日本の航空業界では、2000年代後半より外資系LCC (ローコストキャリア) の国際線参入が相次いだ。また2012年にはPeach Aviationなど新規の国内LCCも運行を開始し、利用者にとって航空利用の選択肢が広がり、今後ますます激しい競争になることが予測される。
日本の航空業界は1970年代以降、「45/47体制」による棲み分け (日本航空は国際線の一元的運航と国内幹線運航、全日空は国内幹線とローカル線、国際チャーター便の運航、東亜国内航空 (日本エアシステム) は国内ローカル線の運航) の影響を長く受けてきたが、その構造変革がまさに進められている。
この流れの中で、改めて日本航空(JAL)と全日本空輸(ANA)の設立と沿革を整理してみよう。
戦後日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されたが、これは1950年6月に解除された。
そして、1951年1月に日本航空創立準備事務所が開設され、免許申請・取得を受けて、1951年8月に「日本航空株式会社」が設立された。日本航空はその後多くの合併・吸収・経営統合を行い、また経営再建を経て現在に至っている。
一方、全日本空輸は前身は日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社の2社である。
日本ヘリコプター輸送株式会社は、1952年12月27日に、東京を拠点にヘリコプターでの宣伝活動を目的として設立された会社だが、その後飛行機による事業にも参入し1953年12月15日に貨物航空事業を開始し、1954年2月1日には旅客航空事業も開始した。
極東航空株式会社は、日本ヘリコプター輸送より1日早い1952年12月26日に、第二次世界大戦前に関西で航空事業を行っていた関係者により大阪で設立。大阪を拠点として、大阪 - 四国・大阪 - 九州といった西日本方面の航空路線を運営していた。
その後国内航空輸送を一本化するという運輸省の方針などにより、両社は合併に向けて協議を開始する。合併比率でもめたものの、最終的に1958年3月1日に合併登記が完了し、全日本空輸となった。
さて、GHQの日本国籍の航空機の運航再開を受け、日本航空・日本ヘリコプター・極東航空以外にもいくつかの航空会社が設立されたが、その中で航空機使用事業免許第一号は「青木航空」(のちに日本遊覧航空、藤田航空に改称) という個人の名前を冠した航空会社だった。
青木航空 (藤田航空)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E8%88%AA%E7%A9%BA
戦前、日本の航空機メーカーであった立川飛行機のテストパイロットであった青木春男が不定期航空事業の認可を受け、青木航空として1952年4月に設立され、9月からセスナ170で運航を開始した。
その後、資本金の増資に伴い日本遊覧航空(1956年6月)そして藤田航空(1961年6月)と社名を変更された。おもに伊豆諸島を中心に運航していた。また全日空から羽田~八丈島などの路線を移管され、定期航空路を運航していた。しかしながら、営業状態は芳しくなく1963年に航空事業から撤退することになった。そして11月1日付けで全日空へ吸収合併された。
会社設立の1952年にアメリカのセスナ170B型を3機購入、またイギリスの飛行機メーカーであるデ・ハビランド・エアクラフト社のダブとヘロン、オランダのフォッカー社のF27が使用機材だった。
しかし、1963年8月17日、ヘロン(機体記号:JA6155)が八丈島離陸直後、八丈富士山腹に墜落する事故が発生し、この事故で乗客16人と乗員3名が犠牲になった。
当時、事故機のヘロンJA6155は東亜航空へ貸与中だったが、フォッカーが定期点検中であったため、東京浅草の旅行会一行41名の団体客のためにJA6155(を含むヘロン3機)が用意された。3機とも八丈島から羽田に向かったが、JA6155は空港から10km離れた八丈富士8合目の雑木林に激突していた。事故原因は確定されていないがエンジントラブル説が有力である。
結局、この航空事故が致命傷となり、同年11月に全日本空輸に吸収されたことになる。
青木航空は設立が1952年4月なので、全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社よりも会社設立は早い。すなわち、現在の全日本空輸に流れる遺伝子の中で最も古いDNAは青木春男による青木航空と言えるだろう。
航空機写真・イラストは、青木航空・日本遊覧航空・藤田航空のいずれの時代のものも参照することができる。とても貴重な写真の数々だ。
航空歴史館 日本の初期登録航空機全集 №4J A3001~JA3100
http://dansa.minim.ne.jp/RS-0003-FirstJA-Numbers3001.htm#014
航空歴史館 日本におけるデハビランドDH-104 ダブの歴史
http://dansa.minim.ne.jp/CL-DoveStudy.htm#023
航空歴史館 日本におけるデ ハビランド ヘロンとタウロンの歴史
http://dansa.minim.ne.jp/CL-HeronStudy.htm#154
航空歴史館 立川市 NPO法人立川航空宇宙博物館
http://dansa.minim.ne.jp/a3626TachikawaHaku.htm
立川航空宇宙博物館(TASM) : 飛行機の話 青木春男さんを語る
http://blogs.yahoo.co.jp/hikoukinut56/61826796.html
立川航空宇宙博物館(TASM) : 飛行機の話 青木春男さんの思い出
http://blogs.yahoo.co.jp/hikoukinut56/60558864.html
個人の名前を冠する航空会社というものに驚きを感じながらも、日本の空の構図が書き換えられようとしている今だからこそ、その起源に大きな個人の挑戦があったことを心に留めておこう。
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ジンバブエといえば、ヴィクトリアの滝や大ジンバブエ遺跡など見どころが多く、私がアフリカで訪問した国々の中で最も素晴らしかった国のひとつである。
私が旅をしたのは2000年で、その頃は政情・経済ともそれなりに安定していた感があるが、その年のムガベ大統領による白人農場の強制収用に端を発して食糧危機やインフレが起こり、また長期政権・一党支配に対する不満とあいまって治安の悪化も問題となっている。
従って恐らく世の中の一般的なジンバブエのイメージはムカベ大統領とハイパーインフレということになってしまうだろう。
ジンバブエ・ドル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%96%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AB
ジンバブエドル(ZWD)のハイパーインフレは21世紀初頭からはじまり、2004年初期は624%だったが、2006年12月には1,281.1%を記録した。
2007年にインフレーションは激しさを増し、インフレ率は4月3,714%、7月7634.8%、そして12月は66,212.3%だった。(いずれも前年比) また、その時点での非公式レートは1USドル710万ZWDだった。
2008年に入るとさらに加速し、1月100,580.2%、2月164,900.3%、3月355,000%、そして、7月は2億3100万%だった。(いずれも前年比)
年率換算のインフレ率(非公式)率は年率6.5×(10の108乗)%であると報じた。この数字は24.7時間ごとに価格が2倍になっている計算とのことだ。
そうなると気になるのは紙幣だ。ジンバブエの紙幣の特徴としては他の多くの国家とは違い、歴史上の偉人や国家元首などといった特定の人物が登場していないが、そのかわり表面にバランスロックスという奇岩が必ず登場している。
最初にジンバブエドルが導入された1980年に2・5・10・20ZWD紙幣が発行された。対米ドル換算レートは1983年頃は1:1、1997年頃は1:10、2000年頃は1:100であった。
その後2003年までに1000ZWDまでの紙幣が発行された。2003~2006年にはインフレが激しくなった為に紙幣に代わって小切手が発行されるようになった。2006年7月の対米ドル換算レートは1:50万以上である。
ここまでがジンバブエドルの第1世代である。
2006年8月に3桁のデノミが行われ、新しく1セントから200,000ZWDまでの紙幣が発行された。その時点での米ドル換算レートは1:650だったが、2007年6月に1:40万、2008年1月に1:600万、4月に1:1億、7月に1:7200億となった。
ここまでが第2世代である。
2008年8月に再び10桁のデノミが行われ、第3世代ジンバブエドルとなった。新しく発行されたのは1ZWDから、最終的に100兆ZWD紙幣だ。
以下がその紙幣で、0が14個並んでいる。これは歴史上最も0の多い紙幣である。米ドル換算レートは2008年10月で1:12兆だったので、この紙幣の価値はその時点で8USD程度ということになる。
そして2009年2月2日、1兆ジンバブエ・ドルが新1ジンバブエ・ドルになる12桁のデノミネーションが実施され、1・5・10・20・50・100・500ドル紙幣が発行された。これが第4世代である。
しかし2009年初頭からジンバブエ国内での米ドルおよび南アフリカランドでの国内決済が可能となり、また公務員への給与が米ドルで支払われることになるなどジンバブエ・ドルは公式には流通しなくなった。そしてジンバブエドルは2009年4月に発行が停止された。
このジンバブエドルのハイパーインフレもすごいのだが、歴史上最も激しいインフレを記録したのは第2次世界大戦直後のハンガリーで、その通貨はペンゲーだ。
ペンゲー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC
第二次世界大戦の後、ペンゲーは、歴史で記録されたなかで最高率のハイパーインフレに見舞われ価値を失った。かつてない高額面の通貨が導入され、その額面は、最高10垓 (10の21乗) ペンゲーにまで達した。この10垓ペンゲー紙幣は、印刷されたが発行されなかった。実際に発行された最高の額面紙幣は、1垓ペンゲー紙幣(10の20乗)であった。この紙幣は1946年に発行され、0.20USドル相当だった。
この印刷はされたが発行されなかったという10垓ペンゲー紙幣は以下のようなものだ。
残念なことにジンバブエドルと違って0の表記されていないのだが、書くと1,000,000,000,000,000,000,000となり、0が21個並ぶことになる。それでも2米ドルだったことなる。
そして経済を安定させるため新たな通貨であるフォリントが1946年8月1日に導入された。1フォリントは対米ドル換算レートがほぼ1:1だったようだが、ペンゲーに対しては1:40穣ペンゲー (4×10の29乗) というレートだった。(フォリントはハンガリーの現行通貨である)
フォリントへの切り替えが行われると、ペンゲーはもはや紙屑となり至るところで廃棄された。確かにお金は価値があると思うから丁重に扱うのであって、その価値が失われたら紙屑同然かもしれない。しかし恐らくペンゲーを大事に保管しておけば、少なくても当時以上の価値にはなっただろう。例えば発行された最高額面の1垓ペンゲー紙幣は0.2米ドル以上の価値はあるはずだ。ペンゲーはとても上質な紙が用いられていたとのことで、機会があれば是非入手してみたいものである。
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一念発起して起業しようと考えた時に、世界に名だたる企業に成長させようという目標もあれば、一族で子孫代々事業を営もうといういう目標もあるだろう。どちらも崇高な目標である。
後者のような運営をしている企業に注目し、いろいろと調べてみると、そのような伝統企業で構成される「エノキアン協会」という国際組織があることを知った。
エノキアン協会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8D%94%E4%BC%9A
エノキアン協会(エノキアンきょうかい、フランス語: Les Hénokiens)は、1981年に設立された経済団体で、家業歴200年以上の企業のみ加盟を許される老舗企業の国際組織。フランスのパリに本部がある。
エノキアンとは、エノク(Henok)に住む人びとという意味である。エノクとは『旧約聖書』に記された人物の名であり、また、世界初とされる都市の名でもある。人物としてのエノクはアダムの孫にあたり、365歳まで生き、ノアの大洪水の前の家長であった。多くの子孫を残し、神とともに栄えて、史上初の都市の名には彼の名が与えられたとされている。エノクには「始まり」という意味もある。協会名のエノキアンは、このような歴史と伝統、および繁栄にちなんでつけられた。
協会への加入資格は以下の4点である。
1. 創業以来200年以上の社史を持っていること
2. 創業者の子孫が現在でも経営者、もしくは役員であること
3. 家族が会社のオーナーもしくは筆頭株主であること
4. 現在でも健全経営を維持していること
現在40社で構成されており、国別の内訳は、イタリア14社、フランス12社、ドイツ3社、オランダ2社、北アイルランド1社、日本5社、ベルギー1社、スイス2社だそうだ。それでは実際にそのいくつかを見ていこう。
日本は老舗大国で1.の200年の歴史をもつ企業が3,000あると言われているが、2.~4.を満たす企業というのはなかなかなく、例えば世界最古の企業として有名な金剛組(578年創業・寺社建設)もこの条件を満たさない。
「法師」(有限会社善吾楼)は石川県粟津温泉の旅館で創業は718年。現存する世界最古の宿泊施設としてギネス認定されており、エノキアン協会の中でも最古の企業である。現在は46代目にあたるそうだ。是非訪ねてみたい温泉宿だ。
法師
http://www.ho-shi.co.jp/
http://www.ho-shi.co.jp/history.html
その他の加盟日本企業は「とらや」(1530年創業、「月桂冠」(1637年創業)、「赤福」(1707年創業)など和菓子や酒造の会社が名を連ねる。そしてもう1社がちょっと異質であり、「岡谷鋼機」(鉄鋼・機械商社、1669年創業)は、名証1部に上場している会社である。
岡谷鋼機株式会社
http://www.okaya.co.jp/
http://www.okaya.co.jp/company/about/
連結で4,340名もの従業員を抱え、海外18ヶ国に事業展開している。代表取締役社長は岡谷篤一氏で、創業者の子孫の方である。上場企業なので決算短信・有価証券報告書なども開示されている。340年の歴史を持つ企業の財務諸表にはとても重みがある。
日本以外は全てヨーロッパの企業であり、ワイン、ガラス製品、宝石などの企業が名を連ねるが、いくつか特徴的な企業を見てみよう。
スイスのピクテ銀行(Pictet & Cie、1805年創業)は、ヨーロッパ最大級の資産運用会社のプライベートバンクである、世界中の富裕層や王族の資産を預かり、預かり資産額は3840億米ドルにも及ぶという。日本でもピクテ投信投資顧問株式会社が事業展開をしている。
SEVEN HILLS (ニュー・ラグジュアリーの為の高級ポータルサイト) Business & Money
http://www.sevenhills-premium.com/business/bank/pictet.html
ベルギーのD'Ieteren(1805年創業)も特筆すべき規模を誇り、ベルギー国内でのVolkswagen, Audiなどの車の販売に加え、AvisやBudgetといったブランドでレンタカーを112ヶ国で展開し、また28ヶ国で事業展開する世界最大のガラス修理会社でもある。60億ユーロもの売上があるという。
D'Ieteren
http://www.dieteren.com/Splash/en-en.aspx
http://en.wikipedia.org/wiki/D%27Ieteren
そして、おそらくエノキアン協会の中で最も変り種と言えるのは、イタリアのベレッタ社(Fabbrica d'Armi Pietro Beretta S.p.A.、1680年創業)だろう。業種は軍需産業、事業内容は銃器の製造・販売だ。
ファブリカ・ダルミ・ピエトロ・ベレッタ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF
Beretta
http://www.beretta.it/
ベレッタ社の設立は公式な記録では1680年であるが、それ以前からベレッタ家は銃器の製造を行っていた。最も古いものでは1526年にヴェネツィアがマエストロ・バルトロメオ・ベレッタ(ここでの「マエストロ」は名前ではなく“親方”の意で敬称)に対しマスケット銃を注文したという記録が同社に保管されている。
ピエトロ・ベレッタ(1791年-1853年)はベレッタ社の中興の祖と言われる。ピエトロはベレッタ社の生産設備を近代化し軍用、民間用のマーケットで成功に導いた。
第一次世界大戦中、ピストル不足に悩むイタリア軍からの発注でM1915を開発。これをきっかけにイタリア最大の拳銃メーカーとなる。
1934年にはM1934がイタリア軍の制式拳銃として採用される。第二次世界大戦ではイタリア軍に武器を供給したが、イタリア政府降伏後、一時的にドイツに接収される。終戦後、残った部品を集めM1934の生産を再開した。
1956年のメルボルンオリンピックのクレー射撃でベレッタ社の銃が初めて金メダルを獲得。その後オリンピックや世界選手権で数多くのメダルを勝ち取っている。
1985年にはアメリカ陸軍がコルトM1911A1の後継拳銃にM92FをM9として制式採用する。
アメリカ陸軍が他国製でありながら採用しているくらいなので、その性能は折り紙つきと言えるのだろう。銃はルパン三世のワルサーP38ぐらいしか知らなかったが、思いがけず知識を加えることになった。
どのような業種であれ、200年を超えて継続する企業には、こだわりと柔軟性のバランスの良さを感じる。エノキアン協会に加盟する企業には深い尊敬の意を表したい。
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2月にトヨタ・プリウスのリコールが世界的な問題となった。
リコールの件数を調べてみると、平成20年の届出は295件で、対象台数は535万台だったそうだ。
国土交通省 各年度のリコール届出件数及び対象台数
http://www.mlit.go.jp/jidosha/carinf/rcl/data_sub/data004.html
つまりリコールそのものは日常的なものと言えるだろう。それがここまで社会的な問題に発展したということに、トヨタ、そして日本車の影響力を再認識した。
そんな日本車の歴史を簡単に辿ると、日本車の第一号は1904年に電気技師・山羽(やまば)虎夫によって製作された「山羽式蒸気自動車」と言われている。
また1907年に日本車初のガソリン自動車「タクリー号」が吉田真太郎と内山駒之助の2人によって製作された。この年にアメリカではフォード・T型が発売され、この大量生産方式により価格は低下し、自動車の大衆化とともに自動車産業は巨大なものとなっていった。この時点では欧米との間に大きな隔たりがあった。
その後1936年 にトヨタがAA型乗用車を生産するなど自動車メーカーが台頭し、技術が高められ、様々な自動車が世に送り出されるようになった。
日本の戦後の経済成長は自動車とともにあったと言っても過言ではないだろう。
愛知県長久手町にあるトヨタ博物館には、海外・国内の黎明期からの自動車が展示されており、日本車の歴史を知ることができる。その中で、ひときわ異彩を放っている個性的な自動車がある。1956年に発売された富士自動車のフジキャビン 5A型 だ。
富士自動車・フジキャビン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%93%E3%83%B3
フジキャビン(FujiCabin)は、日本の自動車関連企業・富士自動車(現在のコマツユーティリティ株式会社)が1955年に発表し、1956年から1957年にかけて少数生産した前2輪・後1輪の超小型車(一般にキャビンスクーターあるいはバブルカーと呼ばれる)である。日本における軽自動車開発模索期の代表的な作例であり、当時最新の素材であった繊維強化プラスチック(FRP)を車体材料に用いたことでも画期的であった。
フジキャビンの設計者はダットサンの車体デザインや、先行して住江製作所で開発された軽自動車・フライングフェザー(1955年)の設計を手がけた自動車デザイナー・エンジニアの富谷龍一であった。商業的に成功しなかったフライングフェザーの開発後に富士自動車に移籍した富谷は、彼の長年の小型車開発テーマであった「最大の仕事を最小の消費で」に再挑戦した。
フジキャビンは1956年8月から生産開始された。価格は23万5000円で、2人乗りの自動車としては廉価ではあったが、操縦性や乗り心地が悪いうえ、ベンチレーションが悪く夏はひどく暑くなり、冬になってもヒーターがないという実態は、まったくの「屋根付きスクーター」に過ぎなかった。新素材であったFRPでのボディ生産技術が未熟で、乾燥工程を要するため量産性も悪いという根本的課題を抱えており、悪路の多かった当時はショックを自ら受け止めるモノコックのFRP車体にクラックも多発した。生産性や商品性に問題が多かったことは否めず、結局フジキャビンは、十分な量産体制を確立できないまま、翌1957年12月までに85台を生産して製造中止された。
富谷龍一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E8%B0%B7%E9%BE%8D%E4%B8%80
富谷 龍一(とみや りゅういち、1908年4月15日 - 1997年10月12日)は日本の自動車技術者、工業デザイナー、画家 。東京藝術大学、東京工業大学講師。
東京高等工芸学校工芸図案科を1929年に卒業後、1934年に自動車製造株式会社(後の日産自動車)に入社、ダットサン乗用車の車体デザインを手がける。1948年頃から超軽量車フライングフェザーの設計を開始。同車は48台が生産された。続いて1956年にはフジキャビンを開発したが、こちらも85台が生産されたに過ぎなかった。富谷の設計した2台の超軽量車は独創的ではあったが、あまりに設計が簡素化されすぎていたり、生産技術が追いつかなかったりで、商業的成功を収めることが出来なかった。
自動車以外の分野でも才能を発揮しデザイナーや画家としても活躍、新宿NSビルの巨大振り子時計のデザインや、学研のメカモシリーズの原型となったロボットメカニマルの研究を行った。
後1輪で、フロントライト1つというインパクトがある外観は一つ目小僧を連想させ、何ともキモカワイイ。そしてドア、ハンドル、シート、そして走る姿も極めて個性的だ。
日本車が現在のような世界的な地位を築くまでには、フジキャビンをはじめとした様々な試行錯誤があったことを忘れてはならない。そしてすっかりデザインが画一的になってきた感のある昨今の自動車界で、フジキャビンのような個性的な外観の車の発表を期待したい。
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