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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




「まぁるい緑の山手線~♪」で有名なヨドバシカメラは、1960年に東京・渋谷で藤沢昭和(てるかず)が藤沢写真商会を創業し、 1967年に 東京・淀橋(現・西新宿)にて株式会社淀橋写真商会を設立したことが起源だ。すなわち「ヨドバシ」とは淀橋という地名である。

淀橋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%A9%8B

淀橋とは、
1. 東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋の名称。以下の2~4はこれに由来する。
2. 東京都(東京府東京市)が35区制を敷いていたの当時の区名の一つ。
3. 現在の東京都新宿区西新宿のうち5丁目と6丁目の西半分及び2丁目と4丁目の一部を町域としていた旧町名。
4. 1889年から1932年まで東京府南豊島郡(後に豊多摩郡)にあった自治体の名称。 →「淀橋町」

淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
1. 姿見ずの橋で休憩していた徳川家光が、川の流れが緩やかでよどんで見えたので淀橋と名づけた。
2. 放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と改名した。
3. 豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった。
4. 柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。


東京の区の変遷を大まかにたどると、15区(1878~)→35区(1932~)→23区(1947~)となる。

かつての東京15区、35区
http://www.uraken.net/zatsugaku/zatsugaku_25.html

そして現在の新宿副都心は淀橋区淀橋町という地名であり、新宿中央公園、都庁、京王プラザホテル、新宿三井ビルのあたりの広大な敷地にあったのが淀橋浄水場だ。



淀橋浄水場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%A9%8B%E6%B5%84%E6%B0%B4%E5%A0%B4

明治維新後の東京では上水の水質悪化が問題になり始めた。導水路に生活汚水や塵芥、動物の死体や糞尿が流入したり、降雨時には混濁が激しかった。
1877年から1882年にかけて日本全国でコレラが蔓延して社会不安を起こし、1886年には東京でコレラが大流行した。東京におけるコレラ大流行は近代水道の必要性を一般国民に広く認識させ、政府は水道改良事業計画の策定を急いだ。

浄水場の建設は税負担増に反対する運動などがあったが、1898年12月1日に竣工、明治維新以来31年目にして近代水道が東京に誕生した。淀橋浄水場は直ちに神田・日本橋方面に通水を開始、翌1899年1月からは各戸の給水工事に取り掛かって2月からろ過処理された浄水を給水開始した。
給水開始当時の水道は現在の一般家庭各戸に給水されるスタイルではなく、街路に設置された共用水栓を利用するものであったが、上水井戸の時代とは変わって雨天時の混濁がなく、多大な労力を要する事も無く蛇口をひねればいつでも清潔な水を大量に得る事が出来た。東京市民には非常に歓迎され、特に主婦にとっては炊事・洗濯・掃除といった家事の負担を著しく軽減した。

一方で、新宿の繁栄のために広大な面積を占める浄水場の移転が大正末期頃から地元民によって要望され始めた。1932年、淀橋浄水場の機能を東村山市に移転させる(現在の東村山浄水場)計画案が市会に提出された。その後、戦局の悪化もあって移転計画の実施は戦後に持ち越された。
1960年に移転先であった東村山浄水場が竣工・通水すると、淀橋浄水場は廃止に向けて職員の転出が始まり、1965年3月31日に67年の時を経て淀橋浄水場は遂に廃止された。

その後跡地の再開発計画として新宿副都心計画がスタートし、1960年代後半から京王プラザホテルを皮切りに住友ビル、三井ビル、東京都庁舎など、次々と超高層ビルの建築が進んだ。


世紀を架ける 新宿新都心と淀橋浄水場
http://www.token.or.jp/magazine/g200002.html

新宿~東京間廃もの探索
http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index3x.html

当時は新宿の町というのは東口だけで西口は降り立つこともほとんどないエリアだったそうだ。新宿副都心高層ビルのエリア一帯が広大な浄水場だったとは現在の様子からは想像もつかない。その高層ビル群も設立から40年ほどが経過し法定耐用年数にさしかかっており、淀橋浄水場の存在は完全にひと昔前という感じがする。しかし区や町の名前ともなった淀橋の名が消え去ってしまっているのは何とももったいない。「ヨドバシ」とともに「淀橋」も全国的に知らしめたいものだ。



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都市圏では毎年のように大型ホテルがオープンしている。
東京でもここ数年でコンラッド東京、マンダリン オリエンタル 東京、ザ・リッツ・カールトン東京、ザ・ペニンシュラ東京、シャングリ・ラ ホテルといった外資系ホテルが進出している。さすがに都内の主要ホテルを全て把握するのが難しくなってきた。
こうなると「日本にはホテルはどのくらいあるのか」という点が純粋に気になるが、週刊観光経済新聞によると2007年度の日本全国のホテル営業軒数は9427軒、総客室数は76万5482室とのことだ。

週刊観光経済新聞 2008年11月1日
http://www.kankokeizai.com/image/top/081101_7.pdf

1990年以降一貫してホテルの営業軒数が増加、旅館の営業軒数が減少し続けているのは興味深い。

さて、日本で初めてのホテルは幕末の1860年のオランダ人のフフナーゲルによって創設された「横浜ホテル」だ。

横浜散策 西洋文化発祥の地・横浜
http://www5.big.or.jp/~toko/yokohama/yokohama/hama.html

日本初のホテルが建てられたのは横浜でした。それは、現在フランス料理レストランの老舗「かをり」の建っている、中区山手町七十番地に1860年に建てられた「横浜ホテル」です。
創設者はオランダのC.J.フフナーゲルと云う船長さんでした。彼はその船を売却し、船の乗組員と共に「横浜ホテル」を創設しました。
船には、コックや床屋、大工から洋服の仕立屋、そしてミュージシャンまでいましたからホテルの従業員としてやっていくことは容易いものでした。建物は立派なものとは言えないような物だったらしいですが、半ば日本風、天上からはシャンデリアが吊り下げられているような半ばヨーロッパ風であったそうです。
幕末の時代にナイフ、フォークでのディナーに優雅な音楽とはかなり意表をついた物だっただろうと、想像されます。
このホテルは慶応2年(1866年)の大火で焼けてしまいましたが、その後この周辺に立ち並んだホテルの経営者は横浜ホテルのボーイなどをしていた者が独立したものでした。


横浜の開港が1859年なので、その翌年に横浜の地で日本初のホテルが建設されたことになる。またこのホテルの開業広告は上海の英字新聞「ノース・チャイナ・ヘラルド」にも掲載されている。

「横濱 外国文化 始め・初め・はじめてものがたり」 ホテルとクラブ
http://www.spiceroad.ne.jp/spiceroad/yokohama/hotel.html

これは外国人経営ならではの感がある。
一方で、日本人によって初めて経営されたホテルは「築地ホテル館」だ。

中央区のまちづくり 築地・明石町界隈
http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/edo05_03.html

幕末の慶応4年(1868年)、築地居留地の設立にあわせて外国人の為のホテル「築地ホテル館」が完成しました。和洋折衷様式の築地ホテル館は日本初のホテルで、その姿は新しい時代を迎えた東京の新名所としてたちまち評判となり、多くの見物人が訪れ、絵師達は競って錦絵に描きました。
築地ホテル館は設計をアメリカのブリジェンス、実施案と施工を清水組(現在の清水建設)の二代清水喜助が担当しました。この二代清水喜助はバイタリティーに溢れる人物で、江戸に外国人旅館を建てるという情報を知ると、外国奉行に自ら工事請負を願い出て、工事の下命を受けました。そして完成した時には、ホテルの経営も引き受ける約束をしました。
完成したホテルの規模は、三階建ての本館(一部4階、塔屋付)と平屋からなり、延1619.7坪(約5354.4m2)、間口40.5間(約73.6m)、奥行34.0間(約61.8m)でした。
この築地ホテル館は、完成してからわずか4年足らずで焼失してしまったため、「幻のホテル」と言われていますが、幕末から明治への新しい時代の幕開けを象徴する建物として歴史にその名を残しています。
築地ホテル館があった場所は、現在の中央卸売市場の立体駐車場あたりです。


小栗上野介の業績(東善寺) 兵庫商社
http://tozenzi.cside.com/kabusikigaisya1.htm

当時最新の建物で102室、水洗トイレつき、ビリヤード室、シャワー室、バーも備え、「眺望が良い」と外国人も絶賛するホテルであった。連日押すな押すなの人気で見物人が押し寄せ、錦絵が100種以上も作られ、江戸の名所となった。

上記のURLには築地ホテル館の再現モデルも公開されており、なかなか面白い。

横浜ホテル、築地ホテル館ともに短期間で焼失してしまったのは何とももったいないが、日本ホテル史を語る上では欠かせない存在だ。新ホテル開業のニュースを耳にしたときにはこの2つのホテルのことを思い出すようにしよう。



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私が子供の頃に最もよく観たアニメは「ルパン三世」だ。世界中を旅するようになったのもルパン三世の影響が大きい。
さて、改めてルパン三世の登場人物のプロフィールを確認すると、ルパンはモーリス・ルブランの小説に登場する架空の盗賊であるアルセーヌ・ルパンの孫、銭形警部(銭形幸一)は野村胡堂の小説「銭形平次捕物控」の主人公銭形平次の6代目(アニメなどでは7代目)、石川五右ェ門は安土桃山時代の盗賊・石川五右衛門から数えて第十三代の末裔、次元大介と峰不二子は特に著名人との血縁関係(?)はない。
この中で唯一歴史上実在した人物は石川五右衛門だ。

石川五右衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

石川五右衛門 (生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊である。出生地は伊賀国・遠江国(現・浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍であったのではないかという説もある。
一説に三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたが、文禄3年追捕せられ、京都三条河原で一子とともに釜で煎殺されたという。また遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。


探してみるといろいろ記事があったが、史料が限定的なので、比較的記載内容は似ているようだ。

石川五右衛門と白波五人男、オノコロ交響曲
http://www.ten-f.com/goemon.html

奇人・怪人伝 石川五右衛門
http://www5c.biglobe.ne.jp/~wonder/sub402.htm

石川五右衛門京都の伝説
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-24.html

戦国異色人物伝 石川五右衛門
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9722/ishoku-no2.html

公家・権中納言山科言経(やましな・ときつね、1533~1611)が残した日記『言経卿記』文禄三年(1594)八月二十四日の項に「庚牛、天晴」とあり、続けて「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり。」と記されているのが五右衛門の最期らしく、この「同類十九人」には実の子供と彼の母親も含まれていたようです。この時代でも珍しい極刑の執行を一目見ようと都の「貴賎」が川原に群がり集まったと言経は伝えていますが、子供の最期については巷説が幾つかあり、五右衛門が息絶えるまで、我が子を両手で抱え上げていた とするものがある一方、五右衛門は自分の子供を踏み台にして逃れようとした。子供が苦しまないように即死させた。と正反対の風聞も伝わっているような有様。

半世紀余り後の寛永十九年(1642)に編集された『豊臣秀吉譜』という書物に、文禄の頃、石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉が京都所司代の前田玄以に逮捕させ、母親以下同類二十八人と共に三条川原で煎り殺したとある。

同じ頃、日本に滞在していた貿易商人アビラ・ヒロンの書いた書物にも「都を荒らしまわる盗賊団があり、其の中の15人の頭目が官憲に捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた」(『日本王国記』1656年著)という記述があり、当時イエズス会の京都修道院長だったペドロという人物が、これらの盗賊の首領の名前を「ixicava goyemon」だったと注釈している。

歴史的な事実として捉えられるのはここまでのようで、現在の我々が石川五右衛門をよく知っているのは、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ人気を博したことが大きい。これらの創作の中で石川五右衛門は次第に義賊として扱われるようになり、また権力者豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたようだ。

江戸の庶民が盗賊の首領であり釜煎りという前代未聞の極刑に処せられた大泥棒に、例え空想世界とはいえ歌舞伎の舞台空間の中で、「石川や 濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」といった辞世まで詠ませてやり、京都の古刹・南禅寺山門という格好の晴れ舞台をしつらえて、五右衛門に、「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とはちいせえ、ちいせえ」と大見栄を切らせた、その心情的な背景には豊臣家、つまりは豊臣秀吉を出来るだけ悪役に仕立てたい-つまりは江戸幕府・徳川家の立場を良くして置きたい、というお上の意向が陰で強く働いていたのではないか、と勘ぐりたくなってきます。

なるほど、納得感がある。

尚、ルパン三世の石川五右ェ門は、もともとはねずみ小僧の子孫にする予定だったというのはルパン三世のファンには有名なエピソードで、以下に詳しい説明がある。

Lupin the Punch☆ 石川五右ェ門
http://report.colt.amigasa.jp/C46_1.htm

五右ェ門を出したのは原作者初めての海外旅行で、アメリカのサンティエゴで開かれたコミック・コンベンションに行った時の出来事がきっかけとなった。たまたまSUSHI BAR(寿司屋)で隣になった老夫妻にサインを頼まれルパンと不二子を描いたところ、年配の女性の方に「オリエンタル(東洋的)ではない」といわれたのがヒントになったという。「ルパン」に日本的な泥棒を入れたいと思った際「鼠小僧次郎吉」にするか「石川五右衛門」にするか迷っていたが、手塚治虫が昔、探偵少年の漫画で「マウス・ボーイ」という鼠の敵キャラを登場させていた為「五右衛門」になった。

侍、袴、居合、斬鉄剣のイメージは「石川五右ェ門」にこそ相応しい。
↓が「鼠小僧次郎吉」だったら少なくても私の人生はちょっと変わっていただろう。



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3年連続日本一に輝くなど栄光の歴史を持つ阪急ブレーブスの本拠地は西宮球場(西宮スタジアム)だった。私は山田久志が投げた阪急最後の試合を東京から観に行った。ということでこの球場には私なりの思い出があるが、2004年に解体されてしまい、2008年11月に阪急西宮ガーデンズという大型商業施設として生まれ変わった。
先日久々に関西に行ったので、この施設を訪問し阪急ブレーブスや西宮球場を記念するギャラリーを見つけた。ここには西宮球場のジオラマがあったが、これは球場のみではなく西宮北口駅周辺を再現したものだ。



西宮北口といえば阪急神戸線と阪急今津線が交差するターミナル駅だが、1984年までこの交差は「ダイヤモンドクロス」と呼ばれる直角平面交差だった。

阪急今津線 西宮北口駅における平面交差問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%80%A5%E4%BB%8A%E6%B4%A5%E7%B7%9A

西宮北口駅構内には、かつて同線と線路が十字形に交わる平面軌道交差(ダイヤモンドクロス)があり、高規格路線のものとしては世界的にも珍しいということで知られていた。今津まで延伸したのが1926年と古く、当時の土木技術では立体交差は技術的に難しかったことや、列車自体が短い編成であったために、あまりダイヤ上のネックとはならず、このような形態をとった。
だが、戦後の経済成長で、列車の増発・長編成化により、それがダイヤ作成上で最大のネックとなるようになった。今津線のダイヤは神戸本線に合わせねばならず、ダイヤモンドクロスを横断する西宮北口 - 今津間は、平日日中10分間隔も夕方ラッシュ時には12分間隔と、逆に夕方ラッシュ時に運転間隔が間延びするという状態が続くようになっていた。
1980年代に入ると輸送力増強のため、宝塚本線・京都本線では既に実施されていた列車の10両編成化を神戸本線でも実施することとなったが、西宮北口駅のホーム延伸が限界にきていた(大阪方には西宮車庫、神戸方には踏切がある)ことや、ダイヤ上のネックを解消するため、同駅改良・橋上駅舎化工事に合わせて、高架化が不可能であった今津線を1984年にやむなく分断した。南北の線路は分断されたまま、現在までその状態が続いている。ただ、分断されたことで西宮北口 - 今津間では増発が可能になり、平日ラッシュ時に最短6分間隔で運転されるなど、利便性の向上というメリットも発生した。


そして当時の映像が投稿されている。
http://www.youtube.com/watch?v=SgIPZmJ5-Yw

30代以上の阪急沿線住民の方にとっては「懐かしい」という印象だろうが、実際のダイヤモンドクロスでの運行を知らない多くの人(私を含む)にとってはけっこう衝撃的な映像だ。線路が直角に交差する、しかも高速鉄道どおしで、というのは冷静に考えるとすごいことだと思う。

ちなみにダイヤモンドクロス(平面交差)は鉄道では認められていないそうだが、阪急電鉄(の前身の箕有電車)が軌道法(路面電車)により営業を開始し、その後に鉄道に切り替わったという経緯があるそうだ。

Yahoo! 知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111947956?fr=rcmd_chie_detail

阪急電鉄では「思い出のシーン西宮北口駅ダイヤモンドクロスジオラマ」を販売している。なかなかいい商売だ。


レールファン阪急
http://www.railfan.ne.jp/hankyu/

さて、ほぼ90度で交差する平面交差は国内では (1) 名古屋鉄道・名電築港駅、(2)伊予鉄道・大手町駅、(3) 土佐電気鉄道・はりまや橋駅 が残るのみだそうだ。
しかし海外に目を向けるともっと例があるようで、中でもシカゴの地下鉄(の高架駅)の平面交差は有名だ。





うーん、これは慌しい。
都心、高架、平面交差、急カーブ、過密ダイヤ、落書き...
是非絶叫マシン感覚で乗ってみたいものだ。



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昨年11月に「難民を助ける会」会長である相馬雪香さんが亡くなった。「相馬雪香先生を追悼しに感謝する会」には、皇后陛下、寛仁親王殿下、麻生首相、河野・江田の衆参両院議長ほか多くの方が参席されたということで、生前の功績の大きさをうかがい知ることができる。

難民を助ける会 会の沿革
http://www.aarjapan.gr.jp/info/president.html

吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/5251

さて、相馬雪香さんは「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄(1858-1954)の三女として知られているのだが、尾崎行雄は明治時代から活躍した政治家なので、その娘がつい昨年まで存命していたというのはとても不思議な感覚だ。
この点について調べ見ると、相馬雪香さんは1912年生まれだが、これは尾崎行雄が53歳の時に生まれたことになる。尾崎行雄が享年95歳、相馬雪香さんが享年96歳。明治維新以降の140年を父娘2代で見届けたというのがすごい。

その尾崎行雄の生涯や功績について改めて調べてみた。

尾崎行雄記念財団 尾崎行雄について
http://www.ozakiyukio.or.jp/gakudo/index.html

尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。
若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。
素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。
また、軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。
そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた(享年95歳)。


これはちょっと美化しすぎる感があるので、Wikipediaでも調べてみた。

尾崎行雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84

1858年、相模国津久井県又野村生まれ。1874年に慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年に工学寮(のち帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年に大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。

1890年、第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。

1898年、第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者となった。また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である。


本当に日本の近代史そのものという感じで、福沢諭吉、大隈重信、伊藤博文、松方正義など錚々たる名が並ぶ。そしてそのほとんどと対立しているところがすごい。95歳まで議員を務めたというパワーもすごい。

さて、次回はもう1人の尾崎行雄、伝説の投手を調べてみよう。



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1872年(明治5年)に新橋(汐留)=横浜(桜木町)間で日本初の鉄道の営業運転が開始された、というのは歴史の教科書にも出てくるが、その鉄道は↓のような蒸気機関車だったようだ。

国土交通省 「鉄道いろいろ 日本の鉄道の歴史」
http://www.mlit.go.jp/tetudo/nandemo/13_01.html

さて、鉄道の動力の変遷は、大まかに蒸気機関車→ディーゼル機関車→電気機関車と理解していたが、それだけではなく馬が曳く、そして人が押す鉄道があったことを知った。

「人が鉄道を押す」というのは、そのフレーズだけ取るとものすごいことのように思える。これは人車軌道(または人車鉄道)と呼ばれるものだ。

人車軌道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BB%8A%E8%BB%8C%E9%81%93

人車軌道(じんしゃきどう)とは、人が客車や貨車を押す鉄道である。狭義には、日本において軌道条例(後の軌道法)に基づいて運輸業を目的に敷設されたものを指し、これは1900年から1920年ごろまでの間に多く存在した。

動力近代化に逆行する人力交通機関であったが、動力としての人件費の安さ、建設コストを含めた初期投資の少なさ、鉄道運行の簡便さ、等が特長で、主要交通機関(鉄道、河川交通)との接続を目的とした中継的小規模な地域密着の路面交通機関(軌道)であった。 しかしながら人力による輸送力の小ささと運行効率の悪さから、押し寄せるモータリゼーションの波に打ち勝てず、1959年に島田軌道が廃止されたのを最後に姿を消した。


一般的には普通鉄道の廉価版として導入されたようだが、機械動力導入よりも人件費が安かった時代ならではのもののようだ。

鉄道模型と人車鉄道の世界
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm

人車軌道は全国で29軌道が運転された。(資料により数え方が異なる)
この中で最も有名なのは芥川龍之介の「トロッコ」の舞台となり、皇太子時代の大正天皇も乗車されたことがあるという豆相(ずそう)人車鉄道だ。

鉄道模型と人車鉄道の世界 「豆相人車鉄道」
http://www.kk-net.com/~tabuchi/ZUSO.htm

豆相人車鉄道は、1・2・3等と客のランクが分けられていたが、上り勾配区間では3等→2等客の順番で、押手の押す作業を手伝うために駆り出され、最後まで客車にいられたのは1等客のみであったそうだ。
また、小田原=熱海の約25kmを約3時間50分で結んだそうだが、それでは早足のレベルと変わらない。運賃を払って車両を押すのを手伝わされるのであれば、歩いたほうがいいような気がする。。。

それにしても、上記リンク先には人車鉄道当時の写真や資料が充分に網羅されていて驚かされる。そのまま博物館にできるような貴重な資料だ。
それでもさすがに動画はないので、人車軌道の走る姿はイメージが沸かなかったが、You Tubeに台湾の1970年代の人車軌道の映像があった。

有蚋炭鉱人車軌道


なるほど。これで人車軌道の基礎知識は充分だろう。今後は廃線跡巡りの対象に人車軌道跡も加えてみよう。



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歴代の東京優駿(日本ダービー)優勝馬をほとんど空で言える私にとって、「第1回(1932年・ワカタカ)と第2回(1933年・カブトヤマ)は目黒競馬場で行われた」というのはほとんど常識である。目黒競馬場についても元競馬場前というバス停があり、そこに記念碑が建てられてることや、コースの名残が残る道路があること程度は知っていた。また「日本ダービー史」というビデオも持っているので、目黒競馬場の映像も何度か目にしていた。

ここでふと「目黒競馬場はどのようなコースだったのか」という点を解明して、その跡地を巡ってみたくなり、改めて第1回と第2回東京優駿の映像を詳しく見てみた。(You Tubeに第1回の動画は投稿されていた)



内馬場からカメラを回しての映像で(当然だが)鮮明とは言えないが、①右回りであること、②2400mのレースは向こう正面発走であること、③比較的直線が長いこと、がわかる。

更にいくつか調べていくと、当時の競馬場の位置関係を示す資料や、競馬場想像マップなどが見つかった。

目黒区役所 「歴史を訪ねて 目黒競馬場2」
http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/tobu/keiba2/index.html

SUBSTAITON社 「目黒競馬場想像マップ」
http://www.substation.co.jp/info/substa_map.html

旧道行脚 「古地図に残った競馬場巡り」
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm

「下目黒1907/2007」
http://news.before-and-afterimages.jp/C1884801429/E20070222175951/index.html


これらの情報を元に目黒競馬場跡巡りに出た。
まずは元競馬場前バス停の前にある記念碑からスタートし、スタンドがあったあたりを通って、現在も名残が残る1コーナーから2コーナーの道路を通った。このあたりは確かに競馬場を連想させるカーブになっている。
向こう正面だったと思われる直線へ出て暫く行くと「さくらの里まちかど公園」があり、ここの桜は目黒競馬場のものと言われているそうだ。そしてこのあたりが2400mのスタート地点だったと思われる。
さらに3コーナーに位置する不動小学校を超えて、区立四中あたりの4コーナーを経て、ジブチ共和国大使館あたりと思われるゴールまで歩いた。


1コーナーから2コーナーに向かう道路


向こう正面


さくらの里まちかど公園 目黒競馬場のものと言われる桜


3コーナー付近の案内碑


実際に歩いた感じとしては、1周は1600m程度。ホームストレートとバックストレッチが長く、地図で計測すると600mほどある。その分1~2コーナー、3~4コーナーは短い。即ち細長い楕円コースのようである。またゴールの正確な位置がわからないがので定かではないが、直線は450mほどあったと思われる。なかなかのコースだが、このカーブのきつさではさすがにその後の競馬には対応できなかっただろう。

このようにかすかな面影を頼りにかつて存在した競馬場を巡るのはなかなか楽しい。浅野靖典氏の「廃競馬場巡礼」という本を買って旅をしたくなった。ここのところ競馬場から足が遠ざかっているが、次に行くのも競馬場跡になりそうだ。



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廃線・廃駅のノスタルジーが好きで、何気なく調べていくと「新奥沢線」という廃線を見つけた。

目黒蒲田電鉄新奥沢線
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%BB%92%E8%92%B2%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E6%96%B0%E5%A5%A5%E6%B2%A2%E7%B7%9A

新奥沢線(しんおくざわせん)は、かつて雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)から新奥沢駅までを結んでいた池上電気鉄道→目黒蒲田電鉄(後の東京急行電鉄)が運営していた鉄道路線。

路線距離:雪ヶ谷 - 新奥沢間1.44km、駅数:3、全線所要時間:3分、全線運賃:5銭

現在の東急池上線に当たる路線を運営していた池上電気鉄道が、既存路線だけでは将来の発展が見込めないとして、中央本線国分寺駅方面への延伸を画策、1928年に暫定的なものとして、雪ヶ谷駅(後の雪が谷大塚駅)より新奥沢駅に至る1.4kmの区間を開業させたものである。路線は雪ヶ谷駅を出てまもなく北西へ90度カーブし、後は直線的に進むものであった。

その暫定開業的性格から乗客数はもともと少なく、調布女学校(現在の田園調布学園)の女生徒の利用が主であった。終点の新奥沢駅は目黒蒲田電鉄(後の東急目蒲線→現在の東急目黒線・東急多摩川線を運営)に奥沢駅が既に存在したことからこの名前となったが、奥沢にあるといっても、目蒲電鉄の駅ではむしろ田園調布駅の方が近接しているといえた。

しかし延伸計画の方は、五島慶太率いる目蒲電鉄が大岡山駅~二子玉川駅間新線計画(後の東急大井町線)や田園調布開発計画に際し用地を確保していたこと、それに目蒲電鉄そのものが池上電鉄の競合路線であり、五島がその事業拡大政策を妨害する指針を取っていたこともあり、頓挫する。池上電鉄そのものも、後に目蒲電鉄に統合された。

五島が池上電鉄を買収してまもなく、同社では新奥沢線の廃止申請を出す。池上電鉄が目蒲電鉄に統合された後も、暫定的に新奥沢線の運行は続けられたが、1935年に廃線となった。

沿革
1928年10月6日 雪ヶ谷-新奥沢間開業
1933年7月10日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄傘下となる
1933年11月18日 廃止申請
1934年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に統合される
1935年11月1日 雪ヶ谷-新奥沢間廃止


池上線沿線に以前住んでいたが、新奥沢線というのは全く聞いたことがなかった。更にいくつかの事実関係について調べた。

「奥沢親交会」 当時を知る方の話や池上電気鉄道年表などの資料
http://www.okusawa.jp/sinkoukai/rekisi/sinokusawa/tokioture.htm

「東玉川の歴史」 当時の写真と街の写真が掲載されている
http://home.k04.itscom.net/h21419/suwabunwohasittadensya.html

「池上鉄道の面影を探して」 実際の廃線跡を巡っている
http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/ikegami/ikegami02.html

「特集」池上線 新奥沢駅跡」 当時の路線図あり
http://www6.plala.or.jp/k-network/tokyu/tokusyu/ikegami/sin-oku/sinoku.htm



そして今日散歩がてら奥沢へ行き、10分ほど歩いて「新奥沢駅跡」の石碑を発見。そして田園調布学園の脇を通る道を通り、雪が谷大塚駅まで散策した。
しかし、さすがに80年前の廃線でありほとんど面影はなかった。このあたりは閑静な高級住宅地で、「畑の中でお百姓さんが、腰を伸ばして電車を見ている景色」「駅でなくてもお百姓さんが手を挙げると電車を止めて乗せたり、運転手さんがお礼に取れたての野菜をもらって」というような光景は想像もつかないが、数少ない資料を元に廃線跡をたどり、なかなか楽しい時間を過ごすことができた。

新奥沢線は僅か7年で歴史を閉じたが、世が世なら、具体的には五島慶太氏がこの路線の拡張を邪魔しなければ、予定どおり国分寺まで延伸されていた可能性があり、そうなると首都圏の鉄道網は全く異なっていたかもしれない。かつて池上線沿線に住んでいた者として、この「たら」「れば」は大きな意味を持つ。



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