著者が今年1月に亡くなって、新聞やテレビは追悼の特集を組んだ。代表作として本作が挙げられていた。
映画は二度、観た。それで原作も読んだような勘違いをしていた。このブログを見る限り、私は半藤一利氏の書いたものを、ひとつも読んでいなかった。なぜだろうかと微かに悔いながら、まずは本書を手にした。
おそらく、戦争に関するものを読もうという意識を持ちながらも、私のフィルターには偏りがあったのだろう。戦記文学をより多く選び、ノンフィクション的なものは、あまり選んでこなかった。結果として、私は半藤一利という昭和史の大作家を読む機会を失していた。これは反省せざるを得ない。
映画は退屈な印象がある。原作にもそれは漂っている。リアルな描写の結果であろう。ポツダム宣言を受諾するか否か激論が交わされ、一方で佐官級の一部軍人がクーデターを画策するが、前線を描いたものに比べれば、静的で、政治的な話に終始し、退屈感が付きまとうのは仕方がない。敗戦を迎えよう・阻止しようというせめぎあいには、心を躍らせるものも希望もない。そこには、絶望をより少なくできるかどうかという、極めて消極的な(しかし文字通りいちばん長く、いちばん重要な)一日が描かれるに過ぎない。
しかし、私たちは、玉音放送に至るまでの苦闘を、日本の近代史を象徴するものとして、一大ドラマとして読まざるを得ない。多くの人が亡くなり、終戦後、また新たな歴史が刻まれる。令和の私らは、その前後数十年を知った上で、“いちばん長い日”を振り返ることができるからだ。歴史の十字路のように、様々なものが集約された日である。
飾らないのに美文になっている。感心し通しだった。私は昭和史を振り返るためにも、この著者の足跡を辿ろうと思った。辿らねばという気持ちである。
なお、本書では国体という二字が頻繁にクローズアップされた。いまでは死語にも聞こえるこの言葉には、共同幻想とは言い捨てきれない何かがある。命がけになる軍人らの活劇にも、心を動かされた。同意はせぬにしても、日本人として向き合わねばならない問題だと再認識した。直視せずにいれば、気づかぬうちに足もとをすくわれかねない。
