そんなこんなで。

30代ケースワーカーにして博士大学院生(来年の春から)のそれからと、これから。

何もかもがエトセトラ

2015-08-12 23:50:46 | 日記

8月もすっかり下旬。
涼しいとは言えないけど
一時の身の危険を感じる暑さは終わったような気がします。

先日、サークルのOBOG会があり
たくさんの人生の、医療福祉職の先輩方とお話をさせて頂きました。

楽しい交流会でしたが、
たくさん思い悩むことを先輩方に相談することが出来ました。

大学の教授ではなく
現場で今、働かれている方々とお話をする時間は
大変有意義でありました。

ぼく自身、頭の固い支援者にはなりたくない
と思いながら、最後の今の大学生活を送っているのですが、
一方で、大学での
志や情熱ばかりを育ませるような大学の教え方に嫌気がさし、
社会福祉士の今一つ見えにくい専門性や
口当たりの良い抽象的な支援の在り方(ex「よりそった支援」「その人らしい生活」)ばかりを言って
エビデンスに基づいた答えのない支援の在り方について
疑問を持っていました。

だけど対象はどうであれ、その人らしい生活の支援をする事は社会福祉士の専門性であると本気で思うし、
だけど、「その人らしい」というのは他人には中々理解されないこともあるだろうし
だけど、支援者の独りよがりになってしまってはいけないし、
だけで、専門職として行うべきことはきっとあるし。
とかうんうんと悩み、ちっとも前に進まなかった日々でした。

そんな中、先輩方に話を聞く中で
方程式を立てることが全てではないと言われ
なんとなく思う所がありました。

結局、支援の答えがほしいのは、自分のためなのかな
と思ったり。
自分の中の専門職としてのプライドを守るため、
失敗を恐れる無意識がはった予防線なのかも
だから支援の答えがほしかったのかな。
なんて。

結局、当事者を支援したいという思いがあるのであれば、
そんなこと気にすることがどうかしてるのかも。
欲深い人間だとは思っていたけど
ここまで、欲深い人間なのかと、少しがっかりしたりもしました。
甘やかされて育った宿命。

あと、飲み会の最後に先輩から
君は自分の向き合わないといけないことと向き合うのに疲れたんじゃないかな
といわれて
ドキリ。
向き合うことが大切だと思ってはいたけど、
一向に解決しないエトセトラと向き合い続けて数年がたち
何も動ない現状に、疲れていた部分はあったのかも。
というより
「自分と向き合う」みたいな言葉って
すごく、何かをしている気になれる言葉。
そんななんだか甘美な響きに誘われて
そう表現して、何かした気になっていたのだろう。

何も動いていない、環境が変わっていないということは、
何もしていないということなんだろうな。

まあ、目の前のことをひとつひとつ
きちんとこなしていきましょう。

愚痴大会みたいなブログ。
ふう。スッキリ。
コメント
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