第2回目の第九のレッスンの後に書いている。
とても楽しいレッスン。でも私には刻まれたトラウマがあり、そのことを思ってしまう。
素直に感想を言えないのは、みはられているような気がしてしまうから。その気配は楽しむ気持ちを台無しにさせてしまう。共有された秘密には特別に許された特権意識を感じてしまう。
人は人の気持ちがわからないのは当たり前で、わからないからこそ立ち止まったり、謙虚になったりすることが出来ると思っている。わからなさこそが人の知性や思考の精度をどんどん高めさせてくれるのだ。私たちは自らの無力さを知り、天に敬意を払い、わからない中で差し出されたものがどんなものであるかで相手を知ることができる。人間は小さいから自分に自信がないのが当たり前。だから人とともに生きようとする。
わからないということは手抜きをしないことだ。そのプロセスをきちんと通ることを待つ姿勢でもある。プロセスを通過したからこそ、その気持を理解することができる。結果だけを求めるならプロセスは置き去りにされてしまう。最大限に学ぶことが喜びであるならば、わからなさを持つことを当たり前に許容して、そのあるがままであることを尊重しないといけない。でもそれは、必ずしもその存在を無視することとは違うのだと思っている。私たち誰もが小さきものだから。
話を聴くことが何よりも楽しく、何故か言葉が耳に飛び込んでくる。その意味が自分の中に届いてくるのを感じる。音楽って魔法なのか、みたいなことを何度も思っている。それは遠くから目の前に飛んできたり、離れているのにこちらに向かって何かを訴えてきたりする。時代を超えてメッセージを投げかけてきたり、そばにいるように思わせる、それって何なんだろう。私にはよくあることだけど(As is often case with me)、フィギュアスケートのファンだったり、ベートーヴェンについて書いたロマン・ロランに共感できる気がすることがある。難しい用語は使わない。
たけど、トラウマが蘇る。あの人達は、きっとそうしないと生きていけない可愛そうな人なのだ、みたいなことを言いたくなってしまう。もしそうなら、私は言葉を閉ざしてしまわないといけなくなるだろう。私は永遠に水が湧き出る井戸ではないのだ。水を奪われることは私にとって命を失うことだと思う。たくさんお金をかけてきたから、というのがその理由であるのならそれは言い訳だと思う。そんなこともわからなくなったのならもはや人間とは呼べない何かなのだろう。
私は月を待つ。言葉を失ってたど微笑むだけの日々を送るようになるのかもしれない。
私は井戸ではない。私は教科書ではない。
私は正しいナントカではない。
ポエムは個人のブログで、仕事はそれとは別に誠実に行わないといけない。自分に傲ってはいけない。
仕事に自分など不必要だ。独り言は日記の世界だから出来ることだ。河合隼雄の言う中空構造はそういう状態を指していると勝手に思っている。
私たちは神の容れ物であるが、私たちは神ではない。
私たちはその意思を忠実に再現させる容れ物であるために、いつも自分のあり方に注意を払わないといけない。
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