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▽補足、一筆啓上、あとがきにて候

必殺シリーズで『仕置屋稼業』が天保時代、1840年代というのは研究本ネットの資料によるものだが、次の『仕業人』は脚本段階で仕置屋解散後1年、11代家斉治下、文政年間となっていたらしい(山田誠二『必殺シリーズ完全百科』)。

主水は牢屋見廻り同心で、罪人の処刑は浪人・山田朝右衛門も加わっていたらしい。家斉の治世は1787年から1837年までだが、そのうち、文政時代は1818年から1830年まで。そして、主水が定町廻りに戻ったあとの『新必殺仕置人』の時代設定が文化・文政である。
また、スペシャル版『春日局の秘密』の場合、脚本では大御所・家斉の急死から始まっていたが、放送時、昭和天皇の容態の悪化と崩御が重なり、変更されたらしい(同書)。家斉の死去は西暦1841年でアヘン戦争の最中、鳥居耀蔵が南町奉行に着任した時期であった。

必殺シリーズで悪党を形容するとき、「カネのためなら自分の親でも殺しかねない奴で」というのがある。しかし、このシリーズの主役となった仕置人、仕事人も自分の肉親を殺していた。仕掛人・梅安と仕事人・おとわはそれぞれ、自分の妹を殺し、仕置屋・印玄と仕事人・鍛冶屋の政は自分の母親を殺した。仕事人・山田朝右衛門は己の兄を殺した。

また、『映画ドラえもん のび太の恐竜』に関するネット上の百科事典でこういう論評があった。この作品では恐竜狩りを悪党扱いしているが、別の回でドラえもんも同じことをやっていた。
そうなると「主人公」と「敵」のやっていることは大して変わりないわけだ。「侵略」されたことを根に持つ国は、その「侵略」で国を作った歴史がある。エカテリーナⅡも国をクーデターで政権を乗っ取りながら、革命を恐れていた。「テロとの戦い」を金科玉条にするアメリカ政府も、敵から見れば自分もテロリストであることを自覚すべきであろう。

「中国脅威論」が強調されるが、それはお互い様で、国防力は他国が脅威に想うほどでないと役に立たない。日本やアメリカが中国の脅威を想うなら、同時に中国にとって日本とアメリカは脅威であり、そこから外交が始まるのである。

『デビルマン』に出てくるデーモンとは地球の先住生物であり、人類以前の知的生命である。2004年の実写&CG映画版のパンフレットによると、デーモンは古生代、微生物が合体して意識を獲得して誕生。ドラえもんたちの犬、猫が文明を創っていた時期である。デーモンは中生代初期に知的生命体になって二足歩行。恐竜全盛期になると、デーモンは恐竜に対して生き残るために知性を發達させて文明を築き、三畳紀に超大陸パンゲアの誕生、南北大陸の分裂の時期にデーモン一族の文明が始まり、新生代にシリコンカプセルの中に眠ったらしい。

そうなると、デーモンというのは人間からの見方であり、彼らから見れば人類こそ地球の敵ではないか。原作でもそこが強調されている。

『マグマ大使』によるとアース(Earth?)という老人が地球を作ったらしいが、『デビルマン』ではサタンたち天使の親たちが「神」で、神たちが地球を含めた小宇宙を創り、生命を吹き込んだらしい。しかし、デーモンの進化を見た神たちはそれを忌み嫌い、デーモンを滅ぼそうとした。サタンは「自分たちが作り出した生命だからといって、勝手に滅ぼしていいのか」と反撥し、デーモンの側について神と戦い勝ったらしい。

昔から現代まで親が子供を殺すことがあとを立たないのは、自分のものだから、始末するのも自分の自由という感覚なのだろう。これを「無理心中」という異様な熟語で美化するのが日本であり、それが満洲や沖縄での悲劇を生んでいるのである。
サタンとデーモンは次なる神からの攻撃にそなえて、氷の中で眠った。彼らが目覚めたら人類が進化し、地球環境を破壊していた。サタンは自分たちが命がけで守った地球を汚した人類を許せず、人類を滅ぼすことにした。

飛鳥了はデーモンに味方した天使・サタンだったが、人間を知るために記憶を消して、人間・飛鳥了になりすましていた。その間、明を最強と言われるデーモン・アモンと合体させてデビルマンとし、多くの仲間=デーモンを死なせた。作品は一九七二年から七三年ごろに作られたが、文庫版では「198X年」のこととされている。

サモトラケのニケもデーモンで、古代ギリシャ・ローマ時代の人類に銃を与えていたが、20世紀の時代からタイムスリップしてきた不動明と飛鳥了によって阻止され、殺された。銃はいずれ、人間が發明するもので、ニケが果たして悪と言えるか、疑問である。このニケは飛鳥自身の手で斬殺されており、さすがにデーモンもこのときはサタンを敵と想ったのではないか。

デーモンの存在を知った人類は、互いをデーモンと疑い、自滅。不動明は人類に絶望し、人類を守る戦いを放棄。20年たって人類は滅亡、およそ西暦「200X年」にデーモン軍団とデビルマン軍団の最終戦争が始まった。

映画ではデーモンの出現から最終戦争まで短期間で、廃墟となった地球上で、人類はミーコという少女とススム少年が生き残って、未来に希望が残っていた。

『新世紀エヴァンゲリオン』でも、2015年に人類が正体不明の敵・使徒と戦いながら、最後は人類同士の同士討ちとなって、シンジとアスカ以外のほとんどの人類が死滅。

1967年の作品である『ウルトラセブン』では、メトロン星人が煙草の中に人間を狂暴にする薬を混ぜ、人類同士の不信、自滅を謀った。最後のナレーションで「これは遠い未来の物語です。今の人間は宇宙人から狙われるほど、お互いを信頼していませんから」と言っていた。しかし、21世紀になっても社会は不信が増すばかりである。

銃の乱射や拉致事件は秩序の崩壊である。そういうことが起きると人々は政府による規制を求めるが、それが「治安維持法」である。マスコミが事件の加害者の作文、生い立ちまでかぎまわる癖も同じだ。
『母(かあ)べえ』では戦争に反対した者が治安維持法違反で検挙されている。すると、戦争への反対が治安を悪化させるということは、反戦運動が銃の乱射や爆弾テロのような秩序破壊と見なされる事情があったのかも知れない。安保闘争、学園紛争の暴力性を見れば明白である。
すると、人権擁護法案であれ、個人情報保護法であれ、何でも法の規制に頼る民衆の安易さが治安維持法の繰り返しを生むと言える。

「戦争」の反対は「話し合い」であり、「平和」の反対は「無秩序」である。今、沖縄で起きているのは、兵士による無秩序である。
沖縄の反米運動は、実はアメリカ相手の戦争を継続しているのである。

『はだしのゲン』の中岡大吉は戦争に反対しながら、息子や他家の者まで平気で殴っていた。ゲンも喧嘩の達人で、隆太は殺人まで犯していた。これらの「暴力」は国家レベルでは「戦争」になる。日米安保闘争や学園紛争を見ると、反戦主義者であるはずの民衆が好戦的である。日本の軍国主義を批判する反日デモ隊が暴力的で、その国家が核兵器を持っていることがいい例である。

つまり、反権力も権力であり、反戦主義者も実は好戦主義の一種である。

『巨人の星』、『あしたのジョー』などの梶原一騎の作品は「戦後」日本の平和主義や人権尊重に逆らい、暴力と殉死を描いている。花形満が星明子に語った評によれば、一徹と飛雄馬は「日本中が根無し草のように西洋化しつつある中で、古き良き日本を死守する姿」だった。『巨人の星』の中で手本として宮本武蔵や坂本龍馬など、武士の逸話が出てきており、この武士道を前面に出したのが『侍ジャイアンツ』である。
この『巨人の星』(または梶原作品)が学園紛争の時代に大流行していたことについて、呉智英(くれともふさ)氏は「戦後史の大きな矛盾」だと『巨人の星』文庫あとがきで述べている。

しかし、反戦主義者が軍国主義者である矛盾を考えれば、納得できる。核保有国が他国の核実験を批判するのも、秀吉の刀狩り、明治政府の廃刀令と同じで、「テロとの戦い」も秀吉とねね(北の政所、高台院)が考えた「戦をなくすための戦」と同じ考え。反戦デモも「戦をなくすための思想戦」である。死刑廃止を支持するマスコミが、死刑を執行した東京裁判を批判しない矛盾もそこにある。日本がアメリカや中国を相手にやった戦争も、実は国内の反戦運動と同じで、「戦争の原因をなくす」ことを目的としていたのかも知れない。

多くのヒーロー者で描かれる「平和を守るための戦い」がそれで、敵は世界征服を狙う。しかし、世界が征服されれば「世界は一つ」という人類の夢が叶うはずだ。では、人々はなぜ世界を一つにすることを拒否するのか。始皇帝は文字の不統一を嘆いたが、現代になっても食べ物の安全基準、銃の規制など、世界は一向に一つになっていない。人々は世界を一つにすることを拒否している。コソボ(Kosovo)の独立もそうである。

ジョン・レノン(John Lennon、1940~1980)は「国(国境)がない世界を想像しよう」と歌っていて、宇宙飛行士が「地球は一つ」と訴えることをマスコミは喜ぶが、それは理想論であり、人々は国境をなくすどころか、かつてあった国境を復活させようとしている。このことは、かつての朝鮮、チベット、沖縄で明白である。日韓併合を否定する朝鮮人が南北統一を実現できないのは、心の底で南北併合を拒否しているからだ。始皇帝や豊臣秀吉や徳川家康の論理では、「侵略」は「天下統一」であり、「独立運動」は天下を乱して乱世に戻す「暴動」である。暴動を制圧する国が暴動で成立し、テロと戦うと称する国がテロで成立した歴史を直視すべきだろう。

薬害エイヅ(エイズでなくエイヅ)問題では「血液製剤を国内で自給しろ」という声が上がり、餃子問題でも「中国産でなく国産を」という人が多くなり、「沖縄の米軍基地は不要」、「日本で銃規制を」、「日本に核は要らない」という声もある。これらは結局、日本が「鎖国」をしていた理由であり、日本がシナやアメリカと戦争をして守ろうとしたものであろう。

日本という国家の外から来る厄介なものを国境の外に戻して満足する日本の感性は、「国境なき地球市民」の理想論と矛盾する。日本と中国、日本とアメリカの国境がなければ、餃子でも基地でも平気で入ってくる。国境で止めたところでアメリカや中国で過ごす日本人のことを誰も考えない。
日本の輿論がまだまだきわめて国家主義的であり、始皇帝が夢見た天下統一を地球規模で実現するのは、まだ数百年、1000年は先の話だろう。

アイスランドの歌手・ビョークが中国公演で「チベット独立」を叫んだらしい。これでチベットは海外アーティストへの規制を強めるらしい。
これは日本に支配されていたときの「三・一独立運動」と同じだ。
今、支配されている場合、独立は否定され、結果として独立すると独立運動は正当とされる。
歴史は結果論だ。

中国の歌手が沖縄で「沖縄独立」を叫んでも日本政府は何とも言わないだろう。

朝日新聞によると、吉川晃司は杉原千畝を「国の命令にさからって正義を貫いた」という意味で「ロックの精神」と讃美したが、ビョークもロックの精神を持った歌手であろう。

一方、「国の命令に背く」というのは食品や建築の偽装、自轉車の三人乗り、未成年者の飲酒や喫煙、路上喫煙など、あらゆる違法行為または条例違反、不祥事も含まれる。

2008年、北京五輪を前にチベットで暴動が起きた。これは暴動という意味では反日暴動、義和団の乱と同類である。
自称「反権力闘争」であろうと、それを鎮圧する側であろうと、結局は破壊、暴力、放火、殺人であることには変わりがない。

チベットの暴動(蜂起、動乱)に対する中国政府の姿勢は日中戦争当時の日本政府に似ている。中国人が暴動(蜂起、動乱)を起こすから、それを鎮圧するために日本は大陸に兵を送る必要があった。
また、中国政府にとってチベット人は中国人で、一部の中国の反乱分子のしたことで中国が批判されるのは理不尽だと言いたいだろう。しかし、假にチベット人が中国人であっても、その中国人が治安を乱したのは中国政府の監督不行き届きであって、それはかつての日本兵が中国でやったらしい軍規違反、戦闘行為(中国人の仲には私服兵もいたが)も含むだろう。
中国政府は今度のチベット問題で、かつて中国に手を焼いた日本軍の気持ちを少しは察するべきだろう。
こういう暴動(蜂起、動乱)は中国ではよくあることで、始皇帝が中国を統一したときも、趙や楚の生き残りが国を再建しようとした。チベット人の気持ちも同じだろうし、日本によって統治されていた朝鮮の独立運動も同じである。
中国政府は独立運動を「国家分裂」として批判しているが、たかが「国家」ごとき、分裂しようが統合しようが、気にしなければどうということはない。
また、中国がチベット独立や台湾独立(本当は人民共和国への不参加)の言論を異常なまでに制圧しようとすると、なおさらチベット人と台湾人は人民共和国の一員であることを拒否するようになる逆効果も考えられる。

朝日新聞はチベット人が起こした蜂起=暴動を「騒乱」または「デモ」と書き、漢族が2005年に起こした蜂起=暴動を「デモ」(08年4月3日)と書いている。単語の表層が違うだけで、シナ民族の反日感情もチベット人の反シナ感情も平等に考える必要があるだろう。

「国家分裂」の悲劇は分裂を否定しようとする人たちによって引き起こされ、違う国であることを認めれば国際交流と言う形で国境が無意味なものに近くなる。

『デビルマン』悪魔の裁判官がジャンヌ・ダルクに言ったように、戦争をなくすための戦争、武装蜂起は矛盾であり、これは『おんな太閤記』でねね(高台院)が言った「戦をなくすための戦」につながる。安保闘争、学園紛争が暴力的である矛盾を見ればよくわかる。

中国政府は「国家、政権を轉覆させる」、または「祖国を分裂させる」運動を全面的に否定するが、たかが国家、政権ごとき轉覆したらしたで、どうということはないし、祖国が分裂したところで枠組みと呼び名が変わるだけの話だ。今の中国政府も国民党政府を轉覆させてできた。
祖国分裂などどこが悪いのか、理由がない。中国のせいでモンゴル人も祖国を分断されたし、チベットも西蔵自治区と青海省、四川省西部に分断されている。
中国国外のインドにチベット亡命政府があるようだが、朝鮮人も日本に併合されていたとき、朝鮮半島の外の上海に臨時政府を作っていたらしい。
現在のグローバル社会において、独立運動はその流れに反するものだが、逆に言えば、今の国がどう分裂したところで国際交流という形で人と物の往来は続く。異国に帰化したら死んだと同じという大黒屋光太夫の仲間たちの時代とは違う。
例えば、日本の北海道と沖縄が、今すぐ独立国家になっても、グローバル社会では大して変わりがない。
チベットが中国から独立しても、中国はモンゴルやベトナム、カザフ、キルギスなどと同様、一部、民族を共有する隣国として接すればいい。


そして民主主義は絶対ではない。『忍者武芸帳』の岩魚(いわな)の家族も『デビルマン』の牧村家も多数の「民意」によって濡れ衣を着せられて惨殺された。『はだしのゲン』の中岡家も「多数決」によって家を破壊された。
民衆を無条件に「善」とする思想や「権力対反権力」という構図は、いい加減、捨てたほうがいいと想う。

2008年2月15日

民衆を無条件に「善」とする思想や「権力対反権力」という構図は、いい加減、捨てたほうがいいと想う。

オリンピックでは負けそうな試合でも全力を尽くすことが尊ばれる。
スポーツ漫画とSFアニメでは「男なら無駄とわかっても、負けるとわかっても戦わなければならないときがある」という教訓が出るし、武家政権時代(鎌倉時代~江戸時代)を描いた時代劇も似たような世界観である。

それが、「大東亜戦争」になると「負ける戦争をしたのは愚か」という論調が支配的だ。では、中国はアヘン戦争や日清戦争では愚かだったか、島原の乱を組織した甘く刺し牢は愚かだったか、三・一独立運動は愚かだったか、60年安保闘争は愚かだったか、考えてみるといい。

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2008/2/28
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