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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




日常の業務ではMicrosoft Excelを多用している。というかExcelなしでは仕事が全く成り立たない状況であり、これは私だけでなく世の中の相当数の人に共通しているのではないだろうか。Excelをはじめとする表計算ソフトは人類最高の発明のひとつだと思う。

現在のパソコン用の表計算ソフトのスタートは、1979年に発売されたVisiCalcだ。

VisiCalc
https://ja.wikipedia.org/wiki/VisiCalc

1979年、Personal Software 社が Apple II 向けに発売した VisiCalc は、ダン・ブリックリン考案、ボブ・フランクストン設計、彼らの Software Arts社開発によるものであった。これにより Apple II はホビースト向けの玩具から便利なビジネスツールへと変貌した。
ブリックリンによれば、彼はハーバード・ビジネス・スクールで教授が黒板に金融モデルを書くのを見ていた。その教授が間違いに気づいてパラメータを修正しようとしたとき、表の中の大部分を消して書き直さなければならなくなった。これを見たブリックリンは、このような計算をコンピュータ上で処理する「電子式表計算」を思いついたのである。
ブリックリンは友人のフランクストンと共同でSoftware Arts社を設立し開発をスタートさせた。1978年から1979年にかけての冬の2カ月間でVisiCalcを開発。
VisiCalc はビジネスツールとしてのパーソナルコンピュータの有効性を示し、Apple II の躍進に寄与した。このことは、それまでPC市場を無視していたIBMがPC市場に参入する要因にもなった。




VisiCalcで特筆すべきは、当時既にベストセラーとなっていた Apple II 向けのソフトであったことである。ブリックリンは当初、表計算専用のハードウェアを設計・製造して販売することを考えていたが、大学教授から紹介されたダン・フィルストラの「わざわざハードを作らなくても、既に売れているハード向けにソフトを作って売ったほうが賢明だ」という助言に基づくものだ。
ハードのパソコンはまだ何に使用されるかが模索されていた段階で、VisiCalcはビジネスや確定申告などの一般的な使用への道を開き、またApple IIは一般ユーザーにも購入されるようになった。
そしてこれを機にコンピュータ業界ではソフトウェアの重要性が認識されるようになった。まさにビジネスモデルを変えた歴史的なソフトだと言えよう。

しかし、表計算ソフトのプログラムはそれまでにも大型のメインフレームにおいて存在していた。以下を参照しながらもう少し遡ってみてみよう。

Spreadsheet Early implementations
https://en.wikipedia.org/wiki/Spreadsheet#Early_implementations

SlidePlayer SPREADSHEETS by Marjory White
https://slideplayer.com/slide/8415149/

(1) BCL
表計算ソフトのコンセプトは、1961年に当時カリフォルニア大学バークレー校のRichard Mattessich (1922~2019) によって「Budgeting Models and System Simulation」という論文で概説された。
そして2人の研究助手Tom C. SchneiderとPaul A. Zitlauの助けを借りて、Fortran IVを使用してメインフレーム用のこのコンピュータープログラムが作成され。1962年にIBM 1130にて「BCL」 (Business Computer Language) というプログラムとして実行された。これはバッチシステムなので我々が表計算として描いているリアルタイムなものとは全く異なる。その後BCLは1968年にIBM 360/370に移植され、ワシントン州立大学での金融の授業でも使用された。

(2) LANPAR
1969年にはハーバード大学の学生だったRene K. PardoとRemy Landauは「LANPAR」 (LANguage for Programming Arrays at Random) と呼ばれるプログラムを開発した。LANPARはBell Canada、GE、AT&T、および多くの電話会社によって予算管理業務に使用された。
LANPARはユーザーに任意の順序で入力させ、電子コンピューターに正しい順序で結果を計算させる (自動自然順序計算アルゴリズム) という特徴があり、これは後にVisiCalc、SuperCalc、MultiPlanの最初のバージョンで使用された。

(3) Autoplan / Autotab
1968年にGeneral Electricコンピューター会社の3人の元従業員でCapex Corporationの創業者であるA. Leroy Ellison、Harry N. Cantrell、and Russell E. Edwardsがビジネスプラン作成の計算のためのプログラム「Autoplan」と開発し、GEのタイムシェアリングサービスで使用された。またその後IBMメインフレームでは「Autotab」として導入された。AutoPlanとAutoTabはスプレッドシート用のシンプルなスクリプト言語であった。

(4) IBM Financial Planning and Control System
1976年にIBM CanadaのBrian Inghamが開発したもので、少なくともIBMで30か国で実装された。 IBMメインフレームで実行され、APL (プログラミング言語) で開発された最初の財務計画用アプリケーションの1つであり、プログラミング言語をエンドユーザーから完全に隠すことができた。ユーザーは、行間および列間の単純な数学的関係を指定でき、また非常に大きなスプレッドシートをサポートできた。またバッチシステムから引き出された実際の財務データを各ユーザーのスプレッドシートに毎月ロードできるなど、プログラムの効率を従来の50倍も向上させるものだった。

(5) APLDOT
1976年に米国鉄道協会でIBM 360/91で開発された表計算ソフトで、メリーランド州ローレルのジョンズホプキンス大学応用物理学研究所で運営された。
この表計算ソフトは米国議会およびConrailの財務および原価計算モデルなどのアプリケーションの開発に長年にわたって使用された。

このように表計算ソフトの発案者はRichard Mattessich (のちにカナダのUniversity of British Columbiaのビジネスエコノミストで会計学名誉教授) だ。

Decision Support Systems Resources Spreadsheet:Its First Computerization (1961-1964)
http://www.dssresources.com/history/mattessichspreadsheet.htm

Mattessich also pioneered financial spread sheet analysis and simulation and did the basic research on which such best selling micro-computer programmes as Visi-Calc, super-Calc, Lotus 1-2-3, etc. are based. His book Simulation of the Firm through a Budget Computer Program (1964) contains the following basic ideas, decades later revived in those micro computer programmes: the use of matrices or spread sheets, the simulation of financial events, and most importantly, the support of individual figures by entire formulas behind each entry.
From: Hugh Legg "Ricco Mattessich: Acclaimed Researcher," Viewpoints (Summer 1988)




表計算ソフトはMattenssichの発案が種となり、VisiCalcで芽が出て、Lotus 1-2-3を経てMicrosoft Excelで花開いたという感じだろうか。
今後も表計算ソフトの機能は拡張してより便利に (または消化不良に) なっていくだろうが、それはMattenssichの発案の延長線上に位置するものだ。近い将来に全く新しい価値を提供する、これまでとは不連続で破壊的イノベーションを起こす製品が出現し、現在の表計算ソフトが足元をすくわれる日がくるかもしれない。日常業務を通じてアンテナを高く張っておこう。



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「電卓」は「電子(式)卓上計算機」の略であり、卓上で使用できることができる計算機としてこの名称が標準化されたものだ。
1960年代後半から1970年代前半にかけての電卓戦争と呼ばれる激しい価格破壊と技術革新競争により。僅か10年ほどで劇的な小型化と低価格化が進んだ。世界の産業史上最も激しい値下げと量産化だと言われている。
この戦争には50社以上のメーカーが入り乱れたが、最終的に生き残ったのは小型化に定評のあったカシオや、世界初の液晶電卓を開発したシャープを筆頭とする日本の数社だけであった。そのため電卓は日本の特産品と思われがちだが、その手本となったもの、そして「電卓」初号機は1961年に発表されたイギリスのBell Punch Company製でSumlock Comptometer販売の『Anita Mark 8』である。

Vintage Calculators Web Album / Desk Electronic Calculators / Anita Mk 8
http://www.vintagecalculators.com/html/anita_mk_8.html

The ANITA Mk 8, manufactured by the Bell Punch Co. of Uxbridge, England, was launched in October 1961. Together with the concurrently introduced ANITA Mk VII, for the continental European market, it was the world's first electronic desktop calculator. It was sold mainly in the rest of the world outside of continental Europe, and was announced at the Business Efficiency Exhibition, in London, in October 1961, but orders for it were not taken by the British distributor, Sumlock Comptometer Ltd., until January 1st 1962.
This model and the Mk VII were the only electronic desktop calculators in the world for over two years, and many thousands were sold. Like the Mk VII it has a full keyboard and uses cold-cathode tube technology.
The name ANITA, stands variously for "A New Inspiration To Arithmetic" and "A New Inspiration To Accounting". This became the family name for all the Bell

Display - 12-digits Numerical indicator tubes
Size - 376 x 450 x 255 mm (14.75" x 17.75" x 10"), 13.9 Kg
Cost in 1964 was £355 Sterling




それまでの計算機では演算経路に継電器 (リレー) が使用され、接点の電磁的な開閉で演算が行われていたが、Anita Mark 8では真空管を使って電子的にスイッチングをすることによって、計算速度が向上し騒音も改善された。また入力は全ての位で0~9のキーが用意されたフルキー方式なので、とにかくキーが多い印象がある。

実際のAnita Mark 8での計算を見てみよう。



このAnita Mark 8を日本のメーカーが輸入し、分解して研究を行った。
そして日本で初めて発売された電卓が、1964年に発売されたシャープ (当時は早川電機工業) の『CS-10A』である。それまでは機械式か真空管式だった計算機の回路を初めて個別半導体に置き換えた製品で、トランジスタ(増幅又はスイッチ動作をさせる半導体素子)が初めて演算装置に採用された。
フルキーが採用されたのはAnita Mark 8と同様で、重量は25kg、消費電力も100W超と膨大で、価格も自動車とほぼ同じだった。しかし本製品は業界にインパクトを与え、この1964年からキャノン、ソニー、カシオ、ビジコン、東芝など各社が技術革新にしのぎを削った。



ということでCS-10Aが日本で最初の電卓として広く認識され、情報処理技術遺産にも認定されているのだが、実際にはCA-10Aよりも早く1963年に試作された電卓 (販売はCA-10Aより後) がある。大井電気の『アレフゼロ 101』である。

電卓博物館 国内のメーカー(1)
http://www.dentaku-museum.com/calc/calc/31-kokunai/kokunai1/kokunai1.html

大井電気は通信、制御機器の専門メーカー。1949年東洋通信機工業から、当時電力搬送の第一人者であった石田寛をはじめとする技術系の人たちがスピンアウトし発足したベンチャー企業あり、常に技術的に新しいものへ挑戦していく雰囲気があった。同社は1962年の終りから社長以下全力で電卓の開発に取り組んだ。この結果、1963年8月に日本で初めて電卓の試作に成功した(アレフゼロ101 (1号機))。これは直ちにアレフゼロ101(2号機)として商品化され、大学の研究室などに販売された。その意味でアレフ・ゼロはわが国で最初に市場化された電卓であるといえる。

アレフゼロ 101 (1号機)
1963年に試作されたわが国最初の電卓。演算素子にはトランジスタではなくパラメトロンを約1700個用いていた。パラメトロンは東大の後藤英一教授が発明した素子で、多くの電力を必要としたものの、トランジスターより正確で製品寿命が長いといった特徴があった。またこの電卓はテンキー操作を採用し、四則演算、一定数乗除算、累積、自乗、開平、組合演算などが簡単な操作でできた。特に、従来手間のかかった開平演算は、ワンタッチで計算できる特徴を持っていた。
神奈川県発明協会展覧会に出品され、横浜市長賞を受賞した。現存は確認されていない。

アレフゼロ 101 (2号機)
1964年4月に販売された2号機。難点は他社製品と比べると高価格で、消費電力が大きかった。また地磁気の影響も受けやすかった。このため、トランジスタの安定性が増していく中で、優位性はは薄れていった。
大井電気は1000台のアレフゼロを製造・販売したが、その後1970年電卓販売から撤退した。アレフゼロ101は現在大井電気本社に展示してある。

アレフゼロ101の仕様
計算容量 加減算 10桁  乗算 20桁  除算 10桁(剰余10桁)  開平 9桁
消費電力 300W 大きさ 550×520×380mm 当時の価格  80万円




シャープは翌1965年に『CA-20A』を発売しており、CA-10Aのゲルマニウムトランジスタに替え、大型コンピュータに使われていたシリコントランジスタを採用し、信頼性が大きく向上した。また、フルキー方式もやめてこの機種以降10キー方式を採用した。価格も38万円程度に下がった。
このように各社による電卓戦争は激しさを増していく。

このように電卓は、海外に起源のある商品をいち早く取り込み、改良を重ねることで、はるかに優れたものをつくりだすという日本の技術発展の象徴的な製品ではないだろうか。Anita Mark 8とアレフゼロ101を含めて正しく流れを理解しておきたい。



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日本漢字能力検定協会による2018年の今年の漢字は「災」だった。北陸豪雪、西日本豪雨、大阪府北部地震、北海道胆振大震災、台風21号など自然災害の脅威を痛感した年であった。
これは日本だけの事象ではなく、全世界的に21世紀に入って自然災害が激増している。

Our World in Data にある Natural Catastrophes を参照しながら、自然災害の推移をみていきたい。

Our World in Data Natural Catastrophes (by Hannah Ritchie and Max Roser)
https://ourworldindata.org/natural-catastrophes

まず1900年から2017年までの報告された全ての自然災害件数の推移だ。これは干ばつ、洪水、伝染病、異常気象、異常気温、地すべり、大衆運動、地球外からの影響、山火事、火山活動、地震が含まれる。



20世紀初頭と比較して、1970年頃を機に大幅に災害件数が増加していることがわかる。年によるばらつきはあるにしても21世紀の世界は100年前と比べて自然災害が明らかに激増している。
100年以上の期間にわたる集計なので災害レポートの定義や範囲に相違があるとは思うが、地球は100年前とは全く異なる惑星になってしまったかのようだ。

大きく増加し始めた1970年からの内訳は以下のとおりで、特に増加が目立つのはFlood (洪水)、Extreme weather (異常気象)、Extreme Temperature (異常気温) と、やはり地球温暖化に起因した気候に関係する災害が増えていると言えるだろう。



一方で自然災害による死者数は大きく減少している。



しかし具体的に事象別の内訳を併せて見てみると、20世紀前半全体の死者数は特定の大災害による影響が大きいことがわかる。



干ばつに関しては、中国で1920年に華北の大干ばつ、1928~1930年の華北・北西地域での大干ばつを含めて、本レポートではDroughtでの死者3M (3百万人) とされている。そして大干ばつに継いで起きた1931年の中国大洪水で、Floodでの死者3.7M (3.7百万人) とされている。
中国大洪水は前年の1930年末の冬から異常気象となり、激しい冬の嵐ののち春の雪解けと豪雨によって川の水位が大幅に上昇し、そこに雨がさらに勢いを増した、台風も多く襲来したものである。3.7百万人というのは日本で第2位である横浜市の人口に匹敵するものであり、いかに被害が甚大であったかがわかる。
干ばつや洪水はその後の食糧不足、そして飢饉をもたらすために、被害が長期におよび死者数も増加してしまう。避難や緊急支援体制も充分でなかったであろうから、手の施しようがない状態だったと考えられる。



しかし、中国のみでなく各国の対応や土木技術の発展により、洪水や干ばつの死者は大きく減ってきていることは事実である。
その一方で地震による死者についてはむしろ増加傾向にある。2004年のスマトラ島沖地震 (死者23万人)、2010年ハイチ地震 (死者10~20万人) などが記憶に新しい。
そして以下に定義する重大な地震 (significant earthquake) も紀元前からの長期的な推測で見ると20世紀以降、特に今世紀に入って激増している。もちろん大昔の推測の精度に疑問はあるが、増加傾向は間違いなさそうだ。

A significant earthquake is classified as one thatmeets at least one of the following: caused deaths, moderate damage ($1 million or more), magnitude7.5 or greater, Modified Mercalli Intensity (MMI) X or greater, or generated a tsunami.



毎年のように自然災害による被害を目にするのはとても痛ましい。被災者の方々にはお見舞いを申し上げたい。
一方で現在の世界では、耐震・免震の技術や、防災準備・支援体制が大きく発展している。これが今後も増えるであろう自然災害に充分対抗できることを期待する。自然現象の発生そのものは不可避であるが、その「災」を最小限にするために、日ごろから備えていきたい。



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以前このブログで、最初の映画として1895年の『工場の出口』を取り上げ、その中で1902年の『月世界旅行』を紹介し、「これは画期的な作品で、僅か7年で映画は物語を持つようになり、ドキュメンタリーからアートへの一歩を踏み出した言えるだろう」と既述した。



この映画の原作はフランスのSF作家で「海底二万里」や「八十日間世界一周」の著者でもあるジュール・ヴェルヌ (Jules Gabriel Verne, 1828~1905) によって描かれたものだが、原作中の砲弾宇宙旅行を科学的に検証すると以下のようになる。

月世界旅行 科学検証
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%97%85%E8%A1%8C#%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%83%E8%A8%BC

作中で提示される、月まで投射物を到達させるために必要な初速や、その際の飛行所要時間など、天体力学的な理論面にはおおむね不備がない。着陸時にロケットを逆噴射する構想などにも先見性が見られる。
しかし270m程度の距離内で第二宇宙速度近くまで加速を行う場合、砲弾にかかる加速度の平均値は約2万Gとなり、人体は絶対に耐えられない。作中で言及がある「対ショック姿勢」や緩衝材も、これほどの大加速度には無意味である。ただし前述の通り、この箇所についてはミスではなく意図的な考証無視である。
また砲身内の空気が一瞬では砲口から排出されないため砲弾は前方の空気と後方の火薬ガスに挟まれて潰れてしまうという問題がある。それが解決されたとしても、大気圏を抜け出る前に砲弾は空力加熱で融けてしまう。
無重力状態が月=地球の重力均衡点 (ラグランジュ点参照) でしか実現されないという描写も正しくない。推進力を発揮せずに宇宙飛行する (自由落下する) 砲弾の内部は、常に無重力となる。


ということで宇宙開発の観点からはこの映画の内容はまだまだ不充分なのだが、実際にはその時代に充分な研究が行われており、映画公開の翌年の1903年に、ロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキーによってロケットで宇宙に行けることが証明された。

コンスタンチン・ツィオルコフスキー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC



コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー(Константин Эдуардович Циолковский, 1857~1935) は、ロシア帝国イジェフスク生まれのロケット研究者、物理学者、数学者、SF作家。
10歳の時に猩紅熱に罹り、耳が聴こえなくなってしまう病に侵されながらも独学で数学や天文学を学び、1903年に発表した彼の代表的な論文である『反作用利用装置による宇宙探検(Исследование мировых пространств реактивными приборами)』の中で人工衛星や宇宙船の示唆、多段式ロケット、軌道エレベータなどの考案や、宇宙旅行の可能性としてロケットで宇宙に行けることを証明した業績から「宇宙旅行の父」と呼ばれる。
1897年には「ロケット噴射による、増速度の合計と噴射速度と質量比の関係を示す式」である「ツィオルコフスキーの公式」を発表し、今日におけるロケット工学の基礎を築いたが生涯の大半はカルーガで孤独に暮らしていたため、存命中にツィオルコフスキーの業績が評価されることはなかった。
ツィオルコフスキーは晩年、「スプートニク計画」の主導者となったセルゲイ・コロリョフらによってようやく評価されるようになり、1957年10月4日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた世界初の人工衛星である「スプートニク1号」は、ツィオルコフスキーの生誕100週年記念と国際地球観測年に合わせて打ち上げられたものである。工学者のみならずSF作家としても『月世界到着!』などの小説を著している。

そして、実際に液体燃料ロケットを打ち上げたのはアメリカ人のロバート・ゴダードで、1926年のことだ。

ロバート・ゴダード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89



ロバート・ハッチングズ・ゴダード(Robert Hutchings Goddard, 1882~1945) は、アメリカの発明家・ロケット研究者。「ロケットの父」と呼ばれる。ロケット工学草創期における重要な開拓者の一人だが、彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはなかった。
1926年3月16日にマサチューセッツ州オーバーンで最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。その歴史的な出来事を彼は日記に簡潔に記入した。「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」。“ネル”と名付けられたロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇した。それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。
1929年に行われた実験の際、多くの野次馬が集まり、消防署に通報される騒ぎとなった。やってきた新聞記者に対してゴダードはあまり大げさにしないように頼み込んだのだが、ウスターの地方紙は「月ロケットは238,799.5マイルの目標を失った」との見出しで、月を目指したロケットが失敗して空中で爆発したという内容の記事を掲載した。実際には新聞記者が見たロケットの残骸は落下したロケットが地面に激突したことによるものであり、なおかつロケットは予定の高度に達して実験は成功していたのである。ゴダードはその事を必死に説明したのだが、後の祭りであり、これがきっかけとなってマサチューセッツ州内でのロケット発射実験を禁止された。
第二次世界大戦が始まると、ゴダードはアメリカ海軍のためにロケット工学の研究を行ったが、海軍はその研究の価値を理解できなかった。ゴダードが考案・発明した特許は214にのぼるが、ほとんどは彼の死後に与えられたものである。
彼の研究は時代を先取りしすぎていたため、同時代人からはマッドサイエンティスト扱いされ、しばしば嘲笑の対象になった。ゴダードは他の科学者やメディアから受けた不当な評価のため、他人を信用しないようになり、死去するまで研究は単独で行った。
彼の死後、ロケットの重要性が認識されるにつれゴダードの業績が脚光を浴び、1959年に設立されたゴダード宇宙飛行センターは彼にちなんで命名された。1969年に、アポロ11号の月着陸の前日、ニューヨーク・タイムズ紙は49年前に発表したゴダードについての社説を撤回した。またアポロ11号が月に到達した時、SF作家のアイザック・アシモフはすでに世を去ったゴダードに向かって、「ゴダードよ、我々は月にいる」という言葉を送った。


このようにツィオルコフスキーとゴダードも、当時は世間から注がれる目は冷ややかなものであった。彼らの業績が評価されるのは、結局は第二次世界大戦という戦争を通してであった。すなわち「ロケット研究は純粋に科学的なものである」という立場は、国家の軍事や権威によって侵されてしまうという現実である。

宇宙旅行とロケット工学が人気だったドイツで、1927年にロッケト愛好家団体として宇宙旅行協会(Verein für Raumschiffahrt - VfR)が設立されたが、開発資金の援助をドイツ軍が行ったことで軍事色が強くなっていった。
協会は1933年に解散するが、その後ドイツ軍は1942年10月3日にA4(Aggregat 4)ロケットの打ち上げに成功し、初めて宇宙空間に到達した初の人工物体となった。国家・軍事と絡むことで開発のスピードやレベルが飛躍的に向上した。
その後A4ロケットは実用兵器化されてV2 (Vergeltungswaffe 2) ロケットとなり、世界初の軍事用液体燃料ミサイル・弾道ミサイルとなった。大戦末期にはイギリスやベルギーの目標に対して発射されている。



大戦後に米ソ両国が冷戦状態になると、国家的プロジェクトとして弾道ミサイルや人工衛星など、軍事的利用が可能な技術の研究が競われる「宇宙開発競争」が展開されたことは誰もが認識している。

『月世界旅行』に見られる人類の宇宙旅行像は、ツィオルコフスキーとゴダードという2人の専心的な科学者によって具現化されたが、その後の展開は本人たちの考えていたものとは異なるだろう。後世での彼らの評価は本人たちにとって本当に喜ばしいものであっただろうか。



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日本のいいところは季節の変化があることで、四季折々の景色や行事を楽しめる。日本での生活は1年のサイクルを基準としており、季節とともに思い出が記憶される。常夏の気候の変化のない国で生活すると、1年中同じような服を着て過ごし、また行動が季節と紐つなかいので、だんだん記憶の前後関係が曖昧になってきてしまう。当然だが、これは年間の気温差すなわち年較差の大小によるものだ。
地球規模の温暖化が進み、特に21世紀に入ってから夏の気温が上がっている。しかし冬はしっかりと寒い。春と秋という快適な季節が明らかに短くなっているように思う。
真夏日を通り越した猛暑日や熱中症への対策など、我々は以前よりも気温を気にして過ごさなければならない。そこで我々の生活に直結する気温に関する記録を調べてみよう。

まず世界の最高気温記録だが、ギネスブックでは1913年7月10日アメリカ・カリフォルニア州のデスバレー (Death Valley) で記録された56.7℃となっている。

Guinness World Records - Highest recorded temperature
http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/highest-recorded-temperature



ここは山脈でに囲まれており、フェーン現象によって暖気が流れ込んで来る一方で、盆地で暖気が溜まってしまうために高温となる。
しかし、この記録には懐疑的な見方がある。この日デスバレーの周辺ではそこまで気温が上がっていなかったことから、計測器に問題があったのではないかと指摘されている。

The Independent - Kuwait swelters in 54C heat – what could be the highest temperature ever recorded on earth
http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/kuwait-swelters-record-breaking-54c-heatwave-weather-7152911.html

Until now the official record for the highest temperature was 56.7C (134.1F) on 10 July 1913 at Furnace Creek Ranch in Death Valley, California. But many modern meteorologists are sceptical of the record, arguing that the equipment used at the time was prone to error and not as reliable as modern recording methods.
Records show nearby places were nowhere near as hot and the wind conditions not favourable for such high temperatures, they argue.


もちろんデスバレーが極めて暑いところであることは間違いなく、2013年6月にも54.0℃を記録している。
デスバレーの他の記録として、東アフリカのジブチ共和国での71.5℃ (時期不明)、1921年にイラク・バスラ (Basra) で記録された58.8℃などの記録もある。ジブチの記録はさすがに間違いだろう。バスラの58.8℃は気象学関係者の間で長らく世界最高気温記録とされてきたが、そのデータ出所について疑問が提起され、実際の観測値は53.8℃だった可能性が高いことが、気象庁気象研究所の藤部文昭氏によって指摘された。

気象談話室 気温の世界最高記録とされる「バスラの58.8°C」について 藤部文昭
http://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2013/2013_02_0037.pdf

このように昔の記録には信憑性の点で疑問がつくが、昨今の温暖化によりいずれ新しい記録に塗り替えられることになるだろう。
実際に2016年7月24日にクウェートのミトリーバで54.0°Cが記録されており (参考までにこの日イラク・バスラは53.9°Cだった)、60°C級の最高気温のニュースが流れる日が来るかもしれない。それだけで生命に危険を与えるレベルであり、温暖化対策を一層進めなければならない。



一方で世界の最低気温記録だが、世界一低い気温を観測した地点は、1983年7月21日の南極・ボストーク基地 (ロシア語 Станция Восток) での-89.2℃である。
ここは旧ソ連時代の1957年に開設されたロシアの南極観察基地で、これまでに気温が0℃を超えたことがない。長い冬期間の平均気温は約-66℃、短い夏期間の平均気温は約-32℃、年平均気温は-55.3℃である。2005年8月8日にも最低気温-85.4℃を記録しているし、非公式記録だが1997年の冬に-91℃に達したと言われる。



しかし同じく南極大陸の東部、東南極高原にあるドームA付近で、2010年8月10日に-93.2℃を記録したことがNASAから発表された。

ハザードラボ マイナス93.2℃ 世界最低気温記録更新 2013年12月10日
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/4/0/4040.html

米航空宇宙局 (NASA) は地球観測衛星ランドサットにより、2010年8月10日に、南極大陸の東部でこれまでの最低気温記録を更新するマイナス93.2℃を観測したと発表した。世界最低気温が観測された地点は、世界最大の氷床がある南極東部、東南極高原と呼ばれる場所で、日本のドームふじ基地(標高3810メートル)がある山頂とドームA(標高4093メートル)がある山頂の間を走る尾根の中腹。
これまでの最低気温記録は、この地点から南に下ったロシア・ヴォストーク基地で1983年に観測されたマイナス89.2℃だったので、一気に「マイナス4℃」も記録が更新されたことになる。




但しこれは地表面温度であり気温ではないため、世界最低気温の記録が更新されるかは不明である。

世界の最低気温記録はギネスブックでは「Lowest temperature - inhabited」というカテゴリーとなり、続的な居住地における世界最低気温として1933年2月6日のロシア・サハ共和国のオイミャコン (Оймякон) の-71.2℃が載っている。人口462名 (2010年) の村だ。シベリア大地に依って大気が大幅に冷却されることによって気温が下がる。

Guinness World Records - Lowest temperature - inhabited
http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/lowest-temperature-inhabited



しかし、夏の日中は気温が上がることもあり、2010年7月28日には最高気温34.6℃を記録しており年較差が大きい。また昼夜の気温差すなわち日較差も大きい。

年較差でオイミャコンで上回るのはベルホヤンスク (Верхоянск) で、人口1354人 (2005年)の町だ。
最低気温は1885年と1892年に観測された-67.8℃、最高気温は37.3℃、年較差は105.1℃にもなる。そしてこれはギネスブックに最大の年較差として載っている。

Guinness World Records - Greatest temperature range on Earth
http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/greatest-temperature-range-on-earth/



尚、サハ共和国の首都ヤクーツク (Якутск) も年較差は100℃を超える。人口20万を超える都市だ。さすがにこれだけ気温差があると四季を楽しむどころではないだろう。

日本の暑さ、寒さが厳しいとは言っていられない。


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誰もが子供の時に「隕石が落ちてたらどうしよう」とか「惑星が地球に衝突したら人類は滅亡だ」といったことを話したことがあるだろう。大きくなるうちに「そんなことを考えてもしょうがないだろう」となるのが常だ。
しかし、2013年2月15日に起きたロシア・チェリャビンスク州の隕石落下は衝撃的だった。都市部への隕石落下ということで1,491人が負傷、4,474棟の建物が損壊と大きな被害となった。車中などから多く撮影されており、その凄まじさが伝わってくる。



日本でも1992年12月10日に島根県美保関町 (現松江市美保関町) で隕石が民家に落下し、屋根を突き破って床下にまで達することがあった。その後隕石落下地に記念碑が建てられ、また隕石は地元で常設展示されている。 ひとつ間違えれば大事だったのだが、観光資源になっている。。



メテオプラザ メテオミュージアム(美保関いん石展示)
http://www.meteor-plaza.jp/museum.html

その後の調査の結果、この石ははるか46億年の昔、太陽系の誕生と共に生まれ、今の形になってから6100万年の間宇宙を旅してきた隕石であることが判明しました。また、地球上には存在しない物質が発見されるなど、多くの貴重なデータが得られ、宇宙の謎の解明に大きな期待が寄せられました。最大長25.2cm 重量6.38kg 。
隕石は流れ星の欠片ですので、あなたの希望や願いを叶えてくれるかも知れません。心静かにお願いしてみてはいかがでしょうか?

地球の歴史を遡ると、中生代白亜紀と新生代古第三紀の境目である約6600万年前に大型爬虫類の全てが絶滅したのは、メキシコのユカタン半島付近に直径約10kmの巨大隕石が落下したことが引き金になったと言われている。
このような全地球的大被害の起こり得る衝突は1万年〜10万年に1回、局所的大被害が起こり得る衝突は数百年から数千年に1回の発生確率だそうだ。一方で、とても小型の隕石は年間2〜3個の割合で地球に落下している。

それでは、惑星が地球に衝突するリスクはどの程度あるだろうか。
地球に接近する軌道を持つ天体 (彗星、小惑星、大きい流星体) は地球近傍天体 (Near Earth Object : NEO) と呼ばれる。NEOはこれまでに約10,000個発見されている。そしてこの中で、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星として「潜在的に危険な小惑星」(Potentially Hazardous Asteroid : PHA) という分類がある。そのリストは以下のとおりで、現在約1,800個がリストされている。

Minor Planet Center List Of The Potentially Hazardous Asteroids (PHAs)
http://www.minorplanetcenter.net/iau/Dangerous.html

これらは直径が110メートル以上の小惑星で、海に落下した場合に津波など何らかの影響を地球に与える。
そして、地球に衝突する危険性はトリノスケールとパレルモスケールという2つの見積方法がある。トリノスケールが一般的で、天体の大きさと衝突確率が高さで危険度を色と数値で表している。



NASA Torino Impact Hazard Scale
https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/torino_scale.html

レベル8~10となると「間違いなく衝突」となるが、これまで実際に適用されたことのある最高の階級は、2004年のアポフィスのレベル4である。

アポフィス (小惑星)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9_(%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F)

アポフィス (99942 Apophis) は、アテン群に属する地球近傍小惑星の一つ。2004年6月に発見された。地球軌道のすぐ外側から金星軌道付近までの楕円軌道を323日かけて公転している。直径は約310mから約340mであり、小惑星番号が与えられている中では小さな部類である。質量は1.26×1011kg(7200万トン)であると推定されている。
2004年12月、この小惑星が2029年に地球と衝突するかもしれないと報道され、一時話題になった。その後、少なくとも2029年の接近では衝突しないことが判明している。




2029年4月13日には、アポフィスは地表からおよそ32,500km離れたところを通過すると予測されている (画像が2029年4月13日前後のアポフィスの予想軌道図)。ヨーロッパ、アフリカ、西アジアにおいては肉眼でも容易に観測できるようになる。そして7年後の2036年には地球に再接近する。それ以降、2042年から2105年の間にわずかながら衝突の可能性がある接近が17回ほど起きると推定されているが、2036年以後の軌道に関する正確な予測は困難である。
仮にこの小惑星が衝突した場合、数千km2にわたり大きな被害が生じると考えられる。しかし、氷河期や大量絶滅を引き起こすなどの長期間にわたる地球規模の影響が出るとは考えられない。

小惑星が新たに発見されて軌道が確定していないうちは、衝突リスクが高く計算される傾向にあるため危険度が高く見積もられるが、その後の調査で問題ないことが判明してレベルが引き下げられることが一般的で、幸い現時点では全てレベル0である。
尚、地球衝突への10年程度前に発見できれば、現在の技術でも回避が可能で、人類が打ち上げた宇宙機の微小な重力による牽引や接触で軌道を変更したり、核爆発などで破砕するといった方法が提案されているそうだ。

ということで、とても小型の隕石落下に遭遇することはあるかもしれないが、惑星衝突のレベルを心配する必要はなさそうだ。日常的な身の回りのリスクの方がよほど多種多様だ。



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モノには名前が必要である。名前がなければ「あれ」「それ」で示さなければならず、円滑なコミュニケーションができない。
生物には世界共通の名称である「学名」がある。この命名には一定の規則があり、ラテン語として表記され、それぞれの生物分野の命名規約により取り決められている。例えば動物には「国際動物命名規約」がある。
学名を命名するには、過去に命名されたどの種とも別種であることを証明する手続きが必要とされるため、発見者が命名者になるとは限らない。一般には、その種の特徴、近縁種との区別を明確に示した記載論文を発表するので、その論文の発表者が命名したことになる。

一方で生物には日本語でつけられた名前である「和名」がある。、これは学問規約的に規定された名ではなく、一般に使用されている習慣的な名称である。生物の場合は、一つの種に多くの異なる名があったり、複数の種が同じ名で呼ばれたり、地方によって異なっていたりする。
また種の学名と一対一となるように調整した和名を、「標準和名」と呼ぶ。標準和名は日本国内の範囲では、学名に準じて扱われている。ただし、命名規約等はなく、それぞれの分野で研究者同士のやりとりの中で決まっている。和名をつける機会としては、図鑑を作るときに和名を与える場合や、新種記載をするときに、日本語の記載文に和名を添える場合などがある。

このように和名は習慣的な名称であるため、差別的用語を含むなど問題も昔からある。これに対して、例えば魚類に関して日本魚類学会では「日本魚類学会標準和名検討委員会」を組織し、標準和名に関わる諸問題を検討し解決のために必要な活動を行っている。

日本魚類学会 標準和名検討委員会の概要
http://fish-isj.jp/iin/standname/index.html

さて、上記のように和名は図鑑を作る場合や新種記載の際に命名されることが多いのだが、現在では新種発見の情報が瞬時に世界中に行きわたってしまうために、和名がないのによく知られている生物も多く存在する。
その一例としてPaedophryne amauensis (パエドフリン アマウンシスと読むらしい) を紹介する。

Paedophryne amauensis
https://ja.wikipedia.org/wiki/Paedophryne_amauensis#cite_note-Rittmeyeretal-1

Paedophryne amauensis はパプアニューギニアで2009年8月に発見され、2012年に正式に発表された新種のカエルである。P. amauensis は体長7.7mmで、現在知られる脊椎動物の中で最も小さい。
このカエルは2009年8月に爬虫両棲類学者のクリストファー・オースティンと院生のエリック・リットマイヤーによってパプアニューギニアの生物多様性の研究中に発見された 。この新種は中央州のアマウで発見された。学名はこの村の名前に由来する。 この発見は2012年1月にPLoS ONEで発表された。
P. amauensis は体長7.7mmで、世界最小の脊椎動物とされてきたインドネシア産の淡水魚Paedocypris progenetica (全長7.9mm)より0.2mmだけ小さい。 この種は幼生の形を取らず、卵からいわゆる成体のカエルの形で孵化する。 P. amauensis は体長の30倍の高さに跳ねることができる。行動パターンは薄明薄暮性で、微小な無脊椎動物を食する。オスはメスを昆虫を思わせるような高い周波数(8400–9400 Hz)の鳴声でメスを呼ぶ。


PLoS ONEは、Public Library of Science社より刊行されているオープンアクセスの査読つきの科学雑誌で、科学と医学分野の一次研究論文を扱っている。Paedophryne amauensisの発表は以下リンクのとおりである。

PLoS ONE 2012/1/12 Ecological Guild Evolution and the Discovery of the World's Smallest Vertebrate
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0029797



発見地は以下の赤で示された箇所だ。



僅か7.7mmで世界一小さいカエル、世界一小さい脊椎動物、アリより小さいカエル・・・ということでとてもわかりやすく、発表時からニュースで取り上げられることが多いPaedophryne amauensisだが、もちろん気になるのはその和名がどうなるかである。
しかしそもそも誰が名をつけるのかがわからない。日本爬虫両棲類学会には「日本産」の爬虫両生類標準和名リストがあるが、このように海外で発見された新種の扱いは不明確だ。

日本爬虫両棲類学会 日本産爬虫両生類標準和名リスト
http://herpetology.jp/wamei/index_j.php

Paedophryne amauensis (種) は、両生綱 - 無尾目 - カエル亜目 - ヒメアマガエル科 - Asterophryinae (亜科) - Paedophryne (属) に分類されるが、亜科・属にも和名がない。しかし既に存在がメジャーになりつつあるPaedophryne amauensisには素敵な和名がつくことを期待したい。「マメツブガエル」「ユビサキガエル」ではがっかりだ。和名に命名規約はないのだから、公募してもいいのではないだろうか。
いつの日かPaedophryne amauensisの和名が決まったら、このブログ上でも発表したい。



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以前このブログで、ハイブリッドカーの起源である「ミスクテ」について調べたことがあるが、ともかくハイブリッドカーは世の中で一般的となった。そうなると他の乗り物にもこの技術を活かすことができないかと考えるのは当然の流れである。

鉄道では、ディーゼルカーに対するハイブリッド気動車「キハE200形」が、JR東日本の小海線で営業運転されている。
https://www.jreast.co.jp/nagano/koumi/hybrid.pdf



キハE200形は、ディーゼルエンジンで発電機を回し、発生した電力でモーターを回転させて走行する。
キハE200形はバッテリーを搭載しており、モーターを回すエネルギー源として、エンジンからの電力とバッテリーからの電力を組み合わせる (ハイブリッドする) 仕組みになっている。
減速時の車輪の回転力で発電機を回し、発生した電力をバッテリーに蓄えることができ、また低速時もエンジン回転数を高めてフル発電し、余った電力はバッテリーに蓄えることができる。そしてそのバッテリーの電力を駆動力に利用するため、従来のディーゼルカーより約10%の省エネルギーを実現できている。
また、従来のディーゼルカーは低速時はエンジン回転数が低くなり、有害排出物が出やすかったが、E200形は排気ガス対策機構付きのエンジンを常に効率的な回転数で稼働できるため、従来のディーゼルカーよりも有害排出物と粒子状物質を約60%削減できるという。

バイクでは、イタリアのPiaggio (ピアジオ) 社のMP3 Hybridが、リチウムイオン電池を使用した世界初のハイブリッドスクーターとして販売されている。
電池の充電は内蔵ジェネレーターによる充電と家庭用電気ソケットからも直接充電が可能で、ピアジオ社によって開発された独自の複合型ドライブシステムは、従来型のガソリンエンジンと環境にやさしい電気モーターを結合したものだ。



ピアジオ MP3 ハイブリッド 300ie 試乗インプレ・レビュー
http://www.bikebros.co.jp/vb/bigscooter/bimpre/bimpre-20110714/

またHONDAは2015年の東京モーターショーで、ハイブリッド三輪バイク「NEOWING」を発表するなど、開発を進めており、SUZUKIもバイク用ハイブリッドシステムの特許を取得したとの報道がある。



しかし、バイクをハイブリッドとするためには、発電用または走行用のガソリンエンジンと走行用のリチウムイオン電池の両方を積む必要があり、車はともかくバイクに搭載する場合は重量が重くなることでバイク特有の燃費が悪くなってしまい、コストもかかりハイブリット化する意味が薄れてしまう。
また搭載のスペースも限られており、MP3もNEOWINGも二輪ではなく三輪となっている。 バイクはハイブリッドよりも電動が普及しそうだ。

それでは飛行機はどうだろうか。
一般的にハイブリッドの利点は減速エネルギーを回収できることであり、着陸時以外に減速をしない飛行機にハイブリッドは適用しにくく、メリットが少ないというのが一般的な見解であるのだが、ここにきて開発が進んでいる。いくつか記事を参照してみよう。

WIRED.JP 2013/7/5 電動ファン搭載のハイブリッド航空機:離陸する「E-スラスト」計画
http://wired.jp/2013/07/05/eads-ethrust-hybrid-airliner/

ジェットエンジンと電動ファンを組み合わせた、新しい「ハイブリッド航空機」のコンセプトがヨーロッパの「EADS」によって提唱された。分配型電力航空宇宙推進系「E-スラスト」だ。斬新な設計思想で、2050年の実用化に向けて燃費、排出物そして騒音の大幅な低減を目指している。
「E-スラスト(電気推力)」と呼ばれるこのプロジェクトは、EADSイノヴェイション・ワークス・プログラムのひとつとして、英国のエンジンメーカー、ロールス・ロイス社と共同で進められている。2社が模索するのは、排出物や騒音の大幅な低減などを含む、欧州委員会による将来の航空機への要望を満足させる方法だ。
E-スラストのコンセプトでは、複数の電動ファンが推力を発生する。そしてその駆動力をガスタービンエンジンが供給することで、巡航を続けることが可能だ。より大きな推力が必要な離陸時や上昇時は、「エネルギー貯蔵システム」(すなわちバッテリー)からも駆動力がファンに供給される。


マイナビウーマン 2014/12/30 車だけでなく飛行機もハイブリッドに―イギリスで飛行実験成功!
http://woman.mynavi.jp/article/141230-86/

ケンブリッジ大学とボーイングの研究で、電気モーターと石油エンジンを組み合わせたハイブリッド飛行機が誕生しました。実用化にはまだまだ時間がかかりそうですが、環境にやさしい画期的なアイデアです。 この世界初のハイブリッド飛行機は、モーターとエンジンが一緒にプロペラを動かし、飛行中に充電します。石油エンジンを搭載した同様の飛行機よりも、燃料の消費量が30%少なくないそう。
離陸時から機体を上昇させるまでは最大限のパワーが必要とされるため、モーターとエンジンを同時に使用しますが、一定の高度に達したら電気モーターを充電モードに切り替え、燃料消費を最小限におさえることができます。
研究を主導したケンブリッジ大学のロバートソン氏は、ハイブリッド飛行機や電気飛行機の開発が遅れているのは、電池によるものだと語っています。
「最近まで電池は重く、エネルギー量も十分ではありませんでした。しかしノートパソコンなどにも使われているリチウム電池の改良により、ハイブリッド飛行機は実用化に近づいています。」




Gigazine.net 2015/5/4 世界初の「ハイブリッド飛行機」を可能にする飛行機用モーターの開発が進行中、2015年には新たな実機テストも実施予定
http://gigazine.net/news/20150504-siemens-aircraft-motor/

ドイツの大手企業「Siemens」は従来の性能を大きく上回る航空機用電気モーターの開発に成功しており、世界初となる電力を用いた旅客機の実現も徐々に視野に入るようになってきています。その本体重量はわずかに50kgというもので、従来の航空機エンジンよりもケタ違いに小型・軽量になっている模様。
重量50kgという本体から実に260キロワット(kW)という高い出力を得ることが可能となっています。出力を重量で割った1kgあたりの出力キロワット数を示す「出力重量比(パワーウェイトレシオ)」は約5.2kW/kgとなるのですが、これは従来の電気モーターのおよそ5倍に相当することからも、その性能の高さを垣間見ることができます。
この高い性能のおかげで、電気モーターで飛ぶ航空機としては初めて離陸重量2トンまでの機体を飛ばすことを可能にしました。
Siemens社の「eエアクラフト」部門を率いるフランク・アントン氏は「この技術開発により、発電用エンジンを積むタイプのシリーズ・ハイブリッド方式を採用して4名程度の乗客を乗せて飛ぶ航空機の製造が可能になるでしょう」「中期的な可能性として、50名から100名クラスのリージョナル機での使用を視野に入れています」と語っています。




日本経済新聞 2016/4/9 エアバスとシーメンス、ハイブリッド飛行機開発で提携
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM09H0U_Z00C16A4NNE000/

欧州航空防衛大手のエアバス・グループと独シーメンスは8日までに、電気と従来型エンジンを組み合わせたハイブリッド飛行機の開発で提携すると発表した。両社の技術者ら200人で専門チームをつくり、2020年までに飛行試験をめざす。航空会社の燃料費負担や騒音を抑える技術の開発に向け、欧州の製造業大手が手を組む。
両社は出力が数百キロワットから最大1万キロワットのハイブリッド推進システムを共同開発し、短距離移動の小型機やヘリコプターなどへの応用を見込んでいる。
エアバスのトム・エンダース最高経営責任者は「30年までに100席未満のハイブリッド旅客機が生まれる可能性がある」との見通しを示した。両社は11年にオーストリア企業とも協力し、最初のハイブリッド飛行機を披露している。その後の主要部品の開発などで成果を出しており、今回の長期にわたる開発提携を決めた。
シーメンスは社内に新たに立ち上げた、最新の技術・サービスを事業化するイノベーション部門の活動の一環として位置づける。重電業界のライバルで、航空機エンジン大手の米ゼネラル・エレクトリックへの対抗という面でも注目されそうだ。


このように、数年前まではコンセプトの域だったハイブリッド飛行機が、ここにきてヨーロッパで具体的な開発フェーズに入ってきたことがわかる。試験飛行そして営業飛行が実現の前倒しも充分に可能性がある。
自動車、鉄道、バイク、飛行機の各々に対して、ハイブリッドのみでなく、有効なエネルギー効率化のための技術進化を期待したい。


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ふだん何気なく音楽を聴いているが、それは基本的に録音をされたものを再生している形だ。
そして録音ということをもはや意識することはないが、世の中の音を記録して、好きな時に再生するということは改めて考えるとものすごいことだ。当然のことだが、録音ができるようになる以前の世の中の音を我々は知らない。

それでは我々はいつから音を記録できるようになったかというと、それは1857年のことである。
フランス人のエドアード・レオン・ スコット (Édouard-Léon Scott de Martinville、1817 - 1879) が発明したフォノトグラフ (phonautograph) が、最初の録音装置だ。



フォノトグラフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8E%E3%83%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95

ススを塗布した紙の上に樽状の箱を設置し、この箱の底が音によって振幅したものを針に伝え、この針で紙を引搔いて音声を記録することができる。のちに改良され、回転するドラム状になった紙の上に振幅を残すようにした、地震計のような装置となった。音の性質を図形で記録ことで、研究するためのものだった。
さらにその後、ガラス板の煤の上に記録を残すようになった。この改良は、写真フィルムのように一瞬で撮影できるものはない写真乾板を使用していた時代に、音の振幅を写真の形で複製をとることにも向いていたのである。これらは音を波形図として記録することに便利がよく、当時の学術雑誌への発表に用いられた。

しかし、フォノトグラフは「録音専用機」だった。すなわち音の振幅具合を波形の強弱によって表すのみで、音の記録を読み取らせることができなかった。
記録されたフォノトグラムは以下のようなものだ。



これでは片手落ちで全く意味がないように考えるが、そこには時代的な背景がある。

株式会社日立コンサルティング Doublethink 第5回 再生できない録音機
http://www.hitachiconsulting.co.jp/column/doublethink/05/index.html

ここで重要なのは、記録オンリーだったのは再生機能の開発に失敗したからではなく、音を波形として記録するだけで装置として完結していたから、という点です。なぜ録音装置までたどり着いたのに、再生装置に向かわなかったのか。
当時「音声を記録する」といえば、速記を意味しました。速記者が音や声を聴き、それを文字に変換して記録する――スコットはまさにこの役割を、機械に置き換えようとしたわけです。そしてちょうど速記者が特殊な印を使って音声を記録し、それを後から解読するように、フォノトグラフが記録した波形も、後から「読んで」解析できるだろうとスコットは考えました。オーディオレコーダーの祖先としてフォノトグラフを位置づければ、確かに中途半端な装置という評価になってしまうかもしれません。しかし速記者を機械化するものと位置づければ、フォノトグラフは画期的なイノベーションであると評価することもできるでしょう。
ただし現代の人々が評価しているのは、フォノトグラフと発明者のスコットではなく、そのフォノトグラフも参考にしながら1877年に蓄音機を発明した、トーマス・エジソンであるわけですが。
最先端のテクノロジーに携わっていながら、過去にとらわれた思考をしてしまう――スコットが陥った落とし穴は、決して珍しいものではありません。


この記録した結果を、どのように後から読もうとしたのかは定かではない。正直無理だと思う。
このような経緯の末で、録音の歴史は1877年にトーマス・エジソンが円柱型アナログレコードを開発したことがはじまりと評価される。これも実際には、フランス人シャルル・クロスが、円盤を使ったほぼ同機構の録音装置に関する論文を、エジソンよりも約4ヶ月前の1877年4月に発表していたが、実際に利用できる実物を完成させたのはエジソンが先であったため、「録音装置の発明はエジソン」となっているものだ。 (エジソンは以前取り上げた白熱電球を含めてこのような事例が多い)

さて、そのフォノトグラフの録音内容は2008年に現代の技術によって再生することがかなった。

AFP 2008年03月28日 18:40 世界最古の録音音声、最新技術でよみがえる
http://www.afpbb.com/articles/-/2370877?pid=2782722

フランス皇帝ナポレオン3世の統治時代に録音された歌声が、148年の時を越えて再生された。フランス科学アカデミーが発表した。
再生に成功したのは、パリの発明家エドアール・レオン・スコット・ドマルタンビルが発明した音声記録機により1860年4月9日に録音されたフランス民謡「Au Claire de la Lune(月の光)」。女性の声で約10秒間にわたり録音されている。
録音状態は素晴らしいとは到底言い難く、聴く人によってはイルカの鳴き声としか思えないかもしれない。だがフランス科学アカデミーによれば、これこそが世界最古の録音音声だという。
トーマス・エジソン(Thomas Edison)が蓄音機で「メリーさんのヒツジ(Mary Had a Little Lamb)」を録音する17年も前の記録だ。 ただ、 フォノトグラフはエジソンの蓄音機と違い、再生はできなかった。しかし、21世紀の技術と米国の音声史学者、録音技師、科学者などの知恵を結集し、紙に刻まれたわずかな溝をデジタル画像で処理することで、その音はよみがえった。
この取り組みは、米国のファーストサウンズ(First Sounds)の協力の下に行われた。長い間失われていた初期の録音を復活させるプロジェクトを推進してきたファーストサウンズは、「まさかスコットも、この録音が再生されるとは夢にも思わなかっただろう」との声明を出している。




この音は以下のサイトで聞くことができる。これが我々が確認することができる最古の音だ。

First Sounds The Phonautograms of Édouard-Léon Scott de Martinville
http://www.firstsounds.org/sounds/scott.php

現代の技術で、時代を超えて当時にはできなかったことができるというのはとても素晴らしいことだ。
音としては正直かなりひどく、当時のライヴでは違う様子だったとは思うが、それは技術的な"程度の問題"と考えよう。現在の録音も必ずしも世の中の全ての音を再現できるわけではないのだから。



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世の中はあらゆる分野でデジタル化が進んでいる。
その中で我々は比喩的に、デジタル = ハイテク、科学的 アナログ = ローテク、経験、勘 といった捉え方をしていて、極端に言うと「デジタル = 新しい、アナログ = 古い」と考えてしまいがちだが、これはさすがに正しくない。
情報処理の観点からは、デジタルは状態を示す量を数値化して処理すること、アナログは連続した量を他の連続した量で表示することで、時計、体重計、温度計などを例に取ればわかりやすい。
そしてデジタルの象徴のようなコンピュータ (=計算機) にもアナログがある。デジタル化の流れにに対抗してアナログコンピュータについて、技術的な内容には極力触れずに展開してみよう。

アナログコンピュータ (ここでは広義でアナログ計算機とする) は、物理量によって実数値を表現し、それを変換する装置によって問題を解く計算機である。入力と出力にはアナログ値が用いられる。
歴史は古く、紀元前3500年頃から利用された日時計まで遡ることができる。1620年頃に発明された計算尺もアナログコンピュータだ (これに対してそろばんはデジタルである)。

アナログコンピュータは、機械式アナログ計算機と電子式アナログ計算機に分類することができる。

機械式アナログ計算機には先述の日時計や計算尺も含まれるが、この代表的なものは、1876年に発明され1930年頃に実用化された微分解析機だ。




微分解析機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%88%86%E8%A7%A3%E6%9E%90%E6%A9%9F

これは数値を物の長さや電流の強さに置き換えて計算するもので、大小の金属回転盤やギアをモーターで動かし、積分に相当する作業をやらせて微分方程式の解を求めるというものだ。その後の戦争において軍事目的の弾道計算などにも用いられた。

そして昨年12月に東京理科大学 近代科学資料館にて、当時の微分解析機を70年ぶりに再生するプロジェクトの完成報告会が行われた。
太平洋戦争中に日本国内で3台製作された微分解析機のうち現存する唯一の機械を、一年半かけて再生したもので、積分機3台、入力卓2台、出力卓1台から成る3x3mほどの機械だ。
以下の記事に入力操作、微分解析実演などの動画がある。

PC Watch 東京理科大、機械式アナログコンピュータ「微分解析機」を70年ぶりに再生
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20141202_678367.html

この再生はたいへん大きな功績であり、今後のさまざまな分野の研究において貴重な資料となりそうだ。 一般公開もしているので是非足を運んでみたい。

もうひとつの分類は電子式アナログ計算機で、コンピュータ = 電子式計算機 とするのであれば、電子式アナログ計算機は狭義に「アナログコンピュータ」と呼ぶことができる。

Computer History Museum / Analog Goes Electronic
http://www.computerhistory.org/revolution/analog-computers/3/150

The analog computer’s evolution from mechanical to electronic began during World War II. The innovation brought greater computing speed, although that didn’t always make electronic analog computers better than their mechanical forebears.

Nonetheless, by the 1950s electronic machines had largely replaced mechanical. Companies began producing diverse models, and electronic analog computers remained a bedrock of engineering and scientific calculating for a generation.
Reeves Instrument was one of the earliest firms to offer fully-assembled, electronic analog computers.

During World War II, Germany’s V-2 rockets heralded the arrival of a frightening new weapon. The missiles used an op-amp analog computer for their onboard guidance systems, though they still proved too inaccurate to be a serious military threat.

America, recognizing the potential of guided rocketry, launched Project Cyclone immediately after the war. Funded by the U.S. Navy, Project Cyclone used the Reeves Electronic Analog Computer (REAC) developed by Reeves Instruments to simulate, develop, and test guided missile systems.
A commercial version of REAC soon followed, with more than 60 installed by 1950.




このようにProject Cycloneとして当時のReeves Instrument Corporationによって開発・実用化された"REAC"が、アナログコンピュータの祖と言うことができるようだ。その後1960年頃までいくつかのメーカーによってアナログコンピュータが開発・発売された。

しかし当然ではあるが、アナログコンピュータには(理論上ではなく) 現実の特性上の限界があり、ほとんどの計算はデジタルコンピュータによって行われることになった。
その一方で、アメリカ・イリノイ州にあるcomdyna Incは現在でもアナログコンピュータの製造・販売を行っている。

Comdyna Analog Computer
http://www.comdyna.com/

何とも"アナログ"な感じのホームページで、しかも1968年から36年生産を続けてきたGP-6という機種の製造を中止するというお知らせであり、とても残念だ。
そのGP-6の動作は以下の動画のようなもので、何とも言えない味がある。



上記の微分解析機再生プロジェクトの会見において、情報通信研究機構理事長の坂内正夫氏は「量子コンピュータにはアナログ的コンピュータの要素がある。また時代を経るとアナログコンピュータの時代が来るかもしれない。これ(微分解析機)が捨てられることなく活用されるのを期待している」と述べられている。
まさにそのとおりで、技術は日々の進歩の積み重ねであり、どのような高い技術が求められることになっても、その基礎となった理論や技術を大事にしなければならない。コンピュータや先進の技術はアナログがもととなっていることを忘れてはいけない。



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