毒親育ち☆もみくちゃん🥳

人生もみくちゃん🥳を知ってもらう為のブログ✍

ご飯に関する話🍚

2022-01-20 19:50:22 | 虐待行為の話

 ご飯を食べられないのは自分がママを怒らせたから。

 取り上げられたご飯、シンクの上に置いといてくれる時はまだチャンスがあった。ママがあのご飯を捨てるまでがタイムリミット。それまでに少しでも早く、許してもらわないと、今夜のご飯は捨てられて、明日の朝も出てこなくて、昼も夜も、その次も、もう出てくることはないかもしれない。

 私はいつも、食事の時間が怖かった。

 一生懸命謝れば謝るほど空回り。損ねた機嫌がどんどんどんどん斜めになっていって、そしてその内もう許されない所まで滑り落ちていく。

 小学校、中学校まではよかった、給食があったから。給食があるから平気でしょ、死なないでしょって鼻で笑われながら捨てられていくご飯を見てた。でもその通りで、給食は平等にもらえるし、なんならおかわりしてもいいし、嫌いなおかずがある子の分を食べてあげたら感謝されるし、パンも持って帰れたからご飯のなかった日の夜中にひとりでひっそり、もさもさしたパンをゆっくり食べた。少し食べて、次の時にもまた食べられるように取っておこうとして、カビが生えた時は死ぬほど悲しかったっけ。カビパンが見つかるとまた怒られちゃうから、誰にも見られないように山の方に投げたことも少なくない。

 食べかけで取り上げられるのは本当に辛かった。どこで間違えちゃったんだろうって、巻き戻し機能のない現実世界を恨んだ。

 そんなに食べたきゃ食べればいい、っていって、フローリングの廊下、置かれたご飯の前に正座して、大盛りご飯二杯とてんこ盛りのおかずを五分で食べろってタイマーがセットされる。なんの味もしない、ただ熱いだけのごはん。床で食べてるなんて犬じゃん、って笑われながら。噛んでも噛んでも飲み込めなくて、無慈悲に鳴り響くタイマーを投げ付けられると、そこからはもう、挽回できることは何もなかった。残りのご飯はそのままシンクかゴミ箱行き。手近にあったリモコンが飛んできて、蓋と乾電池が弾け飛ぶ。素手で殴られても痛い、髪の毛掴まれて持ち上げられても痛い、床に倒されて馬乗りにされてビンタされるのも痛い、髪の毛で引き摺られて玄関の土間に落とされたら痛い、そのまま外に蹴り出されるのも痛い、お願いだからもうやめてくださいってお願いしても、痛みに泣き叫んでも、うるさい、気持ち悪い、ぶさいくがもっとぶさいくだ、ってもっと酷い目に遭う。だから両頬の内側を噛み締めて、声も上げない、泣きもしないようにだけ、ずっとずっと耐えるようにしたら、それはそれで、感情がないのか、泣きもしないのか、生意気だって殴られるって分かってしまったら、もうどれが正解なのか、何が正しいのか、何をしたらいいのかさっぱり分からなくなってしまって、私はそういう時に自分の体がふわりと軽くなって、本物の自分より幾らか浮かんで、斜め上から私を見下ろしている感覚に陥るようになっていた。もしくは斜め下、もしくは少しだけ後ろ。泣いて謝っているその口元が歪んでいるのを見て、この人はなんで泣きながら笑っているんだろうと不思議に思ったり、丸まってお腹と顔を守る姿に無様だなぁと思ったりしたものだった。

 「それ」と「私」が同じということが分からなくなることは、しょっちゅう起こった。母は素手で殴ると「お前のせい」で「手が痛い」し「痣になる」からと、ハンガーだとかリモコンだとか掃除機の柄だとかで殴るのが普通になっていって、そこに蹴りと髪の毛の掴みが加わって、気が散ればもう最後、力でも背でも叶わなかった私は軽々と引き摺られてしまうので、できるだけ長く丸まる必要があった。横腹からの蹴りでそのまま転んで上を向かされてもだめ。

 ああ、そうか、ご飯の話だっけ。

 ごめんね、どうしてもご飯の時に痛いことは大体セットだったもので。

 基本的なパターンはいつも同じだった。

 ご飯までの間に地雷を踏んでしまったら、ご飯を用意してもらう前におしまい。その日のご飯はほぼない。もし解決できたらワンチャンある。

 お父さんが単身赴任するまでは、お母さんが風呂に入っている間や、寝付いた後に、お父さんがこっそりとご飯を用意してくれたりもした。見つかればお父さんまで怒られるからって、音をできる限り立てるなよって言われて、それでも、夜中にお父さんが作ってくれた目玉焼き丼や卵かけご飯、インスタントお茶漬けは美味しかった。ごめんな、とは言われたことはないし、どちらかと言えば「お前が悪いんだぞ」の言葉の方が多かったけれど、でもまだ「しんどいな」「大変だよな」のような言葉はかけてくれた。でも、そうやって影で助けてくれようとするのなら、毅然とした態度でお母さんに立ち向かって、私や弟を守ってくれたらよかったのにな、って、思ってしまう。お前の暴言暴力にはもう付き合えないって、手を振り払ってでも子供を連れて逃げてくれたらよかったのに、って。

 そんな中途半端な優しさを見せてくれたお父さんが家に帰ってくるのが週末だけになると、お母さんの情緒不安定さはより増していって、地雷を踏む確率も上がっていって、でも助けてくれる大人は誰もいなくて、私は二週間ご飯を食べられないことは寧ろ普通の状態になっていた。

 中学も卒業してしまって、給食がなくなって、お弁当を毎日持っていかなくてはならなくなったけど、朝機嫌を損ねてしまうと朝ご飯から抜きになる。朝ご飯をクリアした後だと、お弁当は作らないと投げ出される。でもお弁当用にも考えて炊いたご飯が無駄になるとキレられてしまうので、女子高生が二段弁当の両方に白飯を詰めて持っていく。勿論梅干しやふりかけの類いは一切なし。白飯オンリーを二段。丁度よくぼっちだったので、校舎の影で冷たい白飯二段を平らげた。

 でもそれってまだマシなのだ。「お前に食べさせるご飯なんて炊いてない」「お前が使っていい食材なんてない」そんなことを言われてしまうと、もうお弁当箱に白飯を詰めていくこともできない。何も用意できない。こっそり持っていって酷い目に遭ったこともある。だから諦めるしかなかった。諦めた方が平和だった。

 昼食の時間に手ぶらの私は、あまり人の来ない水道かウォータークーラーにへばりついて、ひたすら水で腹を満たした。それしか方法がなかった。お小遣いは文房具に使わなくてはならなかったし、それもすぐに尽きては「借金」と称されてお金をもらっていたので、購買で昼食を調達することもできなかった。水は無味だったけれどそれでも美味しかった。

 けれども私は痩せていたりなんかしなかった。むしろ太っていた。太い足だと母にも先生にも笑われたことがある。自分では勝手に、過食と拒食を強制的にさせられてたことで太っていたのだと思っていたのだけれど、そのエピソードとご飯抜きの話を、大人になってから医療関係の人に話してみたら、それは浮腫んでたのかもしれない、と言われた。浮腫み、なんて私の中には一つも可能性として考えたことはなかった。けれど、学生時代、私は確かに排尿の回数も少なく、体育をしても汗の出ない体質だった。水分を摂取しすぎていて、でも発散するところもなく、浮腫んでいただけだとしたら、よっぽどの食生活だったということだ。

 実際実家を出て、まともな生活をしていたらするすると10kgは落ちた。その後、無茶苦茶な生活をすることになったので、更に10kg落ちることにはなったし、妊娠出産を経験して適正体重に戻ったし、これを書いてる今(20221月)現在では、薬の副作用で20kg太ることにはなるのだけど。

 ……まあ、そんなこんなで私は食事が好きではない。一時期は自由に何でも食べていいことに感動して、あれこれ食べ漁ったけれど、それもすぐに治まった。治まった先にあったのは、食事に対して興味がない、という、人間失格な感覚。食べることは楽しくなんてないし、面倒臭いし、固形食とか某チャージ食みたいなもので十分だと感じる。けれど、普段はそんなこと黙っている。誰もメリットのない話だ。お陰様で好き嫌いもほとんどないので、余計に話すメリットがない。この感覚が、元々生まれつきだったのか、それとも毎度ご飯のときに怒られたり捨てられたり、食べさせてもらえなかったり、逆にめちゃくちゃ食べさせられたことによる、後天的な欲求の薄さなのか。それは分からない。でも、とりあえず支障が今のところないので、実生活では別に黙っておけばいいと思っている。

 おかしな能力として、匂いを嗅いだら大体の食べ物は想像出来る、という技を持っていたりする。しかも、匂いを嗅いだだけで、食べたような感覚が口の中に広がって、実際にお腹が満たされたりもする。想像だけでもいける。よっぽど飢餓状態だったが故に身についた技なのか疑問だ。夕方の住宅街を歩いて、各家庭の晩御飯を想像しては満腹になったりする。でも実際には食べてないので、しばらくして、信じられない時間にお腹が空いたりする。不便なんだか便利なんだか分からない。

 ご飯に関する話はこんなものだろうか。

 余談だけど、私は今もセルフで過食拒食みたいなことをしてしまう。食べても食べても足りない周期と、白米を一切受け付けない周期がくる。最近は食べても食べても足りない周期が長く続いてて、更に太ってしまいそうで怖い。でも食べるのを辞められない。食事なんて大して楽しくも嬉しくもないのに。早く痩せたい。というか食べずに済む体が欲しいです。


しばらくぶりです。

2022-01-18 14:25:30 | もみくちゃん🥳について
 ブログもRealityという配信アプリもYouTubeもすっかり放置してしまいました。
 お久しぶりです。覚えてくださってますか? もみくちゃん🥳です!

 もみくちゃん何してたんだよー!って感じだと思いますが、まあ普通に日常と格闘して、違うアカウントと配信アプリでライバーデビューしたり、「イグアナの娘」という昔のドラマの一気見したり、そこそこ忙しくしていました。鬱と躁の状態に揉まれたりね。でも基本は元気でしたし、今も割と元気です、安心してね😊

 さて。私の毒親問題に少し進展がありました。というのも去年連絡は取れたものの、私の話題の出し方がへたくそすぎて、怒らせてしまった妹に、約1年ぶりにメッセージを送ってみたんです。そうしたら返信があって。数日間ずっと連絡をやり取りしました。
 その中で分かったのは、私が実家にいる間は溺愛されていた妹が、自身の反抗期を迎えたと同時ぐらいに、母から私と同じように暴力や暴言を受け、洗脳され、虐げられていたことでした。私はずっと、自分が虐待されていたことも、半分ぐらい夢だとか妄想だとかで、本当は優しい家族だったのではないか、と思っていたので、すごく驚きました。
 私の妄想でもなんでもなく、あの辛い日々は現実だった、と。

 できれば気の所為であって欲しかった。あんなの、現実だと思ってたら気が狂ってしまうから。実の親から嫌われてるという残酷な現実なんて見たくなかった。
 でも、やっぱり現実だったんだ、って気づけてよかったんだと思うんです。妹が母から暴力暴言を受けてたと知ったとき、私は実家から離れて初めて、というか生まれて初めて、ちゃんと親に対して、怒れた、のです。

 私にとっては、私がいなくなることで、残った4人の家族が上手く生活していけるかな、なんて思ってもいましたが、そうはならなかった。それは私がサンドバッグになって妹たちを守っていたこととも同義。スケープゴートとして、弟と妹を守れていたのなら、私の存在にも意味はあったのです。
 結局置いて出ていく選択をしてしまったけど、妹は許してくれました。寧ろ、私の気持ちが分かるとも言ってくれたので、私の中にあった妹への罪悪感は少し薄れた気もします。本人からの言葉はやはり威力が違いますね😳

 数日のやり取りは、妹にとってはやはり負担が大きかったそうで、一旦終了にはなりました。先に「しんどくなったらいつでも止めていいからね」と言っておいたことが功を奏したのかな、妹が自己主張できる子でよかった。苦しめる話をしてしまったのは、とても心苦しいものがありましたが、私にとっては、また歩き始めるきっかけになりました。親族に味方のいない私と妹だからこそ、互いが毒にもなりかねないので、そこは時々休みながら、接していきたいと思います🙂
 私まで妹の負担になったら元も子もないですからね。

 でも、一つだけ、とてもよかったことがあります。妹が、メッセージ内で「今はすごく幸せ」と言ってくれたことです。
 私と違って妹は自らの意志で家を出たそうなので、後悔に飲み込まれないで、「今」を精一杯生きて、そして幸せでいてほしい。もっともっと幸せになってほしい。私の願いはそれだけです。

 欲張っていいのなら、以前の記事でも書いた通り、私は母にも父にも弟にも幸せになって欲しいのですけれども。私のいないところでも構わないから、幸せでいて欲しいと思ってますけれども。
 でも、あの人たちはきっと私や妹の幸せは祈ってくれないのも分かってるので、程々に祈っておこうと思います。あの人たちが例え幸せでなくても、それは私の責任じゃない、と言い聞かせていよう、と。

 10歳年下の妹。10歳のとき以来、会ったことのない妹。彼女はとても強い人に、そして大人になっていた。庇護されなきゃならない子供ではなかった。私は彼女の成長に拍手を送りたい。立派になったね、と、想像しただけで涙ぐんでしまいそうになるくらいには、私もちゃんと「お姉ちゃん」だったのです。それだけで、もう何も言うことなどないのです。
 妹が辛いとき、傍にいられなかった不甲斐ない姉ですが、これから先はできる範囲で支えてあげたいと思います。いや、もしかしたら、妹は私の助けなんて必要としないかもしれませんが、万が一、私の助けが必要になったらどうにかできるような心構えだけはしておこうと思います。14年分の妹孝行。お姉ちゃんはいつだって味方なんだよ、と伝えていきたいです。

 今回は妹の話になりましたが、また虐待や毒親問題の話をちょっとずつにはなると思いますが、書いていこうと思います。私や妹みたいな子供をこれ以上増やしたくない。そのためにできるのは、私の体験談や考え方を書くことだと思うので、できる範囲からやっていこうと改めて思いました。
 ……弟に関してはとりあえず置いておきます。いつかSOSを出してくることがあれば、そのときには私にできることをしてあげたいですけれど、彼は根性や忍耐力がないのにプライドだけは高いのです。今はきっと、目の上のタンコブだった私もいなければ、愛情を横取りされた妹もいなくて、自分だけを見てくれる環境に満足してる可能性が高いです。それならば、本人がそれでよいのなら、それでいいか、と思うようになりました。

 久しぶりの更新でした👏
 そんなに間が空かないうちに、また更新なり、動画を撮るなりしたいと思います✨

 それでは、また👋

過干渉ってどんな感じ?

2021-07-16 15:20:00 | 虐待行為の話
 こんにちは、こんばんは、もみくちゃん🥳です。
 今回は、前々回のブログ⬇
 ここに書いた中から過干渉だと感じた親の言動について書いてみようと思います。
 といっても、私自身、感じ方も、記憶も、とても曖昧なので、全然過干渉じゃない!😡と言われてしまうこともあるかもしれません。
 ご指摘はいつでも受け付けていますので、やんわり教えていただけると助かります🙏

 とりあえず手探り状態になってしまうので、⬆の記事でもご紹介した、
 を参考にして、書いていきたいと思います!

  • 心配性
  • 失敗を極度に恐れる
  • 先回りして子供のリスクを徹底的に取り除く
  • 子供のプライバシーに平気で侵入する
  • 子供の評価=親の評価だと思っている
  • 実は子供を信用していない
  • 子離れできない
 の、7つがあげられていました。いざ、検証!(?)してみましょう🤔

心配性
 少し帰るのが遅くなるだけでもダメなほど通学の時間に関しては厳しく門限を設定されていました。心配性だったから、だけではないかもしれない。心配が安心、安心が怒りへ変わるタイプの母でした。
 また、爪切りや耳掃除、身辺管理、またお茶をつぐこと、ご飯をよそうこと、なども高校生まで母がやっていたのですが、それも心配性だった、という1つの理由かもしれません。

 「あんたに任せるのは不安」と1日に何度も言われて、私に自主性が芽生えるはずはなかったですね🤔
 (けれどそのうち「いつまで私がやらなきゃいけないの!?」とキレてしまうのが私の母でした。)

 日常生活の心配されるレベルがそんな感じだったので、もちろん、外での生活(学校や友達付き合い)はもっと厳しく管理されていました。
 基本遊びに行くのは事前に言っておかなければダメ、伝えておいても当日急にダメだと言われてドタキャンの電話を友達に何度かけたか分かりません。そのうち「あの子誘っても無駄だよ」とコソコソ言われるようになり、クラスメイトから遊びに誘われることはなくなりました。

失敗を極度に恐れる
 上記の日常生活内でもそうですが、母は自分の失敗も私の失敗も、恐れていたのかもしれません。

 私は確かにおっちょこちょいで、何をやっても失敗するダメな子でしたが、だからといって、失敗する機会すら与えられないと、こどもは学ぶことすら奪われるのだと、今なら理解できています。
 失敗するのが悪いことなのではなくて、失敗したのに反省しないことや、失敗したことに対して嘘をつくことが、悪いことなのだと。
 私はそれを、自分の子供たちの失敗する姿や、失敗した後に落ち込む姿を見て学びました。

 失敗は、悪いことじゃない。

 そう、断言していきたいです。(自分には言えないけど……🤣)

●先回りして子供のリスクを徹底的に取り除く
 上記の「心配性」の部分とも被るかな?と思います。
 とにかく「危ないから」「あんたはできないから」「あんたには無理だから」「ママがやるから」と、私の希望や心情、本当にできるのかできないのかすら無視して、リスクを取り除かれていたんだと思います。
 結果できあがったのは、私みたいな、何もできないおとなです🤣🤣🤣

子供のプライバシーに平気で侵入する
 これはとても辛かった記憶があります。
 基本的には荷物や持ち物は全て親の管理下でした。宿題やノートなどの文房具類はもちろん、友達からの手紙図書館で借りた本の内容筆箱や鞄の中身机の引き出しは鍵をかけるの禁止。ああ、ガラケーを持った時期はメールも全部読まれました🤣

 何より嫌だったのは、秘密にしておきたい、どこにも吐き出すことのできない、弱音や親への不満を書いた「日記」でした。

 日記はどこに隠しても絶対にバレて、読まれて、怒られて、音読させられたりしました。二度と親への悪口を書かないなどの約束などもさせられました。
 私の逃げ場はそうやって1つずつ刈り取られていきました😢

子供の評価=親の評価だと思っている
 これはよくある話かもしれません。子供の勉強や習い事、お行儀のよさ、運動神経、才能の有無、愛嬌の有無。

 そういうもので子供の評価をし、その評価によって「恥ずかしい」とか「みっともない」とか「そんな子に育てた覚えはない」とか「私の子じゃない」とか、そういう言葉で自分(親)と我が子を切り離そうと必死になるという親。
 たくさんいるんじゃないかな、と勝手に思っています。普段どれだけ優しくても、1つの過ちで過度に自衛しようとする人たち。

 私の親もそうでした。特に母親ですが、とにかく、1つでも失敗してはだめでした。
 私の失敗は母の汚点に変わるからです。

 だからきっと、母から
「お前なんか産みたくなかった」
と言われてたんだと思っています🙂💦

 だって、「私」という存在自体が、母にとって、最大の汚点だから。

●実は子供を信用していない
 お題?通り、信用されていなかったと思います。
 まさに「あんたのことなんかなんも信用していないから」という言葉も何度となく言われています。

 私は確かに、おっちょこちょいで、ドジで、忘れ物も多く、家から出たら約束したことも忘れてしまう子供でした。今から思えばADHDの症状だったのかもしれませんし、虐待を受けたが故にADHDのような脳になったからなのかもしれません。
 が、その当時にはADHDのことや虐待、虐待の後遺症について、こんなに現在ほど詳しい話は出回っていませんでした。ただの「マヌケな子」「やる気のない子」「ダメな子」というレッテルを貼られるばかりだったのだと思います。

 そんな、マヌケでやる気のないダメな子に、完璧主義者の母が何かを任せたり、選ばせたりするはずありませんね🤣
 私は何一つ信用してもらえないまま大人になるしかありませんでした。

 そして、何一つ信用できない、or、何でも信じてしまう大人になりました。

子離れできない
 これは私の中ではピンとはきません。
 ただ1つ分かることがあります。
 私自身が親離れできていない、ということです。
 私は2021年現在32歳ですが、こうやってうじうじ悩むくらい完全な親離れは、多分、できずにいます。未だに、自分の人生を生きる、という言葉を真の意味で理解することもできずにいます。
 ということは、きっと、母も子離れできなかったのではないでしょうか。
 そもそも、子離れ、親離れ、とはなんでしょうか。

親離れ・子離れとは?

 子どもは思春期を迎えると、親の干渉を嫌がってプライベートな時間や空間を持ちたがります。その過程で個性を確立させたり、親元から離れて自立しようと考えます。これが「親離れ」です。

それに対して、それまで子どもを大切に育て、面倒を見ていた親が、その手を離して、子どもを社会へ送り出すことを「子離れ」と言います。親子関係では、まず子どもから離れようとするのが一般的です。こうして子どもはひとりの社会人として巣立っていくわけですが、なかにはそれがうまくできない家族がいます。

 <上記より引用しました。>

 また、このような記事もありました。


 やはり、親離れ、子離れは必要なもののようです。是非参考になればと思います😳

 私も読んでみて、「あ"〜〜〜……🤦‍♀️」と思いながら、現在は物理的距離があることに、改めて安堵しました。

 

 はい!というわけで、私の親の過干渉の部分について振り返ってみました🤗
 どうだったでしょうか?
 皆さまの中にも思い当たる節のある親の言動、ありましたか?☹️

 何歳になってからでも遅くないです。
 「……おやあ?🤔」
 と思ったら過去を振り返ってみませんか?

 もしも読んでくださったあなたが、今、息をしづらいのなら、少しでもそれが和らぐ助けになれば幸いです🙇‍♀️🌟

 それでは次回、またお会いできますように🥳

私と母とセーラームーン

2021-07-02 21:31:18 | 母との記憶
 どうにも思い出してからもやもやと鬱々の気持ちが晴れず、どうにも変な感じのままで解消できないので、吐き出していこうと思う。

 新版のセーラームーンの劇場版が一月八日に公開する。旧アニメ版が好きすぎて新アニメ版(Crystal、だっけ)は全く触れてこなかった私だけど、新作劇場版の公開日が何と自分の誕生日なので、ちょっと運命めいたものを感じたりして、観てみたいなぁ、なんて思わなくもない、のだけど、私にとって『セーラームーンの映画』というのは、かなりのトラウマ要素でもあってやっぱり映画館に行くのは止そうかな、という結論になると思う。
 私が初めて映画館で観た映画、というのが「かぐや姫の恋人」というもの。母と二人だけ、憧れの映画館。大好きなセーラームーン。私にとっては最高に幸せな時間だった、のに。
 冬の日だった、と記憶していた。(今気になって調べたら公開は1994年12月だった。驚いている。)ボロボロと号泣した私と、うっすらと泣いていた母。何でそんな泣いてんのよ、と笑う母に私は、ママも泣いてるよ、みたいなことを言って、二人で笑い合う。何処からどう見ても、幸福そうな映画後の親子の姿。けれど、ここで母の言葉が私を射抜いた。

「はぁー、あんたが女の子でよかったわぁ。あんたと(弟)が逆やったら、流石に三歳連れて映画に来るのは無理やったし、でも大人なのに一人で子供の映画なんて恥ずかしくて行けんかったし、ほんと、よかったわぁ。あんたが女の子で。あんたが観たがって連れてきましたーって誤魔化せるやん? いやぁー、ほんとに、ちょうどよかったわぁ」

 五歳の私は、本当に何を言われたのか判断に困って、それでも、初めて「弟よりも私がいい」って言ってもらえた喜びと、「私の為に連れてきてくれたのではないんだ」というのを知ってしまったショックと、「何かが『ちょうどよかった』だけで、普段は何も『ちょうど良くない』んだな」と悟ってしまったのと、……あの時の世界の暗転はもっとえぐい感情だったのだけど……、そう、多分、
「私はあくまでも『男の子』で『三歳』の『弟』では無理なことを叶える為の手段、理由にされただけで、母は私の喜びを目的とはしていなくて、それどころか、自身の為のカモフラージュであって、私は単なるおまけ、使い勝手の良い、ちょうど手元にあった駒に過ぎす、決して母の視界に私は映っていないのだ」
という旨の内容を瞬時に理解してしまったんだと思う。五歳で。

 その帰り道、車窓の外の街頭やネオンに、一人でシクシクと声を殺して泣いたことも、今思い出している。それを察した母に「何で泣いているのか」を訊かれても、上手く話せず、「映画のこと思い出して」とだけ答えて、母は本当に機嫌よく運転してくれて。
 それを思い出している今、とてつもない無力感と、絶望感に襲われている。とても、苦しい。

 26年も前のことなのに、何でこんなにありありと思い出せるのか。
 あの時の母は本当に上機嫌で、私に映画館の思い出の品も買ってくれたんだったと思う。付き合ってくれたお礼だ、とか言って。でも私はなかなか選べなくて、結局イラつかせてしまって、母の選んだ、小物入れになっている白雪姫のオルゴールを買ってもらったんだったっけ。要らない、とも言えず、でも、白雪姫なんてそんなに好きじゃなかったのに、与えられたそれ。余談だけど、成長するにつれて、ちょっとずつ気に入った思い出の品に変わっていったけれど、そう思える頃には「そんなものいつまで使ってるつもり?」と廃棄の危機にあったりもして、そういう小さな積み重ねは確実に私を飼い殺しにしたんだろう、と今なら思えるし理解もできる、けど、それでも未だ私は「そこ」から出られない。情けないな。

 二歳半年下の弟。母の溺愛が普通だった弟。乳児から幼児の時期は本当に顕著で、特に生まれてすぐの頃のビデオを見返した記憶を辿ると、母の撮影する範囲にどうにか入りたい私と、赤ちゃんの弟と、私ではなく弟を写したい母との、「あたちもとって!」という舌足らずな私の声と必死に写ろうとする姿、それを遮り苛立つ母の「今は(弟)くん撮ってるからどいて!」「邪魔!」などの声が入っていたのを思い出す。私は恐らく、弟が生まれてからずっと、自分はあまり母に好かれていないというのを感じ取っていて、それでも「母に愛されるイイコ」を目指して、幼児なりに頑張っていたけれど、それは無駄な努力に終わり続け、それでも努力しなくてはならない毎日を過ごして、それがやっと報われたかもしれないと思った(映画に二人きりで行くという非日常)、その矢先に突き付けられた悪意のない本音に、絶望したのではないだろうか。
 どうせ頑張っても、私には何もできないし、ママを喜ばせることはできないんだ、という確信めいた絶望。明日からどうしたらいいんだろう、と思案し困惑する五歳、というのを思い描いた時、真っ先に思ったのは「哀れだな」という感想だった。少しでも「大事」な「娘」だと言われたくて頑張っても、すぐに忘れてしまう脳味噌。言われたことを覚えていられず、つい行動してしまう多動性と衝動性。愛想を尽かされても当然だったとは思う、けれど、でも、でも、
 ……私は今、四人の母として、この子の何かがおかしい、と思ったことについて対処する為に奮闘している。それは私のためではなく、その子自身に確認を取った上で、困ってることを減らしたいという本人の意思に基づいて私のできる最大限の努力と助力をしているだけだ。彼等に少しでも美しい世界に触れていて欲しいからだ。そう思った時、母は、私に対して、そうは思ってくれなかったのだと、そう思ってもらえるだけの価値を見出してもらえなかったのだと、そう思ってもらえるくらいの努力ができなかった私が悪いのかもしれないと、そう、自責するしか、ない。

 22歳で私を産んだ母。私が五歳だったあの日、母もまだ30歳になっていない。私は今31歳だけど、アニメはまだまだ大好きだ。母はきっと、今の私を観ても、『まだアニメなんて観ているの? 子供じゃないのに?』と嫌悪するんだろう。でも、あの当時の母に「大人だって好きなアニメがあってもいいんだよ」と言ってくれる人がもしもいたら、と思う。そしたら、母だって救われたかもしれないのに。
 ああ、そうか、そうなんだ。嫌いになりたいはずの母、私はあの人を、救いたいんだ。

 もし未来の私が今よりも余裕のある幸福な生活を手に入れることができるのだとしたら、まだ余裕があるなら、是非そこに、母も加わって欲しい。父も、弟も、妹も、みんな、幸福になって欲しい。きっとそうなんだ。
 今の私は自分の子供達を幸せにすることで精一杯だけど。あの人達と『本当の家族』になれる未来を、捨て切れないのかもしれない。過去の、子供の私も沢山傷ついたけれど、本当に傷だらけで、報われてこなかった母が、救われて欲しいのかもしれない。

 好きじゃないです、ママ。
 でも、嫌いになれないのです、ママ。

 あなたが私の「お母さん」である限り。私にあなたの血が、あなたの遺伝子が半分、存在している限り。そして何よりも、あなた自身の言動に傷ついた過去を、流せない、限り。
 私は、申し訳ないけれど、それでも、あなたの、「娘」だから。

(Amebaより転載)

飲み物すらも選べなかった。

2021-05-30 13:03:16 | 母との記憶
 今回も過去に書いたエッセイもどきを転載しました。飲み物選ぶのも、難しい私は、本当に、多分、虐待サバイバーなんだろうな。なんて思います。




 私は珈琲よりも紅茶を好む。それはただ単に舌がお子ちゃまであるということやコーヒーメーカーを使う元気(家では安いコーヒーメーカーで飲んでいる)がないからでもあるけれど、少し思い出したことがあるので書いてみる。

 私の母は珈琲好きで、毎朝必ず六時までには起きて、コーヒーメーカーをセットするか、電気ポットを再沸騰させてあっつあつの珈琲を作り、砂糖は入れず牛乳と、夏には氷を入れて飲んでいた。起きる時間が同じになった中高校生の頃には、母の代わりに母のやり方で作っておくことを頼まれたり、自ら進んで作ってみたり、多めにお湯を沸かして一緒に飲むこともあった。母は缶やペットボトルの珈琲は好まなかったが、時々手間などを省くために市販品を購入して飲んでみては、不味いと文句を言うので、やはりコーヒーメーカーと電気ポットが活躍するのだった。当時、私はあの珈琲に砂糖を入れていたが、今はなくとも飲める。寧ろ市販の微糖より美味しいと感じる。それってつまり、私の中のお袋の味の一つなのかもしれない。
 が。私はその状況を好ましくは思っていない。

 母は製菓にも励む人だったので、その時のお菓子の内容によって紅茶を出してくることもあったし、冬にはホットレモネードも出てきたし、ココアも常備されていた。飲み物にこだわりがあったのかもしれない。私がドジだから零されるのを懸念したのかもしれない。母は必ず自分の手でありとあらゆる飲み物を用意してくれた。そうしながら私に言うのだ。
「本当にあんたは何も出来ないのね」

 缶コーヒーを買って飲んで、母の「不味い」が過ぎり、そんな母が不味いと言ったものを飲んでいる自分が間違っているように思う。
 ペットボトルで手間を省こうとしても「何も出来ないのね」の言葉で思考と息が止まりかける。
 ならば、と安物だろうが折角買ったコーヒーメーカーなのに、母の作り方以外で飲むこともできず、かといって模倣するばかりの自分が未だに母を追い求めているようでとても気持ちが悪くて情けない生き物に思えて泣けてくるので、最近は邪魔なインテリアにもなれずにいて、とても哀れだ。

 眠れない夜のホットミルク、特別甘いココア、冬のご飯のお供の緑茶、風邪を引いた時のホットレモネード、しっかり蒸らされ丁寧に注がれる紅茶。そういう全てに母が思い起こされて、私は未だに避けて暮らしている。せめて優しい記憶ならばよかった。そうすればいずれ平気になれたかもしれない。でも、違う。

 眠れない夜、あんたのせいで寝不足になると文句を言われながら用意されたホットミルク。牛乳嫌いの私は砂糖を入れなくては飲めなくて、勿体ないと叱られる日もあったし、牛乳に砂糖入れるなんて意味が分からないと嘲笑される日もあった。
 テレビか何かで知った美味しい作り方を実践したいからとうきうきした様子で手際よく用意されるココア、飲んでもそれまでとの差が分からなかった私は母の機嫌を損ねたくない一心で美味しいを繰り返し、そして母は満足そうに「あんたには無理だから」と笑った。
 緑茶を淹れるのは私にはとても難しく、いつもお茶っ葉の入れる量を間違えて酷く濃いものを作ってしまったり、筒の蓋を空ける時点で苦戦して、しまいにはひっくり返して撒き散らしたりするものだから、結局母が怒り狂いながら一人で用意したり片付けたりするのを謝りながら見ていることしかできなかった。
 風邪を引けば文句を言われ、仮病に違いないと叱られる。熱を測り高温ならなぜもっと早く言わないんだと怒鳴られ、一人で病院へ行かされる。その空気の中、用意されたホットレモネード。体調不良など早く治せと急かされる。早く治すにはホットレモネードだ、と。猫舌だった私は熱々のそれをなかなか飲むことができず、大袈裟だと嘲笑される。
 紅茶も似たようなものだった。そして高くていい茶葉の違いや価値が分からないあんたには勿体ない、と馬鹿にされる。
 ああ、全てが、煩わしい。

 そんな訳で、たかだか飲み物を選ぼうとする度に、これだけの記憶が脳内を一瞬で駆け回り、結局、新商品=当時の母が知らないもの、つまり私の中の母の記憶の中に出てこないものを選びがちだ。知らないものについては文句を言うこともできない。でも文句を言ってくるのは飽くまで「私の記憶の中の母」なのだ。全ては妄想、幻聴に近いもの。それでもとても痛くて苦しくて、避けられない幻。
 嘘だ、とも思う。きっと私が記憶違いをしているだけだとも、思う。母が自らの優しさや私への愛情から飲み物を与えてくれたことだってあったはずだし、私がとんでもない出来損ないだから、見るに見兼ねて手を差し伸べてくれただけなのだ、などと、思う。思い込もうとする。思い込めたら、いいのに。

 冒頭に戻るが、私はアイスティーが好きだ。カフェなどではほとんどアイスレモンティーを頼む。母はほとんど冷たい紅茶を飲まなかった。飲まなかったから批判的意見もあまり耳にしたことがない。それだけで、とても安心して口にすることができる。つまらない選択。最初はきっとそうだった。けれども今は、少なからずアイスティーを「美味しい」と思いながら飲んでいる。それはきっと、悪くないこと。後退することもあるかもしれないけれど、1mmでも前には進んでいる。限られた選択肢しかなくとも、幸福になろうと思えば無理ではない。私はそう信じたい。

(noteより転載)