかった。
 午后三時五十五分新橋着。障り様と思ふて信也と清とが車室の側まで出迎に来てくれた。私は荷物と共に人力に乗りその他は電車で神田の寿代家へ落着いた。夜四人で夕食を共にし、九時過ぎまで熱海の話に花が咲いた。旅行をしても思った程に身体は疲れなかった。鈴木屋の料理を食った上りに、寿代家の料理のまづいのと、さしみのベロゝゝには閉口した。それから寒さの強いには非常に驚いた。熱海とは大変な相違だった。
 旅行疲れで、何にも知らずに、ぐっすりと寝入った。

    十一月二十六日  水曜   晴
 今朝は青山博士の診察を受けるので、朝薄暗い中に起き出した。寿代家の朝食は早くても七時半くらいになるので、迚ても間に合わぬから朝食は食わずで顔を洗って、すぐに出かけた。青山先生の家へ行ったのは七時頃で、例の執事が廊下を掃除して居た。待合室へ這入ると、ストーブは盛に燃えて居るが誰も居ない。愈に先頭第一となった。暫くすると五六人の患者が漸々に来てにぎやかになった。八時頃第一番に診察を受けた。先生の云うには以前と大した相違はないと云って居たが、何だか怪しい者だ。処方は●酸グアヤコールに○、五位を用いピラミドレの代りに
              アスピリン   一、五
                 但シ  バエエル商会製
     九分三色一日三四分服       青山 ●通 ㊞
の処方を呉れた。そして熱海は一月までは可いが、それから先きは風が激しくて不適当なりとと云われた。沼津は?と聞くと此處も同様風の吹く處にて不適当也。理想的の転地療養所は須磨であるが、我慢すれば興津にても宜しと云われた、ので興津へ行く事に決めた。
 宿へ帰ったのが九時頃で、朝飯を食ってから●りと三越へ出かけた。気に入りのセルがあったので僕の羽織にもと思って一反買って来た。
 三越前の牛屋で中食をしてから、両国国技館の菊を見に行ったら第三日限り閉館なので馬鹿を見た。仕方なしに浅草に行き、浅草国技館の活動を見たら、西洋者でチットも面白くなかった。夜は寿代家で夕食後小川町へ散歩に出た。桂子は土産物の下駄やらその他の物をシコチコ買って来た。

      十一月二十七日  木曜   晴
 朝の内、桂子は髪結に行って来た。今日午后二時三十分浅草発の列車で帰宅するので、何処へも行く暇もなかった。上野に行って見様と思って出掛けたが、忠勇社の前まで行くと、小さな写真器が目に付いたので急に欲しくなり、とうゝゝ実地撮影の結果、左を買った。Pocket  Menax Camera
 最機 、金属製取枠六個 皮製袋付 ¥.9、50.
帰りがけに須田町で廣瀬中佐銅像を取った。
 午後四時過ぎ無事帰宅した。
                                       熱海療養日記おわり


  
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以下 翌年の興津・沼津日誌につづく
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熱海の写真はありませんが、この時買った小型カメラで撮った思われる、興津と沼津の写真がありますので載せます。(大分痛んでいて、多少修正をしましても、よくありませんが掲載しました。日記作者の撮ったものですので・・・)


   
正之本人と兄弟(良平・信次)の当時頃の写真と思われる。

 
島村伯父と正之の従兄同士の写真

 

東京帝大農科大学実科答辞
  珍しいと思うので! 
 



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