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都会の真ん中、千代田区の神田にある富士塚
JR秋葉原駅を降りて、神田川の対岸の川っ淵に立地する
説明板によると、かつて富士講があり富士塚もあったが、廃れて破却され、今はその残物が境内の片隅に残されていると言う
其の為か、説明板でも富士塚と言う名称ではなく、富士講関連石碑群とされている
▲柳森神社の鳥居を潜って、直ぐ右手側にかつての富士塚の石碑が寄せ集められている
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千代田区指定有形民俗文化財
富士講関係石碑群
柳森神社は、延宝八年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間
神社を、合殿・合祀しました。また『東都歳時記』には、天保期(1830~44)
ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳
森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思
われています。この塚が明治時代以降何らかの理由で一度廃れてしまい、これに対
して昭和五年(1930)に周辺の富士講により新たに富士塚が再建されました。
本件の石碑群は、この時代建てられた富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思
われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和三十五年(1960)
に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げ
て小山を築き、この周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが
富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。
各石碑の名称/作成年代/寸法(高×幅×厚、単位cm)/作製者は、左の通りです。
①北口富士分教会の碑/昭和五年(1930)十一月改筆/83.5×79.4×7.5/不詳
②神田八講の碑 /大正十四年(1925)六月再建/141.5×67.5×13.4/神田八講
③北口神田講社の碑 /昭和五年(1930)六月一日/139.5×64.2×12.7/山京講
④小御嶽大神の碑 /(年代不詳)/61.0×35.0×7.0/不詳
⑤三柱乃大神の碑 /(年代不詳)/85.0×85.0×37.0/不詳
富士講とは、浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・
修業をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の
講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、
居ながらにして富士山登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を
築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は、
江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以
降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際
しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は
数を減らし始め、第二次世界大戦前後には、多くの講社が姿を消していきました。
したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では、現在五十前
後の富士塚が現存するばかりですが、「下谷坂本の富士塚」(台東区)、「豊島長崎の
富士塚」(豊島区)、「江古田の富士塚」(練馬区)は、国の有形民俗文化財に指定され
ているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。
「富士講関連石碑群」は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に
関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示し
てくれる貴重な資料です。
平成十一年三月
千代田区教育委員会
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東京都千代田区神田須田町二丁目17
平成30年11月25日(日)