数 時間を越えて『数』の面白さを伝えたい。夢 リアルな事実。

脳、人の集まり、記憶 3つの視点で伝えたいことをまとめると、『数』へ辿る面白さって、時間を述べたい。

売れないとね。

2022-10-31 22:48:08 | Weblog
2022-10-31 22:48:08

丸8年、ピアノ、丸9年フルート、それにしても、心の癒しだけだったなあ。
俺のコンピューターの知識そのものが日本IBMの職場だけで得たものだけだ。
誰と話したものでもない、教育は充実していたが、論文は何も書いていないし、読んでもいない。
大学は北大、1年半で選んだ数学科は何も学んでいない。ユーチューブで紹介される数学は紹介されていたようだ。
有限群が何となく取っ付き易かった。教養で、アレフやらアレフ0なって何で言うのか?εδ論法がピンと来ない。limの記号があったかも忘れた。
テーラー展開も意味が分からず高木貞の解析学概論も眺めて過ごして鉛筆を動かすコトはなかった。
数学科の講義はノートを取っていたが、3ヶ月くらいで言いたいコトがぼんやり分かる程度でキャンパスが民青に乗っ取られ授業がなくなり、
男声合唱団と喫茶店でぼんやりしていた。
セミナーが始まり、有限群が直感的に分かり易かったが教科書は読んでも掴めなかった。
ソルバブルって言葉の意味を全く想像していない。理解する積極性が湧かなかった。
仲間にして呉れる付き合いは楽しく過ごしていたが、言葉のない悩みに付き合っていた気もする。
基本的には何も積極的でないだけ、誘って呉れるアルバイトなどはしていたが、誰が誘って呉れたか忘れていた。
漠然としていて、秋の修士試験は落ちた。IBMに受かった仲間に喫茶店に誘って色々と聞いた。
憲法を取らなかったので先生は志望しない、残っていれば教える側に回れるか?虫の良いコトを考えて居た。
有限群はうん分かる程度で説明する側に回れなかったっだろう。春の修士試験は解けると感じた、その一瞬にこれは駄目だと直感した。
白紙で提出して、その足でIBMの看板のオフィスを訪ねた。試験受けれますって聞いた。良いですよ。
試験日が決まり、成績証明書やら書類を提出して、作文・英語・適正テスト、面接日が決まった。
3/31に最終面接と言うコトで、永田町を訪ねた。
札幌の営業と言うコトでその場でSEと東京勤務を望んだ、アプリケーションエンジニアと言うことで異議は伝えたが押し返された。
4/1入社で、神田駅のワカマツビル勤務と言われた。早速、神田駅に一番近い始発駅赤羽を選んで、3畳の部屋を借り貸し布団を届けて貰った。
翌日は3畳から出勤となった。赤坂見附から雨模様を歩く、傘の軒を貸して呉れる女性と、相合傘でちょっとの間を歩いた。

2022-10-29 20:09:34
後藤三郎[ゴトウサブロウ]
1938年東京生まれ。 84歳か。俺の世代まで団子だものね!所詮、売れなければなにもない。3回仕事をしたのか。

一番苦しかったのは50代だね。まあ、延命処置時代だが、
残って居たから、76歳の余生を感じている。

事情を全く知らず過ごした。さあ、神の審判をするアングロサクソン人やユダヤ人は、見逃すだろうね。

これから売れるのか、米国IBMは勝てるのか。株主としては興味がある。appleが牽引と言うのも分かるなあ。

ツイッターのシステム機能に興味を感じる。スマートコントラクトは弁護士を廃業にさせるか? 7500→2000まあ、そう見えるね。

61年慶応義塾大学経済学部を卒業し、インターナショナルビジネスマシーンズ社(現日本IBM)に入社。

システムズ・エンジニアとして東洋工業(現マツダ)など自動車各社のシステム化を担当。

70年からIBM本社に勤務し、帰国後、市場計画部長、営業企画・製造装置工業担当部長。

IBMアジアパシフィック統括責任者の特別補佐を経て、86年取締役。

87年にエイエステイに副社長として出向。

91年常務、93年日本IBMサービス社長、

96年日本IBMの専務となり経営企画を担当、
98年3月に退社。現在、三菱商事顧問

そうか、北城さん、

案外、凄い歴史だね。残るなあ。

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