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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




江戸時代の繁華街といえば両国だ。
1657年の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ10万人とも言われる死傷者を出したことを受けて防火・防災を目的として1659年に両国橋が架けられた。(1661年説もあり)
隅田川の水上交通と、武蔵と下総をつなぐ陸上交通の要所である両国橋界隈は、しばらくして江戸有数の繁華街となった。川の上は屋形船が行き来した。西側の橋詰はもともと火除地として広小路が設けられたが芝居小屋や水茶屋(喫茶店)が並んだ。この様子は江戸東京博物館の模型でも知ることができる。

江戸東京博物館 常設展示室について 両国橋西詰
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/permanent/6.html

一方で橋の東には明暦の大火の犠牲者を供養するための寺院として回向院が建てられた。しかし江戸随一の賑わいを見せる両国という土地柄から、回向院は次第に信仰と娯楽が併存する盛り場となった。神仏を特別に公開する御開帳には多くの人が訪れた。そしてもうひとつ回向院を盛況させたのは、歌舞伎と並んで江戸の人々に親しまれた娯楽の相撲である。
相撲 (寺社の建築、修繕などの募金を目的とした興行相撲で、勧進相撲と呼ばれた) は1648年にひとたび禁止されたが、その後1684年に解禁された。当初は江戸の各所で開催されていたものの、回向院で開催することが多く、後に定例となった。
従って、明治時代になった1909年に常設相撲場 (ここでは旧両国国技館と称する) がこの回向院の境内に建設されたことは自然な流れであった。1909年6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された。尚、「國技舘」の名称は5月29日に板垣退助を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日の6月2日にようやく了承された。(そのため番付上は「常設館」となっていた)
枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、建物の内径は62m、中央の高さは25mで、「大鉄傘」の愛称で呼ばれた。



しかし旧両国国技館はたびたび焼失や、接収、売却と数奇な運命をたどる。この経緯をまとめてみよう。

両国国技館 旧両国国技館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8#.E6.97.A7.E4.B8.A1.E5.9B.BD.E5.9B.BD.E6.8A.80.E9.A4.A8

【すみだの名所】国技館の歴史をたどる
http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_12_1598

まず1917年11月29日に、売店の火消壷からの出火による火災が発生して全焼した。(使用不能の間は、靖国神社境内に仮小屋を建てて興行実施)
新たに1920年1月に再建し、1920年9月に再建興業をしたが、1923年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失した。



しかし再び建てなおして翌1924年の夏場所から興行を再開した。(再建中の1924年1月は名古屋で本場所開催)
その後1944年1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。(このため5月場所は後楽園球場で開催され、7日目の日曜日は晴天に恵まれ8万人以上の大観衆で埋まった。11月にも同球場で秋場所が開催された) 

歴史@東京 風船爆弾と両国国技館
http://saffroncafeandbakery.com/11-%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE%E3%81%A8%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8.html

そして、1945年3月10日、東京大空襲によりまたも焼失した。(同年春の本場所は6月に国技館で非公開で行われた)



敗戦後の1945年10月にGHQに接収され、1945年11月に焼け爛れたままの国技館で戦後初の本場所 (晴天での10日間興行) が開催された。
翌1946年9月24日に「メモリアルホール」として改称・改装された。改装後の1946年11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、プロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。従って1946年11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の相撲興行となった。
そのため、その後しばらく大相撲は明治神宮外苑相撲場、大阪市福島公園内に建築された仮設国技館、日本橋の浜町公園内に建設された仮設国技館などで開催された。



GHQの接収は1952年4月1日に解除され、日本相撲協会は再び国技館としての使用を検討したが、すでに蔵前国技館 (1949年竣工、翌年仮設のまま開館) の建築が始まっており、また駐車場の場所的な余裕が無いことから使用を断念して国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。



さらに1958年6月に日本大学に譲渡され「日大講堂」となり、日本大学のイベント以外にもプロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行に使用された。1968年から1969年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台としても使用された。



日本大学マンドリンクラブOB会 両国 日本大学講堂
http://members2.jcom.home.ne.jp/numc-ob-hp/page337.html

老朽化のため1982年をもって使用中止となり、翌1983年に解体された。幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武藏川は博物館明治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。



解体後の跡地には住友、安田、東洋の各銀行が手に入れて、90年初めに両国シティコアという名前の複合ビル施設に生まれ変わった。キーテナントは劇場シアターΧであり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。



ちなみに現在の両国国技館は、両国駅の北側の旧両国貨物駅跡地 (国鉄バス駐泊場) に1984年に建設されたものだが、ここは江戸時代まで遡ると蝦夷松前藩の下屋敷、あるいは御竹蔵 (資材の保管場所) だったようで、相撲とは直接的な関係はない。

すみだあれこれ すみだの大名屋敷
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-19.html
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/takegura.html

江戸時代から戦後まで約250年大相撲が行われた回向院に思いを馳せながら、現在の両国国技館で新しい相撲を観戦しよう。



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T型フォードは、1908年に発売され以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、約1500万台が生産された。
自動車を庶民に普及させただけというだけでなく、基本構造の完成度も高く、またベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめとする近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車である。
フォードは生産する車を1種のみとし、余計な装飾を除き色も全ての車を黒色1色にして、大量生産を行った。更にベルトコンベアに車の材料を載せ、各場所に固定して配置された人員に、同じ作業を次々とさせることにより、作業の効率化を達成した。
この大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデルは「フォーディズム」と呼ばれ、資本主義の象徴の一つであり、社会学などでも言及されている。
このようにT型フォードは労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越していた。

そして実際にT型フォードは自動車の枠を超えていたのである。

まず、T型フォードはバスに転用されている。東京で走った「円太郎バス」と呼ばれる乗合バスである。

円太郎バス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%83%90%E3%82%B9

1923年9月に東京一帯は関東大震災に見舞われ、交通網が寸断された。特に、市電網は壊滅的な被害を受け、復旧の見通しが立たなかった。市電を管理していた東京市電気局は、市電が復旧するまでの足としてバスの導入を決定。納期を早めるため、大量生産を行っていたフォード社のT型フォードに着目し、1000台(最終的に発注台数は800台)のエンジン付きシャシーを発注、バスのボディを別途国内で製造し、組み合わせる手法を採ることとした。こうして生まれたバスが円太郎バスである。わずか11人乗りの急造バスであるが、小さい車体は震災で寸断された市中を走り回るには好都合であったこともあり、市民の貴重な交通機関となった。
フォードの協力もあり、円太郎バスは震災後わずか4か月後の翌1924年1月から運行された。当初は2系統であったが、年末までに800両が揃い計20系統で運用された。
T型フォードのシャシーを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地も困ったことに馬車並みに酷かった。明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていた。それをもじって次第に円太郎バスと呼ばれるようになった。
急造とはいえ大量導入されたバスは、日本でも公共交通機関として十分に機能することを証明することとなり、後年、日本各地の都市で路線バスが運行される契機となった。こうした背景が評価され、後年、円太郎バスは交通博物館で保存されることとなった。また2008年機械遺産28番に認定された。


日本機械学会「機械遺産」  機械遺産 第28号 円太郎バス
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_028.html

「円太郎バス」は1923年の関東大震災で被災した東京市内の路面電車の代替交通手段として、東京市電気局がアメリカ・フォード社から貨物自動車用シャシを緊急大量輸入し、これに木製車体(客室)を新製したものである。車体前方のガソリン機関から推進軸が床下後方に延びて後軸をウォームギアで駆動し、運転席床上には運転用足踏みペダルが三本取り付けられている。これらはフォードTT型独特の方式である。1924年1月18日に、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の最初の2路線が開業した。
  明治初期に、落語家の四代目橘(たちばな)家円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者のラッパを吹いて演じたところ、“ラッパの円太郎”といわれて大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになった。




関東大震災後の緊急的な1000台の発注に対し、フォードが即応できたのは800台に留まったとはいえ、これほど膨大な量のオーダーに即座に応じられる自動車メーカーは当時世界でフォード1社しかなかった。
尚、東京市の発注に商機をみたフォードは、1925年に日本法人を設立して横浜に組立工場を設立し、アメリカで生産された部品を輸入して組み立てるノックダウン生産を開始した。これによってモデルT・TTの完成車及びシャーシが日本市場に大量供給されたという。円太郎バスはフォードにとって、そして日本の自動車史においても大きな位置づけであったようだ。

さらにT型フォードは鉄道(レールバス)にもなってしまっている。
1910年代以降、自動車の動力伝達機構を鉄道車両に応用する動きが欧米で進み、日本でも1920年代に自動車用などのエンジンを搭載した小型気動車が製造されるようになった 。当初は「線路を走る自動車」を念頭に開発されたこともあり、輸入自動車・トラクターのエンジンを流用し、鉄道用の車体に取り付けた、文字通り「軌道自動車」と呼ぶべき物が多かった。これらは旅客輸送量の少ない地方鉄軌道において、製造コストが廉価で燃費も安い車両として導入が進んだ。
この典型的な例が、現在も数多くの鉄道車両製造を手掛ける日本車輌製造株式会社が1928年に製造した三重鉄道シハ31形気動車と言えるだろう。

三重鉄道シハ31形気動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E9%89%84%E9%81%93%E3%82%B7%E3%83%8F31%E5%BD%A2%E6%B0%97%E5%8B%95%E8%BB%8A

三重鉄道シハ31形気動車は、三重鉄道(現在の近鉄内部・八王子線の前身)が1928年3月に日本車輌製造本店で製造した、762mm軌間用の30人乗りガソリン動車である。
新造時は当時もっとも普及していた自動車であるT型フォードの動力装置をそのまま流用した。このためエンジンはフォードT (20hp/1,500rpm)、変速機も前進2段、後進1段で遊星ギアによる常時かみ合わせ方式を採る、独特の構造のフォード製トランスミッションがそのまま搭載された。
エンジンは台枠前部に装架されていたが、ラジエーターの取り付けの関係もあって自動車同様のボンネットが車体前面に突き出していた。
このフォードTエンジンは入手が容易で整備面でも有利であったものの、鉄道車両の動力源としては非力だったのと部品供給面で不安が出てきたため、1936年にフォードA(40hp/2,200rpm)に換装されている。
この形はシハ31 - シハ34の4台が製造され、ラッシュ時を除く三重鉄道の旅客サービスのほぼ全てを一手に引き受けるようになり、同時に列車運行本数の高頻度化を実現した。




見ての通り、シハ31形気動車は運転台方向への運転しかできない片運転台車である。そのため終端駅での方向転換が必要であり、デルタ線やループ線、あるいは転車台といった転向設備が設置されていた。蒸気動力で開業し、機関車を方向転換させる施設を備えていた鉄道事業者が大半だったので問題なかったようだが、新規開業する鉄軌道会社向けにはメーカー各社は車両と共に転車台も販売したという。欧米においては、単端式気動車を背中合わせに連結して方向転換を避ける運転方法も用いられたそうだ。

このような事例に、1910~20年代にどれだけT型フォードが世の中に様々な影響を及ぼしていたかを垣間見ることができる。「T型フォードの車を追い越すことはできない。追い越せば、その先はまたT型だ」と言われたが、それどころか鉄道を利用しようとしてもT型フォードが来るのだから驚いてしまう。

余談だが、近鉄内部・八王子線は現在でも当時のままの軌間762mmの特殊狭軌線である。(普通鉄道としては三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道本線と内部・八王子線だけ) しかし長年赤字が続きその存続が問題となり、近鉄は2012年に鉄路を廃止して跡地をバス専用道路にしてバスによる運用に転換する方針を示したが、四日市市側は鉄道の存続を強く望み、同市と近鉄が新会社「四日市あすなろう鉄道」を出資・設立し、公有民営方式で存続させることで合意した。
四日市あすなろう鉄道は2014年3月27日に新会社として設立され、2015年春から経営を担う予定だ。「あすなろう」という名前は、特殊狭軌「ナローゲージ」に由来しているそうで、洒落が効いている。
この記事を通じてT型フォードベースのシハ31形気動車が走った線路を引き継ぐ鉄道に対する個人的な関心が高まった。地元と調和しての永続的な経営を期待したい。



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ビールは我々(私)の日常生活の中で欠かせないものになっている。そのビールの歴史はしっかりとおさえておきたい。

ビールは紀元前4世紀頃のメソポタミア文明において作られていたり古代エジプトにおいても飲まれていたという資料がある。日本では江戸時代の中頃にオランダから伝わったものだが、広く浸透するのは日本が開国した後だ。
当然だが、当初の日本でのビールの醸造は外国人によるもので、1812年に長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによって行われた。
明治維新後の1869年(明治2年)から1870年にかけて、横浜山手の外国人居留地内に三つのビール醸造所が外国人によって相次いで開設された。その中でアメリカ人ウィリアム・コープランド(William Copeland)によって開設された「スプリング・バレー・ブルワリー(Spring Valley Brewery)」は品質に優れたイギリス風エールやドイツ風ラガービールなどを供給した。これが現在のキリンビールの起源である。

一方で他の舶来品同様に、ビールも日本人による研究・開発が進められた。

川本幸民(かわもと こうみん、1810-1871年) は、幕末・明治維新期の蘭学者で、多くの科学の著訳書があり、白砂糖、マッチなどを試作し日本の科学の発展に貢献した人物だ。しかし(私にとって)川本の最大の功績は日本で初めてビールを試醸したことである。これは試飲はされたそうだが、販売にはいたっていない。



日本橋茅場町で造られた日本最初のビール“幸民麦酒”
www.sbj.or.jp/wp-content/uploads/file/sbj/8902_project_bio.pdf

川本幸民のひ孫である川本裕司氏によると,幸民は,1853年ペリーが浦賀に来航した際,英語の通訳として黒船に乗り込み,艦上でビールを振る舞われたことでビールの味に魅せられ,自宅にかまどを作ってビールを醸造したそうである.しかも,蒸気船など西洋の進んだ技術に恐れ慄き意気消沈していた当時の日本人に,自分たち日本人にも同じものが造れることを証明してみせるため,あえて西洋技術に挑戦した.また幸民の造ったビールは,当時川本家の菩提寺であった浅草の曹源寺で幕末の志士や蘭学者を集めた試飲会で振る舞われたと川本家に伝わっている.

産業としての醸造は、品川縣知事の古賀一平が土佐藩屋敷跡(現在の東京都品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされている。

品川区 明治維新後の品川 第10回
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006700/hpg000006608.htm

現在の品川区域は、明治初期に短い間ですが「品川県」に属していた時期がありました。短い期間しか存在しなかった「品川県」ですが、明治維新後の江戸市中やその周辺地域の疲弊は甚だしく、窮民対策が急がれていました。この、生活困窮者に仕事を与えるための事業として、明治2年、品川県は麦酒 (ビール)製造所を設立したのです。
窮民授産の方法として麦酒を醸造し、外国人好みの酒を日本人にも普及させ、同時に在留外国人にも売ろうという目論見 (もくろみ)だったのでしょう。誰のプランであったかについては諸説があり、一説には御雇 (おやとい)外国人からの意見を古賀一平品川県知事がとりあげたものといわれています。ともあれ、知事が窮民救済のための県営事業として、大井村字浜川地内の松平土佐守の麦酒製造所を設立し、麦酒を醸造しようとしたことは史料からも確かなことです。
ところが、この麦酒製造所は建設されたとはいえ、直ちにその完成品の生産販売というところまで辿り着けたかどうかはわかっていません。
使用されていた道具をみますと麦酒醸造に必要なものは揃っているので、醸造に苦労しているうちに、品川県が廃県になってしまったのではないかと思われます。


このように古賀一平によるビール醸造は、幻に終わってしまったようだ。
しかし、この幻のビールを実現させようという品川縣ビール研究会により、2006年2月に品川縣麦酒が製作され、品川区内で販売されるに至っている。(現時点での販売は確認できない)

品川ビール
http://www.touch-i-love.co.jp/berr/beertop.html



本格的なビールの醸造・販売は、1872年(明治5年)に綿卸だった大阪・渋谷庄三郎による「渋谷ビール」が最初だ。(「渋谷ビール」は「しぶたにビール」であり、ヱビスに対抗してシブヤなわけではない)

レファレンス協同データベース 国産第一号のビールを造ったのは、豊中市桜井谷の渋谷庄三郎という人だときいた。これについてさらに詳しくわかる資料はないか。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000127052

『新修豊中市史』第8巻 社会経済
「実際に日本人として最初にビール醸造に成功したのは、大阪の渋谷庄三郎であった。(中略)庄三郎は、酒の醸造が家業でもあったことから、番頭の金沢嘉蔵にフルストから麦酒製造技術を習得させた。そして、堂島中町9番地にあった自己所有の蔵を改造して渋谷ビール製造所の看板を上げ、ビール醸造に乗り出したのである。」


大阪の堂島に「国産ビール発祥の地」の石碑が建てられており、そこには次のように記載されている。



澁谷庄三郎は明治五年(1872)からこの地でビールの製造をはじめた。アメリカ人技師の指導を受け日本人の手でつくった初めてのビールといわれている。
わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二~四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。


また翌1873年(明治6年)には、甲府で野口正章が「三ツ鱗ビール」を発売している。



キリンホールディングス ビール醸造のパイオニアたち 野口正章
http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/pioneer/04.html

特筆すべきは三ツ鱗麦酒の経営者兼醸造者、野口正章のビールに対する凄まじいまでの情熱である。
野口はまずビール醸造に必要な道具類を横浜で調達した。しかし、交通の便が悪く甲府へ運ぶことができない。運搬に際し、私財を投じて新道を切り開いた場所もあったという。原料の調達では、甲府産の大麦と笹子峠に自生するホップを用いようとしたが失敗。結局わざわざ輸入品を取り寄せた。また醸造技術もなかったため、ウィリアム・コープランドを甲府に呼び寄せ、約1年間指導を受けて身につけたという。
試行錯誤の末やっと完成したのが「三ツ鱗」印ビール。しかし当時ビールを飲んでいた人の多くは都会人で、甲府では売れなかったという。東京に販売店を設け新聞広告を打ち出すなど、販路の拡大には多大な費用を要した。ちなみに広告という語を初めて用いたのは、この野口である。
苦労して醸造したビールの品質は非常に好評だった。1875(明治8)年の京都府博覧会では、審査員から「非難の余地はない」と評され、銅牌を受賞している。
1901(明治34)年、三ツ鱗麦酒は出費がかさみ、事業撤退を余儀なくされる。しかし、彼の工場から優秀な醸造者が数多く輩出され、その後のビール産業の発展に少なからぬ功績を残したことは、注目すべき点である。


渋谷ビール、三ツ鱗ビールより遅れて、1876年(明治9年)に札幌で官営ビール事業として「開拓使麦酒醸造所」が設立された。これが現在のサッポロビールの前身だ。
その後1900年頃には国産ビールのブランド数が100を超えたという。日本人の文明開化熱やそれによる食生活の西洋化などによって日本人にもビールが浸透していき、この動きがビール事業の発展に寄与したようだ。その後現在まで続く国産ビールの発展には川本、古賀、渋谷、野口の試みがあったからに他ならない。

さて、川本幸民が初めて試醸したビールは、その復刻版が醸造・販売されている。

長寿蔵ネットショップ KONISHIビール 幕末のビール復刻版 幸民麦酒330ml瓶詰
http://choujugura.com/SHOP/95422.html

幸民麦酒は、当時の原材料や仕込道具を研究し、忠実に再現しました。1800年ごろから蘭学者たちは、オランダ正月と称して酒宴を開き、ワインやビールなどの洋酒を飲んでいました。 幸民はこういった酒宴などで洋酒を手に入れ、瓶底に沈殿した酵母を使って発酵を試みたかもしれません。しかし、酵母が生きていた可能性は低く、発酵させるに至らなかったと考えられます。そのため、酵母は清酒酵母で代用し、醸造した可能性が高いのです。 この様なことから“幕末のビール復刻版 幸民麦酒“も清酒酵母を併用しています。

ということで早速購入し飲んでみた。



もちろん当時試飲で出てきたビールと全く同じわけではないだろうが、とてもコクがあり、なかなか深い味わいだ。けっこう癖になる。 国産ビールのパイオニアたちに乾杯!



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私は主食がコーヒーというほどコーヒ好きである。 全日本コーヒー協会の統計資料(2012年)によると日本人は平均して1週間あたり10.73杯のコーヒーを飲んでいる。 男女ともに40~59 歳が最多(男性14.37杯、女性13.95杯)で、18~24歳が意外に少ない(男性7.73杯、女性5.24杯)ことがわかる。
またスターバックスに代表されるシアトル系カフェが躍進している動きがある一方で、喫茶店の事業所数はピークの1981年には15万個所以上あったものが、2009年には7.7万個所とほぼ半減している。外食産業の多様化が主な原因となるが、この業界もなかなか厳しい。

全日本コーヒー協会 統計資料 日本のコーヒーの飲用状況
http://ajca.or.jp/wp-content/uploads/2011/08/data04_2013-06.pdf

全日本コーヒー協会 統計資料 喫茶店の事業所数及び従業員数
http://ajca.or.jp/wp-content/uploads/2011/08/data06_2013-01.pdf

その喫茶店の歴史をたどってみよう。もともとコーヒーはイスラム世界に発するもので、オスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブールには早くからカフヴェハーネ(直訳すれば「コーヒーの家」)と呼ばれるコーヒー店があり、喫茶店兼社交場の機能を果たしていたそうだ。ヨーロッパで最初のコーヒー・ハウスは、イスラム世界との交通の要所であったヴェネツィアに1645年に誕生したと言われている。イギリスでは1650年に最初のコーヒー・ハウスがオクッスフォードにでき、また1654年にオクッスフォードにできたクイーンズ・レイン・コーヒー・ハウス (Queen's Lane Coffee House) は現在も営業を続けている。



Queen's Lane Coffee House
http://www.qlcoffeehouse.com/

ちょうどその頃に日本にもコーヒーが伝来し、その後長崎の出島においてオランダ人に振舞われたようだ。1804年に長崎奉行所に勤めていた文人・大田南畝(おおたなんぽ)が記した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」という随筆は日本でもっとも初期の頃のコーヒー飲用記と言われるが、「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、日本人の味覚には合わず受け入れられなかったことが記されている。この時代は海外との大きな差を感じる。
しかし黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。幕末の1866年(慶応2年)に正式にコーヒーが輸入されるよになり、そして神戸元町の「放香堂(ほうこうどう)」、東京日本橋の「洗愁亭」などでコーヒーが振舞われたが、日本最初の本格的な喫茶店は1888年(明治21年)に開店した「可否茶館(かひさかん)」である。



ラジ館プレス 台東区上野1丁目 日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地
http://www.radiokaikan.jp/press/?p=32582

1888年(明治21年)4月13日、東京府下谷区上野西黒門町にオープンした日本で最初の本格的な喫茶店「可否茶館」、200坪を有した敷地に建てられた木造の洋館は二階建てでした。現在でも見られる一般的なコーヒーや紅茶を飲めるような喫茶施設の他に、遊戯スペースや図書館のような働きを持つ総合的な店舗であったことが分かります。
喫茶店を開いた鄭永慶(ていえいけい、1859年-1895年)は、長崎県平戸に生まれ、学生時代はアメリカへの留学を経験するなど時代背景からしても珍しい国際的で語学堪能な人物でした。そのような海外の文化に触れた人物だからこそ喫茶スペースを中心とした総合的な店舗を日本人に提供したいという気持ちからカフェを日本人に適した喫茶店として輸入したのだと思います。また鄭永慶は喫茶店を開店しようとすると同時に自らの語学能力を活かして学校建設も考えていたようでした。
しかし一般的なそばの倍近い価格のコーヒーを提供していたことが影響してか経営的に厳しくなり、1891年可否茶館は閉店してしまいました。その後鄭永慶は相場で失敗、借金が重なり、密出国でアメリカへと渡りましたが、病気のため1895年に37歳で亡くなりました。


可否茶館記念会
http://web01.cims.jp/moon/kahisakan/index.html

可否茶館は少し時代を先取りしすぎたようで、1891年の閉店後しばらく本格的な喫茶店はなかったが、1910年(明治43年)に日本橋小網町に「メイゾン鴻の巣」が誕生した。この店は日本で最初にカフェを名乗ったとされている。メイゾン鴻の巣に集まったのは、与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎、吉井勇、岡本一平、谷崎潤一郎らいずれも明治・大正時代を代表する文化人たちだった。



文士とカフェ文化:白秋、杢太郎、鉄幹らが談論風発の「メイゾン鴻の巣」
http://hayabusa-news.com/modules/d3blog2/details.php?bid=161

また翌1911年(明治44年)には銀座にカフェ・プランタンがオープンする。この店は当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねたそうだ。プランタンは大衆離れした高級な店で、コーヒーも出すが、洋食や洋酒に力をいれていたという。チキンカツサンドやクラブハウス・サンドイッチもカフェ・プランタンの名物だったという。



このようにメイゾン鴻の巣もカフェ・プランタンも、文学者や芸術家の溜まり場であったが、普通の人には入りにくい店であったという。

本当にコーヒーを普及させたという点では、1910年(明治43)には銀座でオープンしたカフェ・パウリスタの功績が大きい。日本人のブラジル移民を初めて手がけた人物である水野龍 (みずの りょう、1859-1951年) がブラジルへの日本人移送の見返りとしてブラジル政府より3年間1,000俵のコーヒー豆を無償提供受け、これをもとにカフェ・パウリスタを開業した。文化人だけでなく一般の学生や社会人などが出入りする庶民的な店舗として人気を博した。



そしてカフェーパウリスタは現在も銀座で営業を続けている。関東大震災の影響で店舗が崩壊して規模を縮小したり、「日東珈琲株式会社」と社名を変えたこともあったが、1970年(昭和45年)から創業の地の銀座に店を構えている。そしてそのホームページには同店の歴史についてとても詳しい案内がある。

銀座カフェーパウリスタの歴史
http://www.paulista.co.jp/introduce/history.html

明治43年12月12日、東京銀座に出現した白亜の館は、一杯五銭の、当時としては破格の値段で本格的なコーヒーを出し、後の喫茶店の原型をつくりました。
店の常連に、水上滝太郎、吉井勇、菊池寛、佐藤春夫などの大正の文豪たちが名を連ね、また、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがおしのびで通った店として、いまも多くの人に愛され、日本のコーヒー文化の歴史にその名を刻んできました。

大正二年、カフェーパウリスタは、旧店を改築、三階建ての白亜で瀟洒な建物に生まれ変わった。正面にはブラジルの国旗が翻り、夜ともなれば煌々と輝くイルミネーションに、人々は胸ときめいた。
中に入ると北欧風のマントルピースのある広間には大理石のテーブルにロココ調の椅子が並び、海軍の下士官風の白い制服を着た美少年の給仕が、銀の盆に載せたコーヒーをうやうやしく運んでくるのである。
しかも、角砂糖にコーヒーの粉を詰め込んだものを「コーヒー」と呼んでいたような庶民が、洒落た空間で本格的なコーヒーを味わう代金として、一杯五銭という価格は破格に安値だった。
こうしてカフェーパウリスタは、誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれていったのである。銀座の本店に続いて、京橋、堀留、神田、名古屋、神戸、横須賀と全国各地に支店を増やし、第一次世界大戦が終わる頃には、22店を数えるまでに至った。


このように我が国において新しい飲み物であったコーヒーを広めたのはカフェーパウリスタといえるだろう。
「パウリスタ五銭のコーヒー今日も飲む」(新居格、1888~1951) という俳句も詠まれたようで(全く季語がないが)、 当時の文化人にとって、カフェーパウリスタの存在の身近さをうかがい知ることができる。歴史の長さではかなわないが、日本のクイーンズ・レイン・コーヒー・ハウスとも呼ぶべき存在だ。

可否茶館にしてもカフェ・パウリスタにしても、創業者の目指したものやその影響はとても大きいものであり、また当時の文化人たちがイスラムやヨーロッパ同様に喫茶店を社交場として発展させたことにより、その後の日本のコーヒー文化が築かれたと言えるだろう。
この週末は日本の喫茶店の祖である銀座・カフェーパウリスタに足を運んで、じっくりとコーヒーを味わいながら、将来の日本人のコーヒー嗜好や喫茶店事業の動向を考えてみようと思う。



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以前このブログでプトレマイオス図をはじめとする古代の世界地図について調べた。今度は日本の古代地図について調べてみた。

日本で最も古い地図は751年に作成された「東大寺領近江国水沼村墾田図」だ。これは現存する地図として日本最古であるばかりでなく、地籍図として世界で最も古いものだといわれている、



近江国水沼村というのは現在では滋賀県犬上郡多賀町で、敏満寺西遺跡として残っているあたりが地図の対象と言われているが、さすがにこの地図では詳細はわからない。

日本地図の登場は平安時代になる。
「行基図」と呼ばれるもので、平安京のある山城国を中心として、諸国を俵あるいは卵状(主として楕円もしくは円)に表して、これを連ねることで日本列島の大まかな輪郭を形成したものだ。正確な測量に基づいたものではないので、日本列島の形や国の形も非常に大ざっぱだが、それぞれの国の位置関係がわかるだけでなく、一目で日本のどの辺りにあるのかがわかる大変貴重な情報であり、長きにわたって作成されたという点で、とても有効なものだ。



この名前のもととなった行基は奈良時代の僧である。



行基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

北河内古代人物誌 僧行基
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/gyouki.htm

行基(668年-749年)は、日本の奈良時代の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

十五才で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学んだ。瑜伽論・唯識論は一読して即座にその奥義を理解したと云われており、もともと非常に俊才であったようだ。
やがて、各地を巡り歩いて民間布教に務めた。人々は彼を慕って、彼に付き従う者の数がややもすれば千人にも達することがあり、彼がやって来ると聞くと、彼の説教を聴こうと人々が群れ集まってきて、村のに中には人が誰もいなくなる程であったと云う。
彼は、そうした弟子たちを自ら率いて、交通の難所には橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築いていった。そのことを聞いた人たちも皆やって来て協力した。また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、彼らを救うために布施屋を9ヶ所等も作った。
彼のこうした社会事業は、国家仏教の形をとっていた当時においては、僧尼令に違反するものであったので、五度にわたって中止を命ぜられ、弾圧もされるが、彼は国是の禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていった。後には公認され、それのみならず、東大寺の建立に協力したことによって、聖武天皇には深く敬重され、天平十七年には、我が国で最初の大僧正の位を授けられ、更に四百人の出家を彼に弟子として与えられた。人々は彼を行基菩薩と呼んだ。


近鉄奈良駅前に銅像があるので、地元の方は馴染み深いだろう。
そして、この行基が最初の日本地図を作成したとされているのだが、これはとても疑わしい。

行基の地図作成伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA%E5%9B%B3#.E8.A1.8C.E5.9F.BA.E3.81.AE.E5.9C.B0.E5.9B.B3.E4.BD.9C.E6.88.90.E4.BC.9D.E8.AA.AC

現存する「行基図」には行基作と記されているものが多いが、六国史や仏教史書には行基の記事には地図作成の事実にはふれられていない。また、最古の「行基図」とされるものは、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められたものであるとされているが、現存しているものは江戸時代の書写にすぎず、内容も明らかに延暦年間当時の状況の反映でない(延暦期にはなかった加賀国が記載されている)。
そもそも行基が生きていた時代の「行基図」が実際に存在するならば、都は大和国平城京に存在したのであるから、大和国を中心とした地図であったはずであるが、こうした地図は実際のところ見つかってはいない。このため、本当に行基が地図を作ったのかを疑問視して、「後世の人々が作者を行基に仮託したのが伝説化したものではないか」とする見方もある。
ただし、大化の改新直後の大化2年(646年)に諸国に対して国の境界についての文書あるいは地図を献上するように命令が出され、律令政治下においては民部省に国境把握の義務があり、また、図書寮には地図保管の義務があったため、当然政府内で地図が作られていたはずである。また、行基とその教団は諸国を廻って布教活動や各種社会事業を行っており、のちの東大寺大仏建立にも関与していることから、当然こうした活動を円滑化するための地図を何らかの形で所持、あるいは作成していたことは十分考えられるのである。
したがって、「行基図」が実際に行基によって作られたものであるかは定かではないものの、行基とその教団が地図と全く無関係だったと考える積極的な理由もない。


この真偽はともかくとして、行基図は歴史とともに進化を遂げる。戦国時代の弘治3年(1557年)に描かれたとされる「南瞻部洲大日本国正統図(なんせんぶしゅうだいにっぽんこくしょうとうず)」は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。



江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷された行基図が登場する。また社会の安定に伴う交通の発達によって、より実際の日本地図に近い地形が描かれるようになっていった。

一方で、1645年(正保元年)に幕府は諸大名に対して地図の作成を命じた。これが「正保(しょうほう)国絵図」(または正保日本図)である。これは1651年に新番頭北条氏長が諸国の国図を元に全国地図を作成して幕府に献上したと言われているが、これは通説で、実際はもう少し後のようだ。
この地図の作成にあたって6寸1里(21600分の1)という全国共通の縮尺が導入されるなど、測量技術や交通手段の進化により、より緻密な日本地図が作成・刊行されるようになった。北海道以外は縮尺も概ね正確である。



そして、このような江戸幕府による地図事業の傍らで、行基図は実用・出版の場からは姿を消していった。

古代や中世において、全く想像でしかない世界地図と、中心となる都を基点にして描く一国の地図とでは全くアプローチが違うことは当然だ。とはいえ、世界は幾何学的な構造であるというキリスト教の世界観によって世界地図の進化が1000年以上にわたって停滞したことを考えると、日本地図の進化というのは実用的に着実に進化したと言うことができるだろう。
やはり人類は身近なところから必要に応じて物事を発展させるものなのだ。



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原子力発電をめぐる議論が継続している。現在の生活・商業活動において電気は不可欠であるが、安全性、効率性、環境への負荷の全ての条件を備え都市の需要をまかなえるだけの発電手法がないので難しい議論だ。

さて、日本における最初の発電所は、東京の日本橋茅場町にあったという。東京証券取引所が近く証券会社が軒を連ねる東京の中核の街に火力発電所があったのだ。

発祥の地コレクション/電燈供給発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/ele_gas/DentoKyokyu.htm

コメント:
東京電燈会社(日本で最初の電気事業者)は 東京市内5ヵ所に火力発電所を設け 電灯線を引いて, 一般への白熱電灯の供給を行った。1887(明治20)年に ここ茅場町に“電燈局”(発電所のこと)を置き, エジソン式直流発電機によって直流発電を行い 近隣の企業などに供給したという。

碑文:
明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社が この地にわが国初の発電所を建設し, 同月29日から 付近の日本郵船会社, 今村技能, 東京郵便局などの お客様に電燈の供給を開始いたしました。これが, わが国における配電線による最初の電燈 供給でありまして, その発電設備は直立汽缶と, 30 馬力の横置汽機を据付け, 20キロワットエジソン式 直流発電機1台を運転したもので, 配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。


発電所といっても、当然だが現在の火力・原子力発電所のように大規模なものではなく、以下のようなエジソン式直流発電機1台が設置されたのみである。



関東電気協会 電気ゆかりの地を訪ねて 日本初の配電線による電灯供給 第2電燈局
http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

さて、この茅場町発電所を運営していた東京電燈会社は日本初の電気会社だが、もう少し詳しく見ていこう。

東京電燈
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E7%87%88
浅草火力発電所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E7%81%AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

1883年(明治16年)2月15日、藤岡市助(東芝の創業者のひとり)、大倉喜八郎(ホテルオークラや大成建設を設立)など数名からなる発起人が国から会社の設立許可を受ける。富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められたものだった。
1886年(明治19年)7月5日に企業活動を開始し、1887年(明治20年)11月には東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する。この年の末には、火力発電所を東京5箇所に設置する工事を始め、直流送電を行った。しかし、旺盛な電力需要の高まりに直流発電では賄いきれなくなり、交流送電への転換を余儀なくされた。また商業地近くの密集地に発電所を増設することは、敷地の余裕、公害対策上から問題があり、1893年(明治26年)には200kWの国産大出力交流発電機を備えた浅草火力発電所の建設を開始。3年後に完成させた。

明治時代から大正末期になると、関東において電力会社が続々誕生するようになり、熾烈な競争状態により過当なダンピングが行われるまでに至った。

東京電燈は、1923年(大正12年)に関東大震災で甚大な被害を受けた。だが復興は急ピッチで進み、翌年2月には8割以上の復旧をみた。また、震災後急増した電力需要に対応するため、隅田川沿いに千住火力発電所(4本のお化け煙突で有名)の建設も開始し、1929年(昭和4年)には50000kWの供給力を持つ大型発電所となった。その一方で、企業買収により非効率な発電設備を抱えると共に電力供給能力の過剰を招くことになり、震災による被害とも相まって経営不振の原因となった。

満州事変・五・一五事件・二・二六事件・日中戦争と軍色が強くなるにつれ、電力事業の国家による統制が望まれるようになった。1938年(昭和13年)には「国家総動員法」とほぼ同時に「電力管理法」・「日本発送電株式会社法」・「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」・「電気事業法」が制定され、1939年(昭和14年)にはそれに基づき国策企業の日本発送電株式会社が設立、同年8月には「配電統制令」が発布され、東京電燈を始めとした電力会社は日本発送電と関連する関東配電株式会社など9配電会社に統合された。東京電燈自体は9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)3月をもって解散した。


三田商学研究 第48巻第5号 2005年12月 初期電灯産業形成に果たした東京電燈の役割
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=189

探検コム 電力会社の誕生
http://www.tanken.com/tokyodento.html

浅草発電所の発電機は、石川島造船所(現IHI)が製作したもので、交流200kW(キロワット)。当時アメリカでも100kWがせいぜいだったので、《刮目に値する》と東京電灯は社史で自慢しています。
しかし残念ながら故障が多く、結局、ドイツのアルゲマイネ製発電機を併用しました。この発電機が50Hzで、同時期に関西の大阪電灯が採用したGE製の発電機が60Hz。この違いが、現在まで続く日本の電源周波数の違いです。




尚、上記で出てくる浅草火力発電所、千住火力発電所の模型などが「テプコ浅草館」に展示されていたのだが、東日本大震災の直後から休館、そして昨年5月31日で閉館となってしまった。これは仕方ないところだが、幸い開館時に訪問された方が記録を残しているので参照してみよう。

テプコ浅草館
http://www.geocities.jp/achpelican1/kankou/1tepco/tepcoasakusa1.html

このように見ていくと、電力はほぼ同じロケーションで生産・消費されていたのが、徐々に生産が遠方に離れていったことがわかる。私を含め都市生活者は、電力生産のリスクを自ら負っていないことを強く認識しなければならない。



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この1年以上新聞は電子版を愛読している。スマホで記事を読めるので何かと便利な一方で、やはり新聞は紙でないとしっくりこないと感じることもある。今後は紙は残りながらも様々な媒体で記事が提供されるようになるだろう。

さて、日本では現在の新聞と似たものとして瓦版が江戸時代以前から存在していた。木版摺りが一般的で多くは一枚摺りだったそうだ。内容は天変地異や大火、心中など時事性の高いニュースが中心だが、妖怪出現など娯楽志向のガセネタもあったそうだ。
現存する最古の瓦版は1614年~1615年の大坂の陣を記事としたもので、以下のようなものだ。



大阪市ゆとりとみどり振興局 大阪城天守閣 テーマ展「南木(なんき)コレクションシリーズ第11回 瓦版にみる幕末大坂の事件史・災害史」を開催します
http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/yutoritomidori/0000115490.html

大坂卯年図(おおさかうどしず) 大阪城天守閣蔵
慶長20年(=元和元年、1615)5月の大坂夏の陣終結直後、 戦いの様子を描いた瓦版が売り出され、これがわが国における瓦版の最初といわれています。現在残っているのは、いずれも原本をもとに版木を作り直し、それをさらに刷ったとされる模刻(複製)で、主に2系統あったことがわかっています。この「大坂卯年図」はその内のひとつです。


このように瓦版が主流だったため、紙媒体の新聞の登場は幕末になってからである。1861年には『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行されたが、これらはいずれも英字新聞である。
はじめての日本語の新聞は1862年1月に刊行された『官板バタビヤ新聞』だ。

月明飛錫 明治の新聞~新聞はじめて物語『官板バタヒヤ新聞』
http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20100406/1270566591

幕府の洋学教育研究機関である蕃書調所が発行した、『官板バタヒヤ新聞』だ。これが、日本で最初にあらわれた新聞といってよい。
『官板バタヒヤ新聞』は、オランダ政庁が贈ったバタビヤ(現在のジャカルタ)で発行された新聞(バタビヤを支配していたオランダ政府の機関紙)を、幕府の学者が翻訳・編集したもの。オランダ国内および国際ニュースが主な内容であった。
しかも、『官板バタヒヤ新聞』が発行されたのは、原本が発行されてから4ヶ月以上も後だった。昨日の新聞でさえゴミになる現代に生きる私から見ると、4ヶ月以上も前の新聞を読んで、最近の国際情勢を知ろうと努力する幕末の日本人は、痛々しいほどだが、当時の日本人にとって海外の新聞は、新しい情報をしるためのものというより、初めて知ることがたくさん書いてある書物のようなものだったのだろう。
この後も、続々と『官板バタビヤ新聞』は発行され、その後は『官板海外新聞』と名前を改め、続いていった。内容もオランダだけでなく、イギリス、アメリカ、フランス、中国、スペイン等ほぼ世界中のニュースが掲載されるようになった。アメリカ南北戦争のニュースも、7ヵ月後に掲載されている。


実際の『官板バタビヤ新聞』は以下のようなものだ。実際は書籍のような印象だ。いぜれにしても全ページ参照できるのはすごい。



国立国会図書館 4. 日本の開国と日蘭関係
http://www.ndl.go.jp/nichiran/data/L/075/075-001l.html

さて、新聞の次は我が国初の雑誌も確認しておきたい。新聞より遅れること5年、1967年に洋学者の柳河春三が創刊した『西洋雑誌』が本格的な雑誌のはじまりと言われている。

日本新聞博物館 日本の新聞人 柳河春三
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_30.pdf



幕末、随一の洋学者で新聞・雑誌の先駆者。1832 年(天保3 年2月25 日)名古屋で生まれる。幼少の時より書、蘭学を学んだほか、和漢いろいろの学者について勉強、神童と言われた。
1857(安政4)年江戸に移り、紀州藩に招かれ蘭学所に出勤する。このころから江戸の文人、洋学者と交わり、英訳事業を始め、1863(文久3)年会訳社を組織して、ジャパン・コマーシャル・ニューズを翻訳した筆写新聞日本貿易新聞を出して当局者の参考に供した。
1867(慶応3)年にはわが国初の本格的雑誌西洋雑誌を創刊、1868年開成所頭取となり、2 月に中外新聞を発行した。この新聞は、会訳社の手書新聞を印刷新聞に変えたもので、形こそ冊子型だが、戊辰戦争が緊迫するなか、国内のニュースに重点をおいた内容、売れ行き、影響力から見て日本人発行の初の本格的新聞と言えるもので、5 月に上野彰義隊の戦いを報じた別段中外新聞は、号外の元祖と言われている。だが官軍が江戸に入ると6 月、45 号で休刊、1869 年(明治2 年3 月)、官准中外新聞と題して復刊したが、柳河の急逝により翌年2 月、41 号で廃刊した。1870年(明治3 年2 月20 日)没。




国立国会図書館 4. 日本の開国と日蘭関係
http://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/078/078-003r.html

いずれも同じような冊子型で、現在の新聞・雑誌の姿からは程遠いが、ここに原点がある。
せっかくなのでこれらの官板バタヒヤ新聞と西洋雑誌の画像をスマホで見ながら記事を読んでみよう。


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テレビのアナログ放送が間もなく終了する。最終日にアナログ放送限定で、テレビ放送開始時からの名場面集の特番をやって、そのまま砂嵐になったら面白いのではないか、と思うのだが、たぶんそれはないだろう。

では、わが国のテレビの放送開始がいつだったかというと、1953年2月1日午後2時のことだ。その日「JOAK-TV。こちらはNHK東京テレビジョンであります。」というアナウンスで始まり、続いて開局記念式典が行われ、その後菊五郎劇団の舞台劇「道行初音旅」が放送された。



NHKデジタルミュージアム Q&A ラジオ、テレビ放送の最初の番組はなんですか?
http://www.nhk.or.jp/digitalmuseum/qanda/a01_04.html

またその日に、既にラジオの人気歌謡番組であった「今週の明星」が日比谷公会堂からラジオ番組をそのままテレビ中継する形で放送された。このように当時は録画装置(VTR)がないので、テレビは野球・大相撲などのスポーツ中継、舞台中継、催し物中継などの現場からの中継放送が中心だった。
その中で、テレビ放送の開始後すぐにテレビらしさを追及した「ジェスチャー」が人気番組となった。

ジェスチャー (テレビ番組)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC_%28%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E7%95%AA%E7%B5%84%29

ジェスチャーは、1953年2月20日から1968年3月25日までNHKで放送されたクイズ番組。

東京千代田区内幸町に所在していた旧NHKホールからの30分番組で、柳家金語楼率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくゲームにより番組は進行した。10年にわたり司会を務めた小川宏アナウンサーも番組の顔だった。番組演出は富田静が担当した。

複数のジェスチャーを組み合わせるための「・・・は置いといて、」(箱を動かすように両手を横に振る)というポーズが流行した。

尚、番組開始当初の正式タイトルは「家族ゲーム ゼスチュアー」であり、第1回放送~第4回放送(1953年6月放送)までは月1回の放送であったが、第5回放送(1953年7月)から週1回のレギュラー番組に昇格。これを機にタイトルを「ジェスチャー」に変更された。


アカイさんノート ジェスチャー
http://www.nhk.or.jp/archives-blog/2009/05/post_62.html

テレビ放送が始まる前、NHK技術研究所の仮スタジオで『ジェスチャー』のリハーサルは行われていた。当時、お茶の間での娯楽は、ラジオの音声が主流だったため、動作や表情の面白さを満喫できるテレビの特性を、明快な方法で示す方法はないかと開発されたのが『ジェスチャー』だった。

『ジャスチャ―』の問題は、視聴者から寄せられたもので、番組の人気が上がるにつれて、出演者をこれでもかと悩ませる珍問が、週に1000通以上寄せられた。
「満員電車の乗客をはぎとろうとしたら、強そうな男なのであわてて押しこんでいるアルバイト学生」
「酔って帰ったら、奥さんがやさしいので、外へ出て表札とにらめっこしている男」
「ダンナさんをノシたら、ノシイカになったので、あわてて水をかけてふくらませている、イカの奥さん」




出題の際に視聴者に内容を紹介する漫画も人気を博していたが、この絵はNHK美術部のスタッフが、本番当日の問題決定後に作画に取り掛かっており、2時間程度で、当日の出題分を大急ぎで描き上げていたという。

放送開始当時は出演者、スタッフともに苦労が多かった。水の江滝子はグラフNHKのインタビューで当時を振り返り「とにかく照明がまぶしく、スタジオが暑かった」と語っている。また、制作スタッフは「テレビカメラも、いまと違って容易には動かすことができなかったので、この人はこういう動きをするだろうといった予測をしてカメラ位置を指示していた」と語っている。ハンディカメラが縦横に駆け巡り、すべてが機械化されている現在と隔世の感がある。



放送開始直後のものではないが、ジェスチャーの映像が残っているので是非見てみよう。



何とも素朴だが、その裏にはいろいろな工夫や苦労があったようで、それが現在のテレビ番組にも繋がっていると言えるだろう。

また、テレビというメディアを介したドラマにも注目したい。
テレビドラマは実験放送の時代の1940年4月13日に放送された『夕餉前』が最初で、当然これはその場で演じられたドラマである。15分ほどの単発ホームドラマでその後もう2回再演・放送されたそうである。

夕餉前
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%A4%89%E5%89%8D



その後テレビ本放送に開始され、その年の11月から『幸福への起伏』(作:今日出海)という連続テレビドラマが放送された。夕餉前同様に全て生放送で行われたものである。

テレビドラマデータベース 幸福への起伏
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-130

NHKテレビ番組の50年 ドラマ・子ども番組の登場
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk50years/history/p09/index.html



この番組はNHKアーカイブスに保存されているようなのだが、さすがにこの映像は残っていないと思われるし、ドラマの詳細もわからない。
しかし、30分の生放送でのドラマ実演を13回にわたって行ったというのは、毎回相当な稽古やリハーサルを積んだだろうし、本番は相当な緊張感だったと思われる。恐らく本来ならばNGとなるようなミスや、想定しない間ができてしまったりといったケースがあったと思われる。

しかし一方でどれだけの人がこの連続ドラマを見たかという点も気になる。放送開始時のテレビは非常に高価なもので、とても庶民の手が届くものではなく、放送2年目の1954年の放送普及率(受信料支払率)は0.3%にすぎない。

戦後昭和史 NHK受信料と放送普及率
http://shouwashi.com/transition-nhk.html

この時代の日本の人口は約9000万人ほどで、ものすごく単純に考えると9000万人 x 0.3% = 27万人がテレビを視聴することができ、視聴率を30%と仮定しても8万人程度しかドラマを見ていないことになる。1953年時点では実際はもっと少なかっただろう。そう考えるととても貴重なドラマということになる。

アナログ放送終了にあたり、NHKには是非テレビの黎明期について今一度振り返っていただきたいと思う。


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日本を代表する繁華街と言えば銀座であり、その銀座のシンボル的な存在といえばやはり和光の時計台だろう。
この時計台は1894年(明治27年)に服部時計店(現セイコーホールディング)が建てたものが前身で、現在の和光本館として使われているネオルネサンス調ビルディングは、関東大震災後の1932年(昭和7年)に「服部時計店ビル」として建てられたものだ。初代時計台から通算すると116年にもわたって銀座を見守ってきたことになる。

さて、銀座の街の歴史を更に遡ると、明治時代の初期はこのあたりは銀座煉瓦街と呼ばれ、いち早く西洋風な街並みが築かれた。そして現在の和光の地には「朝野新聞社」(ちょうやしんぶんしゃ)の社屋があった。



両国の江戸東京博物館にその実寸模型があるので、目にした人も多いだろう。しかしこの「朝野新聞」はもちろん現存せず、あまり馴染みがない。江戸東京博物館の案内によると「朝野新聞は、1874年(明治7年)に創刊され、社長の成島柳北(なるしまりゅうぼく)、主筆の末広鉄腸(すえひろてっちょう)らが新政府を辛辣に批評し人気を博しました」とのことだが、この成島柳北を中心にもう少し詳しく調べてみた。



成島柳北
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8C%97

成島柳北 (1837-1884年)は江戸時代・幕末期の徳川幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。
現在の東京都台東区蔵前で松本家の3男として生まれた。のちに代々奥儒者の家柄である成島家へと養子に出され、第7代目奥儒者・成島稼堂の養子となり、成島姓となる。そして、養父の跡を継ぎ、第8代目奥儒者と相成り、成島柳北と名乗るようになる。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。また、慶応年間に騎兵頭、外国奉行、会計副総裁等を歴任。
明治維新後、東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)に共に欧米を巡る。欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。
後に大槻磐渓の紹介によって、1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」(ざんぼうりつ)や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の議員(理事に相当)にも就任している。


壺齋閑話 成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け
http://japanese.hix05.com/Literature/Ryuhoku/ryuhoku03.html

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。そして翌1874年(明治7年)9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。
朝野新聞は日本の新聞の草分けのひとつであり、1875年(明治8年)から76年(明治9年)頃にかけては他の新聞をしのぎ、もっとも影響力のある新聞だった。成島柳北はそれをリードして、政府による新聞弾圧に果敢に立ち向かったことで知られる。

日本の近代ジャーナリズムは、新聞による政府批判とそれへの激しい弾圧の歴史として始まった。
柳北が朝野新聞に入った1874年(明治7年)頃は、明治政府内での路線対立が明確になり、それに乗じて新聞の論調も過激になっていた頃だった。新聞の力を思い知らされた明治政府は、1875年(明治8年)6月に讒謗律と新聞紙条例を制定して、新聞弾圧の強化を図る。柳北が朝野新聞を舞台に繰り広げた活動は、この弾圧との戦いだったのである。

朝野新聞は1872年(明治5年)に創刊された「公文通誌」という新聞を化粧直ししたものだった。公文通誌は政府の布告をルビつきで紹介することが中心で、購読者数も少ない三流新聞だった。柳北は朝野新聞に入ると、紙面を大幅に刷新し、政論新聞としての色彩を明確にした。同時に「雑録」蘭を設けて、柳北得意の文芸を展開した。これはほかの新聞にはなかったものだ。

柳北の論調は始から過激だったわけではなかった。だが政府による新聞人への弾圧が露骨になるに従い、政府批判を強めるようになる。とりわけ末広鉄腸が新聞紙条例によって自宅禁固刑に処せられ、福地桜痴が召還される事態が生じるや、柳北は得意の諧謔を交えて、この弾圧を批判した。柳北自身、1875年(明治8年)に自宅禁固5日の刑を受けた。この一件は柳北の反政府熱をいっそう掻き立てたようである。柳北はもともと淡白な性格で、ものごとに拘泥することを嫌うたちであったが、この一件がきっかけになって、執拗な政府批判を繰り広げるのである。

そんな柳北にとって、屈辱的な投獄につながったのが、讒謗律に対する攻撃である。柳北は讒謗律の制定者である井上毅と尾崎三郎を揶揄する文を、1875年(明治8年)12月20日の朝野新聞に掲載するが、揶揄された当の二人が、名誉毀損で柳北を告発し、柳北は禁獄4ヶ月、罰金100円を申し付けられるのである。
4ヶ月の刑期を終えて出獄した柳北は一躍明治言論界の英雄になった。彼の名声を慕ってさまざまな人々が朝野新聞に投稿し、読者も飛躍的に増えて、発行部数は新聞界のトップに躍り出た。

1876年(明治9年)9月に朝野新聞は銀座尾張町の四つ角に進出した。現在和光があるところだ。だが朝野新聞は、この頃をピークに次第に勢いを失っていく。柳北自身が新聞に情熱を感じなくなったのが影響したらしい。柳北は新たに雑誌「花月新誌」を発刊し、そちらの方に勢力を注ぐようになった。若い頃からの文芸に対する嗜好性が、この雑誌を舞台に花開くことになるのだが、ジャーナリストとしての柳北は次第に影を薄くしていくのである。


このように朝野新聞は発行部数が飛躍的に伸びたことによって社屋を現在の和光の地に移したことがわかる。今も昔も新興企業の行動パターンというのは共通しているようだ。しかし朝野新聞は新社屋に移転したころから衰退していったようで、即ち我々が江戸東京博物館で目にする朝野新聞社は新進気鋭だった時期のものではなく、衰退期のものということになる。
その後1893年(明治26年)に朝野新聞は廃刊となり、翌1894年(明治27年)に服部時計店がその社屋を買収して初代時計台を建てた。歴史は繋がっているのだ。

尚、成島柳北の姪孫には、昨年96歳で亡くなった俳優・森繁久彌がいるとのことだ。いろいろなところで明治時代と現代は繋がっていることを感じる。



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都電(東京都電車)は、東京都が経営する軌道(路面電車)であり、1903年(明治36年)に馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(東電)が、品川 - 新橋間を開業したのが起源である。
路線は41系統に及び、最盛期には1日の利用者数が170万人を超え、東京の中心的な交通機関だった。しかし、自動車の急速な増加により道路事情が悪化し、1959年(昭和34年)に都電の軌道内に自動車の乗り入れが許可されると、都電はジャマな扱いとなり、また予定どおりの運行ができなくなった。
また営団地下鉄(現・東京メトロ)や都営地下鉄の次々の開業や延伸があり、1967年(昭和42年)に都議会で都電廃止が決定され、以降荒川線を除く全ての都電が消えていった。
従ってほとんどの都電の廃止は1967~1972年である。

しかしこのような流れと全く関係なく、1952年(昭和27年)に廃止された路線がある。都電26系統・一之江線 (東荒川~今井橋 全長3.2km) だ。(江戸川線、今井線とも呼ばれるがここでは一之江線と称する)



もともと一之江線は荒川を架橋し西荒川から日比谷に至る25系統と繋がれる計画だったのだが実現されなかった。そのため東荒川~今井橋は都電の単独路線であり全く他路線との接続がなかった。

鉄道の利便性の中で最も重要なものはネットワークであり、路線中に1ヶ所でも乗換え・接続があれば、我々は鉄道を乗り継ぐことによってどこにでも行けるのだが、他路線と全く接続がない場合はその路線内での移動しかできない。しかもそれが都心部からやや離れた僅か3.2kmの区間となれば早々の廃止は当然といえよう。

せっかくなので、一之江線の路線跡を以下のホームページを見ながら散策してみた。

都電跡歩き 一の江線(26系統)(東荒川~今井橋)
http://homepage2.nifty.com/toden/walk/walk_ichinoe.html

城東電車江戸川線とトロリーバス
http://www.geocities.jp/glock1320031/sub9-3.htm

現在の最寄り駅は都営新宿線・一之江駅で、都電一之江線は主に現在の今井街道に平行して走っていた。付近は住宅地で、廃線跡のいくつかは児童遊園になったりしていた。
特筆すべきは、一之江境川親水公園に残されているガーダー橋(実際のものとは線路の角度が異なる)、城東電車のモニュメント、路面電車・トロリーバスの写真で、この地に走った鉄道の痕跡を後世の残すものとしてとても意義のあるものだと思う。




さて、他路線と全く接続がない鉄道というのは、沖縄唯一の鉄道である「ゆいレール」を除き現在の日本にはない。(広島のスカイレールサービスは「みどり口駅」がJR山陽本線瀬野駅に隣接している)
しかし、もしかすると近い将来そのような鉄道が運行するかもしれない。それは宮崎県の高千穂あまてらす鉄道だ。

蘇れ高千穂線!高千穂あまてらす鉄道
http://www.torokko.jp/

この延岡~高千穂間の鉄道は、国鉄から譲り受けた第三セクターの高千穂鉄道が1989年から運営していたのだが、2005年9月6日の台風14号による暴風雨で鉄道設備に甚大な被害を受け、全線運転休止となった。
その後県や沿線自治体が復旧費用の負担に難色を示したため全線での運転再開を断念し、2008年12月28日に正式に全線が廃止となった。
一方で「民間で復旧・運行再開をする企業・団体が現れれば譲渡を検討する」と発表されたのを受け、鉄道運休で地元観光産業への危機感を募らせていた西臼杵郡の観光・商工関係者らが運行再開の目的で設立した神話高千穂トロッコ鉄道株式会社(現高千穂あまてらす鉄道株式会社)が、高千穂駅の開放イベントや、また全国から支援を募るなど復旧に向けて活動をしている。
同社のプランは高千穂駅を中心に高千穂線を復旧し、日之影温泉駅まで延伸し、最終的に全線普及を目指すというものなので、復旧後しばらくは他路線と全く接続がない鉄道ということになる。



もっとも、このような経緯を考慮すると他路線と全く接続がない鉄道と呼ぶのは相応しくないし、いち早く延岡まで全線復旧しJRと繋がることを切に願う。
高千穂あまてらす鉄道の今後の活動を応援しよう。



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