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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




ゼネコンの清水建設が、新しい技術へのさまざまなチャレンジや未来構想を「シミズ・ドリーム」として紹介している。
そのひとつとして、2014年11月に深海未来都市構想「OCEAN SPIRAL」が発表された。

清水建設 シミズ・ドリーム OCEAN SPIRAL ~人類はまだ、深海のポテンシャルを知らない~
http://www.shimz.co.jp/theme/dream/oceanspiral.html

毎日新聞 2014年11月18日 深海未来都市:5000人規模の構想を発表 建設費3兆円で2030年にも実現可 清水建設
http://mainichi.jp/feature/news/20141118mog00m020011000c.html

水深3000~4000メートルの深海に資源開発工場を設置し、らせん状のチューブで海面近くの球体居住区(直径500メートル、5000人収容)とを結ぶ。建設には5年かかり、建設費は3兆円というが、2030~50年には実現可能という。
清水建設によると、固化時間が早い樹脂コンクリート、透明アクリル板、繊維強化プラスチック(FRP)など現在使われている資材を活用。浮力と重力のバランスを等しくすることなどで位置を安定させる。津波、台風などの災害時は居住区を水面下に沈下させ、波浪を避ける仕組み。
研究施設、ホテル、深海探査船の補給基地なども盛り込んだ。海底資源の採掘や養殖漁業のほか、深海の温度差を利用した海洋発電、深海の圧力差を利用した浸透膜による海水の淡水化処理、海底メタンによる二酸化炭素 (CO2) のメタンガス転換などが期待できるという。
ネックは3兆円と算出した建設コスト。それでも、清水建設は「世界の約7割は海。人類社会の持続性向上にとって、深海の利用は必須です」と意気込んでいる。

これは未来構想としては夢があり、技術的な課題を掲げて、建設会社の将来の究極の目標を目指すという点では好ましいのだが、経済的な点を差し置いても実現の現実味はない。OCEAN SPIRALの紹介の中で読者をミスリードしているのは、以下のような深海プロムナードやセントラルプラザのイメージで、そもそも深海が明るく輝いているとことが大きく現実離れしている。




深海の実態については、以下の記事のほうがより正しい記述であろう。

マイナビニュース もしも科学シリーズ(30) もしも深海で暮らすなら
http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/12/30_2.html

地球の表面のおよそ71%は海だ。平均水深は3,800mと深く、地球のほとんどは深海が占めている。
水深200mまでは浅海(せんかい)、それよりも深いと深海と呼ばれる。海岸や大陸棚(だな)の浅い部分にあたる浅海は海底面積のわずか8%しかなく、残りはすべて深海だ。71%の92%だから地球の65.3%が深海となる計算だ。さらに海水の95%が深海にあるというから、この面積と空間が活用できれば地球は巨大な惑星になるのだが、生物を拒絶するかのように、過酷な条件がそろっている。
もしも深海で暮らしたらどうなるのか? 2℃足らずの水温と細胞も破壊する水圧におびえながら、漆黒の世界でじっとし死ぬのを待つしかなさそうだ。

水深150~200mに届く光は海面のわずか1%にすぎないため、深海では光合成をおこなう植物やプランクトンは生息できない。水深1,000mを超えると完全な暗闇となり、目が退化する、自ら発光する、望遠鏡のような筒型の目を持つなど、生物は独特な進化を遂げる。深海では落ちてくるプランクトンや魚の死骸から始まり、それを食べる生物、その生物を捕食する生物と、独自の食物連鎖がおこなわれているのだ。

最大の脅威は水圧だ。海水の重さが圧力となり、すべてを押しつぶす。深く潜るほどに水圧は増し、およそ10m深まるほどに1気圧高くなる。水深100mまで潜れば10気圧、厳密には海上の1気圧とあわせて11気圧かかり生物の細胞をも圧縮する。
人間は300気圧が加わると細胞の破壊、神経障害、さらには身体を構成するたんぱく質さえ変性するというから、生身で泳げば水圧だけでも危険にさらされるので、潜水服か潜水船に頼るしかない。
潜水調査船・しんかい6500は、その名の通り水深6,500mまで潜航できる。搭乗員は厚さ73.5mmのチタン合金の球に守られながら潜航し、140mm厚のメタクリル樹脂の窓から外をながめることしかできない。もしも外壁や窓に亀裂が生じたら、浸水してまたたく間に圧死する。強度が足りなければ、搭乗員ごと圧潰する。

植物のない深海でも、大地の恵みで生きるたくましい連中がいる。海底火山から吹き出す硫化水素をエネルギーとするバクテリアだ。昨今の調査では、体内に硫黄酸化細菌と呼ばれるバクテリアを取り込み、海底火山の有毒ガスをエサにして生きる生物が多数見つかった。
人間には有毒な硫化水素を利用して、鉄と硫黄でできたウロコを足にまとい、100℃近い噴火口で生息する巻き貝・スケーリーフッドなども発見されている。硫化水素の恩恵を得られない生物は、乏しいエサを逃さない工夫が必要なため、全長18mにも巨大化したダイオウイカ、あごと牙が発達したキバハダカ、死肉を食らうヌタウナギ、自分よりも大きな相手も飲み込むアンコウなど独自の進化を遂げている。
もしも潜水服が完成しても、一人で外出するのは無謀だ。エネルギーを浪費しないように身をひそめながら、エサであるあなたが近づくのを、深海生物たちが待ち構えているのだから。


同様に、シミズ・ドリームの「宇宙ホテル」構想にも、厳しい現実が立ちはだかる。

清水建設 シミズ・ドリーム 宇宙ホテル -宇宙観光旅行-
http://www.shimz.co.jp/theme/dream/spacehotel.html



宇宙ホテルは、エネルギー・サプライ、客室モジュール、パブリック・エリア、プラットフォームの4つの部分で構成されている全長240mの大型宇宙構造物です。低軌道に浮かぶ宇宙ホテルでは、訓練を受けていない一般の人々が宇宙旅行を楽しむことができます。
宇宙旅行の最大の目的は「地球を観ること」です。旅行客は透明なブルーに輝く地球、薄い大気のベール、美しい雲、地球の夜明けを見ることができます。
また、天体観測や無重力空間でのスポーツや食事、地球との交信などをして過ごします。


マイナビニュース もしも科学シリーズ(18) もしも宇宙旅行にいくなら
http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/11/18_2.html

もしも宇宙旅行にいったら、どんなに楽しいだろう。そんな幻想も発射台までだ。加速G、宇宙酔い、放射線、スペースデブリや病気におびえ、二度と来るか!と思うに違いない。

打ち上げ時は3G強の加速度が15分ほど続く。NASAは誰でも耐えられるというが、体重の3倍は少々キツい。周回軌道上では約50分で地球を一周する。地球の表情は刻々と変わるが、あと2~3周もすれば飽きるだろう。シャトルのトイレは微小重力状態でも使える吸引式で、身体にあてたアダプタからホースで吸い取る仕組みだから、かなりのストレスを感じるに違いない。

翌朝、頭に血が上ったようなぼんやり感と、吐き気やむかつきで目が覚める。典型的な宇宙酔いだ。重力が弱い宇宙では上下の区別がない。これが人間の感覚器官を狂わせ、乗り物酔いのような症状を引き起こすのだ。
宇宙酔い以外に、筋力の低下、体重の減少、血液の減少、背が伸びるなどが起きる。深刻なのは貧血と、ホルモン異常によるカルシウムの減少だ。数日なら大事に至らないが、50日以上滞在すると、地球に戻っても完治するのに数ヶ月かかる。虫歯も大きな脅威だ。重力から解放されたバクテリアは、地上の40~50倍速で増殖しあっという間に歯をむしばむ。

宇宙酔いに苦しみながら、翌日の船外活動に向けて減圧が始まる。シャトル内は地球と同じ1気圧だが、船外活動宇宙服(EMU)内は0.27気圧の純酸素しかないので、急激な気圧変化で体液中の窒素が泡だち、減圧症を起こしてしまう。そのため12時間以上かけて少しずつ気圧を下げ、その後は1時間ほど純酸素を吸って窒素を追い出す。着替えるだけでも1時間はかかるからというから大変な労力だ。
減圧が終わったら、人類に残された最後の開拓地、宇宙を満喫しよう。残念ながらEMUの遮蔽性はあまり高くないので、シャトル内よりも多くの放射線を浴びることになる。
恐怖から心拍数ははね上がり、意識がもうろうとする。おまけに、目標物のない宇宙空間では、自分がどこにいるのか分からずパニックを起こしやすい。決してシャトルから目を離さずに、落ち着いて行動しよう。

最終日は帰還の準備で忙しい。血液の減少と降下時の体液シフトで失神しないよう、塩の錠剤と多量の水を飲んでおこう。
逆噴射のあとは、地表面に対し機首を約40度上げた体勢となり、尻もちのような感覚で落ち続ける。大気圏再突入時、シャトルの速度はマッハ24(音速の24倍)!機体は1,600℃に達し、高温イオン化粒子の影響で無線が使えないブラックアウトがしばらく続く。
大気中で十分な揚力を得られないスペースシャトルは、旅客機では墜落といえる角度と速度で降下する。着陸したらパラシュートで急制動だ。緊張と恐怖は限界を超え、薄れる意識のなかでこうつぶやく。モルディブにすれば良かった、と。


もっとも宇宙ホテルは、ロシアOrbit Technologies社が2016年にオープンさせるという計画が2011年に報道されるなど (但しその後の情報がないが)、技術的な観点からは近い将来に実現するかもしれない。

Gigazine 2011年08月19日 宇宙から地球を見下ろせるホテルが2016年にオープン予定
http://gigazine.net/news/20110819_space_hotel/



夢に対して現実を示すのは自分としても大人気ないとは思うが、我々が生身の人間である以上やはり然るべき活動の舞台がある。深海は明らかに人間にふさわしくないし、宇宙も現時点では搭乗員は相当なトレーニングが必要だ。まずは足元をしっかり固めて、高い技術力をこの地上をよりよいものにしていくかに向けていこう。



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007シリーズの「私を愛したスパイ」(1977年公開)に登場したロータス「エスプリ」は潜水艇に変形し、地対空ミサイルや小型魚雷を発射できる。



当たり前だが、このロータス・エスプリは実際には潜水は不可能で、そのシーン撮影のために10万ドルもの費用が投じられ、模型も含め7台のモデルが用意されたそうだ。
このエスプリ (水中シーンのために撮影された潜水用モデル) が昨年9月にオークションで落札された。

映画.com 「007」の水陸両用車をテスラCEOが実用化!?
http://eiga.com/news/20131023/13/

同作の撮影に使用されたスポーツカー型の潜水艇がオークションにかけられ、86万6000ドルで落札された。
落札者は米電気自動車会社テスラ・モーターズのイーロン・マスク最高経営責任者。単なる撮影用の小道具に1億円近い金額を投じた理由について、「当時は、南アフリカの幼い子どもだった僕にとって『007 私を愛したスパイ』でジェームズ・ボンドがロータス・エスプリごと埠頭から海に突っこみ、ボタンを押して潜水艦に変形させたのは衝撃的でした」と説明。「ですから、本物は変形しないと知ってがっかりしたものです。これからテスラの動力装置を積み込み、実際に変形させられるか試してみるつもりです」 
テスラ・モーターズだけでなく、宇宙飛行事業を行うスペースXの代表取締役も務めるマスク氏だけに、実現の可能はありそうだ。


テスラ・モーターズはシリコンバレーを拠点にバッテリー式電気自動車と電気自動車関連商品を開発・製造・販売している自動車会社であり、モデルとはいえ事業のシンボルとしてボンドカーの購入はいいアピールとなっている。

しかし、実際は「私を愛したスパイ」のエスプリの実用化は既に2008年のジュネーブモーターショーで発表されている。スイス・Rinspeed社のコンセプトカー「sQuba」だ。



Rinspeed sQuba
http://en.wikipedia.org/wiki/Rinspeed_sQuba

The sQuba, developed by Swiss company Rinspeed, is the world's first car that can be driven both on land and under water. The original idea by Rinspeed founder and CEO Frank M. Rinderknecht was inspired by the 1977 James Bond film The Spy Who Loved Me. The chassis from the Lotus Elise is used as the base for this vehicle.

The sQuba is a zero-emission, all electric vehicle which uses three electric motors, one for land travel, two for water. It drives on land powered by its electric rear-wheel drive powertrain, utilizing rechargeable lithium-ion batteries. Upon entering water, it floats on the surface until the operator floods the interior to submerge it. It can be submerged to a depth of 10 metres, powered by twin electric-powered propellers supplemented by two Seabob water jets. It "flies" when underwater, like a submarine, as it is not designed to drive along the surface at the bottom of the water. The car's top land speed is 120 km/h (75 mph). On the surface of water, the top speed is 6 km/h and underwater it is 3 km/h.




これはすごい。しかもzero-emmissionで環境にもやさしく、ドライバーなしの自動走行機能まで備えている。ボンドカーとの違いはミサイルが出ないこと (これは問題なし) と、オープンカーなのでスキューバダイビング用の装具が必要 (これは問題) という点だろうか。
しかし、残念なことにsQubaは日常生活の中で全く必要性が感じられない。

一方で、あったら便利と思われるのは、空を飛ぶ自動車だろう。実際に陸空両用車は各国でいろいろ開発がされており、いよいよ実用段階に入ってきた。その中で近いうちに世の中に広まりそうなのはオランダ・PAV-V社の「The PAL-V-One」と、アメリカ・Terrafugia社の「Transition」だ。

PAL-V One
http://pal-v.com/the-pal-v-one/



AFPBB News 2012/4/4 開発進むジャイロコプター型空飛ぶ自動車「PAL-V」、オランダ
http://www.afpbb.com/articles/-/2869403?pid=8741049

PAL-V (One) を開発しているオランダ企業PAL-V (本社:ラームスドンクヴェール) によれば、空中での航続距離は500キロ、最大巡航高度は1200メートルだという。また、地上では回転翼を折りたたんで合法的に公道を走行できる3輪自動車となり、最大1200キロの連続走行が可能だ。
「将来、自宅から空港へ運転しそのまま離陸、着陸したらまた陸路で目的地まで、これ1台でまかなえるようになる」と、PAL-V社のロバート・ディガマンサCEOは語る。
最初の商用モデルは2014年の発売を予定しており、価格は25万~30万ユーロ(約2700~3300万円)になるだろうとディガマンサ氏は話す。
また、オランダ航空宇宙研究所と共に開発に協力するデルフト工科大学航空宇宙学部のジャッコ・フークストラ学部長は、「(PAL-V (One) は個人飛行機旅行に革命をもたらすだろう」と話している。
PAL-V (One) は交通渋滞から抜け出すのに最適な車だと思うかもしれないが、早まってはいけない。離陸に165メートル、着陸に30メートルの滑走路が必要で、離着陸は空港でのみに制限されるからだ。





Terrafugia
http://www.terrafugia.com/



SankeiBiz 2012/4/6 空飛ぶ自動車“お手頃”価格でTAKE OFF! 受注すでに100件
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120406/bsa1204061709007-n1.htm

世界の主要自動車メーカーが参加する「ニューヨーク国際自動車ショー」が4日、ニューヨーク・マンハッタンで開幕し、米ベンチャー企業「テラフジア」が開発した“空飛ぶ自動車”「トランジション」が話題をさらった。主翼を折りたたむと最高時速104キロの自動車に早変わりし、米国では公道も走行できるという。
「トランジション」の主翼の長さは計8メートル、機体の長さは6メートルで高さは2メートル。主翼が伸びた状態の外観は小型飛行機だが、主翼をたたむと幅2.3メートルの自動車に“変身”。通常の車庫に格納可能だ。
一般販売に先駆けた特別販売の価格は1台27万9000ドル。日本円にして約2300万円と高額だが、すでに約100台の予約が入っている。
開発企業「テラフジア」のホームページなどによると、乗車定員は2人で、自動車としての最高速度は104キロ。燃費は12.7キロで性能は十分実用的だ。飛行速度は185キロで最長787キロの航行が可能。一方で離陸時に約762メートルの滑走路が必要になるという。





国土の狭い日本での実用性はともかくとして、いずれもとても魅力的だ。
ともに2013~2014年の発売を目指していたようだが、2014年6月時点ではまだのようだ。しかしTransitionはホームページでReserveができるようになっており、本当に商用化が近そうだ。

一般的な車が水中を潜る時代は来ないと思うが、車がふつうに空を飛ぶ時代はいつの日かやってくるだろう。技術や道路法(?)などさまざまな点を解決する必要はあるが、人類にとって大きな転機となりそうだ。



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世界歴代で最も売れた(売れている)コンピュータゲームソフトはWii Sportsで、全世界で8000万本を越えているという。Wiiスポーツは海外ではWii本体に同梱されていることもあるが、他にもスーパーマリオブラザーズが4000万本、マリオカートWii、ポケットモンスターなどが3000万本を越えるなどベストセラーソフトの売上は桁違いだ。今後はダウンロードソフトが主流となって、更に大きな売上を記録するゲームが出てくることだろう。

さて、現在のビデオゲーム産業の産みの親はアメリカ人の発明家であるラルフ・ベアである。ベアが1972年に開発・発売した「オデッセイ」が家庭用ゲームの元祖だ。
ベアは思いついた事は全てメモをとる癖があり、1966年8月にバス停で書かれたメモには「テレビで見たくもない番組に対応するにはどうしたらいいか。テレビをゲームに使えばよい」とあり、ここからゲーム作りが始まったという。
2006年、家庭用ゲーム機を発明しテレビゲーム業界を生み出したとしてアメリカ国家技術賞を受賞している。90歳を超えた現在も現役の発明家だというから素晴らしい。





もう少し時計の針を戻すと、歴史に名を残す3つのゲームの存在を知ることができる。そしてこれらはどのようなゲームだったのか確認することができる。

まず1952年にケンブリッジ大学の大学院生だったアレキサンダー・サンディ・ダグラスが、初期のコンピュータであるEDSAC(エドサック、Electronic Delay Storage Automatic Calculator)向けにディスプレイ画面を介してコンピュータと対戦する三目並べの 「OXO」 を作成した。「OXO」はいわゆる○×ゲームで、英語では"tic-tac-toe"と呼ばれる。
これはゲーム画面の記録が残っている初のビデオゲームだ。しかしまだコンピュータの黎明期で、またEDSACは量産されたコンピュータではないため、このプログラムは他の場所やコンピュータには広がらず一般人が遊ぶ事ができるものではなかった。
現在The Edsac Simulator が公開されており、このゲームも楽しむことができる。

The Edsac Simulator
http://www.dcs.warwick.ac.uk/~edsac/



次に1958年にアメリカの原爆開発協力機関の一つであるブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムが、アナログコンピュータとオシロスコープを用いて「Tennis for Two」を製作した。これは一般人がプレイしたことが世界初のコンピュータゲームと言われている。
ヒギンボーサムはブルックヘブン国立研究所の計測器部門責任者で、日本に落とされた原子爆弾の計画である「マンハッタン計画」にも関わり、レーダーシステムの改良を担当していた。
原子力研究の安全性を地元住民にアピールするために毎年研究所を一般公開していたのだが、機材や写真だけでは退屈だったため、楽しんで理解してもらうためにこのゲームを製作し、展示会に来た見学者に実際遊んでもらったそうだ。



ゲームは大評判となり、何時間も並ぶ人が出た程だったが、後に別の研究に使う為に解体されてしまったそうだ。ヒギンボーサムも「Tennis for Two」については特許を主張する事がなく、継続しようとする者やゲームビジネスに使おうとする者も現れず、「Tennis for Two」の存在は長年埋もれたままになった。
20年以上を経て1982年にビデオゲームに関する裁判でヒギンボーサム自身が証言したのが再度脚光を浴びるきっかけになり、また世界初のゲーム歴史研究家と言われるデビッド·H·アハラルがコンピュータ雑誌に記事を載せた事で、広く知られるようになった。

1962年になると、マサチューセッツ工科大学の学生であったスティーブ・ラッセルが、PDP-1 (Programmed Data Processor-1、DEC社のPDPシリーズの最初のコンピュータ) 向けに「スペースウォー!」(Spacewar!)を開発した。これは宇宙戦争をモチーフとした対戦型コンピューターゲームで、これが世界初のシューティングゲームとされている。



前年の1961年夏にDECからMITのコンピュータ室にPDP-1が贈られ、これをもとにラッセルは年次科学セミナーの為に製作したゲームで、その後大評判となった。
「スペースウォー!」はパブリックドメインソフトウェアとして「コピー・改造自由」とされ、プログラムが書かれた鑽孔紙テープはPDP-1のすぐ隣に置かれ、勝手に持ち出し可能だった。そのため全米に約50ヶ所あったPDP-1に広がり、各地でミサイル・太陽・ダメージ・複数戦闘などに独自の改造が行われた。

極めて高度なゲームに親しんでいる現代の我々からすると、どのゲームも退屈に映ってしまうが、全ての技術は段階的に発展していくものであることを改めて認識する。特にコンピュータゲームは高度化や多様化が著しく、短期間で一大産業にまで発展したという点で目を見張るものがある。小さい頃に遊んだゲームが歴史になっていくのは感慨深いものだ。



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地球上には野生動物が2000万種類以上もいるといわれているが、その多くが人間による乱獲や森林伐採などによる自然環境の変化で絶滅の危機に瀕している。種の存続には適応力が求められることは間違いないが、直接的・間接的に我々人間が野生動物を絶滅に追いやってしまっていることを考えると非常に胸が痛い。
これらの野生動物を守るために、国際自然保護連合 (IUCN = International Union for Conservation of Nature and Natural Resources) は絶滅のおそれのある野生生物(動植物)のリスト「レッドリスト」を作成しており、以下のようなカテゴリーが作成されている。

  Extinct (EX) - 絶滅
  Extinct in the Wild (EW) - 野生絶滅
  Threatened - 絶滅危惧種
    Critically Endangered (CR) - 絶滅危惧IA類
    Endangered (EN) - 絶滅危惧IB類
    Vulnerable (VU) - 絶滅危惧II類
  Near Threatened (NT) - 準絶滅危惧
  Least Concern (LC) - 軽度懸念

日本においては環境省、水産庁や都道府県等の地方公共団体、学術団体などによりレッドリストが纏められているが、環境省のレッドリストもほぼIUCNと同じようなカテゴリーになっている。

さて環境省のレッドリストは2012年8月28日に第4次レッドリストとして改訂された。

環境省 第4次レッドリストの公表について(お知らせ)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=15619

この中で最も大きく取り上げられたのは、かつて全国に広く生息していたニホンカワウソが絶滅種に指定されたことである。

日本経済新聞 2012年8月28日 ニホンカワウソ絶滅指定 30年以上生息確認なく
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28009_Y2A820C1000000/

国の特別天然記念物で「絶滅危惧種」に指定されていたニホンカワウソについて、環境省は28日、生息を30年以上確認できていないことから絶滅したと判断し、「絶滅種」に指定した。絶滅の恐れのある野生生物を分類したレッドリストの改訂で、ランクを変更した。環境省によると、哺乳類を絶滅種に追加したのは1991年の選定開始以来、初めて。
ニホンカワウソは、イタチ科で体長1メートル前後。魚やエビを好む。戦前は全国に生息していたが、毛皮目的の乱獲や河川の汚染で生息地が破壊されるなどし、激減した。79年に高知県須崎市で生きた姿が目撃されて以来、国内では目撃例がない。




その後愛媛県・高知県などで目撃情報が相次いでいるというニュースが届いている。真偽は定かではないが、実際に発見され保護されるようなことがあれば絶滅指定は解かれることになるだろう。

何らかの形で絶滅が確定したと思われていたが、その後生存が確認された例は比較的多くある。
例えばニューカレドニア南部固有種であるオウカンミカドヤモリは、19世紀に絶滅と推定されたが、1994年に再発見され現在ではペットとしても飼育されている。かなり極端だ。



また、日本でも1922年絶滅確定と言われたダイトウウグイスが2008年5月に鹿児島県の喜界島にて再発見された。



またクニマスは原産地である田沢湖の酸性水の流入により1940年に絶滅したが、それ以前に卵が放流された記録のある山梨県・西湖に生息していることが2010年に確認された。



このように再発見された絶滅動物は珍しくはない。そしてその中で最も"派手"なのはやはりバーバリライオンだろう。

バーバリライオン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3

バーバリライオン (Barbary Lion、Atlas Lionとも呼ばれる、学名Panthera leo leo) は、食肉目ネコ科に属するライオンの一亜種で、アフリカ北部(現在のエジプトからモロッコにかけて)に生息していた。
全長は4m以上で胸板が厚く、現存のどの亜種よりも大型であったと言われる。たてがみは長く伸びて胴にまで達していた。他のライオンとは違い、山間の森林を好んだ。

古くから人間の活動が盛んであった地中海周辺では、バーバリライオンの雄姿は見世物として重宝された。カエサルは400頭、ポンペイウスは600頭のバーバリライオンを戦勝パレード用にローマに連れてきたという。競技場で剣闘士と戦わせられたともいう。ローマ帝国が衰亡した後も、人間の活動域の拡大に伴ってバーバリライオンの生息地は減っていった。そして近代にはいると、娯楽としての狩猟と動物園用の捕獲がさらにバーバリライオンを追いつめた。アルジェリアとチュニジアからは1891年に姿を消し、モロッコでは最後の野生個体が1922年に射殺され絶滅したというのが通説となっていた。

しかし、1996年に再発見され、2007年現在1頭生息しているのが確認されている。しかし、これが純血種のバーバリライオンであるかどうかは定かではない。また、混血種の飼育下繁殖は現在でも行われており、フランスの動物園で50頭ほど飼育されている。その後、原産地のモロッコのムハンマド5世の私的動物園で飼育されていた純血種の個体群が生き残っていた事が判明。2012年に首都ラバトに開園したラバト動物園にて、全世界で確認されている個体数の半数にあたる32頭が飼育されており、動物園開業直後に3頭誕生している。




Panthera leo leoという学名から察せられるとおり、百獣の王の中の王ともいうべき堂々とした姿を誇り、あまりにも姿が立派であるがために、ローマ帝国の剣闘士との戦いのためにまとめて捕獲され、近代においては動物園用に捕獲され、絶滅に追いやれれてしまった。あまりにも人間は身勝手である。
そしてその発見も、また人間の愚かさを知ることになるものだ。

BBC Online Network June 30, 1999 Africa Extinct lion set for comeback
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/382080.stm

In 1996, a British animal rights group, Animal Defenders, rescued a number of animals from an abandonned circus in Mozambique, which may have been used as a front for smuggling animals from game parks.
Among the animals, which had been kept in pitiful conditions, there were three lions which bore a striking resemblance to Barbaries.

They were taken to Hoedspruit, a 12,000 hectare private wildlife reserve near the Kruger National Park in South Africa. Hoedspruit's owner, Lente Roode, has successfully bred cheetahs and released them back into the wild.


現在モロッコ・ラバト動物園で飼育されているバーバリライオンの動画も見てみたが、完全に動物園の動物になってしまっている様子で何とも可哀想だ。
我々は絶滅危惧種を守るために、少しでも環境を守らなければならないことは間違いないが、レッドリストも結局人間の一方的な目撃情報などで作成されているものであり、バーバリライオンのように本当に種を存続させている動物にとっては、むしろ絶滅指定のまま放っておいてもらった方が幸せなのではないだろうか。ニホンカワウソも放っておいてあげよう。



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旅好きの私にとって、地球規模で自由に空を旅する渡り鳥というのはとても気になる存在だ。彼らが長旅の果てに目指すのは、繁殖や子育てに適した場所や、餌が豊富な土地だが、なぜ長い距離の移動をするかはいまだに謎が多いらしい。

そして長距離を移動する生物は鳥だけではないく、地上を旅する動物もいる。
アフリカに生息するオグロヌー (英名 Blue wildebeest、学名 Connochaetes taurinus) は、1頭もしくは少数のオスと複数のメスで群れを成して、水と草を求めて雨季と乾季の間に数万頭という集団で1500kmにも及ぶ大規模な移動を行う。



TOMORROW is LIVED オグロヌーの生態
http://www.tomorrow-is-lived.net/wildlife/artiodactyla/b-wildebeest.html

ヌーという名前は泣き声からついたといわれています。オグロヌーはウシとカモシカの特徴を合わせたような体をしていて、ウシカモシカという別名がありま す。その容姿から神様の失敗作ともいわれ、アフリカに住む遊牧民マサイの伝説では、神様は様々な生き物をこしらえた後、アイデアが尽きてしまい、牛の角、 山羊のひげ、馬の尾を集めてヌーを作ったといいます。
嗅覚が優れていて、はるか遠方の雨の匂いもかぎとることができます。

オグロヌーは通常10頭から数百頭の群れで暮らしています。6月頃厳しい乾季が近づくと、ガゼル、インパラ、シマウマなどの草食動物と同じくして、 水と草を求めて大移動を開始します。タンザニアのセレンゲティ国立公園とケニアのマサイマラ国立公園の間、総移動距離が1,500kmという大移動です。 170万頭にも上る大群は、長さ10kmにわたります。

移動の途中でワニの住むマラ川を渡ることは有名ですが、実は川渡りは、マラ川だけではありません。セレンゲティ国立公園、マサイマラ国立保護区の中には川が蛇行しながら流れているので、これらの川を何度か渡らなくてはなりません。
なぜ危険な川を渡るのか?それは人間が牧場に動物の侵入を防ぐため張り巡らせた有刺鉄線のせいで、川を渡らざるおえなくなったっという説があります。



この川渡りで、大雨による増水などにより多くのオグロヌーが命を落とすことある。まさに命懸けの旅と言えるだろう。

旅の起点となるタンザニアのセレンゲティ国立公園は世界遺産(自然遺産)にも登録されている。セレンゲティとはマサイ語で「果てしなく広がる平原」という意味で関東平野よりも広いという。さまざまな動物が約300万頭生息していると推定されているが、その代表がオグロヌーだ。
是非訪問してみたいのだが、「オグロヌーの移動のルートとタイミングは予想できません。彼らを確実に見るには、少なくとも3日必要です」とのことで、焦らずにのんびりと待つことが必要のようだ。

The Official Site of the Tanzania National Parks - Serengeti National Park
http://www.tanzaniaparks.com/jp/serengeti.html


さて、オグロヌーの分類を確認すると、ウシ目ウシ科ヌー属の偶蹄類ということになる。このヌー属にはオグロヌーとオジロヌー (英名 Black wildebeest、学名 Connochaetes gnou) がいる。名前の由来は「尾黒ヌー」と「尾白ヌー」なのだが、英名は全く異なるものだ。



同じヌー属の動物だが、オジロヌーは移動はしない。草原に生息し、オスと5-10頭のメスからなる群れを形成して生活するのだそうだ。オジロヌーの野生種は1936年に絶滅し、農場にいたものを再度保護区に放して回復を図り、現在は4000頭まで回復しているという。



その容姿から美しさや雄々しさといったイメージはなかなか得がたいオグロヌーとオジロヌーだが、実に興味深い存在だ。是非一度この目で実際の姿を目撃してみたいものだ。



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地球上で周囲よりも高く盛り上がった地形や場所が山である。当然だが海底にも周囲よりも高く盛り上がった地形がある。すなわち海底にも山がある。そしてその中には活動を行なっている火山もある。

海底火山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%BA%95%E7%81%AB%E5%B1%B1

陸上にある火山と同じだが、周りに大量の海水が存在し、その高い水圧がかかるため、陸上の火山と比べると噴火規模は小さいことが多い。ただし比較的浅い場所で噴火した場合は、水及び水圧による抑制がきかないため、陸上火山と同規模の噴火を起こす。また、海水がマグマにふれて一瞬にして気化することによりマグマ水蒸気爆発が起きることがある。

噴火活動が盛んな場合は、山頂が海面から露出して火山島を形成する場合がある。ハワイ諸島ももともとは、ホットスポット上に生まれた海底火山であった。過去に現在のハワイの緯度で活動した海底火山や火山島は太平洋プレートの移動により北西方向、つまりカムチャツカ半島の方向へ移動しつつ水没し、ハワイ海山群や天皇海山群を形成している。

海上には基本的に人はいないため直接被害は少ないが、まれに通りかかった船舶・航空機が被災する場合があるほか、津波が発生することもある。熱水により生息域の水温が上昇したり、噴出物により環境が変化したりして、魚類や藻類に影響がでることもある。


そして、インドネシア北東部のサンギヘ諸島に世界最大級の海底火山があるという。カウィオ・バラトいう名で、その高さは3400m級と言われている。水深5300mの海底に富士山クラスの山があるということになる。想像するとこれはすごいことだ。

GLobal Volcananism Program
http://www.volcano.si.edu/world/vol_extra.cfm?name=Kawio_Barat

The conical submarine volcano Kawio Barat rises ~ 3,400 m above its base on the seafloor, its top ~ 1,855 m below the water. It sits just W of the Sangihe volcanic arc between Sulawesi Island in Indonesia and Mindanao Island in the Philippines. Many of the Sangihe arc islands contain active volcanoes that have erupted within the last 100 years (including Ruang, Karangetang, Banua Wuhu, and Awu). Satellite imagery showed submarine vents generating visible hydrothermal activity on the W side of the arc. A detailed survey of Kawio Barat was conducted in June 2010.

とはいえカウィオ・バラトはまだまだその全容がつかめない。1990年代に複数の採掘会社による衛星からの高度測定で存在は確認されていたのだが、探査はなされていなかった。
2010年6月にインドネシアとアメリカの合同チームによる初めての詳細な位置の特定と探査が行われた。遠隔操作式の潜水艇に取り付けた高解像度カメラでカウィオ・バラトの斜面からミネラルを豊富に含んだ熱水が噴き出している様子が撮影されたり、ソナーを使用して初めて地形画像が作成されたりと、少しずつわかってきた。



ナショナルジオグラフィック ニュース 海底火山カウィオ・バラト:熱水噴出孔
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010071603

ナショナルジオグラフィック ニュース 海底火山カウィオ・バラト:深海の弧峰
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010071604


探査や熱水噴出の様子は動画でも確認できる。

Giant Undersea Volcano Revealed
http://news.nationalgeographic.com/news/2010/07/100714-indonesia-okeanos-volcano-exploration-vin/

NOAA Ship Explores Undersea Volcano More Than 10,000-ft. High, Maps Indonesian Ocean Seafloor
http://www.noaanews.noaa.gov/stories2010/20100712_underwatervolcano.html


さて、気になるカウィオ・バラトの位置だが、以下で示した地域のようだ。





カウィオ・バラト (Kawio Barat) とはKawioの西 (Barat) という意味のようで、インドネシアとフィリピンの間のセレベス海にKawio島という小さな島がある。

カウィオ・バラトについて調べてみたが、現在のところこのぐらいが限界で、さすがにまだわからないことが多い。2010年の探査以降の進捗が不明だが、海底探査の技術が進めばこの全容がつかめる日がくるだろう。海底にはまだまだ未知の世界が広がっている。



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今年9月とても驚くべきニュースが流れた。

msn産経ニュース 2011/9/24 光速超えるニュートリノ 「タイムマシン可能に」 専門家ら驚き「検証を」
http://sankei.jp.msn.com/science/news/110924/scn11092400300000-n1.htm

名古屋大などの国際研究グループが23日発表した、ニュートリノが光よりも速いという実験結果。光よりも速い物体が存在することになれば、アインシュタインの相対性理論で実現不可能とされた“タイムマシン”も可能になるかもしれない。これまでの物理学の常識を超えた結果に、専門家からは驚きとともに、徹底した検証を求める声があがっている。
「現代の理論物理がよって立つアインシュタインの理論を覆す大変な結果だ。本当ならタイムマシンも可能になる」と東大の村山斉・数物連携宇宙研究機構長は驚きを隠さない。
アインシュタインの特殊相対性理論によると、質量のある物体の速度が光の速度に近づくと、その物体の時間の進み方は遅くなり、光速に達すると時間は止まってしまう。
光速で動く物体が時間が止まった状態だとすると、それよりも速いニュートリノは時間をさかのぼっているのかもしれない。すると、過去へのタイムトラベルも現実味を帯び、時間の概念すら変更を余儀なくされる可能性もある。


その後この内容に異論を唱える論文が発表されたり、再実験でも超高速が確認されたり、と慌しい動きになっている。

しかし私のようにサイエンスに疎い人間にとって、このニュースは今ひとつよくわからない。なぜ超光速とタイムマシンが関係するのだろうか。そのあたりを真貝寿明著「図解雑学 タイムマシンと時空の科学」(ナツメ社)を参照しながら素人なりに調べてみた。

時間は宇宙のどこでも一様に刻まれていく、すなわち絶対時間が存在する、という考え方はとても自然な考え方で我々の感覚と合うが、アインシュタインは1905年に発表した相対性理論でこの世で最も早いものは光であり、誰から見ても同じ速度である」ことを出発点とし、「時間の進み方は観測する人の運動状態によって異なり、光速に近い運動状態ほど遅くなる」と唱えた。

この理論によると未来へのタイムトラベルは可能で、光速近くで飛ぶロケットで宇宙旅行をして帰ってくると、光速近くで運動した宇宙飛行士は時間の進み方が遅くなるので、例えば3年間光速に近いスピードで宇宙旅行をすると地上では300年が経過することになる。これを「ウラシマ効果」という。竜宮城がほぼ光速で動くロケットだったと考えればわかりやすい。現実の世界でも、光速の10万分の2.6で動く国際宇宙ステーションでは1年で0.01秒ほど時間が遅れるそうだ。

では過去にいくタイムトラベルは可能だろうか。これには3つのタイプの提案がされている。「回転時空型」「宇宙ひも型」「ワームホール型」の3タイプだ。

「回転時空型」は、過去と未来をつなぐ光円錐(以下の図参照)は静止している時空では直立しているが、回転している時空では光円錐が斜めに傾き、時空が光速で回転している地点では、光円錐が横倒しになるのでObserverは時間ゼロで過去の領域に到達できるというものだ。そして全宇宙がゆっくり回転しているなら、中心(回転軸)から離れるほど回転のスピードが速くなるために光速を超えるスピードの場所ができ、そこでは光円錐が横倒しになり、タイムトラベルが可能になるというものだ。しかし、現実の宇宙はそのような動きをしていないので、あくまでも理論モデルである。



光円錐
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%86%86%E9%8C%90

「宇宙ひも」とは宇宙の初期にできて現在は宇宙空間に漂っているかもしれないひも状の重力源であり、その巨大な重量によって時空の一部が切り貼りされたような状態になり、360度未満で1周できる、すなわち時空の近道ができた状態になるというものである。しかし宇宙ひもは現在ではまだ見つかっていない。



宇宙ひもを利用したタイムマシン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3#.E5.AE.87.E5.AE.99.E3.81.B2.E3.82.82.E3.82.92.E5.88.A9.E7.94.A8.E3.81.97.E3.81.9F.E3.82.BF.E3.82.A4.E3.83.A0.E3.83.9E.E3.82.B7.E3.83.B3

「ワームホール」とは、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道であり、入口も出口も私たちの宇宙なら、ワームホールは2地点を時間ゼロで結ぶ近道になる。そこでワームホールの一方の口を地球に置き、もう一方の口をロケットに置いて、そのロケットを光速に近い速さで宇宙旅行をすると、ロケットが地球に戻ってきたときに2つの口の間には時間差 (以下の例では地球は4時で、ロケットは2時) ができることになり、4時の地球の人が2時のロケットにあるワームホールの口へ行きその中に飛び込めば、その人は2時の地球に出るすなわち過去に旅したことになる、というものだ。
このタイムマシンの仮定を整理すると、(1) ワームホールが存在して、(2) そのワームホールが通過可能で、(3) 人がワームホールを通過可能で、(4) ワームホールを都合のいい場所につくれて、(5) ワームホールの一方の口を光速近くで動かせて、(6) タイムトラベラーが別ルートで同じ場所に戻れれば、タイムトラベルが可能となる。但しこれはワームホールで旅行をはじめた時(2時)までしか遡れないし、そもそもワームホールがまだ見つかっていない。



相対性理論における時間と宇宙の誕生 タイムマシン
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2006jiku_design/satou.html#003


ドラえもんを通じてタイムマシンに親しんできた我々からすると、いずれも何とももどかしい印象で、年月日時そして場所を指定して自由に過去・未来を行き来できるタイムマシンはできないのかと嘆いてしまうが、やはりそれだけタイムマシンは実現が難しいということだろう。

そしてタイムマシンを考える上で技術・原理と併せて因果律について考えなければならない。タイムマシンがあって過去に戻ることができたら因果律は破れてしまう。例えば、自分が生まれる過去に行った際に何らかの理由で自分の親を殺してしまったら、自分は生まれないことになる。これが「親殺しのパラドックス」である。また、連載小説家がタイムマシンで未来に行って発売されている自分の作品を現在に持ち帰ってそのまま書き写して発表したとすると、その作品は誰が書いたことになるかわからなくなる。これは作者不明のパラドックスである。タイムマシンを実現可能にするのならば、このパラドックスを説明する論理が必要となる。

このように様々なハードルがあることを考えると、光速超えるニュートリノは大きな一歩ではあるが、まだまだほんの第一歩ということになりそうだ。


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鉄道の歴史を技術的な観点から捉えると、18世紀後半に産業革命で蒸気機関の動力が発明され、またその頃から鉄製レールが使用されはじめ(それまでは木製)、そして19世紀初頭に蒸気機関を用いた鉄道の研究・開発がはじまったという流れになる。当然その舞台はイギリスである。
この19世紀初頭のイギリスの鉄道の歴史を時系列に整理すると以下のようになる。

1804年 リチャード・トレビシックが、世界初の軌道上を走る蒸気機関車・ペナダレン号を製作し走行に成功したが、この頃は馬車鉄道用のもろい鋳鉄レールを使用していたため線路が折れやすく、本格的な実用化までには至らなかった。



1807年 最初に旅客輸送を行った鉄道は、1807年に開業したウェールズ地方のオイスターマス鉄道で、既存の路面軌道を用いた馬車鉄道であった。
1812年 最初の商業的に成功した蒸気機関車は、1812年にリチャード・トレビシックによって製作されたサラマンカ号(The Salamanca)であった。
1814年 ジョージ・スチーブンソンが、初めてフランジが1方向のみである車輪を用いた機関車を開発した。
1821年 ジョージ・スチーブンソンが、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の技術者に任命され、1型蒸気機関車(Locomotion No 1)による旅客輸送を実現した。
1825年 ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は総延長40キロの営業を開始し、蒸気機関車で営業運転を行う世界初の鉄道となった。これが世界初の商用鉄道とされている。
1830年 ジョージ・スチーブンソンによるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。この鉄道は初めて鉄道会社の自社所有の列車のみで運行することが意図され、ダイヤを作ってきちんとした運行管理が行われるようになった。これにより、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道を世界で最初の実用的な鉄道と呼ぶことがある。

このような経過があるので、「世界初の蒸気機関車」は1804年のリチャード・トレビシックによるペナダレン号であるのだが、「世界初の鉄道」というのは捉え方によってオイスターマス鉄道ともストックトン・アンド・ダーリントン鉄道ともリバプール・アンド・マンチェスター鉄道とも解釈できるということを覚えておこう。

さてリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が完成間近となった1829年10月に、列車を牽引するために蒸気機関車を導入するかケーブル牽引にするかの検討が行われ、その決定をするための競争が行われた。これがレインヒル・トライアルである。リヴァプール - マンチェスター間のマージーサイド州レインヒル(Rainhill)で開催されたこの競争には、当時の機関車技術者が参加し、後に蒸気機関車の歴史に名を残す競争となった。

このルールを簡単に記すと以下のとおりである。
1. 機関車は1回の行程ごとに片道1.75マイル(2.8km)、合計で10往復行程を走る。
2. 平均速度は10マイル毎時(16km/h)を下回ってはならない。
3. 機関車が上記の行程をこなした後、新しい燃料と水が機関車に供給され、機関車が再び動けるようになり次第競争開始地点へ移動して、再度10回の行程を繰り返す。
4. 毎回の行程の所要時間と、2回目の競争開始までの所要時間を計測して記録する。

そしてこの競争に参加した機関車をアルファベット順に見ていこう。
1. サイクロペッド号(Cycloped)
 画像なし

2. ノベルティ号(Novelty)


3. パーシヴァランス号(Perseverance)


4. ロケット号(Rocket)


5. サン・パリール号(Sans Pareil)


また、2005年にManchester Museum of Science and Technologyがレインヒル・トライアルを再現した際の映像があるので雰囲気をつかんでみよう。
0:19から現れるブラウンの車体がノベルティ号。軽量で速やかな印象を与える。
0.47から現れる黄色い車体がロケット号。パワーと安定性を感じる。
2:07から現れる緑色の車体がサン・パリール号。大型でひときわ重厚な印象だ。




そして、実際の競争は数日に渡って行われた。
まずサイクロペッド号が最初の脱落者となった。サイクロペッド号は、ベルトの上を歩く馬を動力源としており、馬が機関車の床を突き破る事故を起こして脱落した。なぜ馬が動力の機関車が参加しているかは謎だが、「最初から失格だった」「馬が走ろうとせず脱落」「好成績を収めた」などと様々な記述が存在するそうだ。画像がないのも仕方ない。
次にパーシヴァランス号が脱落した。競争に参加するまでの途上に機関車が破損し修理するために5日を費やしたそうだ。
次に脱落したのはサン・パリール号で、8回目の行程を終えた時点でシリンダーにひびが入ったそうだ。
そして最後に脱落したのはノベルティ号であった。ノベルティ号は軽量で他の機関車よりも高速であった。それ故に群集が最も好んだ機関車であった。競争の最初の日には28マイル毎時(45km/h)に到達して度肝を抜いた。後にボイラーの配管に欠陥が生じて現場では時間内に直せなかったため苦しめられることになった。にもかかわらず翌日も競争に参加したが、15マイル毎時(24km/h)に到達した時点で再び配管に問題が生じて競争を断念せざるを得ないほど機関車が損傷してしまったそうだ。
ということで栄冠はロケット号に輝いた。ロケット号は13トンの負荷を牽引して平均12マイル毎時、最高30マイル毎時で走行したそうだ。



優勝したロケット号のジョージ・スチーブンソンは500 ポンドの賞金を獲得し、またこれによりリバプール・アンド・マンチェスター鉄道と蒸気機関車製作の契約を交わすことになったのである。
さらにこの優勝の大きな副賞として(もちろんオフィシャルなものではないが)、ジョージ・スチーブンソンは「蒸気機関車の父」として後世に称えられることとなった。これはロケット号がその後150年にわたって製造された蒸気機関車の基本設計をほぼ確立していたことによるのだが、さらにジョージ・スチーブンソンは「蒸気機関車の発明者」とも一般的に考えられてしまっている。これは明らかな誤りで、本記事の冒頭に記したとおり「世界初の蒸気機関車」は1804年のリチャード・トレビシックによるペナダレン号である。このように史実を歪めてしまうほどレインヒル・トライアルのロケット号には大きな意味があったようだ。



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今年の春に東芝が白熱電球の生産を中止するなど、電機メーカー各社がLED電球生産へのシフトが進められている。消費者としては、LED電球の低消費・長寿命は皆認識しているものの、まだまだ高価であることから、すぐにLED電球への移行が進むとは思えない。とはいえ今後10~20年くらいかけてLED電球を普及させていかなければならないだろう。

さて、その白熱電球の発明者はイギリスのジョゼフ・スワンである。決してトーマス・エジソンではない。
白熱電球は蓄音機・映画とともにエジソンの三大発明とされているが、そのいずれも先行発明・類似発明があったし、裁判沙汰にもなったという。

志村幸雄氏による『誰が本当の発明者か』(講談社)は、発明にまつわる様々なエピソードをまとめておりとても興味深い。
その本の中の白熱電球に関する記述を抜粋してみよう。

白熱電球の実質的な発明者は、英国生まれの化学者ジョセフ・スワンである。


白熱電球の課題は、少ない電気で安定して発行するフィラメント材料を見つけることであった。スワンは、木綿糸を苛性ソーダに浸して繊維に弾力性を持たせ、これを乾燥した後、炭化させてフィラメントとした。またこれをガラス管に封じ込める際には、徐々に真空にしながら加熱してフィラメントの内臓ガスを放出させるなど、徹底した排気処理を施した。
これにより白熱電球の寿命が40時間に延び、本格実用化への足場が築かれた。スワンは1878年にその成果を公開・発表している。

エジソンが白熱電球の開発に着手したのはスワンの発明の翌年の1879年だ。


ある日、エジソンは卓上の扇子を見て、竹がフィラメントの材料になるのではないかとひらめいた。そして竹の産地として知られる日本、中国、マレーなどに人を派遣して竹を採取した。エジソンは日本の京都の竹を細く削ってヘアピン型に曲げ、黒鉛るつぼ中で炭化させた。こうして1880年に真竹を使った白熱電球の製造に成功した。

エジソンは1878年にニューヨークにエジソン電灯会社(GEの前身)を設立し、白熱電球の生産はもちろん、発電から送電までの事業化をはかっている。
エジソンとスワンは特許争いをいく度か繰り返したが、エジソンは争うよりも協力するほうが互いの利益になると判断しエジスワン社という会社を設立し共同事業化を図った。しかし、エジソンが電球の口金を自ら考案したねじ込み式にしようとした際には、スワンは強く抵抗し、自己流の差し込み式で押し通した。以来、英国ではスワン式電球が使われ続け、白熱電球の発明者はスワンと信じられている。

スワンが白熱電球の発明者と呼ばれても少しもおかしくないが、そうならなかった理由は何だったのか。
まず、スワンが薬品工業を経営する余暇に趣味的に研究をしていたことが挙げられる。彼は研究成果を特許にすることも考えていなかった。一方でエジソンは発明に精力的に取り組み、その成果を確実に特許化した。
またエジソンはマーケティングの天才で、マスコミの操縦にも長けていた。白熱電球の発明の際にも、新製品の電球を全身にまとって道行く人を驚かせたと思えば、国内はもちろんヨーロッパの主要新聞の記者を招待して大々的な発表会を開いたりもしている。1889年のパリ万博では、1万個の白熱電球と1500個のアーク灯を組合せた光のショーを繰り広げ、パリっ子の目を奪った。
こうしてエジソンがスワンを呑み込み、電球の発明者としての栄光を独り占めにしたのである。


他にもWeb上に参考になる記事がある。

電気の歴史に関する余話 電球の発明者をめぐる法廷闘争
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/lamp/edison.htm


スワンはエジソンと和解しているとはいえ、エジソンが電球の発明者であるという後世の認知はスワンにとって不条理極まりない話だ。
しかし、この本によると同様な事例は数多くあり、ゆえに発明の歴史が「人と金と裁判の歴史」といわれるということを紹介している。
白熱電球は21世紀中には世の中からなくなってしまうかもしれないが、その発明を巡るスワンとエジソンのエピソードは正しく後世に伝えよう。

発明の世界において、エジソンは何かと「えらい」人だったようだ。そんなのは常識だ。いつだって忘れてはいけない。

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小惑星探査機「はやぶさ」の地球へ帰還した。この人類にとっての快挙により、未来を担う世代への宇宙への夢が膨らむことになれば、それはとても喜ばしいことである。

さて、我々の宇宙での立ち位置について確認しておこう。
我々は太陽系の地球に住んでいる。太陽系とは太陽および太陽の周囲を公転する天体と微粒子、さらに太陽活動が環境を決定する主要因となる空間から構成される領域のことで、現在確認されているだけで8個の惑星、 5個の準惑星、多数の太陽系小天体がある。
「はやぶさ」が降り立った「イトカワ」は太陽系小天体の小惑星である、

太陽系の天体の概要については以下のサイトが詳しく、またとても美しい。

科学技術振興機構 惑星の旅
http://jvsc.jst.go.jp/universe/planet/data/main/index.html

改めて各々の天体の大きさや位置関係を見ると、木星の大きさ、土星のリングの美しさ、冥王星の遠さなどを再認識できる。

太陽系についての認識は、地球が他の惑星と同様に太陽の周りを公転しているという地動説が受け入れられるようになった16~17世紀頃から始まったが、当時知られていたのは太陽と6個の惑星(水星、金星、地球、火星、木星、土星)、地球の衛星である月、そして木星の4個の衛星(ガリレオ衛星)のみだったそうだ。
その後約300年の間に、2個の惑星(天王星、海王星)、約20個の衛星、数百個の小惑星が発見された。
また2006年に惑星の定義の確定がされ、冥王星が惑星という分類から外れて「準惑星」に含まれることとなったことは記憶に新しい。

そして、現在我々地球人の宇宙の追究は太陽系の外に及んでおり、いくつもの太陽系外惑星が発見されるようになってきた。

太陽系外惑星 探査の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%B3%BB%E5%A4%96%E6%83%91%E6%98%9F#.E6.8E.A2.E6.9F.BB.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2

太陽系以外にも惑星が存在するのではないかという考えは探査の始まる以前よりあり、20 世紀には太陽以外の恒星も惑星を持っているだろうということは常識として考えられるようになったが、長らく実証されず、専らフィクションの世界でのことだった。
探査の試みがなされるようになるのは、1940年代からである。現在認められている初の発見例とされているのは、1993年に発見されたPSR B1257+12というパルサーをめぐる3つの惑星である。ポーランドの天文家、アレクサンデル・ヴォルシュチャンによって発見された。


太陽系外惑星が発見されるようになったのがこの20年程度でしかないことはちょっと意外だが、その発見のペースは毎年早まっており、現時点で発見された太陽系外惑星は累積で400を超えているそうだ。
その中には太陽系の中では考えられなかった生命の存在が期待される惑星もある。それがグリーゼ581cだ。



グリーゼ581c
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC581c

グリーゼ581cは、太陽系から約20光年離れた、赤色矮星グリーゼ581の周囲を公転する太陽系外惑星。
発見時は、ハビタブルゾーン内の軌道を持つ可能性が高く、生命が存在する事が可能な表面温度(推定0~40 ℃(32~104 °FF))を持つ岩石型の惑星(地球型惑星)と期待された。2008年には、仮にこの惑星の表面が75%以上の水の雲に覆われているならば、表面には液体の水が存在できる、とする論文が発表された。
グリーゼ581cが地球と同じような組成で出来ていると仮定した場合、直径は地球の約1.5倍、表面の重力は地球の2.2倍と推定される。
現在の無人探査機で到達しようとすると30万年程度の期間が必要になる。


アストロニュース 2007年4月26日 液体の水、そして生命が存在する可能性も―地球にとても「近い」系外惑星、発見
http://www.astroarts.co.jp/news/2007/04/26gliese581/index-j.shtml

学研サイエンスキッズ グリーゼ581c(Gliese 581 c)
http://kids.gakken.co.jp/kagaku/keywords/070514.html

グリーゼ581cの観測方法は、直接観測ではなく視線速度法が用いられている。これは惑星によって恒星が視線方向にふらついた時に起こるドップラー効果によるスペクトル変化を調べることで系外惑星を探す方法であり、これでは実際の質量を定めることができないという。
そのあたりも含めて、グリーゼ581cについてはまだまだ不明なことが多いが、グリーゼ581cは今後の宇宙への夢の主役となりえる存在だ。(もっとも今後他にもより可能性の高い惑星が出現するとは思うが)

人類の宇宙への目的は究極的には地球外の生命と遭遇することだろう。「はやぶさ」の帰還を第一歩として、地球外生命の可能性を追い求めよう。できたら生きているうちにそのビッグニュースを耳にしたいものだ。



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