『きぞろ』と読む。
川口と浦和の境、見沼田んぼの小高いところに位置する。
ここも以前、古墳として、見に来たことがあった。
高台の縁にあるため、見る位置により高さが異なって見える。鳥居のある方向(東側=高台の上)から見ても結構高いが、更に高台の下(南~西側)から見上げると、凄い高さ(10mは超える?)だ。
塚には、樹木が生い茂り、遠方からだと富士塚の姿を見ることが出来ない。でも、その中に入ってしまえば、立派な富士塚が見られる。(→上記写真)
塚に登る道は2箇所。一つは立派な石段だ。(→写真)
そして、山頂からの眺めは、塚周辺の樹木のせいで、余り見ることは出来ない。僅かに富士山方向に隙間があるが、この初秋の時期では、矢張り、見ることは出来ない。
▲高台の上、塚の西側から見上げる。
▲塚の上から、今登って来た石段を見下ろす。その向こうは、高台の下で、竹林の刈り込みをしている人が小さく見える。
▲塚の北方向。下には小振りの社が見える
▲さっきの石段の下の人がいた位置から見上げる。
富士塚はこの崖の縁の上に乗っかってるので、かなり高い。
又、右側石碑の向こうに小さな開口部がある。胎内か?
▲西側の崖下には、蓋をした開口部らしきものが見える。
上の写真のより、こっちの穴の方か大きい。
--------<説明板・縦書き>-------------------------------
国指定有形民俗文化財
木曽呂の富士塚
昭和五十五年四月二十四日指定
富士塚は、富士山を模して築造した塚。江戸高田の行者藤四郎が
老若男女だれでも心やすく、富士に登山できるようにと、安永九年
(1780)高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まり
である。
木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または、”木曽呂浅間”と
呼ばれ、寛政十二年(1800)に、富士講の一派である丸参講(まる
さんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼
代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、
高さ五.四m、直径約二〇m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、
お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没
しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には、文化二年(1805)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)
の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに
周囲には、享和四年(1804)の石燈籠、天保四年(1833)の石鳥居等
丸参講によって造立された石造物が多く残されている。富士塚の中で
も古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を
示すもので、貴重である。
木曽呂富士塚造営物
1 燈籠 10 富士登山三十三度修業(高津条之助)碑
2 〃 11 伊勢太々碑
3 鳥居 12 鹿島大々碑
4 御手洗石 13 登山隔年修行碑
5 〃 14 登山三十三度(真行明山)碑
6 〃 15 経碑
7 墓誌(築造富士由来) 16 石官
8 石仏(如来?) 17 シモガミ
9 地蔵尊像
文化庁
埼玉県教育委員会
川口市教育委員会
蓮見武夫
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埼玉県川口市木曽呂
平成30年9月23日(日)