どうして馬車は牛車に比べ、あまり日本では発達しなかったのか。
① 日本に伝ってきた馬文化は、朝鮮半島経由で伝わった騎馬民族郷土の文化で、ヨーロッパの戦車中心の文化とは違い、騎馬を中心に勢力圏を拡大した文化であったこと。
② 日本には野生馬を含めて馬の数が少なく、非常に貴重な動物であった。それゆえに「神馬」というように権力者の象徴となり、これに荷を牽かすという発想は生まれなかった。
③ 日本は多湿の海洋性気候のため、年間を通じて雨が多く河川も多い。また火山列島のため山地が多く、江戸時代に街道が整備されたとは言え、馬車を自由に走らせるスペースは少なかった、という気候と地形の問題。
④ 時代が変わっても高価な動物であることに変わりはなく、平民の乗馬は明治まで許されず、牛-公家、馬-武士のものとされていた。また江戸時代には戦略上の理由から、馬や車の使用について厳しい規制があり、馬車の登場する余地はなかった。
このような理由から、比較的早い時代に万が一馬車文化が入ってきたとしても、普及する余地がなかった、と記載されている。
「蓄妾実例」では、総理大臣の伊藤博文や、森鴎外、勝海舟などもスキャンダルを暴露されている。
その黒岩涙香 (1862~1920年) は、土佐出身で藩校文武館で漢籍を学び、その後英語力を身につけた。自由民権運動に携わり官吏侮辱罪により有罪の判決を受けたこともある。後に新聞記者として活躍する傍らで、翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなった。偶然だが先月紹介したジュール・ヴェルヌの 「Le Voyage dans la lune」を、1883年に「月世界旅行」として翻案している。