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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




中央銀行は、国家の金融機構の中核となる機関である。中央銀行は、その国で利用される通貨・紙幣を発行する機関であり、市中銀行を相手に資金を貸し出す業務を行う。また、国債を売買し、国への資金提供も行う。
中央銀行は「発券銀行」・「政府の銀行」であると共に、最後の貸し手として「銀行の銀行」としての役割を果たす。また中央銀行は、物価の安定に対して責任を負っている。

日本における中央銀行は日本銀行であり、多くの国が単一の中央銀行を持つが、アメリカは事情が異なる。
アメリカには単一組織としての中央銀行は存在せず、連邦準備制度(FRS)が中央銀行制度として存在している。FRSは連邦公開市場委員会(FOMC)、連邦準備制度理事会(通称FedまたはFRB、こちらのBはBoard)、及び12の連邦準備銀行(FRB、こちらのBはBank)で構成される。ちょっとややこしい。

連邦準備制度理事会の長は「議長」(Chairman)だが、世界経済に対する影響力は絶大であり、FRB議長は「アメリカ合衆国において大統領に次ぐ権力者」と言われている。
尚、連邦準備銀行は株式会社の形態が、アメリカ政府は連邦準備銀行の株式を所有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関 (JPモルガン・チェース銀行やシティ・バンクなど) が出資義務を負っており、株式を所有している。すなわち、アメリカの中央銀行は民間銀行が所有していることになる。

この連邦準備制度は1913年に成立して100年の歴史がある。それ以前にアメリカでは1776年の建国後に中央銀行の試みがあった。それが第一合衆国銀行(The First Bank of the United Sates)と、第二合衆国銀行(Second Bank of the United Sates)である。この2つの銀行の流れを簡単に追ってみたい。

1776年の建国後、18世紀の最後の10年間にアメリカ合衆国には3つの銀行があったが、50以上の異なる通貨が流通していた。イギリス、スペイン、フランス、ポルトガルの貨幣や紙幣が、州、都市、辺境の店舗および大都市の事業家によって発行されていた。これら通貨の価値は恐ろしく不安定であり、それによって政治的には無関心な通貨投機家が不確実さで儲ける天国になっていた。

その中で1791年に、最初のアメリカ合衆国銀行「第一合衆国銀行」は初代アメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンの支持によって提案された。
しかし、連邦議会の上院、下院とも南部代議員の大半はハミルトンの提案の中で正式な政府造幣局の設立とアメリカ合衆国銀行公認という考えに反対した。彼等は、中央造幣局は銀行が商業の栄える北部の事業利益に専ら貢献し、農業中心の南部の利益にはならないと考えた。
最終的な判断は、初代大統領であるジョージ・ワシントンに委ねられた。ワシントン大統領は躊躇したが、最終的に1791年4月25日に「銀行法」に署名し、第一合衆国銀行が設立された。



第一合衆国銀行の公認期間は20年間であり、第4代大統領ジェームズ・マディスンのもと連邦議会によって公認延長が審議されたが拒否され、1811年に失効した。



第一合衆国銀行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%8A%80%E8%A1%8C

その後1817年に第二合衆国銀行がアメリカ合衆国議会によって公認された。第一合衆国銀行の公認延長を拒否した多くの議員が公認した理由は、1812-14年の米英戦争の間にアメリカが厳しいインフレを経験し、軍事行動の財政的手当が難しくなり、その結果、アメリカ合衆国の信用度や借入金の状況が建国以来最低のレベルになっていたことによる。

米英戦争の後、アメリカ合衆国はその負債にも拘わらず、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争での荒廃のために経済の膨張も経験した。特に、ヨーロッパ農業生産部門に対する損失のために、合衆国の農業生産は拡大した。銀行はその貸付によって経済膨張を助成し、土地に対する投機を促した。この貸付でほとんど誰もが金を借り土地に投資することができ、時には地価が2倍あるいは3倍に跳ね上がった。このような好況により、銀行に起こりつつあった不正や創出された経済バブルに気付く者はほとんどいなかった。
1818年夏、第二合衆国銀行の経営者は銀行が過剰に拡大しすぎたことを認識し、金融引き締めと貸付金の回収政策を打ち出した。この貸付金の回収によって同時に土地売買が減少し、ヨーロッパの回復に資していた産業の好況も減速させた。その結果が1819年の恐慌となった。

その後、1829年に就任した第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、第二合衆国銀行の不正と腐敗故に、これを完全に嫌うようになった。



ジャクソン大統領は、「疑いもなく、この偉大で強力な機関がその資金力で公的役職者の選挙に積極的に影響を及ぼそうとしてきた」ことが分かったと言って銀行に調査を入れた。合衆国銀行の公認は1836年に切れることになっていたが、ジャクソン大統領はもっと早く第二アメリカ合衆国銀行を「殺す」ことを望んだ。ジャクソン大統領はこの銀行が政治的腐敗とアメリカの自由に対する脅威を助長するものと見なし、”the bank is trying to kill me, but I will kill it” というスピーチをしている。
第二合衆国銀行のニコラス・ビドル総裁は、公認期限の切れる4年前、1832年に公認延長を求めることにした。しかし、ジャクソン大統領はその法案に拒否権を発動した。
また、第二合衆国銀行は連邦政府が規則的に預託した税収入によって繁盛していたが、ジャクソン大統領は1833年にその財務長官に対し、州銀行に連邦税収入を預託するよう指示することで、第二アメリカ合衆国銀行の生命線を痛撃した。
この結果第二合衆国銀行にはほとんど現金が残らず、1836年に公認期限が切れたときにフィラデルフィアの普通の銀行に変わった。5年後の1841年に(元)第二合衆国銀行は破産した。



第二合衆国銀行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%8A%80%E8%A1%8C

第二合衆国銀行の公認が切れた翌年の1837年から1840年代までアメリカは恐慌に陥った。
そのひとつの要因は第二合衆国銀行が継続されなかったことにある。1832年に第二合衆国銀行の公認延長が拒否された後、同行がその後の業務を引き締めたことで、西部と南部の州公認の銀行は、安全でない準備金比率を維持しながら貸出基準を緩和し、不安定になった。1836年に正貨流通令は発令され、西部の土地は金貨と銀貨のみで購入できることになったが、これは逆効果で大きなインフレーションを招いた。この恐慌は、何らかの中央銀行が機能していれば、和らげられたと言われている。

また、これも"たられば"であるが、ラトガース大学のマイケル・ボルド経済学教授によると、第二合衆国銀行は第一級の中央銀行に発展しており、仮にジャクソン大統領に解体されなければ、効率的な決済制度を維持し続け、また第二合衆国銀行が他の先進国同様の中央銀行と同様の発展を遂げていれば、20世紀の歴史は変わっていただろう、さらには第二次世界大戦もなかったと推測している。

himaginaryの日記 米国はもっとまともな中央銀行を持てたか?
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20120606/could_the_united_states_have_had_a_better_central_bank

第二合衆国銀行は、Bordoによれば、その最後の総裁のニコラス・ビドルの下で、ビドルとジャクソンの銀行戦争が勃発する十年前には、第一級の中央銀行に発展していたという。ビドルは金融理論の真髄を理解しており、多くの点で同時代のイングランド銀行の先を行っていたとの由。
仮に第二合衆国銀行が存続していたならば、カナダのような全国的な支店銀行制を採用していただろう、とBordoは言う。また、第二合衆国銀行はイングランド銀行のような最後の貸し手としての役割を習得していたため、米国がカナダと同じ道を歩まずにやはりフリーバンキング制度の道に進んだとしても、恐慌を押さえ込み、支店網を通じて全国的な統一通貨を創造し続け、効率的な決済制度を維持し続けただろう、と彼は推測する。
そのように第二合衆国銀行が他の先進国の中央銀行と同様の発展を遂げていたならば、20世紀の歴史は変わっていただろう、とBordoは言う。即ち、真正手形仮説に毒されておらず、フリードマン=シュワルツが指弾した欠陥とも無縁だった中央銀行は大恐慌の発生を抑止していただろう。その結果、第二次世界大戦も無く、ケインズ経済学も無く、1970年代の大インフレも無かったかもしれない、との由。


このように、アメリカは第一合衆国銀行、第二合衆国銀行という試みがあったものの実質的に機能せず、19世紀半ばの工業化を中央銀行不在で進め、その間個々の銀行などが国債や金準備を使って紙幣を発行していた。最も先進的な資本主義国でありながら、中央銀行については極めて特殊であると言えよう。とはいえそれが歴史であり、その流れで現在のアメリカがあり世界があるのだ。



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最近はクレジットカードでの支払いに加えて、非接触型ICカードの電子マネーでの買い物およびオートチャージを利用しているため、現金を使う機会が著しく減った。技術の進歩とともに「お金」も形を変えている。

そこで改めて紙幣について考えてみると、美しいデザインに加えて、すかし・ホログラムなど様々な偽造防止が施されているというありがたみはあるものの、所詮は紙である。しかし人々はその紙のために汗を流して働き、時に罪を犯す。なぜならこの紙には公的権力が、通貨として強制通用することを認めているからだ。
だからこそ国家や経済が破綻すると、紙幣は一気にその価値を失う。以前「ジンバブエドルとペンゲー」で触れたような状況に陥る。

紙に価値を与えて、汎用的に流通させる、というのは簡単なことではない。
本来貨幣(コイン)は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのものであり、昔から王侯が貨幣の鋳造権を独占して市場に流通させていた。これなら貨幣そのものに価値があるわけだから持つ者も問題なく扱うことができる。
しかし、貴金属による貨幣は運搬に不便であるだけでなく、摩耗による減価の問題もあったため、次第に貴金属との交換を保証された手形に置き換わっていった。

世界初の紙幣は中国・宋(960年 - 1127年)の時代に四川地方で発行された「交子」(こうし・じゃおす) である。



交子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%90

五代十国時代(907年 - 960年)において全中国的に商業活動が活発化しており、主要な貨幣である銅銭の需要は非常に高かった。しかし四川地方では銅の産出量が少なく、需要を満たせなかったので当時四川を支配していた前蜀および後蜀政権では産出量の多かった鉄を使用して鉄銭を発行していた。宋朝に代わった後(960年 -)も全国的に銅不足の状態が続き、四川では引き続いて鉄銭の使用が強制された。

しかし鉄銭は銅銭に比べて重く、持ち運びに不便であり、またそのことから銅銭に比べて十分の一程度の価値しか持たなかった。そこに四川の中心都市・成都の16の交子鋪(手形の発行所)が組合を作り、鉄銭を預かってその預かり証書として交子を発行した。この16の交子鋪は政府より認可を受けて四川に於ける交子の発行を独占し、信用を高めたので重い鉄銭よりも交子の方が重用されるようになった。

その後、四川の交子鋪は事業に失敗して銅銭の準備高が足りなくなり、不払いを起こした。1023年、これを見ていた政府は交子の利益に目を付けてこれを官業とし、民間でこれを行うことを禁じた。宋政府は本銭(兌換準備金)として36万緡(貫)を備え、発行限度額を125万余緡として交子を流通させた。ここに至って交子は手形ではなく紙幣となったのである。

交子はその利便性から需要が増え、また宋政府は軍事費に当てるための財源として交子を欲し、1072年に発行額を倍に増やし、その後も増え続け次第に乱発気味になって1106年には2600万緡と当初の20倍以上に膨れ上がった。濫発と共に兌換が停止され、交子の価値は一気に下落し、額面一貫の交子が銭十数文としか取引されないようになった。



日本と世界のお金の歴史 雑学コラム 世界で最初の紙幣は中国で生まれた
http://www.manabow.com/zatsugaku/column10/index.html

世界で最初の本格的な紙幣は、10世紀の中国(北宋時代)で作られた「交子」だといわれています。今では当たり前に使われている紙幣ですが、紙幣をつくるためにはそもそも「紙」を作る技術と、大量の紙に文字や絵柄を記していく印刷技術が必要です。製紙技術も印刷技術も中国で発明されたものですから、世界で最初のお札が中国で生まれたのも自然の流れでした。

当時の中国の紙幣の大きな特徴は、紙幣自体に「ニセ札作り禁止」の警告文が印刷されていたことでした。ニセ札作りの罪は大変重く、犯人は死刑。逆に犯人を見つけた人には賞金のほかに犯人の財産も与えると定められており、そのことを紙幣自体に明記することでニセ札を防ごうとしたのです。このほか、紙幣に使われる紙の製造を国が独占したり、絵柄に複雑な文様を用いるなど、ニセ札を防ぐさまざまなアイディアがこの頃から取り入れられていました。



その後も中国では元のクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)が発行された。これは補助貨幣ではなく基本貨幣とされ、金銀との兌換が保障されている兌換通貨であった。元は塩の生産を官有とし、塩の販売は紙幣に限定するという政策をとったため、中統鈔は長く用いられ、本格的な紙幣中心の貨幣制度となった。

これに対して、ヨーロッパでの紙幣の誕生は相当な時間を待たなければならない。一番古い紙幣の発行は1483年のスペインであったと言われているが、これは本格的な紙幣の導入ではなく不足していた硬貨の代用として用いられただけだった。
国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、最初のものである。

オルタナティブを考えるブログ 世界最古の中央銀行  ヨーロッパ最古の紙幣 in スウェーデン
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20255526.html



ストックホルム銀行は、1661年7月1日にヨーロッパで初めて国家の承認を受けた紙幣を発行した。設立者ヨハン・パルムストルヒにちなんでパルムトルック銀行(Palmstruck Bank)とも呼ばれた。スウェーデン国王のカール10世の下に為替銀行として1656年に設立され、1661年に世界で最初の『公的な発券銀行』となる。

スウェーデンの貨幣は1644年以来とても手にもてないような大きさの銅貨を使用していたが、30年戦争(1618-1648年)とインフレが生じてその価値がたえず下落していった。銅貨が改鋳され、銅の含有量が17%も減少した。そして1661年、深刻な銅不足が追い討ちをかけた。銀行券の所有者は紙幣の価値が下落に対して名目額と同じだけの金を要求した。この取付け騒ぎの際に、銀行が兌換できるだけの金を保有していない事実が発覚し破綻に追い込まれた。こうした背景に1661年に紙幣を発見に踏み切った。その時発行された紙幣は金との兌換紙幣であったと考えられている。

しかし、その後国王にいいように干渉を受け紙幣を乱発させられたのだろう。十分な担保がなかったために、ストックホルム銀行は7年後の1668年に破綻に追いこまれる。パルムストルヒはこの責任を問われ、何と死刑判決を受けてしまう。(後に寛大な措置が採られ刑の執行を免除された)



その後、ストックホルム銀行はスウェーデン国立銀行として再スタートしている。スウェーデン国立銀行は世界で最も歴史のある中央銀行である。ちなみにノーベル経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞) は、1968年にスウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけ設立されたものである。

スウェーデン国立銀行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C

1668年9月17日、スウェーデン議会において新銀行の設立を認可する法律が制定された。この法律では、ストックホルム銀行での失敗を教訓とし、国王の干渉を防止するために新銀行の経営権を議会の監督下に置く義務を課した。その後1866年に、スウェーデン議会によって国立諸階級銀行の名称がスウェーデン国立銀行 (Sveriges Riksbank) へと改称された。

ストックホルム銀行での失敗から、設立当初のスウェーデン国立銀行では紙幣の発行が許可されていなかった。しかしながらスウェーデン経済を悩ませていた通貨不足の問題は解決せず、1701年にいわゆる信用紙幣の発行が議会によって認可されて、再び紙幣の流通が始まった。その後、信用紙幣の流通額は1710年代後半から急激に増加したため、1726年に議会はスウェーデン国立銀行の信用紙幣を法定通貨として認可した。

18世紀中頃からは偽造紙幣が出現し、スウェーデン社会に深刻な問題を引き起こした。そのためスウェーデン国立銀行は偽造防止のために専用の製紙工場を建設することを決定し、1759年から運転を開始した。19世紀に入ると、スウェーデン国立銀行は紙幣発行の信用機関としての地位を確保した。



このように紙幣はその導入時から、国家信用の保証と失墜、技術の革新と偽造の繰り返しであったことが改めてよくわかる。
今後もさまざまな決済手段や仮想通貨が出現すると思われるが、信用の重要性をより強く認識する必要があるだろう。



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日本の航空業界では、2000年代後半より外資系LCC (ローコストキャリア) の国際線参入が相次いだ。また2012年にはPeach Aviationなど新規の国内LCCも運行を開始し、利用者にとって航空利用の選択肢が広がり、今後ますます激しい競争になることが予測される。
日本の航空業界は1970年代以降、「45/47体制」による棲み分け (日本航空は国際線の一元的運航と国内幹線運航、全日空は国内幹線とローカル線、国際チャーター便の運航、東亜国内航空 (日本エアシステム) は国内ローカル線の運航) の影響を長く受けてきたが、その構造変革がまさに進められている。

この流れの中で、改めて日本航空(JAL)と全日本空輸(ANA)の設立と沿革を整理してみよう。

戦後日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されたが、これは1950年6月に解除された。
そして、1951年1月に日本航空創立準備事務所が開設され、免許申請・取得を受けて、1951年8月に「日本航空株式会社」が設立された。日本航空はその後多くの合併・吸収・経営統合を行い、また経営再建を経て現在に至っている。

一方、全日本空輸は前身は日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社の2社である。
日本ヘリコプター輸送株式会社は、1952年12月27日に、東京を拠点にヘリコプターでの宣伝活動を目的として設立された会社だが、その後飛行機による事業にも参入し1953年12月15日に貨物航空事業を開始し、1954年2月1日には旅客航空事業も開始した。
極東航空株式会社は、日本ヘリコプター輸送より1日早い1952年12月26日に、第二次世界大戦前に関西で航空事業を行っていた関係者により大阪で設立。大阪を拠点として、大阪 - 四国・大阪 - 九州といった西日本方面の航空路線を運営していた。
その後国内航空輸送を一本化するという運輸省の方針などにより、両社は合併に向けて協議を開始する。合併比率でもめたものの、最終的に1958年3月1日に合併登記が完了し、全日本空輸となった。

さて、GHQの日本国籍の航空機の運航再開を受け、日本航空・日本ヘリコプター・極東航空以外にもいくつかの航空会社が設立されたが、その中で航空機使用事業免許第一号は「青木航空」(のちに日本遊覧航空、藤田航空に改称) という個人の名前を冠した航空会社だった。

青木航空 (藤田航空)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E8%88%AA%E7%A9%BA

戦前、日本の航空機メーカーであった立川飛行機のテストパイロットであった青木春男が不定期航空事業の認可を受け、青木航空として1952年4月に設立され、9月からセスナ170で運航を開始した。
その後、資本金の増資に伴い日本遊覧航空(1956年6月)そして藤田航空(1961年6月)と社名を変更された。おもに伊豆諸島を中心に運航していた。また全日空から羽田~八丈島などの路線を移管され、定期航空路を運航していた。しかしながら、営業状態は芳しくなく1963年に航空事業から撤退することになった。そして11月1日付けで全日空へ吸収合併された。


会社設立の1952年にアメリカのセスナ170B型を3機購入、またイギリスの飛行機メーカーであるデ・ハビランド・エアクラフト社のダブとヘロン、オランダのフォッカー社のF27が使用機材だった。
しかし、1963年8月17日、ヘロン(機体記号:JA6155)が八丈島離陸直後、八丈富士山腹に墜落する事故が発生し、この事故で乗客16人と乗員3名が犠牲になった。
当時、事故機のヘロンJA6155は東亜航空へ貸与中だったが、フォッカーが定期点検中であったため、東京浅草の旅行会一行41名の団体客のためにJA6155(を含むヘロン3機)が用意された。3機とも八丈島から羽田に向かったが、JA6155は空港から10km離れた八丈富士8合目の雑木林に激突していた。事故原因は確定されていないがエンジントラブル説が有力である。

結局、この航空事故が致命傷となり、同年11月に全日本空輸に吸収されたことになる。
青木航空は設立が1952年4月なので、全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社よりも会社設立は早い。すなわち、現在の全日本空輸に流れる遺伝子の中で最も古いDNAは青木春男による青木航空と言えるだろう。

航空機写真・イラストは、青木航空・日本遊覧航空・藤田航空のいずれの時代のものも参照することができる。とても貴重な写真の数々だ。

航空歴史館 日本の初期登録航空機全集 №4J A3001~JA3100
http://dansa.minim.ne.jp/RS-0003-FirstJA-Numbers3001.htm#014

航空歴史館 日本におけるデハビランドDH-104 ダブの歴史
http://dansa.minim.ne.jp/CL-DoveStudy.htm#023

航空歴史館 日本におけるデ ハビランド ヘロンとタウロンの歴史
http://dansa.minim.ne.jp/CL-HeronStudy.htm#154

航空歴史館 立川市 NPO法人立川航空宇宙博物館
http://dansa.minim.ne.jp/a3626TachikawaHaku.htm

立川航空宇宙博物館(TASM) : 飛行機の話 青木春男さんを語る
http://blogs.yahoo.co.jp/hikoukinut56/61826796.html

立川航空宇宙博物館(TASM) : 飛行機の話 青木春男さんの思い出
http://blogs.yahoo.co.jp/hikoukinut56/60558864.html

個人の名前を冠する航空会社というものに驚きを感じながらも、日本の空の構図が書き換えられようとしている今だからこそ、その起源に大きな個人の挑戦があったことを心に留めておこう。



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トヨタ・プリウスは、トヨタ自動車が1997年に製造・発売を開始したハイブリッド専用車で、現在では93ヵ国で発売されているという。単に燃費性能が良いというだけではなく環境に良いというブランドイメージが確立され、常に新車販売で上位にランクされている。
「PRIUS」とはラテン語で「~に先立って」の意味で、1997年12月に初代プリウスが発表・発売された際の「21世紀に間に合いました」というキャッチコピーは、同車のコンセプトを的確に示していて、とてもセンセーショナルだった。

さて、プリウスは世界初の量産型ハイブリッド自動車であるが、世界初のハイブリッド自動車ではない。それどころか世界初のハイブリッド自動車はプリウスよりも何と約100年も早く開発されている。フェルディナント・ポルシェが開発した「ミクステ」がそれだ。「20世紀最高の自動車設計者」と言われるフェルディナント・ポルシェの生涯とミクステの誕生経緯を見ていこう。

クルマノエホン livres d'images de voitures ポルシェ博士の3つの夢
http://ehonkuruma.blog59.fc2.com/blog-entry-180.html

フェルディナンド・ポルシェは、1875年に当時のオーストリア・ハンガリー帝国の北ボヘミア地方(現在のチェコ)、マッフェルスドルフという小さな村で、ブリキ職人の家に生まれた。
フェルディナントはマッフェルスドルフの学校の実験で電気に出会ってからというもの、その不思議な力の虜になってしまった。もともと、彼を職人の跡取りにしようと考え、息子の電気の勉強に理解のなかった父親だったが、電気に熱中する息子の姿に、ライヘンベルク帝国技術学校夜間部での勉強を許す。その後、首都ウィーンにある電気工場「べラ・エッガー商会(Bela Egger & Co.)」で働きながら、ウィーン工科大学の聴講生として、さらに物理や電気工学、機械工学を学ぶこととなる。
そこで、彼の生涯の仕事を決めるものに出会う。べラ・エッガー商会の図書係であるアロイジア・ケース嬢(後のポルシェ夫人)の案内で行ったウィーン工芸博物館で、展示されていた一台の自動車に興味を抱く。ジークフリート・マルクスが1875年に作った石油ガスで走る内燃機関の自動車である。それ以来フェルドナントは自動車が忘れられない。

当時の自動車の動力源は蒸気、ガソリン、電気と様々であった。その中で静かな電気自動車は、うるさいガソリンエンジンと異なり上流社会のライフスタイルはマッチしていた。当時は、高価であった自動車は上流階級の乗り物であったため、電気自動車が優位にあった。そんな中、電気自動車に将来性を見据えていたのが、馬車製造業を営むヤコブ・ローナー氏からある日、ぺラ・エッガー商会に電気自動車の修理の依頼があった。電気が得意で自動車に興味を持っていたフェルドナント。水を得た魚はみごとな修理を行い、ヤコブ・ローナー社(Jacob Lohner & Co.)に引き抜かれることになる。

同社での功績として、1900年パリ万博に出品され、グランプリを受賞した「ローナー・ポルシェ電気自動車」がある。通常の動力源(モーター、エンジン)の駆動力は、ギア(歯車)を介して車軸に伝達するために非力な電気自動車は不利であった。そのため、前輪にモーターを取り付けダイレクトに車軸に駆動力を伝える方法を採用。後輪駆動が主流の当時において、前輪駆動自体も画期的であったが、将来の自動車電動化では必ず採用されるであろうと考えられるインホイールモータ方式の先駆ともいえる先進技術である。これによって、ハンドルも自由に切ることができる。

彼はこれだけでは満足しなかった。パリ万博の2年後。現在の電気自動車でも欠点といわれているバッテリー重量増、後続距離の短さの問題を解消するため、ガソリン・エンジンの長所と電気自動車の長所の両方を使う、いわゆるハイブリットカー「ミクステ」を世界で初めて開発する。同年、この車を自ら運転してレースに出場、優勝している。「ミクステ」の方式は、ガソリンエンジンで発電してバッテリーに蓄電し、モーターで動く今で言うシリーズ・ハイブリット式だ。


ミクステの開発・製造年は文献によって1898~1902年まで異なる記述があるが、いずれにしても世界最初のハイブリッド自動車は20世紀初頭には既に開発されており、21世紀どころか20世紀にも間に合ったことになる。
しかしその後第一次世界大戦を経て機械駆動系の信頼性向上とコストダウンが進展し、さらにフォード・モデルTの登場によるガソリン車の急激な普及により、ハイブリッド自動車の開発は本格化しないまま世の中から消えていった。そして約100年の時を経てエンジンとモーターの協調制御が可能なプリウスとして生まれ変わった、と言えるのだが、その間には例えば1970年代のオイルショック時にハイブリッド自動車の研究開発が行われるようになったがその後の石油供給安定化などにより研究が縮小されるなど、様々な経緯があったようだ。

ハイブリッドカー 歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%BC#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

ミクステには、約5年間にわたって生産された中でいくつかタイプがあるようで、複数の種類の画像が確認できる。




さらには復元されたモデルもあり、短いが動画もあるので、雰囲気を感じ取ることができる。





その後のフェルディナント・ポルシェの功績は、例えば1933年から設計・開発に着手したフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)が1938年~2003年までに2000万台以上の生産されるなど、枚挙にいとまがない。

またフェルディナント・ポルシェが1931年に独立して開設したポルシェ事務所は、現在のドイツ・ポルシェ自動車である。
同社は創業以来スポーツカーを専門にしていたが、2002年にSUVの「カイエン」を発売し、スポーツカーの精神を宿したSUVとして世界的に人気を博した。そしてその成功を受けて、2009年にはセダンの「パナメーラ」を発売した。
そしてカイエン、パナメーラともにハイブリッドモデルを有している。



http://www.porsche.com/japan/jp/models/cayenne/cayenne-s-hybrid/
http://www.porsche.com/japan/jp/models/panamera/panamera-s-e-hybrid/


もしハイブリッド自動車の系譜について論争が起きたとしたら、ポルシェによるハイブリッド自動車こそ本家の正統な後継車だ、と言っていいのではないだろうか。例えば「パナメーラS E-ハイブリッド」は、排気量 2,995 cc、8変速、最高速度: 270 km/h とポルシェの家系に相応しい。
とはいえ、「カイエンSハイブリッド」が1130万円、「パナメーラS E-ハイブリッド」が1534万円ではさすがに一般的な普及はありえない。私も眺めるだけにしておこう。



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日本の通貨といえば円である。DollarやPondと違ってYenはユニークな通貨単位だ。
現在の日本の通貨単位である円は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された新貨条例(明治4年5月10日太政官布告第267号)で定められたもので、当時の表記は旧字体の「圓」であったそうだ。
通貨単位としての円は「新貨条例」の廃止後も「貨幣法」(明治30年3月29日法律第16号)に受け継がれ、さらに現在は「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」に受け継がれているという。すなわち日本は140年以上円という通貨を使用していることになる。

一方で、一時期日本国内で円とは異なる通貨が流通していた。「B円」がそれである。

B円
http://ja.wikipedia.org/wiki/B%E5%86%86

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。硬貨はなく、全て紙幣だった。デザインは肖像や風景などの具象的なものではなく、彩文模様であり、これはアメリカ軍が占領した地域で使用した軍票と共通したものであった。

アメリカが占領した直後、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、これらの通貨が混合して流通していたが、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美群島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。

沖縄を除く本土地域でも、1945年の敗戦直後、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領経費を日本円で支弁することを交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認されたため出回った量は極めて少ない。ただし、当時、東京で、B円は受け取り拒否できず困った、という記述がされているので、若干は流通したと考えられている。1948年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかったため混乱はなかった。本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。


沖縄県 戦後の生活と文化 B円とドル
http://www.payphoneone.com/bunka/sengose/ben.html

沖縄県公文書館 9月16日 B円からドルへの通貨交換(1958年)
http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/09/post-82.html

沖縄は占領された後に、無通貨(金銭取引禁止)、B円と(新旧)日本円混在、B円のみ流通、ドルへの切り替え、と短い期間に流通通貨がめまぐるしく変わり、そして1972年に日本に復帰し、日本円が流通するようになった。経済活動の最も身近な通貨の変遷からも戦後の沖縄の激動をうかがうことができる。さぞかし大変だったことだろう。

そして、B円があるなら、A円も存在する。




A円
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E5%86%86

A円(エーえん)とは、1946年に通貨として流通させる目的でアメリカ軍が発行した軍票である。
A円はB円と同時に発行が計画され、日本の敗北を見越して1945年春には完成しており、沖縄本島を占領したアメリカ軍によって先に沖縄でB円が使われ始めた。B円と比較して表に印刷された袋文字が「A」であるか「B」であるかの違いしかない。

なぜ同じ日本円に対し二種類の紙幣を用意したのかについては、A円は日本によって占領されていた地域で用いるのを想定し、B円は日本本土侵攻作戦に用いるのを想定したとされている。実際にA円は朝鮮半島における日本円の発券銀行であった朝鮮銀行券の流通地域のうち、アメリカ軍が占領した南朝鮮(現在の大韓民国)で法定通貨とされた。しかしながら、A円は日本国内でも一時的に沖縄の八重山諸島でも使われたほか、アメリカ軍基地間での決済のみで使用されたが、外部への流出は禁止された。

B円が米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島において1948年から1958年まで使用されていたのに対し、A円は1947年7月に韓国銀行が設立されウォン紙幣が発行されたことから、わずか2年でその使命を終えた。

nao♪のハロハロ日記 沖縄の通貨~A円~
http://ameblo.jp/ityara/entry-10383274773.html

雨男雑記帳 "B"と"A"
http://ameotoko.cocolog-nifty.com/note/2008/10/ba-dd24.html

我々が意識せずに使っている円だが、その傍らで沖縄で流通したB円と、幻のA円の存在があったことを覚えておこう。
そういえばその沖縄・首里城守礼門を描いた二千円札はどこに行ってしまったのだろうか。こちらは現在も発行中のはずなのだが、既にA円の域にあるのかもしれない。




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このブログは性質上過去のことを調べて記載することが多いので、事実が覆ることは基本的にないはずなのだが、2010年12月に調べた「エノキアン協会」の内容は2011年の間に変更が生じた。

「エノキアン協会のメンバーである「法師」(有限会社善吾楼)は石川県粟津温泉の旅館で創業は718年。現存する世界最古の宿泊施設としてギネス認定されており、エノキアン協会の中でも最古の企業である。」という記事を書いたのだが、2011年に山梨県・甲州西山温泉の慶雲館が「法師」に替わって世界で最も歴史のある旅館としてギネスブックに認定された。
慶雲館のホームページによるとは同旅館は705年創業とされており、創業者一族が経営を続ける現存企業としても世界最古だそうだ。そうするとエノキアン協会の加入資格 (1. 創業以来200年以上の社史を持っていること 2. 創業者の子孫が現在でも経営者、もしくは役員であること 3. 家族が会社のオーナーもしくは筆頭株主であること 4. 現在でも健全経営を維持していること) も満たしていると思われるので、こちらの動きもあるかもしれない。

山梨県早川町 源泉掛け流しの宿 甲州西山温泉 慶雲館
http://www.keiunkan.co.jp/




但し、実際は世界最古の宿泊施設というのは特定が難しく、慶雲館(当事者705年?)、法師(718年?)、そして城崎温泉・古まん(717年?) の3つの温泉宿が世界のトップ3であることは間違いないようだが、開湯の時期の信憑性が低く確かなことはわからないそうだ。

また、この3旅館はWikipedia 英語版の「List of oldest companies」という記事によると、世界最古の宿泊施設というだけでなく、世界最古の企業トップ3でもある。

http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_oldest_companies

世界最古の企業は金剛組 (578年創業・寺社建設) として広く認知されているので、このリストには疑問符がつくのだが、おそらく同社が 2006年1月をもって1400年を超える企業としての経営体制が終わったことから、現存する企業として認めていないものと思われる。
リストにおける創業の考え方や、最古・最長などの定義によって扱いが違うのだろうが、金剛組が無条件で世界最古の企業とならないのは何とももったいない話だ。

金剛組
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E7%B5%84

金剛組 我々の歴史
http://www.kongogumi.co.jp/enkaku.html



578年、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。
2005年11月1日、松建設が全額出資した新・金剛組が設立される。
2006年1月16日、新・金剛組へ営業権を譲渡すると共に従業員の大半を移籍。旧・金剛組は不動産部門のみを残して、株式会社ケージー建設に商号を変更。1400年を超える金剛家による経営体制が事実上幕を閉じた。ケージー建設は6月23日付で解散。7月13日、ケージー建設が大阪地方裁判所へ自己破産を申請。同26日、破産手続開始決定。


一方で、帝国データバンクや東京商工リサーチのデータによると、金剛組に次いで古い企業として、9年遅れて587年に創業した「財団法人池坊華道会」を挙げている。

帝国データバンク 特別企画: 創業100年以上の「長寿企業」実態調査(京都) 2010/9/15
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/s100902_50.pdf

東京商工リサーチ 特別企画:全国創業100年超え企業の実態調査 2010/10/21
http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/2009/1199565_1623.html

しかしこれは明らかに実態とは異なるようだ。池坊華道会のホームページを参照すると「2012年、池坊は歴史に刻まれて550年」と出てくるのだから、ちょっとずっこけてしまう。

2012年 いけばな池坊550年祭
http://www.ikenobo.jp/ikenobo550/index.html

およそ、1400年前。京都の中心に聖徳太子が創建したと伝えられる西国巡礼第18番札所 六角堂。古来より大勢の方が救いを求めて参拝されました。750回忌を迎える親鸞聖人もその一人でした。その六角堂の池のほとりに住いする僧侶が朝夕に仏前に花を献じていました。その僧侶はしだいに「池坊」と呼ばれるようになり、六角堂からいけばなが広まっていきました。
そして1462年に「池坊専慶(せんけい)」が"花の名手"として歴史上の文献『碧山日録』(へきざんにちろく)に登場しました。


池坊 いけばなの歴史
http://www.ikenobo.jp/ikebanaikenobo/history/index.html

いけばな発祥の地とされる六角堂の創建は、聖徳太子が用明天皇2年(587)四天王寺建立のための用材を求めてこの地に至られた時、霊夢によってここに六角の御堂を建て、自らの護持仏を安置されたと伝えられています。六角堂の北面は、太子が沐浴された池の跡と伝えるところで、この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになりました。池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、ついには代々いけばなの名手として知られるようになりました。
14世紀から15世紀に移る頃には、新しい住宅様式─書院造が生まれ、いけばなの起源となる挿花が現れ、わたくしたちが軸をかけ、花を飾る床の間の原型と言われる押板が、つくられるようになりました。このころ池坊専慶が挿した挿花を人々が競ってみた、あるいは、京都御所で池坊がたびたび花を立てたという記録が残されています。




このように587年はいけばな発祥の地である六角堂の創建であり、そこにいけばな起源があるとはいえ池坊の創業年とするにはさすがに無理がありそうだ。とはいえ、もしかしたらその証明をする資料があるのかもしれない。
このように見ていくと、1000年を超えるような歴史を持つような企業はその創業を特定することが難しいようで、世界最古の企業のトップ・上位はまだまだ動きがあるかもしれない。定期的にウォッチしてみようと思う。



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全日空(ANA)が11月1日に世界で初めてボーイング787を就航する。

http://www.ana.co.jp/promotion/b787/

ボーイング787は、新型エンジンの搭載に加え、炭素繊維複合材の活用による軽量化で燃料消費量を約2割削減し、そのほかの新技術も合わせ乗り心地や快適性が優れているとのことだ。
同機は次世代中型ワイドボディ旅客機という位置づけだが、中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと行けなかった距離もボーイング787では直行が可能になり、需要のあまり多くない航空路線の開設が可能になるとされている。
一方ライバルのエアバスもボーイング787に対抗する型ワイドボディ旅客機としてエアバスA350 (再計画されて エアバスA350 XWB となっている) を計画中であり、エミレーツ航空70機など2011年4月で既に356機の受注があるという。

現在現在旧西側諸国で大型旅客機を製造しているのは、ボーイング、エアバスの2大メーカーだけとなっており、両社が抜きつ抜かれつの熾烈な競争を繰り広げている。
エアバスは、ボーイングを筆頭としたアメリカ企業の世界的な旅客機の独占に対して危機感を抱いた欧州連合によって、1970年12月にフランスのアエロスパシアルと西ドイツDASAが共同出資し設立された会社であり、1970年代からボーイングへの対抗機を開発・製造してきた。そして1999年に初めてエアバスが販売受注数でボーイングを上回ったが、その後ボーイングの体勢立直しにより2005年に再度ボーイングが逆転し、またエアバスが首位に返り咲くという激しい競争となっている。



ボーイングとエアバス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%B9

さて、私は一時期アエロフロート航空をよく利用していた。現在ではアエロフロートもエアバス (A320、A319など) やボーイング (767-300ER) が主力となっているが、当時はイリューシン社やツポレフ社といったソ連・ロシア製の旅客機がまだ多かった。その両社について調べてみよう。

S・V・イリユーシン記念航空複合体
http://ja.wikipedia.org/wiki/S%E3%83%BBV%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%88%AA%E7%A9%BA%E8%A4%87%E5%90%88%E4%BD%93

ロシア連邦の航空機メーカーで、セルゲイ・イリユーシン(1894年 - 1977年)によって1933年に設立された。
イリューシン設計局は、開設当初は意欲的にさまざまな機種の製作に取り組み、その範囲は戦闘機、爆撃機、輸送機に及んだ。各種研究機はソ連の航空機技術の発展に大きく寄与した。戦後は専ら旅客機タイプの航空機の設計を行い、Il(Ил)-14やIl(Ил)-18、Il(Ил)-62などはアエロフロートの代表的旅客機であった。
イリューシンは、現在でもロシア空軍に輸送機などを、アエロフロート航空などの旧共産圏の国々を中心とした航空会社へ旅客機を供給している。


個人的にはアエロフロートというとIl(Ил)-62のイメージが強く、エンジン4基をまとめて後部に装備するこの独特な形態と、Аэрофлотの文字、青ライン、旧ソ連国旗が絶妙なバランスを保っているように思える。



ツポレフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%95

ロシアの航空機メーカーで、アンドレーイ・ニコラーエヴィチ・トゥーポレフ(1888年–1972年)によって1922年に創設された。
第二次世界大戦前は、同設計局はI-4などの戦闘機やTB-3などの爆撃機を開発・生産していたほか、各種実験機や記録機を開発した。終戦後はTu-16やTu-95といった主力爆撃機を生産する他、需要の拡大した旅客機を多数製造し、東側諸国を代表する旅客機メーカーの一つとなった。
1960年代からは、アンドレーイ・トゥーポレフの息子、アレクセーイ・トゥーポレフ(1925年-2001年)も主導権を握るようになる。彼は、世界初の超音速旅客機Tu-144や、有名な旅客機Tu-154、中距離戦略爆撃機Tu-22Mの開発などに関与した。これらすべての開発により、ソ連は、戦略的軍用・民用とも西側諸国と同等の飛行ができるようになった。
その後冷戦終焉に伴い、ツポレフの研究は亜音速の民用航空機に集中し、主に経済運用と代替燃料について行われている。


実はツポレフは日本ととてもなじみ深い航空機メーカーである。

Tu-114 (航空機)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Tu-114_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29

1961年に運用開始したTu-114は、4基の二重反転プロペラを持ち、これによりジェット機に匹敵する速度を生み出していた。時まだ燃料消費効率の良いターボファンエンジンは開発されておらず、既存のターボジェットエンジンを使用したのでは爆撃の目的地まで途中給油をせずに直行することが不可能だったからであり、この航続距離の長さというプロペラの利点がTu-114でも採用された。事実この時代の西側を含めたどのジェット機と比べてもこのTu-114を上回る航続距離を持つジェット機はなく、また最も多く乗客を運ぶことのできる旅客機であった。
しかしTu-114は当時の飛行機としては大きすぎ、誘導路が通れなかったり、滑走路の端をうまく回れなかったりした。またエンジンの騒音もジェット機に匹敵するほどあった上、二重反転プロペラのために独特な振動もあった。
また大きな二重反転プロペラのクリアランスを稼ぐために機体の脚を長くした結果、機体の脚が長すぎ専用のタラップを用意しなければならなかったりと、運用には苦労する点も多かった。

日本航空は1960年代のモスクワ線就航時にアエロフロートと共同運航を行ったが、その際の機体もTu-114であり、機体に「Japan Air Lines」という文字と日本航空のシンボルマークでもある「鶴丸」がかかれたものもあった。
日本航空とアエロフロートとの共同運航が行われる際に、当初日本側はTu-114のように巨大な旅客機が羽田空港へ着陸するのは不可能だと訴えた。これに対しソ連側はツポレフ設計局に調査をさせ、着陸に問題がないことを確認した。しかし当時の日本のメディアの反応はこのような巨大なプロペラ機でモスクワ~東京間の無着陸飛行をすることに対し懐疑的であり、モスクワ~東京間の無着陸飛行はソ連のプロパガンダで羽田空港への着陸などは技術的に不可能だと考え、そのように報道した。しかしその予想に反してモスクワ~東京間の初無着陸飛行は1967年4月18日に行われ、無事成功した。アエロフロート機材によるものとはいえ、シベリア大陸横断便の運航は西側諸国初であった(それまでは国防上の機密保持を理由に国際線には開放されていなかった)。長い脚ゆえに日本航空が保有するDC-8用のタラップカーでは当機のドアまで高さが届かず、タラップカーに梯子を付け足して乗降をおこなわせなければならなかった。この日ソ共同運航はこの後1970年まで続けられた。


その鶴丸&Japan Air LinesロゴのTu-114とは以下のようなものだ。またタラップの付け足しがわかる写真もあるので見てみよう。





http://blogs.yahoo.co.jp/texfukui/42427618.html
http://ksa.axisz.jp/a3605Haneda-1965c.htm

何とも時代を感じる画像だ。
一方で未来に目を転じると、ツポレフは超音速旅客機Tu-244(4発エンジン)やTu-444(双発エンジン)の構想があるそうだ。




高速性よりも経済性が求められる時代に超音速旅客機のニーズがあるとは思えないのだが、世界初の超音速旅客機(Tu-144、1968年)を開発したツポレフならできないことはないだろう。

現在の大型旅客機はボーイングとエアバスの寡占ではあるが、かつて技術開発を争ったイリューシンとツポレフの今後の動向にも注目しよう。


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ジンバブエといえば、ヴィクトリアの滝や大ジンバブエ遺跡など見どころが多く、私がアフリカで訪問した国々の中で最も素晴らしかった国のひとつである。
私が旅をしたのは2000年で、その頃は政情・経済ともそれなりに安定していた感があるが、その年のムガベ大統領による白人農場の強制収用に端を発して食糧危機やインフレが起こり、また長期政権・一党支配に対する不満とあいまって治安の悪化も問題となっている。
従って恐らく世の中の一般的なジンバブエのイメージはムカベ大統領とハイパーインフレということになってしまうだろう。

ジンバブエ・ドル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%96%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AB

ジンバブエドル(ZWD)のハイパーインフレは21世紀初頭からはじまり、2004年初期は624%だったが、2006年12月には1,281.1%を記録した。
2007年にインフレーションは激しさを増し、インフレ率は4月3,714%、7月7634.8%、そして12月は66,212.3%だった。(いずれも前年比) また、その時点での非公式レートは1USドル710万ZWDだった。

2008年に入るとさらに加速し、1月100,580.2%、2月164,900.3%、3月355,000%、そして、7月は2億3100万%だった。(いずれも前年比)
年率換算のインフレ率(非公式)率は年率6.5×(10の108乗)%であると報じた。この数字は24.7時間ごとに価格が2倍になっている計算とのことだ。

そうなると気になるのは紙幣だ。ジンバブエの紙幣の特徴としては他の多くの国家とは違い、歴史上の偉人や国家元首などといった特定の人物が登場していないが、そのかわり表面にバランスロックスという奇岩が必ず登場している。

最初にジンバブエドルが導入された1980年に2・5・10・20ZWD紙幣が発行された。対米ドル換算レートは1983年頃は1:1、1997年頃は1:10、2000年頃は1:100であった。
その後2003年までに1000ZWDまでの紙幣が発行された。2003~2006年にはインフレが激しくなった為に紙幣に代わって小切手が発行されるようになった。2006年7月の対米ドル換算レートは1:50万以上である。
ここまでがジンバブエドルの第1世代である。

2006年8月に3桁のデノミが行われ、新しく1セントから200,000ZWDまでの紙幣が発行された。その時点での米ドル換算レートは1:650だったが、2007年6月に1:40万、2008年1月に1:600万、4月に1:1億、7月に1:7200億となった。
ここまでが第2世代である。

2008年8月に再び10桁のデノミが行われ、第3世代ジンバブエドルとなった。新しく発行されたのは1ZWDから、最終的に100兆ZWD紙幣だ。
以下がその紙幣で、0が14個並んでいる。これは歴史上最も0の多い紙幣である。米ドル換算レートは2008年10月で1:12兆だったので、この紙幣の価値はその時点で8USD程度ということになる。



そして2009年2月2日、1兆ジンバブエ・ドルが新1ジンバブエ・ドルになる12桁のデノミネーションが実施され、1・5・10・20・50・100・500ドル紙幣が発行された。これが第4世代である。
しかし2009年初頭からジンバブエ国内での米ドルおよび南アフリカランドでの国内決済が可能となり、また公務員への給与が米ドルで支払われることになるなどジンバブエ・ドルは公式には流通しなくなった。そしてジンバブエドルは2009年4月に発行が停止された。

このジンバブエドルのハイパーインフレもすごいのだが、歴史上最も激しいインフレを記録したのは第2次世界大戦直後のハンガリーで、その通貨はペンゲーだ。

ペンゲー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC


第二次世界大戦の後、ペンゲーは、歴史で記録されたなかで最高率のハイパーインフレに見舞われ価値を失った。かつてない高額面の通貨が導入され、その額面は、最高10垓 (10の21乗) ペンゲーにまで達した。この10垓ペンゲー紙幣は、印刷されたが発行されなかった。実際に発行された最高の額面紙幣は、1垓ペンゲー紙幣(10の20乗)であった。この紙幣は1946年に発行され、0.20USドル相当だった。

この印刷はされたが発行されなかったという10垓ペンゲー紙幣は以下のようなものだ。



残念なことにジンバブエドルと違って0の表記されていないのだが、書くと1,000,000,000,000,000,000,000となり、0が21個並ぶことになる。それでも2米ドルだったことなる。

そして経済を安定させるため新たな通貨であるフォリントが1946年8月1日に導入された。1フォリントは対米ドル換算レートがほぼ1:1だったようだが、ペンゲーに対しては1:40穣ペンゲー (4×10の29乗) というレートだった。(フォリントはハンガリーの現行通貨である)
フォリントへの切り替えが行われると、ペンゲーはもはや紙屑となり至るところで廃棄された。確かにお金は価値があると思うから丁重に扱うのであって、その価値が失われたら紙屑同然かもしれない。しかし恐らくペンゲーを大事に保管しておけば、少なくても当時以上の価値にはなっただろう。例えば発行された最高額面の1垓ペンゲー紙幣は0.2米ドル以上の価値はあるはずだ。ペンゲーはとても上質な紙が用いられていたとのことで、機会があれば是非入手してみたいものである。


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一念発起して起業しようと考えた時に、世界に名だたる企業に成長させようという目標もあれば、一族で子孫代々事業を営もうといういう目標もあるだろう。どちらも崇高な目標である。
後者のような運営をしている企業に注目し、いろいろと調べてみると、そのような伝統企業で構成される「エノキアン協会」という国際組織があることを知った。

エノキアン協会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8D%94%E4%BC%9A

エノキアン協会(エノキアンきょうかい、フランス語: Les Hénokiens)は、1981年に設立された経済団体で、家業歴200年以上の企業のみ加盟を許される老舗企業の国際組織。フランスのパリに本部がある。
エノキアンとは、エノク(Henok)に住む人びとという意味である。エノクとは『旧約聖書』に記された人物の名であり、また、世界初とされる都市の名でもある。人物としてのエノクはアダムの孫にあたり、365歳まで生き、ノアの大洪水の前の家長であった。多くの子孫を残し、神とともに栄えて、史上初の都市の名には彼の名が与えられたとされている。エノクには「始まり」という意味もある。協会名のエノキアンは、このような歴史と伝統、および繁栄にちなんでつけられた。
協会への加入資格は以下の4点である。
1. 創業以来200年以上の社史を持っていること
2. 創業者の子孫が現在でも経営者、もしくは役員であること
3. 家族が会社のオーナーもしくは筆頭株主であること
4. 現在でも健全経営を維持していること


現在40社で構成されており、国別の内訳は、イタリア14社、フランス12社、ドイツ3社、オランダ2社、北アイルランド1社、日本5社、ベルギー1社、スイス2社だそうだ。それでは実際にそのいくつかを見ていこう。

日本は老舗大国で1.の200年の歴史をもつ企業が3,000あると言われているが、2.~4.を満たす企業というのはなかなかなく、例えば世界最古の企業として有名な金剛組(578年創業・寺社建設)もこの条件を満たさない。

「法師」(有限会社善吾楼)は石川県粟津温泉の旅館で創業は718年。現存する世界最古の宿泊施設としてギネス認定されており、エノキアン協会の中でも最古の企業である。現在は46代目にあたるそうだ。是非訪ねてみたい温泉宿だ。

法師
http://www.ho-shi.co.jp/
http://www.ho-shi.co.jp/history.html



その他の加盟日本企業は「とらや」(1530年創業、「月桂冠」(1637年創業)、「赤福」(1707年創業)など和菓子や酒造の会社が名を連ねる。そしてもう1社がちょっと異質であり、「岡谷鋼機」(鉄鋼・機械商社、1669年創業)は、名証1部に上場している会社である。

岡谷鋼機株式会社
http://www.okaya.co.jp/
http://www.okaya.co.jp/company/about/

連結で4,340名もの従業員を抱え、海外18ヶ国に事業展開している。代表取締役社長は岡谷篤一氏で、創業者の子孫の方である。上場企業なので決算短信・有価証券報告書なども開示されている。340年の歴史を持つ企業の財務諸表にはとても重みがある。

日本以外は全てヨーロッパの企業であり、ワイン、ガラス製品、宝石などの企業が名を連ねるが、いくつか特徴的な企業を見てみよう。

スイスのピクテ銀行(Pictet & Cie、1805年創業)は、ヨーロッパ最大級の資産運用会社のプライベートバンクである、世界中の富裕層や王族の資産を預かり、預かり資産額は3840億米ドルにも及ぶという。日本でもピクテ投信投資顧問株式会社が事業展開をしている。

SEVEN HILLS (ニュー・ラグジュアリーの為の高級ポータルサイト) Business & Money
http://www.sevenhills-premium.com/business/bank/pictet.html

ベルギーのD'Ieteren(1805年創業)も特筆すべき規模を誇り、ベルギー国内でのVolkswagen, Audiなどの車の販売に加え、AvisやBudgetといったブランドでレンタカーを112ヶ国で展開し、また28ヶ国で事業展開する世界最大のガラス修理会社でもある。60億ユーロもの売上があるという。

D'Ieteren
http://www.dieteren.com/Splash/en-en.aspx
http://en.wikipedia.org/wiki/D%27Ieteren

そして、おそらくエノキアン協会の中で最も変り種と言えるのは、イタリアのベレッタ社(Fabbrica d'Armi Pietro Beretta S.p.A.、1680年創業)だろう。業種は軍需産業、事業内容は銃器の製造・販売だ。

ファブリカ・ダルミ・ピエトロ・ベレッタ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF
Beretta
http://www.beretta.it/

ベレッタ社の設立は公式な記録では1680年であるが、それ以前からベレッタ家は銃器の製造を行っていた。最も古いものでは1526年にヴェネツィアがマエストロ・バルトロメオ・ベレッタ(ここでの「マエストロ」は名前ではなく“親方”の意で敬称)に対しマスケット銃を注文したという記録が同社に保管されている。
ピエトロ・ベレッタ(1791年-1853年)はベレッタ社の中興の祖と言われる。ピエトロはベレッタ社の生産設備を近代化し軍用、民間用のマーケットで成功に導いた。
第一次世界大戦中、ピストル不足に悩むイタリア軍からの発注でM1915を開発。これをきっかけにイタリア最大の拳銃メーカーとなる。
1934年にはM1934がイタリア軍の制式拳銃として採用される。第二次世界大戦ではイタリア軍に武器を供給したが、イタリア政府降伏後、一時的にドイツに接収される。終戦後、残った部品を集めM1934の生産を再開した。
1956年のメルボルンオリンピックのクレー射撃でベレッタ社の銃が初めて金メダルを獲得。その後オリンピックや世界選手権で数多くのメダルを勝ち取っている。
1985年にはアメリカ陸軍がコルトM1911A1の後継拳銃にM92FをM9として制式採用する。




アメリカ陸軍が他国製でありながら採用しているくらいなので、その性能は折り紙つきと言えるのだろう。銃はルパン三世のワルサーP38ぐらいしか知らなかったが、思いがけず知識を加えることになった。
どのような業種であれ、200年を超えて継続する企業には、こだわりと柔軟性のバランスの良さを感じる。エノキアン協会に加盟する企業には深い尊敬の意を表したい。


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2月にトヨタ・プリウスのリコールが世界的な問題となった。
リコールの件数を調べてみると、平成20年の届出は295件で、対象台数は535万台だったそうだ。

国土交通省 各年度のリコール届出件数及び対象台数
http://www.mlit.go.jp/jidosha/carinf/rcl/data_sub/data004.html

つまりリコールそのものは日常的なものと言えるだろう。それがここまで社会的な問題に発展したということに、トヨタ、そして日本車の影響力を再認識した。

そんな日本車の歴史を簡単に辿ると、日本車の第一号は1904年に電気技師・山羽(やまば)虎夫によって製作された「山羽式蒸気自動車」と言われている。



また1907年に日本車初のガソリン自動車「タクリー号」が吉田真太郎と内山駒之助の2人によって製作された。この年にアメリカではフォード・T型が発売され、この大量生産方式により価格は低下し、自動車の大衆化とともに自動車産業は巨大なものとなっていった。この時点では欧米との間に大きな隔たりがあった。
その後1936年 にトヨタがAA型乗用車を生産するなど自動車メーカーが台頭し、技術が高められ、様々な自動車が世に送り出されるようになった。
日本の戦後の経済成長は自動車とともにあったと言っても過言ではないだろう。

愛知県長久手町にあるトヨタ博物館には、海外・国内の黎明期からの自動車が展示されており、日本車の歴史を知ることができる。その中で、ひときわ異彩を放っている個性的な自動車がある。1956年に発売された富士自動車のフジキャビン 5A型 だ。

富士自動車・フジキャビン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%93%E3%83%B3

フジキャビン(FujiCabin)は、日本の自動車関連企業・富士自動車(現在のコマツユーティリティ株式会社)が1955年に発表し、1956年から1957年にかけて少数生産した前2輪・後1輪の超小型車(一般にキャビンスクーターあるいはバブルカーと呼ばれる)である。日本における軽自動車開発模索期の代表的な作例であり、当時最新の素材であった繊維強化プラスチック(FRP)を車体材料に用いたことでも画期的であった。

フジキャビンの設計者はダットサンの車体デザインや、先行して住江製作所で開発された軽自動車・フライングフェザー(1955年)の設計を手がけた自動車デザイナー・エンジニアの富谷龍一であった。商業的に成功しなかったフライングフェザーの開発後に富士自動車に移籍した富谷は、彼の長年の小型車開発テーマであった「最大の仕事を最小の消費で」に再挑戦した。

フジキャビンは1956年8月から生産開始された。価格は23万5000円で、2人乗りの自動車としては廉価ではあったが、操縦性や乗り心地が悪いうえ、ベンチレーションが悪く夏はひどく暑くなり、冬になってもヒーターがないという実態は、まったくの「屋根付きスクーター」に過ぎなかった。新素材であったFRPでのボディ生産技術が未熟で、乾燥工程を要するため量産性も悪いという根本的課題を抱えており、悪路の多かった当時はショックを自ら受け止めるモノコックのFRP車体にクラックも多発した。生産性や商品性に問題が多かったことは否めず、結局フジキャビンは、十分な量産体制を確立できないまま、翌1957年12月までに85台を生産して製造中止された。


富谷龍一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E8%B0%B7%E9%BE%8D%E4%B8%80

富谷 龍一(とみや りゅういち、1908年4月15日 - 1997年10月12日)は日本の自動車技術者、工業デザイナー、画家 。東京藝術大学、東京工業大学講師。
東京高等工芸学校工芸図案科を1929年に卒業後、1934年に自動車製造株式会社(後の日産自動車)に入社、ダットサン乗用車の車体デザインを手がける。1948年頃から超軽量車フライングフェザーの設計を開始。同車は48台が生産された。続いて1956年にはフジキャビンを開発したが、こちらも85台が生産されたに過ぎなかった。富谷の設計した2台の超軽量車は独創的ではあったが、あまりに設計が簡素化されすぎていたり、生産技術が追いつかなかったりで、商業的成功を収めることが出来なかった。
自動車以外の分野でも才能を発揮しデザイナーや画家としても活躍、新宿NSビルの巨大振り子時計のデザインや、学研のメカモシリーズの原型となったロボットメカニマルの研究を行った。


後1輪で、フロントライト1つというインパクトがある外観は一つ目小僧を連想させ、何ともキモカワイイ。そしてドア、ハンドル、シート、そして走る姿も極めて個性的だ。



日本車が現在のような世界的な地位を築くまでには、フジキャビンをはじめとした様々な試行錯誤があったことを忘れてはならない。そしてすっかりデザインが画一的になってきた感のある昨今の自動車界で、フジキャビンのような個性的な外観の車の発表を期待したい。



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