昔から受け継がれている祭事や伝統と習慣が悪い事と考える人々が多いと感じる。その割には創業100年以上の店舗や歴史を追う人々もいる。自由な意見や表現と考えを禁じる事は出来ないが否定する事は可笑しいと思う。近年、上から目線とか半ば強制的に決めつける意見を話す事が例えられているが上から目線の話しをする人々程、では自分はどうすれば良くなる?と聞いてみると意見は古い事が悪いと思う事だけが優先し内容を吟味していない。無駄な事も多いと思うが地元名産物でも色んな無駄な手間や伝統を引き継ぎ工場での大量生産では無理な事が多いが似ている物を作る事は可能だと思う。では、無駄な伝統技術で高価になる人の手で制作される物が必要ないかと考えるか?似た様な工場生産品で補えれば人間の手による伝統製品は終焉させて良い物なのか?意見は分かれると思うが工場製品に負けてでも細々と伝統を引き継ぐ事も自由だと思う。近代社会では工業製品一色だったが最近はITと言う情報による米国商売。だが、これは伝統がまるで必要ない。散々書き込んでいるが陳腐化したアーキテクトは何も疑問に思わず使い続けうわさ話の速報性やキャンペーンに裏がないと信じ込みWEBを見て殺到する。株価も何も情報に裏が無いと信じ込み何かの実績の有る人物を神として崇めている。但し何も生まれる物はない。それを何年も続けていれば産業や伝統と文化は衰退して無くなる。私は人間が今まで生きてきて無駄な物や無駄な事は何もないと信じている。その事が先の進歩や反省に通じると考えている。単に生活や自分の為に生きている人々が多くなれば人間の進歩は止まってしまう。今がその様な行き詰まりの時期に有ると考え老舗を残す事にも考えつつ新しい技術や考えを開発し人間の5感は変わらないのだから人々は全体で生活する事や自然と融合する事を考えて見直してみては如何だろうか?例えば野菜を見直すと自然環境、コンクリート開発で水や木による腐葉土が変化し本物の昔からの野菜の旨味は消えていると思いませんか?開発行為と利便性と儲け主義による大量生産と味覚を失う事を考えてみて下さい。米も家畜も良い時の技術を失って来たと私は考えています。感覚を少し戻さないと必ず滅びる時が来ます。気づいて下さい。気づく人が多くなれば救われる事でしょう。政治も低俗で餓鬼以下の知恵でしかない。専門家やカリスマが居ない。内閣を改造しても意味は無い。次の顔ぶれを想像しても新しさは無い。私なら専門職の老舗の人間とフォローする若い人を融合させる考えで組み込むが多分速菅総理には考えすら出来ないだろう。国民生活第一は小沢が考えた事。こいつらには何も出来ない。幹事長に小沢を戻せば少しは考えたと判断出来るが絶対に無いだろう。副大臣が補佐するのでは無く対抗意見が言える人事が反省やエゴを生む事や消滅させる事が出来るんです。派閥が無いなんて嘘です。人が群れれば必ず派閥は出来る。それをチャイルド自民党も打破出来なかった。キッズ民主党では峠すら登れないだろう。国民も馬鹿さ加減に気づかないと5等国に落ち込み金、物、魅力の無い国に成る可能性は多く含んでいます。