牛若丸と弁慶の対決
平安時代末になると、記録が増える。有名なのが牛若丸こと源義経(1159~1189)と武蔵坊弁慶(?~1189)の対決。これも『タイムボカン』の「牛若丸と弁慶の大決闘だペッチャ」で記録されている。
また、『うる星(せい)やつら』の父よあなたは強かった」によると、西暦1980年ごろの人間だった諸星あたる(推定1962~)と異星人・クラマ、ラムがタイムトラベルで1173年の日本の鞍馬山に移動。クラマは義経のむすめだった。鞍馬山で、諸星がカラス天狗に化けて義経に接近し、翌日、京都見物に誘う。夜、諸星は牛若丸とともに五条大橋にさしかかるが、ラムが弁慶をけしかけて五条大橋で義経と勝負をさせた。クラマが義経を援護したらしい。
また、17世紀にシェイクスピアが書いた『リア王』は12世紀が舞台らしい。
安徳天皇に替え玉説
1185年、壇ノ浦の戦い。NHK大河ドラマ『義経』では義経の異父妹・能子(よしこ)が義経と再会。だが、安徳天皇とされた子供は二位の尼とともに水没。大河『義経』では安得天皇は兄弟とすりかえられたらしい。
『平家物語』によると、安徳天皇は、まず東を向いて伊勢大神宮を拝み、続いて西を向いて念佛をとなえ、二位の尼が「海の底にわたしたちの都がございます」といって道連れにしたらしい。
朝廷が神器を奪還するために、源氏が天皇を含めた平家一門相手に戦争をしたということは、天皇個人の命より、剣や鏡、玉が重要だったわけで、そのあたりは20世紀、21世紀になっても変わっていなかったようだ。
しかも、義経は相手の船をこぐかかりを狙っており、非戦闘員を攻撃したわけで、卑怯な手を使い、それで多くの非戦闘員に犠牲者が出た。
少なくとも源氏も平家も愚かな戦争をしたものだ。壇ノ浦戦争の原因、戦争責任、軍人による自殺の強要の有無など、「わだつみ会」に調べてもらって、戦争責任を明らかにすべきであろう。
こういう戦い、道連れ自殺を美化する風習が集団自決や特攻隊を生んでいるのである。
平家蟹は平家の亡霊か
『コスモス(COSMOS)』の中でカール・セーガン(Carl Sagan、
1934~1996)はこう書いている。この壇ノ浦の戦いのあと、瀬戸内海の漁師たちは「平家の武士たちの霊が蟹に姿を変えている」と信じ、甲羅の模様が人(特に武士)の顔に似た蟹を食べずに捨てた。そして、セーガン氏によると、この人為選擇によって平家蟹が形成されたらしい。この歴史認識については、学者から異論もある。平家蟹の写真が英語版に載っていた。
今では鎌倉時代は1185年、この合戦の直後に始まったとされる。1192年は頼朝が征夷大将軍になった年であるが、壇ノ浦の合戦の直後に、すでに守護、地頭など、鎌倉幕府の基礎ができていたらしい。
└→鎌倉時代の始まりは1185年か1192年か
大河ドラマ『義経』によると、頼朝と義経は「新しき国づくり」の青写真の違いで、血みどろの戦をしていたようだが、論議と選挙で決めるようなことで、一々、戦をされては、周りの兵隊は命がいくつあっても足りない。
惟宗忠久(これむねただひさ)が1186年に薩摩の国または日向の国(史料によって揺れがある)の島津荘の地頭に任命され、島津荘は今の都城(みやこのじゃう)らしい。1193年には忠久が薩摩、大隅、日向の守護となり、出水(いづみ)市内に守護所を置いた。2008年、NHKが『篤姫』で出水市を「島津氏發祥の地」として紹介し、都城市が抗議文を送ったらしい。都城といえば、1969年春には巨人軍の二軍紅白戦が行われ、星飛雄馬が登板していたところだ。
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鎌倉時代、義経は生き延び、その末裔が幕府に復讐?(「義経=ヂンギス・カン」説など)
1189年、藤原泰衡(ふぢはらのやすひら→ふじわらの~)は幕府および朝廷からの圧力に屈し、義経を死に追いやった印象があるが、大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』によると、藤原泰衡は義経死亡説を流して、義経を逃がしたらしい。しかし、そんな嘘はすぐにばれ、有名な弁慶の大往生とほぼ同時に義経も死んだとされる。もっとも、『うる星やつら』のクラマによると義経は自害寸前にクラマの母親に助けられたらしい。
また、「義経=ヂンギス・カン」説によれば、ヂンギス・カンとフビライ・ハーンは大陸に逃れた源氏の末裔で、鎌倉時代末期の蒙古襲来は源氏と北条氏の骨肉の争いになるし、モンゴル帝国が源氏によるユーラシア大陸の天下統一になってしまう。ちなみに、ヂンギス・カンは1162年または1167年に生まれたとされ、1159年生まれの義経より3歳または8歳年下であった。ヂンギス・カンの即位は1206年、没年は1227年。
ヂンギス・カンの生涯は映画『蒼き狼・地果て海尽きるまで』、『モンゴル』でも描かれている。
モンゴル史映画
ヂンギス・カンの即位から800年たった西暦2006年は「大モンゴル建国800周年」で、外務省のホームページによると、2006年は「日本におけるモンゴル年」、朝青龍がメディアを賑わした2007年は「モンゴルにおける日本年」だったようだ。
鎌倉時代の北条政子の生涯は大河『草燃える』で描かれた。
鎌倉時代の「不老長寿の薬」探し
白土三平の『いしみつ』の「第二話・冬虫夏草の巻」によると、鎌倉時代にも不老長寿の薬を探す忍者が出現し、伊賀忍者が冬虫夏草(とうちゅうかそう←~さう)の一種・肉芝(にくし)に可能性を求めた。『広辞苑』によると、冬虫夏草は昆虫の幼虫や蜘蛛などに寄生する菌類で、古代中国では蛾類の幼虫に菌の寄生したものを乾燥させて生薬(しょうやく←しゃう~)とし、これを冬虫夏草と称したらしい。肉芝はヒキガエルに生えるキノコで、忍者はそれをいくつか見つけたが、不老長寿の薬となったか否かは記録されていない。
これは1963年の作品で、「700年ほど昔」とあるので1263年前後のことだろう。
マルコ・ポーロと元寇
次に、『マルコ・ポーロの冒険』、『北条時宗』などで描かれたマルコ・ポーロ(Marco Polo・1254~1324)と蒙古襲来(1274、1281)の時代に移る。『広辞苑』によると、マルコの旅は1270年からで、1274年フビライに拝謁し、任官、シナ各地を検分、1295年に帰国したらしい。この旅の記録が『東方見聞録』になった。ただ、「マルコは東方に来なかった」という説もある。
鎌倉幕府は藤原氏の奥州を属国にしようとしたが、日本を元の属国にすることは拒否した。
蒙古襲来とは元と高麗の連合軍が日本を「侵略」したものだが、フビライも大和朝廷も源氏も「侵略」で国を統一してきた経緯があり、フビライの考えたことは始皇帝と同じ「天下統一、平定」である。中国と朝鮮にとっては日本よりモンゴル軍国主義のほうが脅威のはずである。
1317年、浦島太郎が海底都市から帰還。行方不明になったのは1049年であった。海底都市は何万年も前に「ムー大陸」にあった国らしい(『ドラえもん』・「竜宮城の八日間」)。
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