地理講義   

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119.扇状地の扇央にも集落  山梨県京戸川扇状地

2013年12月14日 | 地理講義

釈迦堂遺跡
山梨県の釈迦堂遺跡は現在の中央自動車道路の釈迦堂パーキング付近の縄文遺跡である。京戸川扇状地の扇央にある。
中央高速道路が建設される直前、道路公団は縄文遺跡として貴重な存在であることを無視できず、1980~1981年に釈迦堂遺跡の緊急発掘調査を実施した。標高450m付近の扇央が発掘調査の中心になった。なお、調査後、高速道路の建設工事により遺跡は破壊されたが、遺物はパーキングエリア内の釈迦堂遺跡博物館に収納公開されている。遺物はすべて重要文化財に指定された。
京戸川扇状地の扇央に300戸近い縄文集落址があり、6000点の遺物が得られた。
一般に、扇央は危険な洪水の恐れがあるし、日常的には生活用水を得られず、近代的配水システムができるまでは生活の困難な地形である。扇状地ではわき水の豊富な扇端には集落ができるが、扇央には水がないので集落ができない、と言われている。
しかし、京戸川扇状地の釈迦堂遺跡から大規模な縄文遺跡が発見され、扇央でも集落は立地可能なことが確認された。
1万年前、水がなくても扇央に集落のできた第1の理由は、京戸川が侵食力が強く、扇央に谷をつくって流れていて、洪水の危険が少なかったからである。
第2の理由は、京戸川に流れない水が地下水となって扇央を流れるが、地下水位が数mの深さであり、浅井戸から簡単に生活用水を得ることができた。また、京戸川は地下水となって、扇央にいくつもの支流が流れていた。
第3の理由は扇央には木の実の得られる広葉樹があったし、それをねらう小動物も多く、食料を得やすかったからである。

石和扇状地

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

水煙土器
山梨県釈迦堂遺跡から発掘された、縄文中期の装飾土器。新潟県十日町から出土の土器が火炎土器と呼ばれるのに対して、釈迦堂遺跡では水煙土器と呼ばれる。
縄文時代中期(BC3.500~BC2.500)に山梨・長野の八ヶ岳を中心に南北で花開いた
「装飾土器」。火炎と水煙、表現方法は違うが、時代を通じて、相互に影響し合っていたようである。

 クリックで拡大(用途不明。ガラスケースが多少目障り)

住居跡
縄文中期(8,000~6,000年前)の釈迦堂遺跡である。直径5m。大きな柱は5本、中央には炉があり、炊事用・暖房用に使われた。1つの住居は5~6人の生活が限度である。人間の平均寿命が短い頃であったから、核家族であった。

 クリックで拡大。

縄文遺跡が扇状地の扇央に分布するのは、水を得やすいからであったろう。地下水位が浅く、1mも地面を掘らないうちに、伏流水に届いた。京戸川扇状地の扇央は生活用水を得やすかった。

現在の扇央は、さくらんぼ・もも・みかん・りんぼ・ぶどう・オレンジなど、年中果実が栽培されている。地下水が浅いので、栽培が容易である。特にぶどうは、有料観光ぶどう園として客を集めることができるし、ワインの原料にもなる。扇央に集落を維持するよりも、果樹を1本でも多く栽培する傾向がある。

縄文の時代には、下図のようななもも園はなかったが、雑木林の向こうに南アルプスの山並みは見えたはずである。



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8世紀の律令国家体制確立により、租としての米、調としての絹(あるいは麻)の栽培が強制された。
扇央の集落は水田管理のために扇端に移った。あるいは移ったのではなく、扇央の集落が消滅し、扇端の集落が存続したのもしれない。
扇端は扇状地の湧水帯であるとともに、その下流側はほぼ水平の沖積平野であり、稲作適地であった。


山梨県の京戸川(きょうどがわ)扇状地の扇央には縄文時代(1万年前)から平安初期(9世紀)まで続いた釈迦堂遺跡がある。
遺跡からの出土品や集落址から、最大1,000人程度の大規模な集落があったと推定できる。
京戸川扇状地の扇央に集落の立地できた理由は、
● 扇央の地下水位が浅く、簡単に水を得られること。
● 
京戸川も水汲みには適度の距離であり、また、適度の流量であったこと。
● 京戸川・笛吹川で魚を獲り、扇央から山地にかけては山菜・木の実・鳥獣など、四季それぞれの食料を得られたこと。

しかし、8世紀以降に律令体制が強化されると、米を租として負担することが義務づけられ、水田の所有が不可欠になった。
肥料・農薬はなかったので、毎日毎日の丁寧な世話が重要であった。水を適度に出し入れしたり、水田の雑草を抜き取ったりするだけではなかった。自宅に保管している自家用米が盗まれないように監視することも、収穫前後の米が水田から盗まれれないように監視することも、非常に重要であった。必然的に、集落は扇央ではなく、水田に近い扇端にできた。
釈迦堂遺跡の集落は平安初期からまでのものである。それは扇央の集落では、扇端の稲作管理ができないからである。律令体制下では、米の生産に適した扇端に住むことになった。
扇状地の扇央に集落が立地できないのは、必ずしも水の問題ではなく、律令体制下に稲作が困難であったことも大きな理由である。
 

律令制度では租としての米を納めること以外に、調として絹か麻を納めなくてはならなかった。絹糸をカイコから取り出す技術は難しく、良質の絹を納めることができず、麻を納めることが普通であった。麻と布は同じ意味であった。10世紀の延喜式においては、甲州(山梨)では布を調としていたと記され、稲作の難しい扇央では麻の栽培が行われていたが分かる。
山梨の絹織物は16世紀に中国から輸入され、上質の絹布がつくられるようになった。輸入絹糸は海気といわれた。養蚕が盛んになったのは江戸時代からである。扇央には桑が栽培され、農家の稲作の副業として、養蚕から機織りまでが行われるようになった。扇端は米を作りながら養蚕機織り、扇央ではカイコのエサとしての桑の栽培が盛んになった。
京戸川扇状地扇央の土地利用は、
● 縄文(1万年前)~平安初期(9世紀):集落が立地し、土器・木工品などを生産し、一部は売買された。
● 平安初期~天正(16世紀):律令体制が強化され、調として麻を納入した。扇央で麻が栽培され、扇央から集落は消えた。扇端には租の稲作のための扇端集落ができた。扇端の続きの沖積平野でも、洪水が多いが稲作が盛んになった。沖積平野のうち、洪水被害の少ない自然堤防上に集落ができ、洪水の多い後背湿地に米が栽培された。
● 江戸時代(17~19世紀):低地(沖積平野)では稲作中心になった。稲作の不適当な扇央(扇状地)ではカイコのエサの桑が栽培された。扇端集落は稲作農家であり、その副業は養蚕であった。カイコの飼育、絹糸の生産、機織りの技術を向上させ、全国各地で絹織物の特産地づくり競争が始まった。扇央に桑畑が広がった。集落はなかった。
● 明治以降(19~20世紀前半):扇央では桑栽培が行われていたが、少しずつ甲州ぶどうの栽培が増加した。扇央は交通不便であり、集落はできなかった。
● 第2次大戦以降(20世紀後半~):ぶどう栽培が扇央の主要作物であったが、収穫期間が短かく、絹織物を上回る収入にはならなかった。もも、さくらんぼ(おうとう)、うめ、なし、りんご、西洋なし、プラムなど、扇央で他種類の果樹栽培が行われ、首都圏の観光客相手の観光果樹園、ぶどうを原料とするワイン工場が増えた。京戸川扇状地の扇央だけではなく、他の扇状地の扇央でも、年中果樹栽培が盛んになった。山梨県は果樹王国といわれるようになった。扇央には観光果樹園、果実加工場、果実集荷場、ワイン工場などが増加し、その関連で扇央の新旧道路沿いに住居が分散立地した。かつての自然発生的な集落は扇央には見られないし、集落形成の積極的理由もない。
 


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