地理講義   

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241.米山の遠見遮断 宮城県登米市米山

2017年02月09日 | 地理講義

登米市米山は自然堤防上の集落
旧迫川がショートカットされて迫川がつくられた。米山は旧迫川と迫川にはさまれた沖積平野にあり、集落は自然堤防上にある。新旧の迫川の水位は、山吉田水門によって行われ、水田農作業時、洪水時、渇水時には、適正な水位コントロールがなされている。


米山では江戸時代初期から、低湿地の水田化が進められた。豊かな米作地帯になったが、迫川の洪水が頻発した。伊達政宗以来、迫川の蛇行部分を直線にするショートカット工事が進められてきたが、難工事であった。ショートカット工事は1932年、山吉田水門は1938年完成に完成した。迫川(新迫川)の運用は1939年である。300年余にわたる工事の完成により、自然堤防のみならず、低地の水田も洪水被害はなくなるはずであった。

しかし、第二次大戦後だけでも、1947年カスリン台風、1948年アイオン台風、1950年熱帯低気圧豪雨による洪水が米山を直撃、集落の洪水は数日でひいたものの、水田の湛水は長期に及び、米作は大きな被害を受けた。迫川上流へのダム建設、並行する北上川の改修が進められることになった。
米山は水害さえなければ、良質米の豊かな産地であった。
財産は米、米にはカネ以上の価値
300年前からしばしば洪水被害を受けても、たくましく復興してきた。復興の元手になる米が財産であった。米は1960年代の高度経済成長期までは、カネに代わる決済手段であった。隣町佐沼の商家で、カネがなくても米で商品を買うことができた。日々、米山を訪れる行商人からも米で商品を買った。
米を守ることが家族ならびに集落の財産を守ることであった。道は城下町のような屈曲道路であり、遠見遮断の効果は城下町並みであった。

佐沼街道における遠見遮断は、城下町が敵軍に対する防御であったように、米作集落の米強奪などへの防御のためであった。その中心が専興寺であった。寺は佐沼からの街道を左右に分け、左は佐沼街道、右は県道198号始点である。

 佐沼街道の屈曲路を越えて直線道路を進むと、専興寺が行く手を遮る。群盗・夜盗を防御するための市街地建設である。この道路は第二次大戦後に自動車交通のために拡幅整備されたものであり、拡幅以前の道路幅は馬一頭がすれ違える程度の道幅(1間=1.8m)しかなかった。屈曲した道路は、財産としての米を守る上で大きな役割を果たした。手前左車線は、専興寺通用口に直進する。道路拡幅前、専興寺改築前は、左車線分の道路しか存在せず、それが寺の直進路になっていたことが分かる。


運命共同体
米山は自然堤防上に集落が並び、後背湿地に水田を保有する。新旧迫川や北上川の水害により、大きな農業被害を受けて来た。また、過去には保有米をねらった一揆の襲来もあれば、夜盗の群れもあった。水害から水田を守ることは難しいが、城下町並みの遠見遮断で集落を守ることは可能である。集落は運命共同体である。遠見遮断の屈曲路は、一揆や泥棒を防ぐ上での、集落としての共同体意識を高揚させる意味があった。集落全体が一つにまとまり、自衛する、そのためには4か所の屈曲路つまり遠見遮断が必要であった。

 

 

 



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