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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




企業の競争力は知的財産によって生み出されることが多くなっている。近年のヒット商品を見ると、アイデア、デザイン、ブランドなどが優れているものが多く見られる。
せっかく作りだしたアイデア、デザイン、ブランドが簡単に模倣されてしまってはいけない。これらの知的財産を保護する権利が知的財産権であり、これには産業財産権である「特許権」「実用新案権」「意匠権」「商標権」、文化的創作に関する「著作権」がある。
「特許権」は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度なもの」を保護する。近年日本では年間で30万件以上出願されて、約20万件が登録されている。

特許の取得手続きの流れとしては、まず出願書類 (願書、明細書、特許請求の範囲、要約書、図面(任意)) を特許庁に提出する。それを受けて特許庁では方式審査を行い、書類が決められた形式を満たしているかを審査する。方式審査終了後1年6ヵ月経過すると (申し出により早めることも可能) 出願公開となり「特許公報」に掲載される。しかしそれだけではダメで、出願から3年以内に実態審査を請求する必要があり、この審査に合格すると特許査定となり、そのあと所定の特許料を納付することで特許権の登録がされる。
最短で特許を取得したい場合は、出願と同時に審査請求をすることになる。すぐに審査請求書を提出すれば1年2ヵ月程度で結果が通知される。個人や中小企業の場合は早く審査をしてもらうこともでき、早い審査ならば2ヶ月程度で結果が通知されるそうだ。いずれにしても年間で約30万件も出願があるような状況では審査は大変だろう。

それでは、特許制度ができた最初のタイミングでは、どのような経過で審査がされたのだろうか。

特許庁 産業財産権制度の歴史
https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/seido-rekishi.html

江戸時代には、新しい事物の出現を忌避する傾向があったといわれており、1721年(享保6年)に公布された「新規法度」のお触れは、「新製品を作ることは一切まかりならぬ」というものでした。開国により欧米の特許制度が紹介され、1871年(明治4年)我が国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民は特許制度を理解し利用するに至らず、当局においても運用上の問題が生じたため、翌年その施行は中止されました。
その後、特許制度整備の必要性が再認識される一方で、近代化の実を示す必要があったため、高橋是清初代専売特許所長の尽力により、1885年(明治18年)「専売特許条例」が公布されました。特許第1号は7月1日東京府の堀田瑞松により出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」でした。
以後、順次特許制度が整備されるとともに、明治38年には実用新案法が整備されました。大正10年の改正では、それまでの先発明主義から先願主義に移行し、その後、昭和34年にこの大正10年法が全面的に改正され、現行特許法、現行実用新案法となりました。


ここのあるように特許第1号は、堀田瑞松(ほったずいしょう)による「堀田式錆止塗料とその塗法」である。堀田瑞松は現在の日本化工塗料株式会社の創業者だ。

日本化工塗料 日本の特許第一号について
http://www.nippon-kako.co.jp/patent.html

この特許は専売特許条例が施行された7月1日に出願されて、8月14日に登録されている。8月14日は「特許の日」となっている。
しかし認められた特許のうち、同じく7月1日に出願されたものは12件あり、そのうち6件は同じ8月14日に登録されている。「堀田式錆止塗料とその塗法」は登録番号が第1号であるが、必ずしも最初の特許とは言えない。

知財アナリストのひとりごと 知られざる特許の旅 忘れ去られた特許第2号
http://oukajinsugawa.hatenadiary.jp/entry/2015/07/08/060000

惜しくも特許第1号になれなかった専売特許を見てみましょう。(原紙は旧字体で書かれていますが、わかりやすいように私のほうで極力現在の漢字に直しています)



なぜこのように、登録日にばらつきが出ているのかは、審査が難しかったのか、何か出願に瑕疵があったのか、など、今となっては「藪の中」??ですね。


当時は現在の先願主義ではなく、先発明主義が採用されていたが、出願された特許の発明日を特定することは難しかったと思われるため、必ずしも発明日順に登録されたというわけはないだろう。そこで特許第1号となってもおかしくなかった12件のうち、8月14日に登録されたものの第2~5号となった特許について見てみよう。 (残念ながら特許第6号の松井兵治郎ほかによる「工夫かんざし」については具体的な情報を得られなかった)
特許第2~4号を同時に取得したのは高林謙三だ。

高林謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9E%97%E8%AC%99%E4%B8%89

1859年に欧米列強と通商条約を結んだ日本の輸出品は生糸と緑茶しかなく、貿易の不均衡は拡大する一方であった。川越は河越茶(狭山茶)の産地で、また茶葉は当時、薬でもあった。後に農商務大臣に提出した履歴書に高林は、茶の増産こそが国家百年の大計である、とその思いを記している。
「茶の振興が急務」と一念発起した高林は、1869年、川越に林野を買って開墾して茶園経営を始めた。しかし従来の手揉製茶法では、緑茶の量産は無理で生産費用ばかりが増大し製茶業者たちは困窮を続けた。「茶葉の加工を機械化するしか道はない」と高林は、私財を投じて製茶機械開発に全人生を賭けることになる。
1881年、高林は茶壺の中の茶が壺が動くたびに動くのをヒントに焙茶器開発を思いつき、3年間の試行錯誤で回転円筒式の「焙茶機械」を考案、焙炉製より品質が優り茶葉が無駄にならない器械で、今日も茶店の店頭にある。続けて高林は「生茶葉蒸器械」と「製茶摩擦器械」を発明。
1885年、専売特許法が施行されると直ちに出願し、それぞれが日本の特許第2号・第3号・第4号となった。民間発明家としては日本初の特許取得者である。高林はその後も「改良扇風機」や「茶葉揉捻機」で特許を取得した。


公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会 100年をこえて稼働する製茶機の発明者、高林謙三
https://www.jataff.jp/senjin3/24.html



宮本孝之助の回転式稲麦穀機は、難しくて長期間を要する作業であった脱穀を人力機械化することを可能にしたものである。

足踏み式回転脱穀機の発明 : 特許資料からみた成立前史 近藤雅樹
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4180&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

「稲麦扱機械」(特許第5号)
セノハコキ (千歯扱き) を回転させる足踏み式回転脱穀機のアイテアは、思いのほか早く出現していた。宮本孝之助の考案した「稲麦扱機械」(特許第5号) は、専売特許条例が施行された当日の明治18年7月1日に出願されていた。満を持して出願した自信作だったのたろう。
そのアイデアは機械としての構造を理論的には構成しており、充分に現実味を感しさせる。しかしこの機械に結実したアイテアの欠陥は、これを人力によって稼動させようとした点にある。実際に稼動させたとしても、考案者の宮本か予期した成果をあげることは困難たったように思う。この機械を使いこなすには、かなりの熟練を要しただろうから。とはいえ足踏み式回転脱穀機の初出てある「稲麦扱機械」には、早くも人力機械として完成したセノハコキの理想的な形態が描きたされている。




このように見ていくと、特許の審査過程や登録順が決まった経緯は全くわからない。おそらく当時は深い理由はなかったのだろうが、後世になると第1号だけが史実としてハイライトされてしまう。
日本では鎖国の影響もあり特許に対する理解が遅れたが、明治維新後に特許制度整備の必要性が高まり、それまでに考案されたアイデアが1885年7月1日の専売特許条例施行とともに多く出願された、という背景の理解が重要だ。



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このブログで何度か調べているとおり、日本の金剛組や池坊茶道会は日本最古の企業であり、世界最古の企業でもある。日本は長い歴史をもつ企業が世界の中で特に多い。
それでは現在世界をリードする大企業がひしめくアメリカで最古の企業はどこだろうか。
 
ひとつの答えとしてはウィスコンシン州にある従業員約80名のHalydean Corporationが最古の企業で、1128年創業とされている。しかし建国が1776年、コロンブスによる大陸発見が1492年であるのにそのような企業が存在するのだろうか。
 
実際にHalydean1128年に設立された世界で最も古い農業会社だが、創設者はスコットランド王のデイヴィッド1 (David I、在位 1124~1153) であり、スコットランドの農業会社である。
 
Halydean Corporation
 
Halydean had many incarnations, with reorganizations and even a redomicile. It is unique in that it was founded by the Crown, owned by the Catholic Church, then owned by the state, then owned privately by a succession of Lords and Barons, and is currently listed as a publicly traded company.
In 2014 Halydean Corporation was organized as a Delaware corporation, as a wholly owned subsidiary of The Barony and Lordship of Halydean (Scotland) by the current Lord of Halydean. Almost immediately following that, numerous other shareholders were appointed, such that the company has to use a stock transfer agent. Halydean Corporation is classified in the UK as a "subsidiary undertaking" of the Barony and Lordship of Halydean, as defined in section 1162 of the Companies Act 2006. This is unclear if Halydean Corporation should lay claim to the title oldest company on Wall Street, but it legally establishes the company as having a dignified pedigree in land holdings that can be traced to the year 1128.
 
1128年にスコットランド王によって創設されたHalydeanは教会によって所有され、1545~1602年は国家、1602~2014年は男爵たちによって個人的に所有された。それが現在の領主であるスコットランドのThe Barony and Lordship of Halydeanの完全子会社として2014年にデラウェア州の企業として組織されたものだ。(本社はウィスコンシン州)
すなわち既存のアメリカの農場 (100年以上の歴史はある) が、世界最古の農業会社の子会社となったというのが実際である。
 
Halydeanのホームページでは以下のように説明されている。
 
Halydean
 
Halydean was originally established in 1138 and originally consisted of many thousands of acres. As an income producing entity, it thrived for nearly 900 years on the simple precept of holding agriculture-related land. In 2004, the British Parliament divested Halydean of its land, and eventually Halydean was incorporated as an American company in 2014.
Today, Halydean Corporation is furthering the American farming heritage.
 
 
このようにHalydeanは「新しくできた老舗企業」という感じで、アメリカ最古の企業と呼ぶにはさすがに無理がある。これが認められるなら、国単位で見た場合に今後も老舗企業が新たにうまれることになる。
Halydeanを除くとヴァージニア州にある1613年創業のShirley Plantationが最古となる。
 
Shirley Plantation
 
Shirley Plantation is an estate located on the north bank of the James River in Charles City County, Virginia, USA. Shirley Plantation is the oldest active plantation in Virginia and is the oldest family-owned business in North America.
The lands of Shirley Plantation were first settled in 1613 by Sir Thomas West, 3rd Baron De la Warr and were named West and Sherley Hundred. The land was cultivated for growing tobacco to be shipped around the colonies and to England.
The house has been occupied by the Hill Carter family since 1738 and has housed eight generations.
The house is largely in its original state and is owned, operated and lived in by direct descendants of Edward Hill I. The house was placed on the National Register in 1969 and recognized as a National Historic Landmark in 1970.
 
Shirley Plantation
 
 
これは純粋なアメリカ最古企業と呼べるだろう。
Shirley Plantationは現在は非営利団体のShirley Plantation Foundationによって運営されており、アメリカの重要な遺産を遺すことを主目的とした活動をしている。ウェデイングやパーティーを行うこともできるようだ。
日本から見ると老舗企業という点ではまだまだ歴史が浅いが、是非アメリカの最古企業としてより認知されるように歴史遺産を大事にしてほしい。
 


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たまに新聞記事などで「国富(こくふ)」という言葉を耳にする。

国富
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AF%8C

国富とは、国民全体が保有する資産から負債を差し引いた正味資産。ストック統計の1つである。自然災害や戦争、その他の出来事によって国富が減少することを「国富の喪失」という。
国富は再生産可能な生産資産である「在庫」、「有形固定資産(住宅・建物、構築物、機械・設備、耐久消費財など)」、「無形固定資産(コンピュータソフトウェア)」と、「非生産資産(土地、地下資源、漁場など)」を足し合わせたものに「対外純資産」を加減して求められる。国民総資産から総負債を差し引いたものと同じとなる。
計算基準には国連が1968年に定めた687SNA基準、後に改定された687SNA2000年基準、687SNA2005年基準があるが、いずれも無形の文化資本などは勘定に入らない。また、土地の価格によって国富は大きく変動する。


国富は内閣府発表の国民経済計算年次推計で参照できる。

2016年度国民経済計算(2011年基準・2008SNA)
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/h28/h28_kaku_top.html#c3

このストック編にある統合勘定のExcelの「期末貸借対照表」にある「正味資産」が該当する。2016年末の国富は3350兆円であり、地価上昇を受けて2000年末 (3387兆円) 以来16年ぶりの高水準となったとのことだ。
既述のとおり計算基準が複数あるので直接の連続的な比較はできないが、日本の国富の推移は以下のとおりである。



バブル期に地価の急上昇にともなって国富が大幅に増加したことがよくわかる。

さてこの国民経済計算では、固定資産はフローの統計から投資の累積と減耗を考慮して推計している。国富の大部分は土地と固定資産が占めているが、資産そのものの調査のを行って把握されているわけではない。フローの累積でストックを推計していくと、長期間経つと差異が生じることもあるだろう。
一方で過去にはその資産を直接的に調査である「国富調査」が行われていた。

経済統計Tips-日本の国富調査の歴史-
http://www.kojin.org/EcoSta/ecosta10_j.html



第二次世界大戦前に計8回、第二次世界大戦後に計4回行われた。国富調査はストックを把握する点では最も優れた方法ではあるが、1970年を最後に行われていない。

内閣府ホームページには、過去の国富調査の記録・資料が公開されている。
内閣府ホーム > 統計情報・調査結果 > 国民経済計算(GDP統計) > 統計データ > 国富調査
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kokufu/kokufu_top.html

最も古い資料は大正10年10月に国勢院が発行した「戦前戦後に於ける国富統計」であり、PDF化されている。ここでいう戦争は「第一次世界大戦」(1914~1918)を指しており、その前後に国勢院によって行われた1913年(大正2年)と1919年(大正8年)の国富調査について纏めたものである。

http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kokufu/pdf/T1010_1.pdf
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kokufu/pdf/T1010_2.pdf
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kokufu/pdf/T1010_3.pdf

さらに本資料の57~58ページには、日本銀行によって行われた1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1917年(大正6年)の国富調査の記録も掲載されている。1905年と1917年の国富調査は原資料が行方不明であり、サマリーだけでもたいへん貴重である。
しかし本資料は印字や文体が古く、しかも全て漢数字で表記されているので、極めてわかりづらい。そこで5回の国富調査の記録をExcelで纏めて、各々の構成比率を求めてみた。



日本銀行と国勢院の2種類の調査結果があるため、定義・範囲が異なり直接的な比較はできないが、おおよそのイメージを掴むことは可能であろう。
国勢院のの調査において、例えば土地は民有有租地、民有年期地、民有免租地、国有林野、公有社寺有林野の5種類に大別され、更に民有有租地は田、畑、宅地、塩田、山林、原野及び牧場、鉱泉地池沼及び雑種地に分類されて、都道府県ごとに反数、単価、価額が記録されている。そして国富における土地の構成比は3~4割だ。
他にも「諸車」という項目は、大きい順に乗用馬車、荷積用馬車、牛車、荷車、人力車、自転車などが主で、自動車は1913年には761台だったと記録されている。

今度は各々の調査間のCAGR (Compound Average Growth Rate、年平均成長率) を計算してみた。日本銀行(緑)と国勢院(青)の各々どおしでの比較は、それなりに参照可能なものと考える。



ハイレベルに1905~1917年までの国富総額のCAGRは+5%程度だが、1919年を迎える頃には大きく向上している。国勢院調査どおしの比較である1913年から1919年の国富総額のCAGRは+17.9%にもなる。国民1人あたりも+16.7%だ。また別調査比較ではあるが、1917年から1919年の国富総額のCAGRは+37.2%にもなる。
国民経済計算資料をもとに算出すると、バブル期でも国富成長率は1986年末 +15%、1987年末 +22%、1988年末 +9%、1989年末 +14% であり、同じ比較はできないにしても第一次世界大戦期における国富の成長が際だって顕著だったことがわかる。

このように過去資料を参照してみると、現在のビッグデータ技術を活かして国富調査を再度実施することができないかと思う。国の資産をより具体的かつ明確に後世に残すことができると思うのだがいかがだろうか。




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紙幣が安定して流通しているということは、経済・生活にとって何よりも大きなアドバンテージである。以前「ジンバブエドルとペンゲー」で紹介したとおりハイパーインフレ下では紙幣は紙屑と化し、生活は混乱を極めてしまう。
日本でも、第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから預金引き出しが集中し、また政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレが発生した。そしてその対策として1946年2月16日に「新円切替」が発表され、新紙幣 (新円) の発行とそれに伴う従来の紙幣流通の停止などの通貨切替政策が行われた。

歴史を遡ると、紙幣が広く流通し始めたのは明治時代を迎えてからである。江戸時代においても「藩札」と呼ばれる紙幣はあったが、これは限られた地域でしか流通していないものであった。それが明治維新とともに全国共通の紙幣が誕生することになった。しかし当初は混乱とともに様々な紙幣が目まぐるしく入れ替わった。その流れを追ってみよう。

日本で最初の全国通用紙幣は、明治政府によって1868年5月に発行された「太政官札」(だじょうかんさつ) である。

太政官札
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E6%9C%AD

太政官札は、明治政府によって1868年5月から1869年5月まで発行された政府紙幣。「金札」とも呼ばれた。日本初の全国通用紙幣である。通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。1879年11月までに新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。
明治政府は戊辰戦争に多額の費用を要し、殖産興業の資金が不足したので「通用期限は13年間」との期限を決めて太政官札を発行した。総額4,897万3,973両1分3朱製造されたが、実際に発行されたのは4,800万両であり、97万3,973両1分3朱は発行させずに焼却した。
当初、国民は紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用が強固では無かった為、流通は困難をきわめ、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであった。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じた。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加したために流通するようになったが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。




このようにやはり最初の試みというのは何事も難しく、様々な混乱があった。発行された紙幣の額面 (10両、5両、1両、1分、1朱) が高額で日常的な取引に適さないなど、使い勝手も悪かったようだ。その補完のために別の紙幣である「民部省札」(みんぶしょうさつ) も発行された。

民部省札
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%83%A8%E7%9C%81%E6%9C%AD

民部省札は、1869年11月15日から翌年にかけて明治政府の民部省によって発行された政府紙幣。太政官札の補完の役割を果たした。
明治政府の成立後、江戸幕府発行の貨幣に替わるものとして太政官札5種(10両・5両・1両・1分・1朱)が発行されたが、財政補完を目的として高額金札ばかりが発行され、1分・1朱がほとんど発行されなかったために、民間の需要に応えることが出来なかった。そのため、民部省によって2分・1分・2朱・1朱、計4種類の紙幣が総額にして750万両分発行された。これが民部省札である。民部省札1両は太政官札1両と交換することが可能であった。ただし、あくまでもこれは新紙幣流通までのものであるとして通用期間は5年と定められていた。だが、明治政府の基盤が固まっていなかったこともあり、太政官札ともども偽札が各地で作られた。



この他にも府県札、為替会社札などが流通しており、雑多で、また偽造紙幣が大量発生していた。そのため国家として近代的紙幣の導入が必要であった。
政府は1871年5月に新貨条例を発行し、日本の貨幣単位として「圓 (円)」を正式採用した。また補助単位として「銭」「厘」を導入し、100銭=1円、10厘=1銭とされた。そして「圓」としての近代的紙幣として1872年4月に発行され発行されたのが「明治通宝」(めいじつうほう)である。

明治通宝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E9%80%9A%E5%AE%9D

明治通宝は明治時代初期に発行された政府紙幣である。日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として著名である。またドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名がある。
当初日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定であったが、北ドイツ連邦ヘッセン州のドンドルフ・ナウマン社による「エルヘート凸版」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあった。そのうえ技術移転を日本にしてもいいとの条件もあったことから、日本政府は近代的印刷技術も獲得できることもあり1870年10月に発注を行った。
翌年の1871年12月に発注していた紙幣が届き始めたが、この紙幣は安全対策のため未完成であった。そのため紙幣寮で「明治通宝」の文言や「大蔵卿」の印などを補って印刷し完成させた。なお当初は「明治通宝」の文字を100人が手書きで記入していたが、約1億円分、2億枚近くもあることから記入に年数がかかりすぎるとして木版印刷に変更され記入していた52,000枚は廃棄処分された。明治通宝は1872年4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
しかし、流通が進むにつれて明治通宝に不便な事があることが判明した。まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったためか損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。




紙幣の偽造は世の常であるが、当時はまだそれを防ぐ技術がなく、近代国家としての紙幣技術の向上が必須であった。
そして損傷しやすく偽造も多発した明治通宝の交換用として1881年2月に発行されたのが「改造紙幣」(かいぞうしへい) である。

改造紙幣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%80%A0%E7%B4%99%E5%B9%A3

紙幣の図案は、イタリア人のエドアルド・キヨッソーネに委嘱され、偽札を防ぐため、印刷局の最高の技術を駆使して制作された。一円以上の券の肖像は神功皇后となっているものの、創作したものであり、外国人女性風となっている。わが国最初の肖像画入り紙幣でもある。



エドアルド・キヨッソーネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A8%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%8D

キヨッソーネはイタリアのアレンツァーノで代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれる。紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向した。当時ドンドルフ・ナウマン社は日本の明治政府が発注した明治通宝を製造しており、彼も製造に関わっていた。
キヨッソーネが来日したのは1875年のことであったが、招聘に応じたのは大隈重信が破格の条件を提示したこともあったが、当時写真製版技術の発達が進んでいたこともあり、銅版画の技術を生かせる活躍の場を求めたこともある。一方、樹立間もない明治政府にとって偽造されないような精巧な紙幣を製造するのは大きな課題であり、このままドンドルフ・ナウマン社に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ安全性に問題があるとして、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めたのである。
来日後、大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の彫刻をはじめとする日本の紙幣・切手印刷の基礎を築いたほか、新世代を担う若者たちの美術教育にも尽力した。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超える。特に日本で製造された近代的紙幣の初期の彫刻は彼の手がけた作品である。また、1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与された。面識がない人物を描いたことも少なくないが、例えば西郷隆盛の肖像については西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため、西郷の朋輩であり縁者でもあった得能良介からアドバイスを受けて西郷従道と大山巌をモデルにイメージを作り上げたという。また紙幣における神功皇后は印刷部女子職員をモデルに、肖像も彼が描いたものであった。

誰もが知っている明治天皇の肖像、西郷隆盛の肖像もキヨッソーネの作品だ。現代人にはともにこのイメージが強いが、実際は (特に西郷隆盛は) 異なるかもしれない。



そして神功皇后 (じんぐうこうごう) は古事記・日本書紀に登場する第14代の仲哀天皇の皇后で、新羅出兵を行い朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる。3世紀頃と思われるが定かでない。また明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。
当然のことながら肖像があるわけでなく、紙幣の神功皇后は印刷部女子職員がモデルで、外国人風に描かれていることが非常に興味深い。この職員は日本の歴史において極めて重要なモデルを引受けたことになる。

このように様々な試行錯誤および外国の技術を導入して紙幣の信頼性を向上させ、それとともに政府も安定し日本の近代化につながったと言うことができるだろう。やはり紙幣の安定した流通が不可欠である。


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野菜ナビの野菜統計 (https://www.yasainavi.com/graph/) を参照すると、我が国の野菜生産・消費の現状や変遷がよくわかる。
日本国内で最も収穫量の多い野菜はじゃがいもで、2015年の収穫量は2,406千トンだった。2位キャベツ (1,469千トン)、3位だいこん (1,434千トン)、4位たまねぎ (1,265千トン)、5位はくさい (895千トン) と続く。



しかし全体的に国内収穫量は減少傾向にあり、首位のじゃがいもも1986年の4.073千トンをピークにずっと減少している。その一因は輸入の増加で、それまではほとんどなかった輸入が2000年以降どんどん増えており、2010年2千トン、2012年16千トン、2012年20千トン、2016年26千トンと急激に増えている。
輸入が最も多いのはたまねぎで、2016年は279千トンだった。前掲の国内出荷量は1,124千トン (2015年) なので、輸入の占める割合はけっこう高い。
都道府県別に見ると、じゃがいももたまねぎも国内で最も出荷量が多いのは北海道で、じゃがいもは約80%、たまねぎは約65%のシェアを持つ。
一方で南の沖縄はゴーヤ (7,876トン シェア36%)、鹿児島はさつまいも (295千トン シェア36%) など、野菜の産地にも南北に長い日本らしい変化が見られる。

さて、それでは首都東京の野菜生産状況はどうなっているだろう。
農業全体で見ると、東京の耕地面積は7,400ha (2013年) となっており、東京都の総面積の3.4%に相当する。区部は634haのみで、多摩地区が中心だ。
東京都の農家戸数は11,224戸 (2015年) で、販売農家の就業人口は10,983人。このうち65歳以上の割合が50%を超えているという。

JA東京中央会 東京農業の概要
http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/index.html

東京の農業の約6割 (産出額ベース) は野菜であり、収穫量の多い野菜はだいこん (11千トン シェア0.8%)、キャベツ (10千トン シェア0.7%) だが、シェアは低い。直接的な比較はできないが、東京のだいこん・きゃべつの方が沖縄のゴーヤよりも収穫量が多いというのは面白い。一方で小松菜の収穫量は8,600トンであり、これはシェア7%で埼玉、茨城、福岡に次いで4位となる。
例えば「練馬だいこん」や「後関晩生小松菜」は江戸時代から栽培されている野菜だ。

とうきょうの恵みTOKYO GROWN 東京の農産物
https://tokyogrown.jp/product/agricultural.php

練馬ダイコンの特徴
江戸幕府五代将軍・徳川綱吉がビタミン類の不足による脚気や鳥目を患い、治療のために食したことから栽培を命じたといわれ、大きいものは80㎝~1mにもなります。尾張ダイコンと練馬の地ダイコンとの交配から選抜・改良されたもので、享保年間(1716~1736)には練馬ダイコンの名が定着していきました。
後関晩生小松菜(伝統小松菜)の特徴
江戸幕府八代将軍・徳川吉宗が鷹狩りに出かけた際、小松川村(現在の江戸川区)で休息し、そこで接待役を務めた亀戸香取神社の神主が、青菜を彩りにあしらった餅のすまし汁を差し出しました。それを将軍がいたく気に入り、この菜を地名にちなんで「小松菜(コマツナ)」と命名されたと伝わっています。冬場でも栽培しやすく、霜にあたると旨味が増すことから、関東周辺で盛んに栽培されるようになり、早生、晩生の多くの品種が生まれました。





このように徳川将軍の命によるものや、野菜名の由来になっていることもあり、格式が高い (気がする)。

そして東京が全国で収穫量シェア1位の野菜もある。全国収穫量194トンのうち44トン (23%) を収穫するルッコラだ。(2014年)
ルッコラはサラダに入れて食べると大変美味しく、その他おひたしや炒め物、肉料理の付け合せなど用途は幅広い。

野菜ナビ 野菜統計 野菜別ランキング ルッコラ
https://www.yasainavi.com/graph/category/ca=77



例えば、東京での栽培例として以下のような農家の方がいる。

NEWS TOKYO 都政新聞株式会社 2013年1月20日号 東京育ちの美味探訪 ルッコラ
http://www.newstokyo.jp/index.php?id=525

西東京市南町の農家、矢ケ崎宏行さん (48) は、22歳の時に就農。50aの畑と大小12棟のビニールハウスで代々続く農業を引き継いでいる。主軸となっているのはルッコラ。栽培を始めて10年になる。
「それまではチンゲン菜を栽培していたんですが害虫処理が大変で……。何かほかに代わるものはないかと考えて、当時はまだそんなに栽培しているところも少なかったルッコラに目をつけました」と矢ケ崎さん。今では近隣のスーパー約15店舗と契約し、毎日200束を出荷している。
最近はスーパーへの出荷以外にレストランへ野菜を届ける機会も増え、自分が作った野菜を使ってくれる人と直接会って話ができるのが嬉しいと話す。


東京・江戸での野菜生産は、江戸時代から人々の食生活を支えてきたが、都市化による農地減少や産業の変化により栽培が減った。しかしここにきて伝統野菜を普及させようという活動が広がっている。またルッコラのように新しい西洋野菜への試みもされている。
東京だからこそ生産者と消費者が顔を合わせることができるわけで、是非もっと野菜の生産が盛んになってほしいものだ。


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自転車の始まりは、1817年にドイツのカール・フォン・ドライスによって発明されたドライジーネ (Draisine) と言われている。これは足で直接地面を蹴って走るものであった。その後様々な改良がなされ、1870年頃にイギリスのジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させたペニー・ファージング型自転車 (オーディナリー型とも呼ばれる) を発売した。しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難で、危険な乗り物だった。



そのジェームズ・スターレーの甥のジョン・ケンプ・スターレー (John Kemp Starley、1854 - 1901) は、スターレー・アンド・サットン社 (Starley & Sutton Co) を設立し、1885年に「ローバー安全型自転車 (Rover Safety Bicycle)」の販売を開始した。この登場は革新的で、チェーンで後輪を回転させ、車輪の大きさが前後同じになったこと、 前輪は方向を決め後輪は前に進める、という役割が分担されたことなどが特徴だった。




販売直後から好評となり他のメーカーが後を追い模倣をしてイギリス全土に広まり、そしてヨーロッパ、そして全世界へと輸出された。何よりも安全に自転車に乗れるようになったことがメリットで、その結果大量生産が進み、価格も安くなった。
このように、ローバー安全型自転車は現在の自転車の元祖と言えるだろう。
そして「ローバー」という名前が広く知れわたったので、会社名をローバー・サイクル・カンパニー・リミテッド (The Rover Cycle Company Limited) に変更した。

一方でこの安全型自転車が誕生した1885年に、21歳だったエドワルド・ビアンキ (Edoardo Bianchi、1865 - 1946) が、イタリア・ミラノのニローネ通りに小さな自転車店を開いた。それがビアンキであり、現在も残る最古の自転車メーカーである。1888年にはダンロップによって発明された空気入りタイヤを取り入れ、乗り心地と速度の大幅な向上を可能にした。そしてビアンキは安全型自転車の自転車を販売することで徐々に規模を拡大していった。



さて、ローバーとビアンキには共通項があり、ともにその後オートバイと自動車へと事業を拡大している。

ローバーはジョン・ケンプ・スターレーが1901年に46歳で突然亡くなり、後任として社長に就いたハリー・スミス (Harry Smyth) がモーターサイクル製造業に参入した。
1902年に最初のRover Imperialを発表し、また第一次世界大戦中にはイギリスやロシア部隊にオートバイを提供した。そして通算で10,000台以上のオートバイを製造し、1924年に事業を終了した。



ビアンキはエドワルド・ビアンキ自身が、1987年に自転車にエンジンを取り付けた後のオートバイの原型を造っている。そして1910年に発売した498cc単気筒エンジンのモデルが大成功を収め、ビアンキの名はオートバイのブランド名としての名声を確立し、オートバイはレースでも活躍した。
1937年に製造されたES250は二つの排気ポートを持つSOHC単気筒のドライサンプエンジンを搭載したシャフト駆動のモデルで、その高品質によってビアンキを代表するオートバイとなった。
1946年にエドアルド・ビアンキが死去した後も、息子のジュゼッペによって継続され、レースでも活躍した。しかし1967年にビアンキはオートバイの生産を終了し、全ての権利をイノチェンティ社 (Innocenti) に譲渡した。



また誰もが知っているように、ローバーは自動車メーカーとして最も有名である。

ローバー (自動車)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)

ジョン・ケンプ・スターレーが1901年に亡くなった3年後の1904年に最初のローバー製自動車であるローバー・8を販売した。これは良好な品質によって市場に受け入れられ、アッパーミドル層向けの中型サルーンを中心に生産した。
第二次世界大戦後の1947年には、大戦中に活躍したジープの有用性に感化され、四輪駆動多用途車のランドローバーを開発・発売し、新たな市場を開拓した。乗用車ではP4やP5などが発売され、これらのモデルは英国王室メンバーの私用車や、英国政府の閣僚・高級官僚の公用車としても用いられた。それらのローバー製乗用車は格式が高く、高品質だが極めて保守的な設計であったものの、1964年には、革新的メカニズムを採用したP6が、初めてのヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。
しかし、1967年にローバーはレイランド・モーターズ (Leyland Motors) に買収され、また同社がブリティッシュ・モーター・ホールディングスと合併し、「British Leyland Mortor Company」となった。しかし労働争議の多発を背景に生産が停滞し、品質の悪化により市場からの支持を急速に失った。
その後も再三の被買収・再編を経たが、2005年に倒産し自動車の製造・販売を終了し、ブランドが消滅した。




ビアンキもまた1899年に自動車部門を設立し開発・製造を行った。これはFIAT社と並んでイタリア最古の自動車メーカーである。
第二次世界大戦後、工場の被災等で採算が悪化し、本体は本来の自転車産業に特化して、自動車部門はFIAT、ピレリの出資を受けてアウトビアンキ社 (Autobianchi) として独立することとなった。
FIATの傘下となったアウトビアンキは、FIAT本体で大々的に導入する前に、小型車の新しい技術を試すパイロット・ブランドとしての性格があり、FIATの小型車のプラットフォームを使いつつ、独自の遊び心のある乗用車を製造し人気を博した。
しかしやがてFIATが同社の全株式を取得するにいたって、ビアンキはブランド名の一部としてのみ残り、1992年にはブランド名も消滅した。



このような共通項の一方で、最大の相違はビアンキは自転車事業を常に中心としていることに対して、ローバーは早々に1925年に自転車事業をやめてしまったことだ。
その結果、現代自転車の祖である安全型自転車を開発したローバーは自転車市場から姿を消し、オートバイ・自動車も頓挫して、ブランドそのものがなくなってしまった。
一方で安全型自転車を後追いで広めたビアンキは、多角化事業は長続きはしなかったものの、常に自転車を本業として軸足を置いていたことにより、今でも世界最古の自転車メーカーとして明確な地位を築いている。
もしかしたらローバーが自転車の代名詞ともいうべき存在になっていたかもしれない。ジョン・ケンプ・スターレーの早い死がその後のローバーの運命に作用したようだ。
事業の多角化や転換はどの時代でも難しい。



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このブログでも何度か取り上げているが、日本には老舗企業が多く、また100年超級のロングセラー商品も多い。三ツ矢サイダー(1907年~)もだが、大学目薬(1890年)、森永ミルクキャラメル(1899年~)、金鳥蚊取り線香(1902年~)、正露丸(1904年~) などが100年を超えている。しかし、これらとは桁違いに400年を超えるロングセラー商品がある。
赤ちゃんの夜泣き、かんの虫に効く宇津救命丸は、何と戦国時代の1597年から製造されている。日本最古のロングセラー商品だ。

日本家庭薬協会 家庭薬ロングセラー物語 宇津救命丸
http://www.hmaj.com/kateiyaku/kyumeigan/

宇津救命丸は、江戸時代初期に創製された家伝薬です。その処方、剤型は約400年を経た今日の宇津救命丸とほとんど変わっていませんが、その有効性や安全性は、長年の実績とともに最近の数々のデータで証明されています。
宇津家は、以前、下野国の国主・宇都宮家の家臣でしたが、豊臣秀吉による宇都宮家の取り潰しがきっかけで、1597年(慶長2年)に下野国高根沢西根郷(現在の工場所在地)に帰農しました。以来、宇津家は代々名主となり、その家業のなかで宇津救命丸のルーツである「救命丸」を製薬してきました。
救命丸の由来は、一説によれば・・・ある日、宇津家の門前に倒れていた旅の僧を当主の権右衛門が手厚く看病したところ、僧が世を去る時にお礼として差し出した1冊の書物のなかに救命丸の処方が記されてあった・・・とされています。
“宇津の秘薬”救命丸は、はじめは小作人や村の人々に無償で提供されていましたが、その優れた薬効によって次第に評判となり、やがて関東一円から全国に広まっていきました。また、救命丸を献上していた水戸の徳川一橋家から諸大名にも評判が伝わり、ますます名声を高めました。一橋家は将軍家のお世継ぎを輩出する為、特に小児の健康には気を使っていたようで、当時大人用だった救命丸を小児用として飲ませていた記録があります。また、品薄になった時のことを考え、下野国から江戸まで至急運べる様に、一橋家の御用ちょうちんも授かっていました。江戸中期以降には、旅籠や造り酒屋でも売られるようになり、一層その優れた薬効が知れ渡ったようです。
明治に入り、製薬会社としての経営体系を確立。全国の小売店で販売するようになりました。これにより、“宇津の秘薬”救命丸は『宇津救命丸』と名称を変え、小児薬の代名詞として広く親しまれるようになりました。昭和になり、徐々に工場の近代化を図り、現在では自然環境に恵まれたGMP工場で正確で安心・安全・信頼の商品を製造しています。


宇津救命丸の歴史
https://www.uzukyumeigan.co.jp/history.html



宇津救命丸を扱うのは宇津救命丸株式会社で、1931年(昭和6年)に設立された。そして現在の社長・宇津善博氏は初代・宇津権右衛門から数えて18代目となる。

神田学会 百年企業のれん三代記
http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=17

この宇津救命丸ができるまでの映像がある。品質に最新の注意を払い、手作業によるチェックが多いことに感心させられる。



その宇津救命丸は東日本では知名度が高いが、西日本ではCMの影響もあり樋屋製薬の樋屋奇応丸の方が有名だ。それぞれが乳幼児用医薬品の代名詞となっており、東西の文化の違いを示す例のひとつとなっている。
その樋屋奇応丸は、1622年に樋屋坂上家の初代・忠兵衛が「樋屋奇応丸」を広めたことが発祥で、当時から大阪・天満で事業を営んでいる。宇津救命丸より25年歴史が浅いが、400年の中での25年だからほとんど同等と言えよう。

大幸薬品 ひやきおーがん 400年の歴史
https://www.seirogan.co.jp/hiyakiogan/history/



樋屋製薬は会社設立が1943年であり、販売部門は後に分社化し1994年に樋屋奇応丸株式会社となった。(樋屋)坂上家が代々営んでいる。
2011年に樋屋奇応丸の国内販売権を大幸薬品に譲渡することで合意し、「ラッパのマーク」が付いた樋屋奇応丸が市場に流通し、知名度の低い東日本での販売力強化を図ったが、2016年に独占国内販売権契約が満了し、樋屋奇応丸の発売元は再び樋屋奇応丸株式会社に戻った。

尚、宇津救命丸と樋屋奇応丸はともに生薬を配合した小児薬で、効用はほぼ同じと言われるが具体的には以下のように成分に違いがある。(もちろんその違いの意味するところはわからない)
 宇津救命丸(60粒中)
  ジャコウ 1.0mg、ゴオウ 9.0mg、レイヨウカク 30.0mg、牛胆 12.0mg、ニンジン 110.0mg、オウレン 60.0mg、カンゾウ 60.0mg、チョウジ 9.0mg
 樋屋奇応丸(48粒中)
  ジンコウ:19.560mg、ジャコウ:1.056mg、ゴオウ:1.680mg、ニンジン:58.224mg、ユウタン:1.440mg 

また以下に宇津救命丸と樋屋奇応丸の昔の包装が展示されている。とても貴重な資料だ。

北多摩薬剤師会 おくすり博物館 「宇津救命丸」「樋屋奇応丸」
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_27.html

そして、もうひとつ忘れてはならないロングセラーは養命酒だ。

養命酒の発祥と400年の歴史
http://www.yomeishu.co.jp/health/beginning/history01.html

養命酒は、1602年(慶長7年) 信州伊那の谷・大草(現在の長野県上伊那郡中川村大草)の塩沢家当主、塩沢宗閑翁によって創製されたといい伝わります。
慶長年間のある大雪の晩、塩沢宗閑翁は雪の中に行き倒れている旅の老人を救いました。その後、旅の老人は塩沢家の食客となっていましたが、3年後、塩沢家を去る時、「海山の厚きご恩に報いたく思えども、さすらいの身の悲しさ。されど、自分はいわれある者にて薬酒の製法を心得ている。これを伝授せん。幸いこの地は天産の原料も多く、気候風土も適しているから・・・」とその製法を伝授して去りました。
薬酒の製法を伝授された塩沢宗閑翁は“世の人々の健康長寿に尽くそう”と願い、手飼いの牛にまたがって深山幽谷をめぐり、薬草を採取して薬酒を造りはじめ、1602年これを「養命酒」と名付けました。
江戸時代、塩沢家では、養命酒を近くに住む体の弱い人や貧しい人々に分け与えていましたが、医術が十分に行きわたっていなかった山村のため、大変重宝がられました。その評判が高くなるにつれて、養命酒の名は伊那谷の外へも知れわたり、5里も10里も山越えをして求めにくる人が次第に多くなってきました。
明治、大正時代には、交通通信機関が発達し、人々の生活様式や社会構造も変化してきました。養命酒も「発祥地伊那の谷で300年以上も飲まれ続け、喜ばれている養命酒の効用を一人でも多くの人々に届けたい」との願いから、1923年それまで塩沢家の家業だった製造事業を株式会社天龍舘として会社組織に改め、全国に紹介をはじめました。




その後1951年に商号を「養命酒製造株式会社」に改め、また1955年に東京証券取引所に上場している。

宇津救命丸、樋屋奇応丸、養命酒のいずれも400年の長きにわたり、まさに赤ちゃんからお年寄りまで日本人の健康を健康をサポートしてきた超ロングセラーであり、地域との密着、商品名の社名、創業家が事業継承など共通項も多い。日本の老舗企業ここにありという感じだ。


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東京・兜町の兜町ビルには「銀行発祥の地」というプレートがある。これは1873年(明治6年)にこの地に誕生した日本最初の近代的銀行である第一国立銀行を記念したものだ。



しかし第一国立銀行には、その前身となる「三井小野組合銀行」という銀行があった。その名のとおり三井組と小野組の両組の出資によって設立された銀行だ。
江戸時代の豪商であった三井組と小野組、そして第一国立銀行の経緯について調べてみたい。

三井は言うまでもなく日本三大財閥の一つで、三井越後屋で豪商となったことが有名だ

三井財閥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5

三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。
三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年越後屋三井呉服店 (三越) を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け (ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売) などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。
三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳ではなかったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。




一方の小野組は「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商だ。

小野組
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84

小野組は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。
小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年頃、次男の主之が盛岡に下り、近江屋と称し村井権兵衛を名乗った。甥の子どもである盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助、京都の鍵屋の小野権右衛門、南部盛岡で「紺印」の祖になった小野清助らがこれに協力した。小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。
京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部からの仕入れ店であったが、1776年に幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。
江戸の小野組は、日本橋本石町 (現日本銀行敷地内) に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。




さて、明治初期に近代的な金融システムの確立が急がれる中で、日本政府は米国のナショナル・バンクをモデルとした銀行を作るため、1872年に国立銀行条例を制定した。
三井組と小野組は既に銀行に近い業務を行っており、三井組と小野組の出資のもと、井上馨、渋沢栄一らによって、1872年に「三井小野組合銀行」が設立された。

江戸時代の商人と銀行
http://www.taisetsuna-okane.biz/izutu/

激動の時代であった幕末と明治時代の初期の日本には、官尊民卑の打破などの社会変革も行った渋沢栄一と同じように銀行の設立を目指していた人が、他にもいました。
三井組と小野組、そして明治政府も銀行を設立しようとしていたのです。明治政府の中核となる大蔵省にて働いていた渋沢栄一が、結果として日本初の国立銀行を設立しますが、当時はその準備に当たっていた最中であり、同じく銀行を設立しようとしていた三井と小野の両組と共同にて銀行を設立しようではないか!と提案していましたが、歴史ある豪商の2組は私立の銀行を望むため、政府主導となる銀行の共同経営には乗り気になれなかったのでした。
それでも、日本国で初となる銀行を設立するには協力することが不可欠としてか、三井小野組合銀行が国策に拠って三井と小野の両組の出資により井上馨と渋沢栄一らの手で設立されます。


そして三井小野組合銀行をもとに、国立銀行条例による民営の国立銀行として、翌1873年に第一国立銀行が創設された。

探検コム 銀行の誕生 第一国立銀行に行ってみた
http://www.tanken.com/daiiti.html

第一国立銀行は1873年6月11日に創設されました。紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案し、1872年11月に公布された国立銀行条例による日本最初の銀行です。
「国立」となっていますが、これは完全な民間経営で、江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核にして設立されたものです。ちなみに資本金は双方100円ずつに一般からの応募44円をあわせた244円。この点で日本初の株式会社と呼ばれることもあります。
第一国立銀行は民間企業でありながら、当初は紙幣の発行も認められていました。(ただし兌換紙幣で、金との交換が条件)
1882年、政府は日本銀行を創設し、紙幣の発行は日銀の専管事項になります。
1896年、国立銀行はすべて普通銀行に転換し、第一国立銀行は第一銀行になりました。

また、第一国立銀行以外にも国立銀行条例に基づいた国立銀行 (国法によって立てられた銀行) が次々に開設された。
当初は金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、第一から第五の4行 (第三は発起人の意見対立により開業に至らず当時欠番となっていた) が設立された。
その後1876年の国立銀行条例の改正で、不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする事も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された。銀行は設立順に番号を名乗っており、「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。第四銀行、十六銀行などは創立時の商号 (ナンバー) のまま現存している。

一方で三井組は、1875年に「三井バンク」と改称し、銀行の創立出願を東京府知事あてに提出した。当時の銀行条例では国立銀行以外に「銀行」と称することを禁止していたが、国立銀行が第一・第二・第四・第五の四行に留まっていたことなどから抜本的改正を余儀なくされ、1876年に日本最初の私立銀行が設立され、その後各地に店舗を展開した。
その後1943年に第一銀行と合併して帝国銀行、1954年に三井銀行に行名復帰、1990年に太陽神戸銀行と合併して太陽神戸三井銀行となり、後にさくら銀行と改名。現在は住友銀行と合併して三井住友銀行となっており「三井」の名が復活している。

しかし小野組は、その後政府の金融政策の急変によって破綻してしまった。

小野組の破綻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84#.E5.B0.8F.E9.87.8E.E7.B5.84.E3.81.AE.E7.A0.B4.E7.B6.BB

1871年の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。
小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
渋沢栄一の仲介によって、1872年に三井組と共同で「三井小野組合銀行」を設立するが、三井組は独自に金融機関 (三井銀行の前身) を設立、三井組は規模を拡大した。
小野組は、1873年には全国に支店四十余、大阪府のほか二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をした。
1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後解散した。


三井組がその後も金融業務を拡大し、現在でもメガバンクとして存続しているのに対し、小野組は銀行の歴史が始まる前に表舞台から去ってしまったような形だが、日本の銀行の源流は三井と小野であったことはもっと知られていいはずだ。


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このブログを始めて2回目の記事として「ソニーのブランドロゴ変更計画」を取り上げたことがある。1981年の創業35周年の機会に新ロゴデザインを募集したが、結局変更しなかったというもので、そのまま現在に至っている。ソニーのロゴは商標が登場した1955年当時は別デザインだったが、1957年にSONYのタイポグラフィロゴとなり、その後マイナーチェンジはあったものの基本的に変わっていない。社名がソニーとなった1958年以降はずっと同じロゴを継続使用している。



世界的にロゴが変わらない企業として有名なのはコカ・コーラだ。
コカ・コーラは、薬剤師のジョン・S・ペンバートン (John S. Pemberton) によって発明された飲料である。南北戦争で負傷したペンバートンはモルヒネ中毒になっており、中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。ペンバートンは、ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカを薬用酒として1885年から売り出し人気となった。しかしやがてコカインの中毒が問題となるとともに、禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。そこでワインに代えて炭酸水の風味付けのシロップとして売り出すことにしたものがコカ・コーラである。この名前はフランク・M・ロビンソン (Frank Mason Robinson) によって決められ、は1886年5月8日に発売された。



当初は広告でCOCA-COLAとタイプされただけだったが、翌1887年に配布された試飲クーポンには、すでにCoca-Colaの飾り文字ロゴがある。(マイナーチェンジはあるが) 現在でも使われているCoca-Colaロゴは、名付け親のフランク・M・ロビンソンによるものだ。



Frank Mason Robinson
https://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Mason_Robinson

Frank Mason Robinson (1845–1923) was an important early marketer and advertiser of what became known as Coca-Cola.
During the winter of 1885, Robinson and his business partner, David Doe, came to the South in order to sell a machine they invented called a "chromatic printing device" which had the capability to produce two colors in one imprint. Upon arrival in Atlanta, Robinson and David Doe approached Dr. John S. Pemberton, and struck a deal. In 1886 Frank Robinson officially settled in Atlanta where a new business was made called the Pemberton Chemical Company consisting of Robinson, Pemberton, David Doe and Pemberton's old partner, Ed Holland.
Pemberton was experimenting with a medicinal formula which included coca leaves and kola nuts as sources of its ingredients. Robinson, who served as bookkeeper and partner to Pemberton, gave the syrup formula the name Coca-Cola, where Coca came from the coca leaves used and Cola for the kola nuts.
The name Coca-Cola was also chosen "because it was euphonious, and on account of my familiarity with such names as 'S.S.S; and 'B.B.B'" said Robinson himself. He was also responsible for writing the Coca-Cola name in Spencerian script which was popular with bookkeepers of the era and remains one of the most recognized trademarks in the world.



その後コカ・コーラは人気を博したものの、健康を害したペンバートンは早々にその権利をたった1ドルで売却してしまい、まもなく1888年に亡くなった。
コカ・コーラの権利は、しばらくは人から人へと移り、裁判で争いになることもしばしばあった。最終的にコカ・コーラの権利は1888~1891年の期間にエイサ・キャンドラー (Asa Griggs Candler) のもとに渡り、1892年にキャンドラーはペンバートンの息子らと共にコカ・コーラ・カンパニーを設立した。
1895年頃には、流通網の拡大とCoca-Colaロゴと"Delicious and Refreshing" のキャッチコピーを活かした積極的なマーケティングにより、「コカ・コーラ」は米国のあらゆる州で手に入れることのできる国民的飲料となった。

この間の1890年から1891年にかけての1年間だけ、同社は違うロゴを採用している。



これに関してはコカ・コーラ社のホームページにも「For one year only, our logo gets a dramatic, swirly makeover.」「This version of the script showed the greatest departure from Robinson’s original.」と記載があるだけだが、調べてみると同社が印刷した1891年のカレンダーで一度だけ使われたロゴとのことだ。そしてその貴重なカレンダーの画像も確認できる。

CREATIVE BLOG The Coke logo you've (probably) never seen before
http://www.creativebloq.com/logo-design/coke-logo-never-seen-11135444

In 1890, a version of the logo was created and used only once, on the first calendar ever printed by the company. It features a style heavily reminiscent of musical notation and wholly out-of-kilter with the logo we know today. The creator of this design is unknown, but they certainly brought an unusual feel to the lettering.




全く飲料と関係のない絵柄なので、ロゴが違っていても全体としてあまり違和感がない。「by Asa G.Candler & Co.」という文句が目立つ。
このようにこのロゴは商品に使用されたものではなく、コカ・コーラ飲料は常にCoca-Colaロゴとともにあると言えるだろう。
ちなみに、コカ・コーラが瓶詰めで販売されるようになったのは1899年以降で、コカ・コーラの瓶詰め権利を取得したボトリング会社が全米各地のボトリング工場とフランチャイズ契約することで広く全米に広まった。最初期のものには技術的な観点からか、ロゴがないものも存在するようだ。



Coca-Colaロゴは未来永劫変わることはないと思われるが、黎明期に一度だけ変わったロゴが使用されたことはいつまでも覚えておきたい。


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南の国々を旅すると、バナナが大量に木に生っているのを見かける。「北の国では穀物を苦労して育てて蓄えているのに、南の国ではこのような栄養価の高いフルーツが自然にできるのだから、経済概念、民族性、生活が違って当然だな」と思ったことがある。
しかし、バナナはそんなに安穏としたフルーツではない。バナナ栽培は過酷な労働を求め、その結果として「虐殺」や「戦争」をもたらし、現在では激しい買収合戦が繰り広げられている。
その歴史を、渦中にいたアメリカのバナナ業者ユナイテッド・フルーツ (United Fruits Company、現在のチキータ・ブランド) の歩みとともに綴ってみたい。

1870年、アメリカ人船長のベーカー (Lorenzo Dow Baker) が航海先のジャマイカで、160房のバナナを手に入れた。その後ベーカーは実業家のアンドリュー・プレストン (Andrew Preston、以下の写真) とともに「ボストン・フルーツ・カンパニー (Boston Fruits Company)」を設立した。



平行して1871年に、実業家のヘンリー・メイグス (Henry Meiggs) は、コスタリカ政府と首都サン・ホセからカリブ海の港町リモンまでの鉄道建設の契約を結び、彼の甥のキース (Minor Cooper Keith、以下の写真) に事業を手伝わせた。その後労働者向けの安い食料として鉄道沿いにバナナの栽培が始められ、キースは鉄道完成後は非常に低い賃金で労働者にバナナを栽培させて母国アメリカ合衆国で販売しようと考えた。



そして、1899年にキースのバナナ取引会社とボストン・フルーツ・カンパニーの合併により「ユナイテッド・フルーツ」が設立された。(現在の「チキータ」はこの年を正式な創業年としている)
社長にはプレストン、副社長にキースが就任した。
その後ユナイテッド・フルーツは20世紀初めから半ばにかけて中央アメリカ、コロンビア、グアテマラ、エクアドル、西インド諸島などの広大な地域、流通を支配した。しかし、その過程で様々な政治的な活動を行っている。



コロンビアでは、1928年にユナイテッド・フルーツの農場で労働者のストライキが勃発し、これがコロンビア軍によって鎮圧されて多くの犠牲者 (47人から2000人まで諸説あり) が出た。この事件は「バナナ労働者虐殺事件」と呼ばれる。
労働者の要求は、1日8時間、週6時間勤務を明記した契約であり、労働の実態が非常に厳しいものだったことが推測できる。この事件に対して「軍がユナイテッド・フルーツのために行動した」と非難したが、軍は「共産主義革命対策だ」と主張した。

Banana massacre
http://en.wikipedia.org/wiki/Banana_massacre

グアテマラでも政治活動に対して活発であった。ユナイテッド・フルーツは農園経営において超富裕層と結託しており、人口の3%が国土の70%を所有するという著しい格差を生んでいた。
1950年に大統領に就任したグスマン (Jacobo Árbenz Guzmán) が農地改革を進めると、既得権益を失うことを恐れて1954年にCIAと組んでグスマン政権の転覆 (「PBサクセス作戦」と呼ばれる) というクーデターを引き起こした。このクーデターが後にグアテマラ内戦に繋がることとなった。

また、ユナイテッド・フルーツが直接的に関与したものだけでなく、アメリカが第一次世界大戦後に中央アメリカ諸国に対して行った軍事介入は「バナナ戦争」と称される。もちろん、この名称はユナイテッド・フルーツが中央アメリカで経済的な利害関係を有していたことに由来しており、アメリカの介入は同社をはじめアメリカ企業に対する革命運動の抑止を目的としていた。
「バナナ戦争」としてのアメリカの介入は、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、メキシコ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビアと多岐にわたる。

Banana Wars
http://en.wikipedia.org/wiki/Banana_Wars

このようにバナナなどの第一次産品の輸出に頼り、主にアメリカなどの外国資本によってコントロールされる政情不安定な小国は、政治学上「バナナ共和国 (Banana republic) と呼ばれている。この言葉もユナイテッド・フルーツが各国に広大なプランテーションを建設し、その資金力で各国の政治を牛耳ったことに由来している。
大多数の貧困労働者層と政治・経済・軍部を包括する少数の支配者層という社会の階層化にって格差が拡大し、寡頭体制がその国の第一次産業を支配するため、その国の経済を搾取することになると指摘されている。

バナナ共和国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%8A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

さて、ユナイテッド・フルーツは定温輸送船を開発するなどバナナの海上輸送の質を高め、1947年には「チキータ」を商標登録し、1966年にはヨーロッパにも輸出を拡大するなど、信頼される品質、おいしいバナナの代名詞ともいえるメジャー・ブランドに成長した。
しかし、1970年にポーランド人のイーライ・ブラック (Eli M. Black、以下の写真) が自己の投資会社AMK Corporationを使って、乗っ取る形でユナイテッド・フルーツの株を買占めた。
イーライ・ブラックはユナイテッド・フルーツを「ユナイテッド・ブランド (United Brand Company)」と改名し、過酷な労働環境を改めるなどの経営方針を打ち立てた。しかし債務が膨らみ、またハリケーンの被害にあい、さらにホンジュラス大統領にバナナン輸出税を減免するよう賄賂を贈ったことが明るみとなり、イーライ・ブラックは1975年2月にマンハッタンのパンナムビル(当時)の44階から飛び降りて自殺してしまった。



その後、1984年に実業家のカール・リンドナー (Carl Lindner Jr.) が経営の主導権を握り、社名を「チキータ・ブランド (Chiquita Brand International)」に改称して現在に至っている。

このようにユナイテッド・フルーツは、各国の近代史や多く人々に多大な影響をもたらした。そして現在のチキータは、バナナ業界の再編の渦中にいる。
バナナの世界シェアは、ドール (米) 26%、チキータ (米) 22%、デルモンテ (米) 15%、ファイフス (アイルランド) 7% が上位を占めている。
そしてチキータは、2014年3月にファイフスとの合併を発表した。これはお互いのアメリカとヨーロッパでの強みを活かし、世界最大手のバナナ業者誕生を意味するものであった。

The Wall Street Journal 2014年3月11日 チキータとファイフスが合併合意―バナナの世界最大手誕生へ
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702303565804579431851471019292

しかし8月になって、ブラジルのジュース生産大手クトラーレ・グループと同国の投資会社サフラ・グループが、この合併に対して横槍を入れる形で、チキータに対して買収提案を行った。チキータはクトラーレの提案を何度か拒否したが、提示額が引き上げられ、最終的にファイフスの合併を否決し、クトラーレの買収を受け入れた。チキータは本社こそ米国内に残るものの、株式公開を取りやめてクトラーレ・サフラ連合の完全子会社となる。

The Wall Street Journal 2014年10月27日 チキータ、クトラーレとサフラの買収案受け入れに合意
http://jp.wsj.com/articles/SB12072851737206304029704580240393092676732

産経ニュース 2014年12月2日 バナナ戦争」勃発 日本巻き込み札束飛び交う合従連衡 主戦場はアジアへ
http://www.sankei.com/west/print/141202/wst1412020002-c.html

チキータがなぜ心変わりしたのか。1つには、クトラーレ・サフラ連合が“結納金”ならぬ買収金額をつり上げ、ファイフスよりも好条件を提示したことがある。また、クトラーレが本格進出をもくろんでいたバナナ市場で、「強大なプレーヤーが誕生するのを阻止したかった」クトラーレが執拗に食い下がったこともある。

だが、チキータには見逃せない裏事情というか思惑があった。それが税制面だ。アイルランドは米国よりも法人税率が低い。アイルランドに拠点を置いて、納税を圧縮している企業は米国に少なくない。たとえばアップルがそうだ。チキータもどうやら、ファイフスと合併し、本社をアイルランドに移せば、大幅な節税が実現できると考えたようだ。
しかし、そんなチキータに逆風が吹き付けた。各国の税制の違いを利用して節税する多国籍企業に対して、世界的な規模で広がる批判の高まりだ。米政府もついに重い腰を上げ、税負担を軽減する目的で本社移転を目指すM&Aを防止する措置を9月に導入。これを受け、海外M&Aなどの計画を見直す企業が次第に広がり、チキータも10月の臨時株主総会で、ファイフスとの合併計画を否決。そしてとうとう、あれほど袖にしていたクトラーレ・サフラ連合の求婚を受け入れた。


同社が国家レベルでの騒動を巻き起こすのはユナイテッド・フルーツ時代からのDNAのようで、新たにブラジル企業として再スタートする新生チキータの動向、そしてバナナ業界全体の激しい争いに注目したい。



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