地理講義   

容量限界のため別ブログ「地理総合」に続く。https://blog.goo.ne.jp/morinoizumi777

134.東京湾岸の都市型災害   東京直下型地震

2014年02月07日 | 地理講義

沖積平野と湾岸埋立地          
沖積平野は河川の洪水と海面の上昇でできた、砂泥の平野である。洪水は沖積平野をつくる自然現象でもある。
地震の揺れの大きい場合、地下水位が10m以下では地下水が地表に噴き出て、軟弱地盤は液状化する。
東京湾岸の埋立地は、江戸時代からのゴミ捨て場である。
明治以降はそれを海底からすくい上げた泥で覆い、住宅地・工場用地として利用してきた。
1959年、民間の産業計画会議が、東京湾を積極的に埋立て、新首都建設を建議した。

東京湾建議

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図の凡例

 

 

 

 

 

 

 

 

 

産業計画会議は電力王と言われた松永安左エ門(1875~1971年)が、電力・ゼネコン・官僚・御用学者で組織した経済最優先のシンクタンクであり、具体的な策を提言した。東京湾埋立て事業の提言は1959年、高度経済成長初期の計画であるが、21世紀の現在までその計画は引き継がれている。
さすがに産業計画会議の提言した新首都の東京湾移転は実行されなかったが、湾岸の工業用地は計画どおりに埋立て造成された(1960~1980年)。埋立て事業の主体は、東京都、千葉県、神奈川県など湾岸の自治体である。埋立地を安く売却して進出企業を優遇しても、売却代金で、国・銀行などからの借金を清算することができた。
川崎と木更津を結ぶ自動車有料道路(東京湾アクアライン)は、1973年の第1次石油危機のために建設が凍結され、財政的にも技術的にも実現は困難であった。しかし建設省は1966年から休むことなく事業計画と技術開発を進め、1987年に着工、1997年に完成した。将来は、東京湾を結ぶ高速道路計画の一部と位置づけられ、産業計画会議の提言が50年後に日の目を見たことになる。
政界・財界の結びつきの強さが証明されたことにもなる。 

地震による埋立地の液状化現象
2011年3月11日東日本大震災で、東京湾岸の埋立地では液状化現象による被害が発生した。埋立地に建てられた多くの工場のうち、石油化学コンビナートでは火災が発生した。工場の機器類・配管・タンクに大きな被害があったが、原油貯蔵タンクの火災が象徴的であった。
千葉県浦安市の住宅団地は東京湾の最後の埋立地であり、液状化現象により住宅・道路が大きな被害を受けた。液状化は地下水が10mよりも浅い場合、地下水は地震によって砂泥中を上昇し、地表面が液状化する。基礎工事の浅い住宅は液状化すると傾き、住むことが難しくなる。沖積平野では埋立地でなくても、液状化は起こる。液状化は新しい埋立地ほど発生しやすいし、被害が大きくなる。
かつて江戸川沿岸に中小工場が集中していた時には、タダ同然の地下水を汲み上げて使っていた。そのため地盤が沈下し、海面以下の土地が拡大した。1970年代に地下水の汲み上げ規制が強化された。地盤沈下はとまったものの、地下水位が上昇し、地震による液状化現象が予想された。2011年の東日本大震災では、予想どおり、埋立時期の新しい浦安市で液状化現象が顕著であった。できて10年の新興住宅団地で、地下水が泥水となって吹き上げ、道路を割り、住宅を傾け、電柱を倒した。ガス管・上下水道管も寸断された。
浦安以外の埋立地では、工場の多くは埋立地の弱さを考慮し、土台の基礎を30~50mにしていたので、液状化による被害は小さかった。しかし、広い水平な土地に建てられた石油タンクが地震の震動と不均等な地盤沈下により、原油漏れと火災を起こした。
東京都では古いマンションが台地に多く、液状化による倒壊の危険は少ない。しかし、震動の増幅により、免震・耐震設備のないマンションが多く、マンションのエレベーター・給排水設備・電気・ガスなどにも大きな被害が予想される。取り壊して再建のケースが少なくないだろう。
皮肉なことだが、沖積平野(江戸川・江東地区など)では新しい高層マンションがつくられて、免震・耐震装置が整っているが、震度6強のような激しい地震では、免震・耐震装置の予想を超えた揺れがあり、オフィスビルもマンションも全く無傷とはいかない。ビル・マンションの外で液状化により水・電力の供給が長期間停止すれば、そのビル・マンションは無傷でも使用できないことになる。

※ 浦安駅前の液状化(埋立地に地下水が噴出)浦安市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※ 東京区部の液状化予測図
液状化

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プレートテクトニクス
関東大震災は1923年9月1日11時58分、相模湾を震源として発生した。マグニチュード7.9と推定される。
関東大震災の震源であった小田原付近は、日本を取り巻くユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの集まる、特異な地点である。近くには富士山と箱根の火山群がある。関東大震災の震源は東京湾外であり、東京の津波被害は少なかった。
昼時の地震のために、台所の火が板壁に燃え移って大火災となって、被害者が多くなった。プレートの境界で地震が起こるが、境界は点でもないし、線でもない。始点も終点も幅も深さもよく分からない、帯状の境界である。次の大地震は、東京湾内か東京区部か多摩地域か、見当がつかないのが現実である。
現在は、耐震・耐火構造の建築物が大半なので、関東大震災のような大火災はないであろう。
それよりも、無人になった市街地では銀行・商店が荒らされるであろう。2011年の東日本大震災では報道はされなかったが、無人の銀行の金庫が破られたり、商店街が軒並み空き巣にあったりした。東京で地震が起こると、治安の維持が最大の問題になるだろう。また、道路・電気・ガス・上下水道のライフライン復旧の問題が非常に大きい。
自家発電や自動車の燃料価格と販売制限の問題も大きい。食物と飲料水の備蓄はある。しかし、食べるだけで満足できるのは震災から3日程度であり、あとは修羅場である。生存競争が随所で起こり、力のある者、カネのある者が、被災地の王者として生き残る。
科学的見地からの地震予測でも、最近はさっぱり当たらなず、地震学の学問的レベルが疑われるようになった。プレートテクトニクスそのものさえも、多くの学説の一つに過ぎないのでは、との見方もある。

プレート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地震 震源

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


※ 黄色点線内が埋立地。関東大震災の震源は小田原~平塚の沖合と推定される。東京湾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

寺田寅彦「津浪と人間」(1933)
1933年3月3日午前2時30分、岩手県綾里村(現在の大船渡市)沖でM5の地震が発生、その30分後に綾里村と近隣町村に、最高28mの大津波が襲来した。この三陸大津波で1,500人が犠牲になった。地球物理学者寺田寅彦が同年、エッセイを書いているが、2011年の東日本大震災のことを語っているかのようである。次はその一部。
学者
「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
被災者
「それほど分かっている事なら、なぜ津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
学者
「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」
被災者
「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」
という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。


巨大地震の犠牲者
関東大震災
1923年9月1日午前11時58分、震源相模湾、マグニチュード7.9の地震であった。震度6はそれほど強い地震ではないし、東京直下型の地震でもなかった。しかし、東京都の被害者数は突出していた。
関東大震災による死者合計105,285人であった。東京都の死者70,387人のうち、火災による死者は6,652人であった。関東大震災の半分以上が焼死、東京に限れば95%が焼死者であった。
東京都で最も被害が大きかった。薪・石炭の火を使って昼食準備時中であり、地震で倒れた家財家具、戸障子に引火、火災が随所で同時に発生したことである。木造密集家屋に次々と火災が広がり、細い逃げ道だけでなく、広い空き地にも火炎が舞い、多数が焼死した。 家財を山積みにした避難者の荷車が消火の妨げになった。しかも、荷車の家財に引火し、火災を拡大した。
関東 地震

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




阪神・淡路大震災
1995年1月7日午前5時46分、震源は淡路海峡付近であった。震度は7.2であった。神戸は六甲山地の隆起過程で大小多数の断層があり、断層による大都市直下型の地震であった。1982年の建築基準法改正以前の古い木造商店街が倒壊した。また、海岸の埋立地が液状化現象を起こした。
死者6,434人のうち、5,000人前後は家屋が倒壊して逃げ道を失ったり、家具などの下敷きになって動けないうちに、火災の拡大によって死亡した。
神戸地震

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

東日本大震災
2011年3月11日3月11日14時46分、震源は三陸沖、マグニチュードは9.0であった。家屋の倒壊、インフラの長期損壊、そして最大40m(大船渡)の巨大津波に三陸沿岸の住民多数が被災した。また、地震と津波により、東京電力福島第1原子力発電所がメルトダウン、核兵器を上回る放射線を放出し続けて、効果的な解決方法を模索している段階である。
東日本大震災から2年後の集計では水死14,308人、圧死667人、焼死145人、死因不明666人、その他に行方不明者2,640人である。
水死者の大部分は、地震から40~60分後の津波による。焼死者は気仙沼市鹿折地区に集中している。
気仙沼漁港は遠洋・近海漁業の重要基地であり、海岸には漁船用の重油タンクが林立していた。地震と津波によってタンクが破損し、重油が気仙沼湾に流出した。重油は原油から灯油・軽油・ガソリンなどを抽出したあとの残りであり、簡単には火がつかない。気仙沼湾で重油が燃えたのは、陸上で燃えた住宅・自動車が重油の海に落ち、重油に火をつけたからである。湾内に広がる重油が48時間燃え続けた。
焼死者は重油火災からの陸上への延焼、地震による家庭用プロパンガスの破損発火、電線のスパーク、自動車事故によるガソリンタンクからの発火など、多くの原因がある。




 

東京の直下型地震への対応
洪水
地震による震動、コンクリートの破談、液状化による地盤沈降、上流からの漂流物、橋梁端のねじれなど、多種多様な理由によって堤防が破れる。沖積平野の洪水、0m地帯の湖沼化など、大きな被害を避けられない。特にかつて利根川・渡良瀬川の流れていた低地の洪水被害は長期になる。地下放水路によって都心の中小河川の増水分をポンプを使って荒川に流すことはできるが、自家発電の燃料が途絶えると、地下放水路は役に立たない。大地震では停電が広範囲かつ長期化するので、それに対応したポンプの作動と洪水処理を考えなくてはならない。
地下鉄の旅客・乗務員などの避難したあと、地下鉄トンネル全体に洪水を流し込み、洪水の被害を小さくする手段はある。電気の回復した時に水を汲み出し、破損箇所を修理すれば地下鉄はまた運行できる。多くの人命を救うためには、このような非常手段がある。なお、これはソ連が冷戦時に地下鉄を核戦争のシェルターとして建設したことに似たアイデアである。

交通
ローカル都市ならば通勤・通学電車の代替手段として、バイク・自転車の利用もあるし、山の近道もある。しかし、首都圏で停電が長引けば通勤・通学ができない。それよりも、会社・学校が再開できる見込みもないのに、無理に電車を利用することに意味はない。電車のみが中途半端に回復しても混乱を増やすだけである。会社・学校は郊外に代替施設を用意しておくべきである。郊外のグラウンドや社員寮は過剰な福利厚生ということで所有していない企業・学校が多いが、特に国際金融関係企業などは地震災害対策用に必要である。東京神大手町に本社があれば、所沢周辺の台地に、ふだんは遊休施設だが、非常時には本社として使用できる建物を周遊すべきであろう。目先の利益、少数の株主の意見で、これらの施設を売却したのは誤りである。

通信
たとえ、電話会社の設備が無事であったとしても、携帯系の個人電話から、家族・友人の安否確認のための通話が一斉発信されるため、ほとんど通話ができない。メールを発信しても、到着に2~6時間を要する。通じない電話から発信を続けると、通話時の3倍の速度で電池が消耗する。家族・友人の安否の確認ができないことは人々を不安に陥れ、ニセ情報、デマの飛び交う原因になって、ふだんは考えられないような行動をする者が多く、さらに不安が増幅する。110、119の緊急電話もできない。地震に備えた情報の選別送信の技術開発が急務である。

 

 

 



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