barayuka雑記

時々立ち寄る場所

BはBlindのB

2024-08-18 18:59:58 | 詩のようなもの
テレビ界の人が一般人を騙して持ち上げるための言葉というのがあるらしい。
これを言っとけば笑って機嫌よくしてくれる、みたいな。お客さん商売には確かに、そういう決まったプレースのようなものがあるよね。よく質問されることとか、いつもぶつかる問題への対処法とか。

私は時々馬鹿にされるけど、いつも初めてあったような気持ちで接する、みたいなのをやってしまう。そういうのを保つのが私は大事だと思ってて、でも、わかる人にしかわからないことを言いたいんだって。まぁ、安心したいんだよな。

決まり切ったネタ。そのうち、CはチャイナのCとか、言われるのかもしれない。
FはFlügelのF、そういう話を去年もきいたけど。

人間は、賢くならないほうがいいよな。
ロクなことを考えないから。
悪口の言い方ばかり進化させていくなんて、それって退化してるんじゃないのか。


大海の一滴の独り言

2024-08-18 17:55:02 | 詩のようなもの
全部がわかるわけじゃないの

むしろ殆どのことはわからなくて、ただ音楽のように流れている。日常に流れる音に紛れ込む、普通の音。きいていたり、きいていなかったり、きこえてきたりする。私達は人間と言っても動物の種のうちの一つに過ぎないから、隣の人が何を言ってるかが気になってしまう。

ぼんやりと聴いてる雑音の中にきこえてくるものがあって、ある日突然そういうことを口走ってしまう。でも普段は黙ってるよ。私達は集団だから。
クーラーをつけた部屋で、眠たくなって、絨毯に寝転んで眠ってしまって、次の日に目醒めたらもう忘れている。日常から離れない生き方が一番大事だと思っている。

楽しい時間と正しいナントカ

2024-08-18 16:51:59 | 詩のようなもの
第2回目の第九のレッスンの後に書いている。
とても楽しいレッスン。でも私には刻まれたトラウマがあり、そのことを思ってしまう。

素直に感想を言えないのは、みはられているような気がしてしまうから。その気配は楽しむ気持ちを台無しにさせてしまう。共有された秘密には特別に許された特権意識を感じてしまう。
人は人の気持ちがわからないのは当たり前で、わからないからこそ立ち止まったり、謙虚になったりすることが出来ると思っている。わからなさこそが人の知性や思考の精度をどんどん高めさせてくれるのだ。私たちは自らの無力さを知り、天に敬意を払い、わからない中で差し出されたものがどんなものであるかで相手を知ることができる。人間は小さいから自分に自信がないのが当たり前。だから人とともに生きようとする。

わからないということは手抜きをしないことだ。そのプロセスをきちんと通ることを待つ姿勢でもある。プロセスを通過したからこそ、その気持を理解することができる。結果だけを求めるならプロセスは置き去りにされてしまう。最大限に学ぶことが喜びであるならば、わからなさを持つことを当たり前に許容して、そのあるがままであることを尊重しないといけない。でもそれは、必ずしもその存在を無視することとは違うのだと思っている。私たち誰もが小さきものだから。


話を聴くことが何よりも楽しく、何故か言葉が耳に飛び込んでくる。その意味が自分の中に届いてくるのを感じる。音楽って魔法なのか、みたいなことを何度も思っている。それは遠くから目の前に飛んできたり、離れているのにこちらに向かって何かを訴えてきたりする。時代を超えてメッセージを投げかけてきたり、そばにいるように思わせる、それって何なんだろう。私にはよくあることだけど(As is often case with me)、フィギュアスケートのファンだったり、ベートーヴェンについて書いたロマン・ロランに共感できる気がすることがある。難しい用語は使わない。

たけど、トラウマが蘇る。あの人達は、きっとそうしないと生きていけない可愛そうな人なのだ、みたいなことを言いたくなってしまう。もしそうなら、私は言葉を閉ざしてしまわないといけなくなるだろう。私は永遠に水が湧き出る井戸ではないのだ。水を奪われることは私にとって命を失うことだと思う。たくさんお金をかけてきたから、というのがその理由であるのならそれは言い訳だと思う。そんなこともわからなくなったのならもはや人間とは呼べない何かなのだろう。

私は月を待つ。言葉を失ってたど微笑むだけの日々を送るようになるのかもしれない。

私は井戸ではない。私は教科書ではない。 
私は正しいナントカではない。
ポエムは個人のブログで、仕事はそれとは別に誠実に行わないといけない。自分に傲ってはいけない。

仕事に自分など不必要だ。独り言は日記の世界だから出来ることだ。河合隼雄の言う中空構造はそういう状態を指していると勝手に思っている。

私たちは神の容れ物であるが、私たちは神ではない。

私たちはその意思を忠実に再現させる容れ物であるために、いつも自分のあり方に注意を払わないといけない。



必要性と月

2024-08-18 13:31:41 | 詩のようなもの
書くことが目的になってはいけない。それは私にとっては自分を生かすための必要性があってすることだから。健康のために死ぬみたいなことになってはいけない。

そういえば最近何気ないところで月をよく見ている。買い物に行った時)たまたま目に入る看板など。風月、名月、満月、鼓月、などである。

辛かったことの話

2024-08-18 08:49:04 | 詩のようなもの
ノートに書く日記の話とSNSで人が見えるところに各文章の違いは、日記だと自分しか読まない前提なので、思いついたままに書くことが出来ることだ。SNSだとそうはいかない。例え人にそんなに読んでもらわなくてもいい、とか、独り言レベルで書きたい、と思ってても、やっぱりどこか読んでる人を意識してるものになる。誤解を避けるための文言を付け加えたり、状況を説明したり、違いを区別するための書き方を無意識にでもしようとする。私はそう思いながら書いても、いつもどこかわかってもらえないだろうと思っているので、説明することはどこか諦めている。
諦めていても、表面的なやり取りとしての人付き合いは疎かにしてはいけないと私は思ってる。それは基本的に分かり合えない人でもどこかでは助け合って生きてると思っているからだ。誰かの作った服を着て、誰かの作った食べ物を賜べて生きているとわかっているからだ。誰かの教えてくれた教えを本で読み、テレビやネット記事などの媒体から情報を得て、話を聴いてくれる人に助けられて生きているから。

こういう話をすると、仕事してない人は助け合いしてないから駄目なのか、とか言う人がいる。私は論文を書いているわけではないので、すべての状況を想定して、余すことなく書かないといけないとは思ってないだけで、もちろん仕事してないからといってその人を価値がないとか無視して良い存在とは思っていない。飛躍してしまうけど、哲学の世界で「存在」ということについて掘り下げられているのは言うまでもない。私は哲学の世界に詳しいわけではないけど、自分にだってわかる問題だ。
アドラー心理学でもそういうのは出てくる。他人を認めるために条件を満たしたから人を褒めるのではなく、それが出来るように励ますということ、それは、出来ていなくても存在が認められているということだ。条件付きの承認ではなく、条件がなくても相手の存在を認め、与えていくことが奨励されている。私はアドラーと誕生日が同じなせいか、この考え方にはとても共感できる。そうはいっても、アドラーの考えのすべてに同調するわけではないが。

それ以前に、アドラー心理学は解釈が難しいのか、引用して書く人によって中身が違って見える気がする。一応私はアドラーが書いた神経症に関する本を読んたことがあるのだけど、神経症という言葉にも自分は何故か親和的なところがあった。それはそれ以前に加藤諦三さんの本を読んだりもしていたからだ。加藤諦三さんの本はコンビニで売っていたのをなんとなく買ってみたのが初めての出会いだったのだけど、はじめははっきり言ってそこまて意味を深く考えていなかったし、正直よくわからない部分もあった。やたら何度も「神経症の人は」という言葉が出てきて、神経症という言葉の意味はわからなかったけど、神経質なまでに繰り返されるその言葉のせいで「この人が神経症なのではないの?」と、勝手に思ったりしていた。
でも、自分が人生ですごく挫折したと感じた時、その繰り返されていた言葉が急に自分に響くものになった。その加藤諦三さんが繰り返していた神経症という言葉について書いているアドラーに、私が勝手に縁のようなものを感じたのは不思議なことではないと思う。
そうはいっても、私はいい加減なので、自分が共感できる部分をもってなんとなくわかった気になっているに過ぎない。だからアドラーであっても加藤諦三さんであっても、言ってることには同調できないようなものもある。でも自明なのは、私が読んでいた神経症の本では、人生でいろんな状況に遭遇して悩んだり不適応を起こす人々について書かれたものが、自分にも覚えがあるようなことが多く、それがとても納得できるような解説がされていたので、私はこの人の視点は理解できるように思っている。

SNSでは様々な人が自分の遭遇したつらい状況や、そこでおったトラウマの辛ささや回復の大変さについて書いている。自分の経験したことについて、言葉にして言えたり説明できたりすることは、回復の程度の一つの指標と言えると思う。それでも、それを言葉にするのは難しい。わかっていてもそれを言葉にすることには大変な苦痛が伴う。それは、他人に理解できないことへのおそれや恥の気持ちがあるからだ。そういうのには無頓着な人は理解をしめさず酷い言葉を投げつけたりすることも時にはある。自尊心が崩れてしまった状態ではそういった言葉はものすごく酷いダメージになってしまうし、そうでなくても、自分で言いたくないような類のものもある。誤解をされると自分自身のイメージが酷く脅かされることになったり社会的ダメージを受けるかもしれないことについて、それが難しいのは言うまでもない。逆に言うと、他人の評価に無頓着だったり自分の気持ちを言うことに抵抗がない人にとってはそこまでの苦しみはわからないかもしれないと思う。わからないだろうと思ってしまうからこそ苦しむのだと思う。
また、誰かに助けを求めていても何度もわかってもらえない経験をしたり、無視されたり軽視されたりを繰り返すと、余計に話せないものになっていってしまう。だから私は人の話は基本的に聴くことにしているし、わからなくてもその人の苦しみ自体をとりあえずは疑わないようにしている。その人の辛さを認めることは、その人の存在を認めることだと思う。それで回復出来たり問題が解消することはかなり多いと思う。それなのに、そういったことはとても得ることが難しかったりする。

中途半端だけど、ここで一旦終わっておく。