昭和15年(1940年)、日本経済が恐慌から抜け出すことができず、工業生産が疲弊していた。同年4月から、米・麦・みそ・砂糖・マッチ・酒・木炭・練炭・衣料のような生活必需品の10品目が東京・大阪で切符制が実施された。物資不足のための配給制である。
金魚酒
昭和15年(1940年)に婚礼用に配給された酒の場合、1升ビン単位の清酒は最初から水とエチルアルコールで薄められていた。金魚を一升瓶にいれて泳がせても平気であった。「フナを入れたら酒で赤くなって、金魚になった」などの冗談が本気にされた。水割り清酒は、「金魚酒」と呼ばれた。自家用密造酒どぶろくが復活した。
配給たばこ
たばこは、大人一日が6本の配給であった。敵性英語「ゴールデンバット」が「金鵄(きんし)」に改称された。その「金鵄」が配給たがこであった。
「金鵄」とは神武天皇の弓の先にとまる、光輝くトビであり、戦争では必勝の象徴であった。
紙巻きたばこは国内では贅沢な不要品とされ、海外の戦地に送られた。国内では、「刻みたばこ」と、それを巻く紙が配給された。
たばこを吸う者は、自分で「刻みたばこ」を配給紙で巻いたものだが、増量のために、ツバキ・茶の葉など、たばこの風味に近い枯葉を加えて巻いて吸った。
戦時中の米配給制度
太平洋戦争開始直前の昭和16年(1941年)、4月から東京・大阪などの6大都市で、米の配給通帳制と、外食券制が実施された。
米配給量は1人1日当たり330gであった。当時の一人当たり消費量は430gであった。100g減量の厳しい措置であった。
米配給制を全国的に実施するための食糧管理法の施行は1942年(昭和17年)7月であった。当時は、日本は太平洋戦争・日中戦争の不利な戦況にあった。食糧管理法の目的は、
① 国内の米を買い占めを禁じ、新たな「米騒動」を予防し、国内の治安を守る。
② 農家の米の隠匿を禁じ、配給制を支障なく実施して、都市の米不足を解消する。
③ 米を海外の戦地に優先的に送り、戦況を有利に展開できるようにする。
しかし、戦争の長期化のために米が不足し、配給予定量を配給できなかった。米の代わりに、パン・そば・うどんなどが配給された。外食も可能ではあったが、米飯を食べるのは難しかった。
出征者の増加と農業労働力の減少のため、米不足がさらに深刻になると、砂糖・味噌・塩・魚介類・肉・野菜まで、米以外の食糧はほとんど全部、配給制度に組み込まれた。
戦争末期、米の保管・輸送システムが機能せず、米の代わりにイモ・大麦・コーリャンが配給されたが、それさえも不足した。
戦中、米価は安定したのか
60kg当たりの政府公定米価
1935年-----10.9円
1936年-----11.8円
1937年-----12.9円(日中戦争)
1938年-----13.4円
1939年-----16.3円
1940年-----16.3円(経済統制強化)
1941年-----16.5円(太平洋戦争)
1942年-----16.9円(食糧管理法)
1943年-----18.4円
1944年-----18.8円
1945年-----60.0円(終戦)
1946年----210.0円(戦後インフレ)
1947年----700.0円
1948年---1487.0円
1985年--18668.0円
日中戦争・太平洋戦争中は米価が安定していたが、政府の配給米が著しく不足していた。政府が食糧管理法で定めたように、大人1日一人当たり2合2勺(400g)の配給が可能であれば、食事に関しての問題はなかった。公定米価は政府が米を買い集めることができ、しかも公平な配給システムが完備している場合の図上プランであった。
現実の米は、政府公定価格の10倍以上の価格でヤミ取引された。ヤミ米業者に米を売る農家が多く、政府は一人2合2勺相当分の配給米集荷も配給も、最初から不可能であった。
良心から、あるいはカネがないから、ヤミ米を買えない庶民は、わずかの配給米に、麦・大根・イモなどを混ぜ込んで食べた。それでも栄養失調の多発と、体力低下に由来する肺結核の流行とが、大きな問題になった。
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終戦後はヤミ米が頼り
戦後、食糧供給はしばしば途絶えた。食糧管理制度は有名無実で、配給制度はうまくいかず、ヤミ市場での供給量が増加した。戦後も食糧管理制度は残っていたが、政府は配給すべき米を集荷できず、配給制度は有名無実であった。
食糧管理法が機能せず、米など食糧不足の都市住民が、違法承知で農家に米・イモなどを直接購入に行った。超満員の列車はヤミ米運搬人で超満員であった。警察も鉄道公安官も、見て見ぬふりをしていた。
食糧管理法は戦時統制法であったが、終戦後も法的効力を失わず、国民の主食を政府の責任で配給する建前は続いた。東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎は、食糧管理制度をかたくなに守り、昭和20年、終戦直後に餓死した。家族6人に、ネギ2本程度の配給しかなく、家庭菜園も役立たなかった。
さらに、青森地裁判事の保科徳太郎、東京地裁判事の山口良忠の2人は、法を守る立場からヤミ米を食べず、ともに1947年に栄養失調で死亡した。
死んでも法を守った2判事に対し、国民は自分が飢え死にするような食糧管理法を守っては、何のための法か、法の仕組みが根本から間違えているとする考えがあった。
他方で、悪法であっても法は法であり、司法を守る立場の者としては、栄養失調も仕方がない、と2判事の飢え死にを肯定する考えがあった。
金魚酒
昭和15年(1940年)に婚礼用に配給された酒の場合、1升ビン単位の清酒は最初から水とエチルアルコールで薄められていた。金魚を一升瓶にいれて泳がせても平気であった。「フナを入れたら酒で赤くなって、金魚になった」などの冗談が本気にされた。水割り清酒は、「金魚酒」と呼ばれた。自家用密造酒どぶろくが復活した。
配給たばこ
たばこは、大人一日が6本の配給であった。敵性英語「ゴールデンバット」が「金鵄(きんし)」に改称された。その「金鵄」が配給たがこであった。
「金鵄」とは神武天皇の弓の先にとまる、光輝くトビであり、戦争では必勝の象徴であった。
紙巻きたばこは国内では贅沢な不要品とされ、海外の戦地に送られた。国内では、「刻みたばこ」と、それを巻く紙が配給された。
たばこを吸う者は、自分で「刻みたばこ」を配給紙で巻いたものだが、増量のために、ツバキ・茶の葉など、たばこの風味に近い枯葉を加えて巻いて吸った。
戦時中の米配給制度
太平洋戦争開始直前の昭和16年(1941年)、4月から東京・大阪などの6大都市で、米の配給通帳制と、外食券制が実施された。
米配給量は1人1日当たり330gであった。当時の一人当たり消費量は430gであった。100g減量の厳しい措置であった。
米配給制を全国的に実施するための食糧管理法の施行は1942年(昭和17年)7月であった。当時は、日本は太平洋戦争・日中戦争の不利な戦況にあった。食糧管理法の目的は、
① 国内の米を買い占めを禁じ、新たな「米騒動」を予防し、国内の治安を守る。
② 農家の米の隠匿を禁じ、配給制を支障なく実施して、都市の米不足を解消する。
③ 米を海外の戦地に優先的に送り、戦況を有利に展開できるようにする。
しかし、戦争の長期化のために米が不足し、配給予定量を配給できなかった。米の代わりに、パン・そば・うどんなどが配給された。外食も可能ではあったが、米飯を食べるのは難しかった。
出征者の増加と農業労働力の減少のため、米不足がさらに深刻になると、砂糖・味噌・塩・魚介類・肉・野菜まで、米以外の食糧はほとんど全部、配給制度に組み込まれた。
戦争末期、米の保管・輸送システムが機能せず、米の代わりにイモ・大麦・コーリャンが配給されたが、それさえも不足した。
戦中、米価は安定したのか
60kg当たりの政府公定米価
1935年-----10.9円
1936年-----11.8円
1937年-----12.9円(日中戦争)
1938年-----13.4円
1939年-----16.3円
1940年-----16.3円(経済統制強化)
1941年-----16.5円(太平洋戦争)
1942年-----16.9円(食糧管理法)
1943年-----18.4円
1944年-----18.8円
1945年-----60.0円(終戦)
1946年----210.0円(戦後インフレ)
1947年----700.0円
1948年---1487.0円
1985年--18668.0円
日中戦争・太平洋戦争中は米価が安定していたが、政府の配給米が著しく不足していた。政府が食糧管理法で定めたように、大人1日一人当たり2合2勺(400g)の配給が可能であれば、食事に関しての問題はなかった。公定米価は政府が米を買い集めることができ、しかも公平な配給システムが完備している場合の図上プランであった。
現実の米は、政府公定価格の10倍以上の価格でヤミ取引された。ヤミ米業者に米を売る農家が多く、政府は一人2合2勺相当分の配給米集荷も配給も、最初から不可能であった。
良心から、あるいはカネがないから、ヤミ米を買えない庶民は、わずかの配給米に、麦・大根・イモなどを混ぜ込んで食べた。それでも栄養失調の多発と、体力低下に由来する肺結核の流行とが、大きな問題になった。
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終戦後はヤミ米が頼り
戦後、食糧供給はしばしば途絶えた。食糧管理制度は有名無実で、配給制度はうまくいかず、ヤミ市場での供給量が増加した。戦後も食糧管理制度は残っていたが、政府は配給すべき米を集荷できず、配給制度は有名無実であった。
食糧管理法が機能せず、米など食糧不足の都市住民が、違法承知で農家に米・イモなどを直接購入に行った。超満員の列車はヤミ米運搬人で超満員であった。警察も鉄道公安官も、見て見ぬふりをしていた。
食糧管理法は戦時統制法であったが、終戦後も法的効力を失わず、国民の主食を政府の責任で配給する建前は続いた。東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎は、食糧管理制度をかたくなに守り、昭和20年、終戦直後に餓死した。家族6人に、ネギ2本程度の配給しかなく、家庭菜園も役立たなかった。
さらに、青森地裁判事の保科徳太郎、東京地裁判事の山口良忠の2人は、法を守る立場からヤミ米を食べず、ともに1947年に栄養失調で死亡した。
死んでも法を守った2判事に対し、国民は自分が飢え死にするような食糧管理法を守っては、何のための法か、法の仕組みが根本から間違えているとする考えがあった。
他方で、悪法であっても法は法であり、司法を守る立場の者としては、栄養失調も仕方がない、と2判事の飢え死にを肯定する考えがあった。