毒親育ち☆もみくちゃん🥳

人生もみくちゃん🥳を知ってもらう為のブログ✍

死にたい私と死なせない私。

2021-05-29 10:28:20 | もみくちゃん🥳について
 ※今回は自傷行為についての話がメインになります。推奨するものではありません。また読んで気分を害する可能性があります。閲覧は自己責任でお願い致します。
 私が初めて手首を切ったのは、高校生の時だった。

 それまでの私は爪噛みが辞められない子供で、怒られて玄関の土間に立たされる度に髪の毛をこれでもかと抜いて、お母さんが掃除をする時に気づいてくれないかなぁ、こんなに髪の毛抜いてどうしたの、と優しくなってくれないかなぁと期待していたような子供だった。
 そんな私が、初めて、自分の左手首に百円のカッターを押し当てて、引いた。死ねると思っていた訳ではない。何を期待していたのかもわからない。それでも私はあの日、学校のトイレの個室に隠れて、そっと、カッターを引いた。
 痛いだろうと思っていた。が、それは意に反して痛くも何ともなく、ただ、無性に安心してしまった時にどうしようもなく悲しかった。こんなに生きている。こんなに生きようとしている体の中で、私は、こんなに死にたいと願っているのに、それでも死ねやしない。手首をほんの少し切るくらい、何になるのだ、と。
 あの日から、私は左手首を切ることが辞められなくなった。学校も家も辛い場所で、居場所はなかった。夢なのか現実なのか、生きてるのか死んでるのか、分からないような毎日。それを確認する為に、学校でも家でも、トイレや風呂にこっそりとカッターを持ち込んで、握りしめては、隠れて手首を切った。浅くしか切れない自分に失望しながら。それでも溢れ、流れ、滴る赤い熱は私の味方だった。

 ある日、母に自傷行為がバレた。それまでも爪噛みを怒られ、高校生になっても耳掃除も爪切りも管理されていた私だ。過保護で過干渉すぎる母は、私の全てを把握しないと気が済まなかったのだと思う。不安が爆発して異常な怒りへと変換させるような人だったから。
「何してるのこれ!!」
 怒鳴られた。握りしめられたカッター。奪われたカッター。私は諦めの気持ちの方が大きかったし、疲れていたし、またか、という感情に支配されていたけれど、それでも、腹の奥の奥の奥の奥では、憎しみが燃えていた。どうして私の唯一の救いを奪い取るの。
「なんでママの真似するのよ!!
 なに、それ。と思ったがツッコミはしなかった。要約すれば、かつて母も自傷行為として手首を切っていた、ということだろうが、そんな頃の母を私は知りもしない。だって生まれてなんかいないのだから。だから「ママの真似すんな!」と怒られても、それはただの理不尽だった。が、あの人にそんなことは通じない。私はただただごめんなさいを繰り返した。もうしません、と。
 そして次の日、少ないお小遣いの中から百円玉を握りしめて、カッターを買うのだ。また母に見つかり、奪われ、そして買う。それが何度続いたのか分からない。
「大した傷にもならない癖に!」
 母は罵った。
「どうせあんたなんか、縫うほど切れる訳じゃないんだから!」
 そんなことを言いながら、猫なで声で変な心配をするのだ。
「ねぇ、ピアニストの手首に真っ白な傷痕なんてあったら、みんなびっくりしちゃうじゃない。やめよう?」
 私は頷く。やめます。ごめんなさい。そして思う。
 ねぇ、おかあさん。私の手首が心配なのは、ピアニストになった後の影響の為なの? おかあさんが好きなのは、私じゃないんだよね。「ピアノの上手い自慢の娘」という私が好きなんでしょ? だから、それを邪魔する出来損ないな私が嫌いなのでしょう? ねぇ。私、死にたいの。ねぇ。そんなこと言ったら、おかあさん、なんて言ってくれるの?
 日記には「死にたい」と何度書いたか分からない。が、それすら母は探り当てて、読む。勝手に。そして怒鳴る。
「死にたい癖になんでまだ生きてんの!? ハハハ、ウケる。早く死ねばいいのに。死ねよ、ほら、見ててやるからさぁ!!!」
 私に包丁を持たせて、死にたいなんて日記に書いてごめんなさいと震えるのを見て、また笑う。
「情けなぁい」
 私は、死にたいと言っても、書いても、手首を切っても、怒られ、でも本気にもされず、そして、笑われる。
 だから、やめよう。大丈夫。やめられる。だって昔はやってなかったんだから。

 けれど、血が齎す快感を知った私は、大学へ進学して親元を離れ、遠い地での寮生活が始まった途端、自傷行為を繰り返すようになった。何も変わらない。百円のカッターで、浅く、けれども沢山の傷を創る。沢山の赤い線が、私を癒す気がした。
 朝に起きられなくなり、記憶が飛ぶようになり、学校に行けなくなり、夜中に自傷行為を繰り返す。不健全な生活の中には、一時的な乖離障害が起こり、自分の体を男へ与えて金銭を得ては、そのうっすらと残る身体の違和感と膨らむお財布から自傷行為を辞められなくなる。そしてそうやって得たお金が気持ち悪くて散財しては、また記憶を失っている間に勝手なビジネスが成り立っていた。
 性の汚れは血を流すことで清めなければ。そんな強迫観念から自傷行為は加速し、けれども母の言う通り、縫うほど切れる訳じゃなかった。情けない。母の声が夜中の静けさの中、私の頭の中で響いた。情けない。情けない。情けない。情けない。情けない。
 知ってるよ。だから、私は今、自分を罰している。

 そしていろんなことがあって、性を売ることは辞め、一人の男性とのお付き合いが始まった。私を真っ直ぐ叱って、自傷行為はやめて、学校に行きなさいと言ってくれた、八歳年上の、大人。今までの大人は皆、自分の勝手でしか私に接しなかったのに。そんな嬉しさから好きでも何でもなかったくせにのめり込んだ。彼の為ならなんでもできる、と十八の小娘がイキがった。

 知り合って、初めて会ってから一週間。少しずつ彼は本性を見せ始める。初めて体を重ねる時、「処女?」と訊かれて「違う」と答えると、「なぁんだ、処女だと思ってたのに。まぁいいか」と言われ、そのまま行為は続行した。淫行条例、という言葉が少しだけ過ぎったが今更だし、と諦めた。夜中に関わらず私を呼びつけたりだとか。同じ県内とはいえ、二つ乗り換えて一時間。駅から歩いて二十分。一度、終電を逃して三時間歩いたこともある。労われることはなかった。馬鹿かよ、と笑われた。それでもまだマシだった。まだ優しかった。

 大学の冬休み、実家へ帰され、その時にその彼のことがバレた。夏休みに性を売っていたことがバレて退学を迫られたばかりだったが故に、私は親に売女と呼ばれた。その後のお付き合いだ、信じて貰える訳もない。それに彼は物件として最悪だった。バツイチ、三人の子供の親権は母親に、派遣社員、ギャンブラー、ヘビースモーカー。まるでいい所がない。それでも私を学校に行くように優しく叱って更生させてくれたんだよ、と肩を持つ私に親は怒りしか表さない。当然だろうけど。
 そして何だかんだがあって、私は彼との連絡を断たれ、大学を中退させられ、実家に軟禁されて。母には「同じ空気を吸っているだけで吐き気がする」と睨まれ、父には「売女に育てたつもりはなかった」と蔑まれ。母の実家に送られたが、そこにも居場所はなかった。祖父は半身不随で何を言っているのか分からない。祖母は、身体で商売をする女の人の行く末について、私に言い聞かせ、そして「あんたのピアノには皆が期待していたのにねぇ、がっかりだねぇ」と溜め息をついた。

 居場所が、ない。存在を、許されていない。

 自分が引き起こしたこととはいえ、それはとてつもない苦痛を伴った。私は祖父母の家の黒電話から彼へ電話した。時々そうやって何かを補給しないと、自傷行為さえ出来そうにない環境では、潰れてしまいそうだった。祖母が夜、仕事に行ってしまえば、家にいるのは私と半身不随の祖父だけだ。あの人の言葉は誰も聞き取れない。……私の母を除いては。だからバレない。だから怒られない。私は彼の言葉に縋って、生きた。

 なのに。

 ある時やって来た母の、開口一番に私へ投げつけた言葉は、「生理は?」だった。「妊娠なんかしてないでしょうね」と、蔑んだ目で睨んだ。検査薬を渡され、試された。結果は陰性。ホッとすると同時に、祖父が何かを訴え始めた。まるで、母になら分かるというように、今まで黙っていた祖父が、母を信じているかのように、動かない口で、必死に。そして。母は。読み取った。

「……男と電話してた……?」

 束の間の静寂。そして唐突な激昂。実の親の前だからか、いつもよりは控えめに。けれども確実に私を射抜く為の言葉を選ぶ。汚らわしい。男に媚びる出来損ない。失敗した。なんでまだ生きてるの。なんで私の娘になんかなったの。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
 そんなの、私が知りたかった。教えてほしかった。
 心が痛む。
 けれども、母が私を見ている。私のことだけで怒り散らしていることは、ある意味快感だった。汚らわしい、と声にも出さず、目だけで蔑まれ、すぐに目を逸らされ、無視されるよりも、遥かに。

 更に何だかんだがあって、私は選択を迫られる。実家に残るか、彼のところへ行くか。私は家を出た。
 だがしかし、幸せはそこにはなかった。

 待っていたのは貧困。そして、「彼は何もしてくれない」という現実。彼が働いて得たお金は彼のもの。私は自分の為のお金を稼がなければいけなかった。派遣会社に登録して日払いの仕事を必死でこなしながら、家事すらしないから、謎のカビが生えていた炊飯器の中身を捨て、除菌し、ベランダで死んで腐って骨になっていた鳩を処分し、ベランダに溜まっていたゴミの山を片付けた。部屋のあちこちに散らばるゴミや雑誌を片付け、最低限の生活ができるように、百均で物を買い揃えた。その間、彼は家でギャンブル遊びをしていただけだ。家にパチスロの実機とコインがあって、何回転目に当たりが出たか、という確率から設定を予想して、それを当てるという遊び。コインを積んで何回回したかを数え、ノートに書き込む。遊びというには真剣すぎるそれは、私の苦情なんてなかったことにする。働いてはギャンブルに消え、働いては食費に消え、働いても働いてもお金は足りない、家事は何もしてもらえないから自力で全部やらねばならない、求められれば体を差し出さなければならない。最初こそそれは「充実」の皮を被って私の前に立っていたけれど、一度「この生活はなんだろう」と思ってしまうと、途端に苦痛になった。
 そして、私は、彼が「ちょっと貯める」といっていた五万円に手を出してしまう。すぐ返せばいいや、という軽い気持ちで。
 それがバレた辺りから、彼は、冷たくなっていく。
 まずは土下座させられた。人のもの盗って、どう思ってるんだ。泥棒じゃねぇか。彼の罵声に怯え、ただただごめんなさいを繰り返した。バレなきゃいいのかよ、最低だな、お前。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 一週間で五万円返す。そんな約束をさせられた。
 日勤の日払い額なんて七千円だ。それを七日。ギリギリ、足りない。彼は笑う。昼も夜も働けばいいんだよ。

 私はその通りにした。昼も夜も働いて、彼の為のご飯を作り、作り置きし、洗濯し、そして働いた。けれど、食品やらで使う分以外で五万円だったから、一週間じゃ結局稼ぐことはできなかった。彼は言った。何もできねぇのな。人の金盗っといて、返すこともできねぇのな。その頃から私は段々おかしくなる。また記憶をなくすことが出始め、そして、気が付いたら自傷行為が始まっていた。ないお金の中から百円のカッターを買って、左手首を、切った。こっそり、またもやこっそり、風呂やトイレで切って、隠した。そして、バレる。何やってんだ、と怒鳴られる。彼は言った。お前、こんなことして、いつか母親とかになった時に子供に説明とかできんのかよ。見せられんのかよ。
 それは正論だった。痛いほどの正論。正しすぎて、私は何も言えなかった。ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい。私は、気付く。ああ、この人はおかあさんと同じだ。私を利用することにしか興味が無いんだ。
 それでももう自力では逃げられなかった。自傷行為をこっそりと繰り返しながら、壊れたように働いて、そして壊れた。見事に、ぶっ壊れて、眠れなくなり、食べられなくなり、外に出られなくなり、彼に蔑まれ、そして、いつからかDVを受けるようになっていた。怒鳴られ、殴られ、数少ない服を破かれ、荷物ごと外に蹴り出される。それは母親にされたことと同じ。何も変わっていない。
 私は、なんのために、生きているんだろう。
 どうしてまだ、生きているんだろう。

 あの頃の私が、今の私を睨みつけて、言う。

 そんなに幸せになって、満たされて、なのに、まだ死にたいとか言ってんの?

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。死にたくてごめんなさい。死にたいと思うことをやめられなくてごめんなさい。自傷行為への衝動を止められなくてごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。お願いです、許してください、ごめんなさい。
 それでも思うんです。死にたいと思うんです。死にたいんです。手首を切りたいんです。本当はもっと深く切りたい。
 でも。
 今のしあわせを失いたい訳じゃない。今が完全な幸せな訳じゃないけど、それでも失いたくはない。なのに死にたがりが止まらない。
 頭の中で、母が、あの男が、笑う、笑う、笑う。情けない。くだらない。死ね死ね死ね、と、笑う。
 死ねなくてごめんなさい。生きててごめんなさい。それでも死にたいんです。それでも生きてしまうんです。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。どうすればいいですか。私はどうすればいいですか。

 左手首が、熱を持つ、夜中。私はカッターを、握る。ヂギヂギヂギ、という音に少し癒されながら、何処を切ろうかなと選ぶ。真横にすると傷痕が目立つから、左手首の内側、右側に、スーッ、と線を引く。
 ぷくり、と赤い玉が浮かび、じわり、と血が滲んでゆく。深くは切れない代わりに、量を。それでも一つ刻む度に、死にたがりと幸福への罪悪感で泣きそうになる。それを痛みのせいだと言い聞かせて、私は手首を傷つける。

 心が痛いくらいなら、体が痛い方が、マシだ。

 今では、夫くんが、私の傷痕を哀しみながら包んでくれる。怒られない。またやったの、と悲しんで、そして、大丈夫だよ、と言う。大丈夫、大丈夫、と。
 何も大丈夫じゃないよ、と私は言う。
 それでも夫くんの、大丈夫だよ、に救われる。
 大丈夫かもしれないと思ってしまう。

 簡単な手当で済む程度の自傷行為。そこまで慈しまなくてもいいのに、夫くんはそこを優しく握って、眠る。痛い、と顔をしかめると、ごめん、と少しずらしてそれでも離しはしない。ああ、コレが「愛」なのかもしれない。私はそっと思いながら、またごめんなさいと呟いて、静かに目を閉じる。死ねなくてごめんなさい。死にたがってごめんなさい。それでもきっと、私はこれからも、死にたがりです。出来損ないの死にたがりなのです。

 死にたい私を死なせないのは、いつだって私なのだ。

(noteより転載)

5月1日がきらいです。

2021-05-29 08:47:34 | 母との記憶
 あまりにも新しい記事を書くのに手間取ってしまっているので、以前別の場所で違う名前で書いた、母との記憶を辿ったエッセイを転載します。
 普段と全く書き方が違いますが、読んでいただけたら幸いです🙇‍♀️💦



 5月1日。
 あなたにとっては何の日だろうか。

 私にとっては、『母の誕生日』だ。

 私は19歳の4月中旬に家を出た。家出ではない。親に選択を迫られて、家を出た。
 20歳の春は死んだように生きていた。選択を誤ったとは思わないが、自分の人生なんて何処にいたって変わらないことを知る。私は何者にもなれないし、私は誰にも大切にもされないし必要ともされない、と。
 21歳の3月には、現夫くん、当時泥沼三角関係真っ只中の彼に「彼女の要望で家から出て言ってほしい」と言われ、東京の街を彷徨いながら、風俗店に勤務し生計を立てていた。1日に何人の相手をしたか。何人の男に触れたか、触れられたか。それによって手首に線を引いた。汚い。汚い。汚い。
 そしてすぐ彼から連絡が来る。
「やっぱり寂しい。戻ってきて」
 風俗店の店長は言った。
「そんな男、ろくでもないよ」
 私は答えた。
「だから捨てられないんです、捨てられたくないんです」
 私は店を辞めて、泥沼に戻った。何の為に私を呼び戻したんだって、くらい、彼は何一つ変わらなかったけど、もうそんなことには慣れっこだった。ただ手首の傷が増えて、何故か根性焼きが手の甲にできて、時々記憶を失う程度のことだ。相も変わらず上手く息ができなかった。
 22歳の春には、妊娠も後期。初めての出産への不安、そして、妊娠初期に母から言われた言葉が何度も蘇る。
『あんたなんかに子供を育てられる訳がない』
『妊娠したから産みます? 犬猫以下か』
『あんたも、あんたの夫も子供もみんな不幸になる』
『孫とか認めない』
『そんなこと言ったらママが心配して飛んでくるとでも思った? 残念でした!』
『お前は死んだ。さようなら』
 23歳の春も、25歳の春も、27歳の春も、妊娠していた。
 そして29の春、私はてんてこ舞いだった。新生活に追われ、考えなければいけないこと、やらなければならないことが毎日毎日増え続け、頭を可笑しくしている訳にもいかない状態にも関わらず、私は春になると、変になる。

 情緒不安定。その言葉が良く似合う。

 絶望的に楽しいことを楽しむ一方で、壊滅的に自分はズタボロであることに気付かない。若しくは気付かないふりをしている。いや、きっと気付いていないんだろう。気付いてしまったら、意識してしまったら、囚われる。

 春は、3月から5月1日が終わるまでは、私は、ただの小娘に戻される。
 何もできなかった、周りに流されるまま、死んだように生きていたあの頃に、引きずり戻される。

 でも、思う。あの頃の私に、なにができた?

 愛情の欠片さえ見当たらないまま、縋れるものに縋っただけだ。そうして心身を削っただけだ。これでもかと男の欲に塗れて、これでもかと肉親からの憎悪を受けた。20代前半の人達はみな、輝いて見えた。今でもそうだ。なのに自分を見れば、ただただ薄汚れて、醜い捨て猫のよう、いや、猫に失礼だ、ボロ雑巾のようだった。

 昔、母に言われた。
「ママの誕生日にプレゼント一つ用意しないなんて薄情者」

 だから高校生の私は、寄り道すると怒られる環境の中、前もって部活だからと母に嘘を告げ、田舎道を自転車で駆け抜け、わざわざ大きなショッピングモールへと走り、なけなしのお小遣いから母の好きそうな青色で可愛らしい芳香剤を選んで買った。大急ぎで戻って帰宅。弟と妹に寄せ書きも手伝ってもらった。渡した時の母は見たこともないくらい、大層喜んでいて、私は、とてもホッとしたことを覚えている。
 が、それは長く続かず、その日は些細なことから夫婦喧嘩が始まり、警察沙汰になるほどに発展した。
 私の贈り物も姉弟妹の寄せ書きも、隅っこに追いやられた。

 それ以来、5月1日が、嫌いです。

 ただでさえ嫌いだった。5月1日は。
 母が自分の誕生日だと浮かれる日に、何かしてしまったら、それこそ自殺したくなるほど責められ二週間は放置される。ご飯も与えてもらえない、風呂にも入れない、布団もない、酷い時はずっと外。その地獄の二週間が終わっても、母の機嫌が治るまでは口も聞いてもらえない。自分が存在しているかも分からないくらいの徹底的な無視。
 まぁそれもいつものことだった。過剰な過保護、過剰な過干渉、そして、気分次第のネグレクト。外面のいい両親の本当の姿。誰も知らなかったと思う。酷い罵声は聞こえていたかもしれないが、それすら田舎だから、噂にこそなったとしても、誰も心配などしてこない。
 これで私が痣だらけだったら何かは違ったのだろうが、残念ながら体の丈夫さだけが取り柄だと、母に笑われた私だ、傷など残らない。母もわかっていて、顔や見える場所は蹴ったり殴ったり物で叩いたりしない。せいぜい髪の毛を掴んで壁にぶつけたり、髪を引っ張って引き摺り倒してそのまま玄関の土間に蹴り落とす程度だ。

 5月1日は、嫌いです。
 5月1日は、嫌いです。

 でも、本当は。

 だいすきで、いたかった。

 おめでとう、ママ。

 そう言って、笑い合って、みたかった。

 プレゼントなんて、なくてもいいのよ、と言って欲しかった。

 優しいママがいれば、それでよかった。

 けれど、それはもう、叶わない。
 私に母は、いない。いないも同然。だから、五月一日を嫌う理由なんて、ない。それでも、思う。

 5月1日なんて、だいきらいだ。

 自分が母親になって、子供たちから「ママ、お誕生日おめでとう」と言われることの喜びを知る度に、私はきっと、あの年の『5月1日』を、憎み続けるのだろうと思う。頑張って、蔑ろにされた、5月1日を。

(以前noteに記載したものを転載しました。)

今の私について

2021-04-01 14:56:55 | もみくちゃん🥳について
 こんにちは! こんばんは!
 もみくちゃん🥳です。

 今回は「現在のもみくちゃん🥳はどういう生活をしているの?」という話をしたいと思います!

 流れはこんな感じにしますね🙌

  1. 家を出たのはいつ?
  2. 家を出てからどうしたの?
  3. それから、そして、今
 という感じでお話していきたいと思います。最後まで読んでくだされば嬉しいです😊


①家を出たのはいつ?

 家を出た、というか、家を追い出された、というのが私の認識です。が、両親側はきっと
「親不孝者が勝手に出ていった」
という認識でしかないと思います😣

 19歳の春、3月末か4月頭か、それくらいのまだ肌寒い日の夜でした。
 唐突にだったと思います。母が「こいつと同じ家で同じ空気吸いたくない」とヒステリックな口論?を始めました。
 最初こそ母を宥めようとしていた父でしたが
恐らく折れたのでしょう。母がリビングから飛び出してきて、廊下の端で正座していた私の所にきて、胸倉を掴みあげると、
「今すぐ出ていくか、このままこの家にいて二度と逆らわずにまともな生活を送るか選び!」
と選択を迫られました。

 そこからの記憶は曖昧です。
 覚えているのは、出ていくと告げた時の静寂とその後の激昂、荷物まとめろと言われたままに動いて、ボストンバッグに荷物を詰め込んだこと、「そのまま出ていくつもりか、今までの感謝の言葉もないのか」「出ていくなら金輪際関わることはないと思え」「死んでも別にどうも思わないし、何もしない」「本当にそれでも出ていくつもりなのか」「お前のことは今後死んだものだと思って家族4人で幸せに暮らす」
「後から泣いて謝っても許したりなんかしない」「もうこれが最後のチャンスだからな」というようなことをがーっと言われ続けたこと。

 そして、それでも私が折れない、出ていこうとしていると悟ったのか、
「お前に荷物なんて生意気だ」
と、全ての荷物を床にばらまかれ、蹴りあげあれ、踏みつけられ、友達への手紙なんかの中身を声に出して読み上げられ、笑われ、捨てられました。

 最後は、
「出てくんだろ、いつまでいるんだ」
と言われながら、玄関の土間に突き落とされ、痛がっているのも無視して外へ蹴り出されて、おしまいです。
 玄関の鍵が閉まる音、玄関先の、そして廊下の電気が消えて、私は涙でぐちゃぐちゃの顔で、しばらく泣いていたのか、それとも、もう泣く気力もなくなったのか、その辺も覚えていません。
 私のお財布に入っていた500円玉だけを投げ付けられたことは覚えてるけれど。

 そこからの詳細はまた今度にします。

 数日後、当時お付き合いしていた男性に連絡をし、ようやく繋がって、家を追い出されたから迎えにきてくれないだろうか、というお願いをしました。
 その人は年上でしたが、めちゃくちゃ最低な人間でした。でもあの日、私の地元まで来てくれたことだけは感謝してます。


家を出てからどうしたの?

 ①に出てきた男性に連れていってもらって、関東まできました。私は元々音大で関東で寮生活をしていたのですが、その時に知り合ったのが彼でした。
 その時は親から離れて、穏やかに生活ができるんだ、と新しい生活に胸踊らせていました。

 ところが、蓋を開けてみたら、彼は派遣社員から、あっという間に無職になり、パチスロに依存していたので、私が二人分の生活費を稼がなくてはならなくなりました。
 もちろん彼は家事なんて全くしません。
 私は衣食と彼がギャンブルに行くためのお金と性欲処理を提供するだけの存在になってしまったのでした。

 そしてそのうち、母と似たような言動を彼が繰り返すようになり、DVが始まるようになりました。身体的、精神的、金銭的、そして性的DVという、加害のオンパレード。
 「病人は人を好きになる権利なんてない」という言葉は、未だに忘れられません。
 私は元々あったらしい乖離症状が悪化し、不可思議な言動を繰り返すようになり、外に一人で出られなくなり、三徹しても全く眠れなくなり、それでも彼からの罵りは収まることはなく、自殺を考える毎日でした。

 そんな中、一人だけ、私を救おうとしてくれる人がいました。Mくん、と呼びます。Mくんは彼の友人で、よく私とも遊んでくれていました。

 耐えきれなくなったある日、Mくんに、彼からの仕打ちを打ち明けました。
 Mくんはできるだけ家にいてくれる時間を作って、私たちの家から仕事に行き、DVの現場に出くわせば仲裁しようとしてくれたり、時には私の味方をして彼を叱ってくれたり。

 そして、働けない私と働く気のなくなった彼のために、生活保護の提案もしてくれました。

 なので私は一時的にですが、生活保護を受けていました。そのお陰で病院へ通ったりできるようにもなりました。

 そういう生活を続けていく間に、私はこの暴力的な彼から離れたいと思うようになりました。
 同時期にMくんから
「俺が彼氏だったらこんな目に合わせたりしないのに」
などのことを言われるようになり、当たり前のように、元々好感度の高い相手だったので、コロッとMくん側に落っこちてしまいました。

 別れを切り出した時の、彼の対応は、母とそっくりで、やはり吐き気がしました。
 最初は脅して、高圧的に威嚇して、それでもこちらが曲げないことを察すると途端に宥めようと条件を提示する。それでも取り消さないと知ると、逆切れ。
 荷物など投げ捨てられ、私のことも蹴り出しました。

 本当に辛い1年と少しでした😢
 自業自得とは言え、親からのDVから逃げた先はもっと過激なDV。
 さて、実はここからが本番(まだまだ苦行は続きます😂)ですが、今回はここまでで!


それから、そして、今

 今、の私について書くのなら一番必要な情報があります。

 実は、上記のMくんと結婚しました。
「既成事実」があった方がお互い親から文句言われずに済むかも、という打算もありましたが、お互いが必要な存在だという確信の元、できちゃった結婚でした。

 現在私には4人の子供たちがいます。

「幸せいっぱいじゃん!」

 と思った方もいるかもしれません。が、ここに至るまでの道も大変困難でした。

 どうしても長くなってしまうので、箇条書きにさせてもらうと、

  • Mくんの実家も毒家庭だった
  • つまりMくんも毒親育ちの虐待サバイバーだった=父親という自覚は皆無だった
  • 虐待を受けていた事実を受け止めきえないまま始まった育児生活で、トラウマを量産し、育児ノイローゼとなり、長男と長女への虐待行為が始まってしまった→行政の力を借りて、これ以上子供たちを傷付ける前に私から引き離してもらった(児童養護施設で6年間過ごさせてしまいました)
  • Mくんはそれでも無関心だった
  • Mくんはギャンブルに依存していて、育児の費用も使い込んで、借金もいつの間にか膨らんでいた
  • Mくんは避妊についても非協力的で望んでいない妊娠が重なった=放任系毒親の影響だと思われる
  • 私の自殺未遂が数回(どれも軽度でした)
  • Mくんも私もその数年後に発達障害の傾向を持っていることが分かる
  • 子供たちも発達の問題が徐々に判明
  • Mくんの不倫
  • 離れていた長男長女の帰宅訓練開始、無事に帰宅生活が送れることになり、6人生活が始まった
  • 私の身体面での不具合が多発
  • 不動産で詐欺に遭う
 箇条書きにしても長かったですね🤣
 問題が起きる度、できる範囲で最大限の努力はいてきたつもりです。
 でももっとできたことはなかったのかな、と未だに悩むことが多いです。

 ただ、客観的にみればきっと、幸せなのだろうとも思います。でもそれは「理解してくれた配偶者」がいたからでもないし、「何もかも許容してくれる優しい相手がいた」からでもないです☹️
 そんな課題だらけの半生だったから、今もまだ生きてしまっているのだろうと思います。

 Mくんが完璧超人だったら、私は成長する機会もなかっただろうし、自分でこの負の連鎖を止めようなんて思わなかったかもしれない。
 深く考えて、死ぬほど足掻いて、そうやって手に入れた今、です。

 だからこそ、誰かに何かを伝えなくちゃと思って、活動をしてみることにしました。
 Mくんから、こういうプライベートな話を公にする許可はもらいました。子供たちに関しては、彼等自身のそれぞれの考えもあるでしょうから、基本的には

『こどもの話はできるだけしない』

ことにしようと思ってます。
 ただ、私が子供たちに日々、どんな感情を抱くのか、それをどうやって紛らわせているのか、のような話は出てくるかな、とも思っています。

 私は、虐待を受けて、自分も虐待をした側です。取り返しのつかなくならない所で踏みとどまれたことは、今でも安堵しています。
 今後も子供たちが健やかに過ごせるように、私自身がアップデートしていかなきゃな、と毎日修行中です🤣

 今回はここまで!

 いかがだったでしょうか。
 私、もみくちゃん🥳について、もう少し分かっていただけたら嬉しくおもいます💖

 それではまた、次の機会にもお会い出来ますように🌟

どんなおうちだったの?🤔

2021-03-10 16:32:04 | 虐待行為の話
 こんにちは! こんばんは!
 毎日もみくちゃ、もみくちゃん🥳です。

 今回は『もみくちゃん🥳のおうちはどんなおうちだったの?🤔』について書いていこうと思います!


  1. どんな家族構成?🤔
  2. どんな毒親だった?🤔
  3. 助けてくれる人はいた?🤔

 という内容で書いてみたいと思います👋

 途中で気持ちや体調が悪くなる可能性もあるので、その時にはすぐ読むのを辞めてくださいね🙏💦


 ①どんな家族構成?🤔

 父、母、もみくちゃん🥳、弟、妹、の5人家族でした。弟は2歳半、妹は10歳下です。
 父は3人兄妹の長男、母は三姉妹の次女。
 それぞれたくさんの困難があった家庭で育ったみたいなので、父も母も、【機能不全家族】で育った、アダルトチルドレン(AC)だったのだろう🤔と私は思っています。
 父母の育ちについてはまた今度書きたいと思います🙌


 ②どんな毒親だった?🤔

 よくある【毒親の分類】って、皆さん知ってますか?
 知らない人のためにも、私も改めて振り返りたいので、書いておこうと思います😊

  • 過干渉型タイプ
  • 支配型タイプ
  • 無関心タイプ
  • 虐待タイプ
 の4つに分けられるそうです☹️


 サイトから引用させてもらいました🙇‍♀️

 このサイトの内容で考えていくと、私の父母はフルスコア出しちゃいます🤣

<母について>
 母が基本的に、女王様👑って感じの家でした。絶対王政です。逆らうことはもちろん、母の機嫌次第でその日がどうなるか、毎日分からなかったです😣
 子供(主に私だけ)の一挙手一投足を監視し、友達も好きな人も学校生活も日常生活も制限しかありませんでした💦

 高校生になっても、爪切りや耳掻きなど、身支度の管理もされてました。
 かと思うと、ある日は「いつまで親にパンツ洗わせるんだ💢」とブチ切れ、私の服だけ外に投げ捨てる、みたいな。本当によく分からない毎日でした。

 学校生活については基本的に関心を持ってもらえませんでした。よっぽど悪い点を取らないなら、良い点を取っても興味がないし、先生からの褒め言葉も「そんなはずない」「うちでは〜……」と無視されてました😂

 そして、暴力、暴言は当然で、一度母の機嫌を損ねてしまうと、二週間は完全に無視☹️
 その間にご飯は全く食べさせてもらえないし、一晩二晩家に入れないということもよくありました🤣

 私的には【笑い話】ですが、周りにはドン引きされてしまうので、
「これはそんなにひどい話なんだ……?」
 と大人になってからビックリしました😳

<父について>
 対して父は、内弁慶なタイプで、普段は母に完全服従って感じの対応しか取らないので、基本的に母が私や弟を叱っていても、飛び火しないように家からこっそり出て行ったりしてました☹️
 お酒に弱いのに、お酒が好きで、毎日飲んでは夫婦喧嘩💥
 母のマシンガントークな口撃には勝てず、そのうち家の中を破壊しまくってました。
 翌朝、壊したものをいそいそ直してる姿は、何度見ても情けなくて胸が苦しかったです😢

 そんな両親なので、毒親のチェックとかすると、ほぼ全てに当てはまってしまって、
「むしろこれは私の認識がおかしいのでは!?😳💦」
 という気持ちにばかりなります🤣


 ③助けてくれる人はいた?🤔

 これは残念ながら、誰もいませんでした☹️

 親戚はなんとなく私が「あの子(私の母)の娘なんだから、多分嫌な目にあってるんだろうな」みたいな認識くらいはあったと思うのですが、それでも誰からも認知されてなかったと思います。
 閉じた家庭の中のことは、誰にも分からないものですよね😣

 そして関わりのあった大人、主に学校の先生、それからピアノの先生などにも話したことや相談したことはありません。

 というのも、私はずっと【これが当たり前の日常、他の家もこうなんだろう】、そして、【私が悪い子だから罰を受けてるだけなんだ】と思っていたので、誰かに相談することもなく、子供時代を過ごしてしまいました。
 自分が虐待を受けている、という認識のないまま、大人になってもまだ自覚しきれていません。

 あくまでもしつけだ言われていたというのもあると思います。
 父や母の方が、よっぽど辛くて大変な子供時代を過ごしたんだ、お前は幸せだ、なのに……、という言葉もたくさん言い聞かせられていたので、それも信じていました。
 今もそうだろうなと思います。思ってしまいます。

 これこそが虐待を受けたから起きている認知の歪みの一部なんだろう、と思う一方で、未だに分からなくなってしまうのです🤔

 本当に、虐待を受けていたのだろうか。
 私の両親は本当に、そんなことばかりしていたのだろうか。

 そう思ってはいつも胸が苦しくて、痛くなります。
 私がもっと何かできたのではないか、むしろ、私のせいで、あの二人は毒親になってしまったのではないか。

 そんな風に未だに考えてしまうのです。



 いかがだったでしょうか🤔

 面白くない、暗い内容で本当にごめんなさい💦

 でも是非、虐待について考えるきっかけになってほしいです🙏
 四六時中怒鳴り声が聞こえていても、外に子供が出されていても、私のように、
「自分が悪いから仕方ない」
と、ただただ自分を責めて、外に発信できないだけの子供たちが、今もどこかにいるかもしれません。

 それから、自分は毒親育ちじゃない、と思ったままの大人のひとにも届いてほしいなと思っています。

 前回の記事でYouTubeに投稿した動画について書きましたが、

 嫌なことを強要された

 それだけでも虐待とカウントしていいんだよ、あなたは耐えたんだよ、というのを、私は、発信していきたいです。

 私、もみくちゃん🥳は、もみくちゃん🥳自身に言い聞かせてあげることができないので、他の人には伝えていきたいのです💐

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました😊

 以上、もみくちゃん🥳でした!

YouTubeに動画を投稿しました!🥳

2021-03-05 17:04:55 | YouTube
 YouTubeでいえば3本目にはなるんですが、1本目は音声のみ、2本目はREALITYを画面録画したものを転載しただけだったので、REALITYの画面を録画して、録音、自分で編集して字幕っぽいものを付けて……という動画投稿は初の試みでした!!
 がんばった〜〜〜🥳🥳🥳

 ということで、あからさまですが宣伝させてください😊
 元被虐待児、虐待サバイバーな私、『もみくちゃん🥳』が考える、虐待の定義についての動画になってます!


 6分ほどの動画なので、是非観てください🤗

 少しでも多くの人に、虐待、というものについて考えてほしいなと思っています🤔
 なぜなら、虐待は身近に起こって当然のもの、だからなのです。悲しいことですが……仕方のないことだと、私は考えます。虐待をした側にも理由や背景があって、そういう人もまた、元被虐待児だったりするのです。

 負の連鎖、と呼ばれているものですね☹️

 なぜ、負の連鎖が起きてしまうのか。負の連鎖を止める方法はないのか。
 そういうものを考える前に、そもそもの「定義」を明確にしておきたくて、この動画を撮りました。
 今後、この動画を根底にして、ブログや動画を作成していきたいと思っています😊

 虐待というものは本当に悲しいものだと思います。人生を狂わせる罪深いものです。
 私も、人生をもみくちゃにされた人々の中のひとり、です。が、私自身もまた、誰かの人生をもみくちゃにしているかもしれない。するかもしれない。

 それだけはしっかり胸に刻んで、人生が終わるその時まで生きていこうと思っています🙂
 そういう人が増えてくれたら、うれしいなとも思います🙏

 今回はこの辺でおしまい🌟

 以上、人生もみくちゃん🥳でした!