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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




スポーツ選手にとって記録の更新は大きな目標であり、さまざまな競技で新記録が生まれている。
日本の陸上競技では、今年6月にサニブラウン選手が100mで9.97秒を記録するなど進化が目覚ましい。その結果多くの日本記録は21世紀になってから更新されたものとなっている。
しかし、この中でひとつだけ1961年の記録が依然として日本記録として残っている。それは男子(室内) 4x800mリレーの川崎俊二氏、中尾勝美氏、川庄進氏、杉崎隆志氏 (リッカー) による 8:48.6 という記録だ。

日本陸上競技連盟公式サイト 日本記録
https://www.jaaf.or.jp/record/japan/?segment=3

リッカーはかつて存在したミシンメーカーで、スポーツ活動に力を入れており、陸上部は1964年東京オリンピックに10名の選手を送り出した名門だ。
この記録の年月日は「1961年3月19日」、競技会名は「NHK東京国際室内」、場所は「東京」とある。 これは1964年の東京オリンピックに向けた強化目的で行われた「日本室内陸上競技選手権大会」の一部である。

日本室内陸上競技選手権大会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%A4%E5%86%85%E9%99%B8%E4%B8%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A

東京オリンピックに向けた選手強化の一環として、公式にボード・トラックを使用した日本初の室内陸上競技大会である「第1回NHK室内国際大会」が1961年3月18日と19日に、その3日後の22日と23日に「第1回日本室内選手権」が東京都体育館で開催された。(それ以前には、1954年2月7日に岐阜市民センターにおいて国内最初の室内大会が行われた)
NHKが経費を負担し、全米体育協会の設計図をモデルに製作した1周133.33m(3周で400m、直走路60m)のボード・トラックを設置して行われたこの大会には、リビオ・ベルッティ、マレー・ハルバーグ、ドン・ブラッグなどのローマオリンピック金メダリストらを招待した。
1963年の第3回まで行われたが、強化関係者の激しい議論の末、第3回を最後に室内陸上競技は中止され、日本室内選手権も終了となった。中止の理由は、屋外と室内のスパイクの感触の違い、国内のトップ選手はこの時期本調子ではない、室内暖房が不十分、観客が少なくて盛り上がらない、であった。

すなわち、室内4×800mリレーの日本記録は、日本における本当に最初の公式レースで記録されたものということになる。しかも4×800mリレーは第1回~第3回の日本室内選手権でも行われていないので、1回限りの競技であったようだ。

ちなみにこの記事にある東京都体育館は、1956年に完成した初代の東京体育館のことで、1964年の東京オリンピックで体操や水球の会場となったが、1986年に一時閉鎖となり1990年に全面改装された。現在は2020年のオリンピックに向けて改修工事が行われている。



さて、この室内4×800mリレーの日本記録がなぜ破られないかというと、行われていないからである。世界室内陸上競技選手権大会の種目にもないし、日本室内陸上競技大阪大会 (大阪城ホール) でも行われていない。
しかし海外では小規模なな大会で行われることがあるようで、2018年2月にアメリカ・ボストンで行われたBoston University Last Chance Meetで、Hoka One One NJ*NY Track Clubの4名 (Joseph Mcasey、Kyle Merber、Chris Giesting、Jesse Garn) が7:11.30 の世界記録を樹立した。

LetsRun.com -Hoka NJ*NY TC Breaks 4x800 World Record
https://www.letsrun.com/news/2018/02/njny-tc-runs-711-30-break-4x800-world-record-josh-hoey-crushes-800-high-school-national-record-japanese-mile-record/

If you stuck around to watch the final race of the 2018 Boston University Last Chance Meet — and chances are, you did not, because the place was almost deserted — you were lucky enough to witness a very exciting men’s 4×800 relay in which three teams broke the existing world record.
In a tight race, it was Hoka One One NJ*NY Track Club that emerged victorious, clocking 7:11.30 to break the four-year-old record of 7:13.11, set across town at the Reggie Lewis Center. The record-setting team consisted of, in running order, Joe McAsey (1:49.03), Kyle Merber (1:47.11), Chris Giesting (1:47.43), and Jesse Garn (1:47.33). Atlanta Track Club (Brandon Hazouri, Patrick Peterson, Edward Kemboi, and Brandon Lasater) and District Track Club (Blair Henderson, Strymar Livingston, Edose Ibadin, and Matthew Centrowitz) finished second and third in the three-team race in 7:11.84 and 7:12.25, respectively.



HOKA NJNYTC 4x800m World Record 2018 from NJNYTC on Vimeo.


800mの全力疾走はタフだが、200mのショートトラックを4周することで駆け引きが生まれるし、リレーならではの順位の入れ替わりもある。瞬間で終わってしまう4x100mや4x200mとは異なる面白さがある。また室内陸上は風などのコンディションに左右されないし、選手と観客がとても近い。
東京体育館がリニューアルオープンとなった際に、室内トラックを設置して、この種目だけを 「室内4x800mリレー全国大会」 として開催してみてはいかがだろうか。高い確率で約60年ぶりに日本記録が更新されることだろう。



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オリンピックの野球と言えば、広沢克己らの活躍で金メダルを手にした1984年ロス五輪、野茂英雄・古田敦也のバッテリーで銀メダルを手にした1988年ソウル五輪が日本人としては印象に残るだろう。
この2大会では野球は公開競技であり、その後1996年アトランタ五輪から5大会連続で正式種目となったがその後除外された。2020年東京五輪で開催都市提案の追加種目として実施されることになったが、2024年パリ五輪では追加種目候補から外れており、今後は未定である。
世界的なスポーツと呼べずオリンピック受けの悪い野球だが、意外にもオリンピック黎明期から公開競技としての行われている。

1904年セントルイスオリンピックは第3回オリンピック競技大会で、初めてヨーロッパ以外で行われた大会であった。13の国・地域から689人が参加した。アクセス問題と国際情勢の緊迫化を受けて、ヨーロッパからの参加国は大幅に減少し、その結果アメリカが金メダルを96個中78個のを獲得するという独占オリンピックとなった。
競技では、クリケットや馬術などヨーロッパで人気の種目が外れ、アーチェリーやボクシングなどが採用された。その中でバスケットボールとともに野球が公開競技として実施された。
しかし残念ながらこの野球の記録はほとんど残っていない。元プロゴルファー・現整形外科医で、オリンピックの権威と称されるWilliam James Mallonの『The 1904 Olympic Games』(2015) には以下のような記載がある。

The 1904 Olympic Games
https://books.google.co.jp/books?id=NnkwCgAAQBAJ&pg=PA212&lpg=PA212&dq=1904+olympic+baseball&source=bl&ots=VRsY9e4m2d&sig=ACfU3U3GCvp5Pg8mbzb4PbkMAi6SD1reWA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwib46ylvZnhAhUN6bwKHUNKBg8Q6AEwCHoECAgQAQ#v=onepage&q=1904%20olympic%20baseball&f=false

Was baseball held in any way as a part of sporting events at the Louisiana Purchase Exposition? Some record books, occasionally mention that baseball was held as an "exhibition" sport during the 1904 Olympic Games. Probably some baseball games were conducted during the 1904 Louisiana Purchase Exposition on which Director James Sullivan hung the label "Olympic". However, the evidence for even this in the newspapers is scant at best.
In the St. Louis Post-Dispatch on 18 May, it was mentioned that Washington University and Indiana University were to play at 3:00 P.M. on Francis Field to commence the Olympic Inter-collegiate Baseball championship. This is the only mention I can find of that tournament. It was likely, in analogy to American Football, that some of the regularly scheduled college baseball games for St. Louis universities were held at Francis Field. But there is no further mention of this tournament at all. And on 18 May, colleges had to be getting near the end of their spring semesters.
On 3 June, the St. Louis Post-Dispatch described another event, the Olympic Amateur Baseball tournament. In was mentioned that 12 teams had already entered, the entries closed the next day, and that the teams would play a series of six games each to decide the champion ship. Again, these is nothing further in the papers. This is especially troubling when one considers that the Post-Dispatch sports pages contained a small column entitled "Amateur Baseball" giving the results and summaries of the games involving amateur baseball clubs in the St. Louis area. The Olympic Amateur Baseball tournament never finds its way into that column.
Thus, these seems to be minimal evidence that any amateur baseball games were considered to be part of "Olympics" even by authorities in charge of that year. Perhaps a few games were played as exhibitions at the fair, but nothing more.


当時のオリンピックは万国博覧会を兼ねて開催されており、セントルイスオリンピックも5か月にわたって実施された。その中でいくつかのアマチュア野球の試合が行われたというだけなのだろう。

その後1912年のストックホルム五輪から、主催国で根付いていたり多くの国に広まっているスポーツがオリンピック公開競技として実験的に実施されるようになり、野球が採用された。記念すべきその試合はアメリカ対スウェーデンで、その詳細が残っている。

Baseball at the 1912 Summer Olympics
https://en.wikipedia.org/wiki/Baseball_at_the_1912_Summer_Olympics

Baseball had its first appearance at the 1912 Summer Olympics as an exhibition sport. A game was played between the United States, the nation where the game was developed, and Sweden, the host nation. The game was held on Monday, 15 July 1912 and started at 10 a.m. on the Ostermalm Athletic Grounds in Stockholm.
The Americans were represented by various members of the American Olympic track and field athletics delegation, while the Swedish team was the Vesterås Baseball Club, which had been formed in 1910 as the first baseball club in Sweden. Four of the Americans played for Sweden, as the Swedish pitchers and catchers were inexperienced. One Swede eventually relieved Adams and Nelson, the American pitchers.
Six innings were played, with the Americans not batting in the sixth and allowing the Swedes to have six outs in their half of the inning.




注:AB 打席数 H ヒット 2B 二塁打 3B 三塁打 SB 盗塁 R 得点 E エラー

このように2人選手をレンタルしたにもかかわらず、試合としてはワンサイドであった。この試合で特筆すべきは8人のメダリストが参加したことだ。
 George Bonhag 3000m団体金メダル ファースト 2打数ノーヒット
 Fred Kelly 110mハードル金メダル センター 3打数1安打
 Benjamin Adams 立ち高跳び銀メダル、立ち幅跳び銅メダル スウェーデンチームピッチャー 3打数1安打
 Richard Byrd 円盤投げ銀メダル ピッチャー 0打数0安打
 Abel Kiviat 1500m銀メダル ショート 4打数2安打 (三塁打1、盗塁1)
 Ira Davenport 800m銅メダル キャッチャー 3打数2安打
 George Horine 走高跳銅メダル レフト 1打数0安打
 Lawrence Whitney 砲丸投げ銅メダル ライト 1打数0安打
George Bonhagは1908年の3マイル団体銀メダルに次いでの出場で、この大会でアメリカ選手団の旗手を務め悲願の金メダルを獲得したが、野球でヒットは打てなかった。
Fred Kellyは当時南カリフォルニア大学の1年生で、110mハードルの決勝では僅差で優勝し金メダルを手にし、その勢いでヒットも打った。



アメリカのメンバーは基本的にオリンピックの参加者で、すなわち選手たちが自分たちの競技が終わってから集まって地元のチームと混じって野球をやった、というのが実態のようだ。これを「草野球」と捉えるか「二刀流オールスター戦」と捉えるかは価値観の問題だが、その後1936年のベルリン五輪まで野球は行われなかったという事実を考えると、やはり昔からオリンピック受けが悪かったようだ。



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2017年9月の国際オリンピック総会で、2024年夏期オリンピック・パラリンピックの開催地にパリ、2028年にロサンゼルスが選ばれた。パリでの開催は1900年、1924年以来、ロサンゼルスは1932年、1984年以来となり、ともにロンドンと並ぶ3度目の夏季五輪となる。巨額の費用負担などを理由に撤退する都市が相次ぎ、IOCが2都市を振り分けて2大会開催都市を同時に決める異例の方針を決めたもので、ロサンゼルスが2024年をパリに譲った形だ。セキュリティ対策をはじめとした開催都市の費用負担を考えると、今後も開催都市選出は難航するだろう。

さて、1900年のパリオリンピック (第2回オリンピック競技大会) パリ東部のヴェロドローム・ド・ヴァンセンヌ (Vélodrome de Vincennes) がメインスタジアムだった。この大会は万国博覧会の附属大会として行われたため会期が5か月に及ぶなど、まだまだ運営が整っておらず、参加国もわずか13ヵ国であった。このスタジアムは1884年に開場した自転車競技場で、当時50,000人を収容したというがこれは疑わしい。1924年のオリンピックではサッカーも行われた。現在もジャック・アンクティル自転車競技場 (Vélodrome Jacques-Anquetil) として使用されている。



1924年のパリオリンピック (第8回オリンピック競技大会) のメインスタジアムはパリ北西部にあるスタッド・オランピック・イヴ=ドゥ=マノワール (Stade Olympique Yves-du-Manoir) だった。元々の競馬場から改装し、1907年に開場したスタジアムをオリンピックで使用したもので、その後1938年のFIFAワールドカップの決勝戦も行われている。オリンピック時には45,000人、ワールドカップでは60,000人を収容した。現在も収容人数は14,000人と減ったがサッカー、ラグビーチームの本拠地として使用されている。



そして、2024年はパリ北部にあるスタッド・ド・フランス (Stade de France) がメインスタジアムとなる予定だ。1998年ワールドカップの主会場として建設され、サッカーでは2000年と2006年のUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦や、UEFA Euro 2016も開催された。2007年にはラグビーワールドカップ決勝戦の会場ともなっている。
また陸上競技も開催可能であり、2003年世界陸上競技選手権大会の主会場ともなった。2023年のラグビーワールドカップも予定されており、いよいよオリンピックを迎えるという感じだろう。収容人数は75,000人だ。



このようにパリは毎回異なるメインスタジアムでオリンピックを開催することとなる。(これは既に3回オリンピックを開催してるロンドンも同様である)
過去2回のメインスタジアムが、形を変えながら現在でも使用されていることはすばらしい。

一方で、ロサンゼルスは3回のオリンピック (1932年 第10回、1984年 第23回、2028年 第34回) を全てロサンゼルス・メモリアル・コロシアム (Los Angeles Memorial Coliseum) で開催することになる。

Los Angeles Memorial Coliseum - History
https://www.lacoliseum.com/coliseum-history/

Known as “The Greatest Stadium in the World”, the Los Angeles Memorial Coliseum, a living memorial to all who served in the U.S. Armed Forces during World War I, has been a civic treasure for generations of Angelenos. The legacy of events and individuals hosted in nine-plus-decades reads like no other: the only venue to host two Summer Olympics (Xth Olympiad in 1932, XXIIIrd Olympiad in 1984) and soon a third (XXXIVth Olympiad in 2028); home to college football’s USC Trojans since 1923 and the UCLA Bruins (1928-1981); professional football’s Los Angeles Rams (1946-1979 and 2016-2019), Raiders (1982-1994) and Chargers (1960); hosting three NFL Championships and two Super Bowls; home to the Los Angeles Dodgers (1958-1960) and the 1959 World Series; appearances by U.S. Presidents Franklin D Roosevelt, Dwight Eisenhower, John F. Kennedy, Lyndon Johnson, Richard Nixon, and Ronald Reagan; and international dignitaries such as Martin Luther King, Jr., Cesar Chavez, Pope John Paul II, the Dalai Lama, and Nelson Mandela. From Mick Jagger to the Harlem Globetrotters, the Grateful Dead to Billy Graham, Evel Knievel to Pele, the Memorial Coliseum, named a National and California Historic Landmark in 1984, has been the stage for the unbelievable, the unforgettable, the iconic, and the best in human endeavor and achievement.

On March 29, 2008, the LA Dodgers and the Boston Red Sox set a Guinness World Record for the largest attendance ever at a baseball game with a crowd of 115,300. Other historic events include Billy Graham’s appearance in 1963 in front of 134,254 (still an all-time Coliseum record), Nelson Mandela’s 1990 triumphant return to the United States, the first ever Papal Mass by Pope John Paul II in 1987, and the 1976 Bicentennial Spectacular.

The Coliseum has hosted decades of memorable concerts including a “who’s-who” listing of some of rock-n-roll’s greatest artists: The Rolling Stones, Pink Floyd, Bruce Springsteen, U2, Metallica, The Who, The Grateful Dead, Van Halen, Prince, and more!

As the Coliseum nears closer to its centennial in 2023, we look forward to seeing what the next 100 years has in store for us here at “The Greatest Stadium in the World”!

1984年夏期オリンピックはもちろん、1932年夏期オリンピック、アメリカンフットボールのプロボウル、AFL-NFLチャンピオンシップ、スーパーボウル、MLBのワールドシリーズ、オールスターなどなど、様々なシーンの舞台となった。



しかし、この大きさのあまり問題もあった。NFLではキックオフの72時間前にチケットが売り切れない限りテレビ放映を禁止するというルールがあったが、収容人数が大きすぎるためなかなか完売させることができず、本拠地としていたラムズやレイダースの試合はしばしばブラックアウトされた。そのために一部を閉鎖して販売可能な座席数を制限する措置が取られた。

野球場としては、左翼 (約76.7 m) から左中間 (約97.5 m) が極端に狭くなるなど、さすがに無理があった。
しかし、2008年3月29日にドジャースのロサンゼルス移転50周年を記念したオープン戦(対レッドソックス)が開催され、この試合で、米国スポーツ史上最多、そして世界の野球史上も最多となる115,300人の観客を動員した。(通常の収容人数は2017年まで93,607人だったが、2018年から78,500人となった)
この日は左翼まで61.3mで、後方に18.3mのネットが設けられた。この試合には当時ドジャースの斎藤、レッドソックスの岡島も登板している。



スポーツ競技だけでなく、コンサート、演説など社会・生活に密着したスタジアムが3回目の夏期オリンピックを迎えることは人類にとって意義深いことだ。まさに “The Greatest Stadium in the World” という称号にふさわしい。
オリンピックに限らず新しいスタジアムが数多く建設されているが、いずれも目先のニーズにとらわれずに地域の財産として100年にわたって有効に活用されることを目指してほしいものである。



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競馬史上で桁違いの生涯成績と言えば、ハンガリーのキンチェム (Kincsem、牝、栗毛、1874~1887、父 Cambuscan 母 Waternymph) の54戦54勝だろう。
2歳から5歳まで、ハンガリーのみでなくドイツのバーデン大賞やフランスのドーヴィル大賞典などの大レースも含めて生涯連勝を続けた。この中には6回の単走があり、10戦以上で10馬身差を超える大差勝ちを記録している。4歳時のバーデン大賞はPrince Gilesと同着で、その後決勝を行い6馬身差で下している。従って55戦55勝とも言える。
出走レースは選手権距離の2400mが中心だが、最短で947m、最長で21F (約4200m) とスプリンターでもありステイヤーでもあった。19世紀なので競走体系や生産・調教の環境は現在とは全く異なるが、歴史上燦然と輝く大記録である。
繁殖牝馬としては5頭の産駒を残し、その中のブタジェンジェ (牝、Budagyöngye、父Buccaneer) が独ダービーを制するなど、繁殖成績も偉大であった。
生誕100年となる1974年に、ブダペストの競馬場は「キンチェム競馬場」に改称されている。

<マジャール語> キンチェム
https://hu.wikipedia.org/wiki/Kincsem_(versenyl%C3%B3)



さて、このキンチェムの大記録を部分的には凌駕している競走馬がいる。デビューからの54連勝を超えて56連勝を記録したのはプエルトリコのカマレロ (Camarero、牡、黒鹿毛、1951~1956、父 Thirteen 母 Flint Maid)だ。

カマレロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%AD

1953-1956年の4年間に77戦73勝の記録を残した。その中にはプエルトリコの三冠競走(Copa Gobernador、Clásico José de Diego、Clásico Primavera)も含まれ、デビューから56連勝というキンチェムの記録を破る大記録を打ち立てている。プエルトリコ競馬のレベルは世界的には高くなく、カマレロの生涯獲得賞金も43,552.95ドル程度であるが、ポニーのように小さな馬体でここまで走ったのは特筆される。
現役中であった1956年、使い詰めが影響したのか病気になり、キンタナ競馬場で死亡したとされる。





哀しい最期ではあったが、国民的な人気を博した。プエルトリコのエル・コマンダンテ競馬場が「カマレロ競馬場」と改称されたり、「カマレロ大賞」というレースが設立されたりと功績がたたえられている。

またキンチェムの勝利数を上回る記録も存在する。しかし競走馬の最多勝利はソースによってまちまちである。一部ではアメリカのキングストン (Kingston、牡、青鹿毛、1884~1912、父 Spendthrift 母 Grandsire) の89勝 (138戦) とされているが、プエルトリコのガルゴジュニア (Galgo Jr.、牡、鹿毛、1928~1936、父 Galgo 母 War Relief) の137勝 (159戦) が世界記録ともされている。

Nativos Galgo Jr.
http://www.famahipismopr.org/nativos/GALGOJR.htm



しかし、さらに上回る197勝を挙げた競走馬がいる。プエルトリコのコリスバール (Chorisbar、牝、鹿毛、1935~?、父 My Reverie 母 Campo Alegre) だ。

Nativos Chorisbar
http://famahipismopr.org/nativos/chorisbar-nativos.htm

うみねこ博物館 コリスバール―Chorisbar―〝真・奇跡の名馬〟
http://umineko-world.jugem.jp/?eid=493

私はこれまで、『奇跡の名馬』というタイトルを掲げ、世界中のありとあらゆる馬を紹介してきた。その中でも今回紹介するコリスバールは特別中の特別な馬である。何しろ、賞金額が低い競馬後進国の離島に生まれながらも懸命に走り続け、どんな名馬も辿り着くことのできない永遠の金字塔を打ち立てたのだから…。
コリスバールはプエル・ト・リコで施行されている全ての距離において勝ち鞍を、それも殆ど毎回トップハンデを背負いながら掲げ続けていた。130ポンド(約59kg)の酷量を載せ快勝したことも3度あったという。第二次大戦前に生まれた、しかも小柄な牝馬に課せられる斤量としては破格のものであった。
☆1937年 (2歳) 11戦6勝
☆1938年 (3歳) 16戦12勝
☆1939年 (4歳) 14戦13勝
☆1940年 (5歳) 44戦28勝
☆1941年 (6歳) 51戦37勝
☆1942年 (7歳) 53戦28勝
☆1943年 (8歳) 20戦7勝
☆1944年 (9歳) 13戦4勝
☆1945年 (10歳) 39戦23勝
☆1946年 (11歳) 35戦23勝
☆1947年 (12歳) 28戦16勝
生涯成績:324戦197勝 [197-86-31-6-1-3]




このように連勝や最多勝にまつわる様々な記録が生まれたプエルトリコの競馬だが、歴史は古く16世紀にスペインから来た征服者達により伝えられたのが最初と言われており、現在も国民的スポーツとして親しまれている。国際セリ名簿基準委員会 (International Cataloguing Standard Committee : ICSC) ではパートIIにカテゴリーされている。(日本も2006年まではパートIIだった)
カリブ競馬連盟に加盟しており、馬産も行われているが規模は大きくない。しかしアメリカの自由連合州であるという経済的恩恵があり、カリブ競馬連盟で毎年12月に行われる国際レースの「カリブ国際クラシック (Clásico del Caribe)」もプエルトリコで開催されることが多い。
プエルトリコ出身の米クラシックホースもいる。1975年にプエルトルコでデビューしたボールドフォーブス (Bold Forbes、牡、鹿毛、1973~2000、父 Irish Castle 母 Comely Nell) は、2歳時に5戦5勝という成績を残し、その後アメリカに移籍してケンタッキーダービーとベルモントSを制した。鞍上もプエルトリコ出身のアンヘル・コルデロ・ジュニア (Angel Cordero Jr.) だった。

コリスバールの最多勝記録が明確に定義されていないことには疑問を感じる。競馬は他の競技同様或いはそれ以上に時代や国によって体系や環境が異なるが、その時代その国において突出した成績を挙げた功績は同等に評価すべきである。
そしてカマレロやコリスバールの記録によりスポットが当たるよう、カリブ諸国の競馬が発展することを望む。


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このブログは2008年5月に始めて10年目を迎えている。その初期にクリケットについて取り上げ、インドで初めてのプロスポーツとしてインディアン・プレミアリーグ (Indian Premier League) が始まったことを記した。そのインディアン・プレミアリーグも今年このブログ同様に10年目を迎えた。「同期」の10年を簡単に振り返ってみよう。

インディアン・プレミアリーグ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0

インディアン・プレミアリーグは2008年に発足。シーズンは全60試合であり、毎年4月の上旬頃に開幕し、5月の下旬頃に閉幕する1ヶ月半程度の期間である。レギュラーシーズンは各8チームがホーム・アンド・アウェーの2回戦総当りで14試合行ない、上位4チームがプレーオフに進み、優勝チームを決める。 クリケットのプロリーグとしては世界最大の規模を有する。2015年シーズンの観客動員数は約171万人であり、1試合当たりの平均観客動員数は約2万8500人である。同シーズンのリーグ売上高は115億ルピー(約210億円)であり、サッカーのJ2リーグよりやや小さい規模である。チーム総年俸の上限金額を規定する制度であるサラリーキャップを導入しており、2015年シーズンでは6億3000万ルピー(約11億円)としている。また、2015年の最高年俸はマヘンドラ・シン・ドーニの300万ドル(約3億6000万円)である。選手は原則1ヶ月半のシーズン期間のみの短期雇用契約となっている。

最初のシーズンの2008年はラージャスターン・ロイヤルズ (Rajasthan Royals) が優勝、総選挙の配慮で南アフリカで開催された2009年はデカン・チャージャーズ (Deccan Chargers)、2010年と2011年はチェンナイ・スーパーキングス (Chennai Super Kings) が連覇した。
2012年はコルカタ・ナイトライダーズ (Kolkata Knight Riders) 、2013年はムンバイ・インディアンズ (Mumbai Indians) が優勝した。

しかし、2012年と2013年にインディアン・プレミアリーグは八百長問題に揺れる。

Controversies involving the Indian Premier League
https://en.wikipedia.org/wiki/Controversies_involving_the_Indian_Premier_League

2012 spot-fixing case
On 14 May 2012, an Indian news channel India TV aired a sting operation which accused 5 players involved in spot fixing. Reacting to the news, Indian Premier League president Rajiv Shukla immediately suspended the 5 uncapped players. The five players were, TP Sudhindra (Deccan Chargers), Mohnish Mishra (Pune Warriors), Amit Yadav, Shalabh Srivastava (Kings XI Punjab) and Abhinav Bali, Delhi cricketer. However, the report went on to claim that none of the famous cricketers were found guilty. On the reliability of the report, Rajat Sharma, the editor-in-chief of news channel India TV quoted that the channel had no doubts about the authenticity of the sting operation and prepared to go to court.
Mohnish Mishra who was part of Pune Warriors India team for the season, admitted to have said that franchises pay black money, in a sting operation. Mishra was caught on tape saying that franchisees paid them black money and that he had received ₹15 million (US$230,000) from the later, among which ₹12 million (US$190,000) was black money. He was also suspended from his team.

2013 spot-fixing and betting case
On 16 May 2013, 3 players of Rajasthan Royals were arrested by Delhi Police on charges of spot fixing. The three players were Sreesanth, Ankeet Chavan & Ajit Chandila . All three Players were suspended by BCCI until the inquiry in case is completed by the police. Fresh details emerged later.
On 24 May 2013, Gurunath Meiyappan, a top official of the Chennai Super Kings franchise and son-in-law of BCCI president N. Srinivasan was arrested in Mumbai by Mumbai Crime Branch in connection with illegal betting.
On 25 March 2014 Supreme Court of India told N. Srinivasan to step down from his position on his own as BCCI president in order to ensure a fair investigation, else it would pass verdict asking him to step down.


Facebook 週刊エコノミスト編集部 2013年6月3日
https://www.facebook.com/economistweekly/posts/627022657309945

インドで熱狂的な人気を誇るクリケット。そのプロ・リーグであるインディアン・プレミア・リーグ (IPL) が八百長事件で揺れている。
リーグ所属の3選手が賭博業者から金を受け取り、試合中に不正を行ったとして5月中旬に逮捕されたことに始まり、有力チームの代表も賭博への関与で逮捕された。この代表がインド・クリケット協会 (BCCI) のシュリニヴァサン会長 (写真右) の娘婿であることから、会長も休職に追いこまれた。
クリケットの八百長事件は初めてではないが、今回の事件はIPLで起こったことに問題がある。6年前にスタートしたIPLは、それまで国代表チームが中心だったクリケットに初めて都市別のフランチャイズ制度を導入した。ビジネス面も革新的で、大企業や映画スターがチームのオーナーになり、高額年棒で世界の有名選手を集めて華やかなプレーを展開した。IPLは急成長するインドを象徴する新しい試みだった。だが、そのIPLも不正を免れていなかった。
日頃から政治家や役人の汚職や不正を嫌というほど見ているインドの人々は、IPLという娯楽の世界でも不正を見ることになった。今回の事件への反応は怒りや失望を通り越し、もはや諦めの感すらある。




この事件を受けて2015年6月に、優勝経験のあるラージャスターン・ロイヤルズとチェンナイ・スーパーキングスの2シーズンの活動停止が発表された。そして代わりにグジャラート・ライオンズ (Gujarat Lions) とライジング・プネー・スーパージャイアント (Rising Pune Supergiant) が期間限定チームとして結成され、8チームでのリーグが維持されている。八百長は様々なプロスポーツで起きているが、選手、チームだけでなく、リーグ全体を滅ぼしかねない。

2014年 (シーズン序盤はU.A.E.で開催) はコルカタ・ナイトライダーズ、2015年はムンバイ・インディアンズ、2016年はサンライザーズ・ハイデラバード (Sunrisers Hyderabad)、そして今年2017年はムンバイ・インディアンズが3度目の優勝を果たした。



今年のPlayer of the seriesはライジング・プネー・スーパージャイアントに所属するBen Stokesで、ニュージーランド生まれのイングランド代表選手だ。所属選手はもちろんインドの選手が多いが、イングランド、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、スリランカ、ジャマイカ、トリニダード・トバゴなど多岐にわたっている。



そして、インディアン・プレミアリーグのブランド価値は年々高まっており、ダフ・アンド・フェルプスによるとUS$5.3 billionに及ぶと推測されている。
驚くべきはGlobal Sports Salaries Survey 2016 (7スポーツ、13ヵ国、17リーグ、333チーム、9776選手が対象) において、インディアン・プレミアリーグのAverage Salary Rankingが世界で第3位とされていることである。



https://www.globalsportssalaries.com/GSSS%202016.pdf

もちろんサラリー総額はアメリカ4大プロスポーツやヨーロッパサッカーと比べると低いのだが、インディアン・プレミアリーグは期間が短いのでWeekly Averageをもとにした計算だと大きく跳ね上がる。また高給と低給の差の割合は1.5 : 1で、総じてサラリーが高い。
即ちクリケットのトッププレーヤーにとっては、毎年数か月で大きく稼げる場ということになる。

この経済力はタイトルスポンサーやテレビ放映権で支えられている。
2008~2012年までタイトルスポンサーはインドの不動産開発のDLF社で、当時のスポンサー料は1年あたり₹40 crore (40000万ルピー、約US$6M) だったが、2013~2015年のPepsi社は1年あたり₹79.2 croreと上がり、2016~2017年の中国の携帯電話メーカーVivo社は₹100 croreとなった。更にVivo社社は2018~2022年まで5年間のタイトルスポンサー権利を1年あたり₹439.8 croreで取得した。これは開始当初の10倍以上で、2013~2016年のBarclays社による英サッカー・プレミアリーグのスポンサー料よりも高いという。

またテレビ放送は、ソニー・ピクチャーズ・ネットワークスとワールドスポーツ・グループの提携により、2008年からの10年契約をUS$1.03 billionでしていた。 ソニーは国内テレビを担当し、WSGは国際配信を担当していた。
そして2017年9月に、21st Century Foxの子会社のStar Indiaが2018年からはじまる5年間の放映権をUS$2.55 billionで取得した。これはクリケット史上最も高い放映権である。
これはもう観るしかない。情けないことに未だにクリケットのルールがよくわからないが、You Tubeのチャンネル登録をして、来年からはリアルタイムで追っていこう。
https://www.youtube.com/channel/UC0AZMFSDAOq76aIQ-BRkgTw

ということでもはやインディアン・プレミアリーグは、経済発展めざましいインドを象徴するプロスポーツとして、世界でも注目される存在となった。しかし、八百長問題で2チームが活動停止に追い込まれたように盤石ではない。選手や関係者が自覚して臨まなければ、築き上げているものを一瞬にして失うことになってしまう。
このブログと並行して引き続きインディアン・プレミアリーグに注目していきたい。



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オリンピックやワールドカップで、自国の代表選手・チームを応援することは自然ではあるが、相手国・他国を批判するとこは論外である。また応援のひとつの表れではあるが、代表選手・チームに対するネットを通じてのひとつひとつのプレーへの批判、さらに誹謗・中傷、また結果に対してそれまでとは掌を反したような賞賛・批判が目立つ。
メディアが「絶対に負けられない戦い」と銘打って煽ることもあり、代表選手へのプレッシャーがとてつもなく大きくなっている。銀メダルを獲得した選手が国民に謝罪することには違和感を覚える。これでは代表選手が気の毒だ。スポーツなのだから、リラックスした最高の状態で最大限のパフォーマンスを発揮して、その結果をありのままに受け入れればいい。 

一方で歴史的には、スポーツが一因となって戦争が勃発したケースや、戦時下の国家代理戦争としての試合が行われたことがある。
前者は有名な「サッカー戦争」で、1969年7月にエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。

サッカー戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89

サッカー戦争は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。

1970 FIFAワールドカップ・北中米・カリブ予選は、メキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが、1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていたため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった。
エルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった。
第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。
第2戦は6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた。試合は3-0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった。
6月27日にメキシコの首都メキシコシティで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した。

6月15日に行われたワールドカップ予選後にホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶんだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった。エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まると、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集。3日後の6月26日夜に同政府は「ホンジュラスは同国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した。ホンジュラス政府もこれを受けて6月27日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した。




プレーオフの試合の動画もあるので見てみよう。観客数は制限されているものの異様な雰囲気が漂っている。(尚、その後エルサルバドルはハイチを下し、ワールドカップ本大会に初出場した。)



もちろん戦争の原因は国境線問題、移民問題、貿易摩擦などであるが、戦争への引き金を引いたのがサッカーの試合であったことは否定できない。現在はスタジアム内外で警備が厳しくなっているとはいえ、このような事態は絶対に避けなければならない。

後者は1938年6月22日に行われたボクシングのジョー・ルイス(アメリカ) 対 マックス・シュメリング(ドイツ)で、アメリカとナチスドイツによる国家公認の戦争前哨戦だった。
ジョー・ルイスは1914年5月13日生まれで、1934年にプロデビューした。キャリアの中では11年間にわたって王座に君臨し、また全階級を通じて世界王座25連続防衛の記録保持者であり、現在もこの記録は破られていない。
マックス・シュメリングは1905年9月28日生まれで、1924年にプロデビューした。わずか2年後にドイツライトヘビー級王座を獲得すると、1927年にヨーロッパライトヘビー級王座、1928年にはドイツヘビー級王座を獲得し、着々とキャリアを積んだ。その後アメリカに渡り、1930年に世界ヘビー級王者となった。
1932年に王座を明け渡したが、1936年6月19日にジョー・ルイスと対戦し、12RKO勝ちし一躍ヒーローとなった。この試合のニュース映像はドイツ中の映画館で繰り返し放映された。

そして、ナチスドイツのプロデュースによるジョー・ルイス対マックス・シュメリングの第2戦が行われた。

ジョー・ルイス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9

第二次世界大戦間近の1938年、ドイツのアドルフ・ヒトラーから「アメリカのボクサーを叩きのめせ」という命令を受けたボクサーがアメリカに送り込まれてきた。その男の名はマックス・シュメリング(ただし、皮肉なことに、シュメリングは明快な反ナチス主義者だった)。元世界ヘビー級王者で、かつてジョー・ルイスと対戦し12回KO勝ちしたことのある男である。「第二次世界大戦前哨戦」と銘打たれた決戦の前に、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはホワイトハウスにジョー・ルイスを招待し激励している。
「敵国ドイツを打ち負かすためには、君のような筋肉が必要なのだ」
いつの間にか、それはボクシングではなくアメリカ代表のルイスとドイツの刺客シュメリングの国家間の戦いへと摩り替わっていた。国家の威信同士をかけた戦いだけに、ルイスのプレッシャーは想像だにできないものだったであろう。しかし、敵国に乗り込んできたシュメリングには更に大きなプレッシャーがかかっていた。
2年前には熱狂的に歓迎してくれたニューヨークの同じ街なのに、今度は反ナチスのデモ隊が彼目掛けて押し寄せてくるのだ。シュメリングがホテルに泊まっている間にもデモ隊はホテル前に詰めかけ脅迫とも言える暴言を投げかけていた。試合当日の控え室、シュメリングは孤独だった。一緒にアメリカに来た仲間たちは、アメリカ人からの数え切れない脅迫状に怯えてしまい会場に姿を現さなかった。




試合は第1ラウンドにルイスのパンチがシュメリングを捕らえると、立て続けに3度のダウンを奪った。終始防戦一方となったシュメリングは4度目のダウンで力尽き、ルイスが圧倒的な強さで4度目の防衛に成功した。2年前にルイスをKOしているシュメリングだが、さすがにこのような過程では全く力を発揮できなかったのは仕方のないところだ。そしてこの勝利によってルイスは人種の壁を越えて米国の国民的英雄となった。
気になるのはシュメリングのその後だが、当然ナチスから敬遠されたものの、その後もボクシングを続けて勝利している。戦争中はナチス入党の誘いを断り、アメリカでマネージャーを勤めていたジョー・ジェイコブスがユダヤ人であることを理由にマネージャーを代えるようナチスから勧告されても応じなかった。パラシュート兵となったが負傷したために、空軍を除隊となり捕虜収容所の看守として働いたそうだ。また暗殺が噂されるなど、いろいろ大変だったようだ。

Max Schmeling
https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Schmeling

When he returned to Germany after his defeat by Joe Louis, Schmeling was now shunned by the Nazis. He won both the German and European heavyweight championships on the same night, with a first-round knockout of Adolf Heuser.
During the Nazi purge of Jews from Berlin, he personally saved the lives of two Jewish children by hiding them in his apartment. It was not the first time that Schmeling defied the Nazi regime's hatred for Jews. As the story goes, Hitler let it be known through the Reich Ministry of Sports that he was very displeased at Schmeling's relationship with Joe Jacobs, his Jewish fight promoter, and wanted it terminated, but Schmeling refused to bow even to Hitler. During the war, Schmeling was forcibly drafted, where he served with the Luftwaffe and was trained as an elite paratrooper. He participated in the Battle of Crete in May 1941, where he was wounded in his right knee by mortar fire shrapnel during the first day of the battle. After recovering, he was dismissed from active service after being deemed medically unfit for duty because of his injury.
Nevertheless, in July 1944 a rumor that he had been killed in action made world news. He later visited American P.O.W. camps in Germany and occasionally tried to help conditions for the prisoners.


しかし、終戦・引退の後に2人の運命は変わる。
シュメリングは清涼飲料水の事業で成功し、基金を設立し障害者や恵まれない人々の為に目立たない形で尽力した。
ルイスは現役時代に稼いだ賞金がほとんどが搾取された。それにもかかわらず、ルイスは寄付行為などで浪費し、さらにレストラン、保険業など様々な事業に手を出すが全て失敗し、無一文になってしまった。経済的に困窮したルイスはプロレスラーに転向し、数試合で続けられなくなると今度はプロレスのレフェリーとして活動した。晩年はラスベガスのホテルでカジノ客相手の接客を続けたそうだ。
晩年2人は友好関係を深め、シュメリングが経済的に困窮していたルイスに、匿名で経済的援助を行っていたという話もある。



代理戦争となったルイス戦の敗戦について、シュメリングは約40年後の1975年に、"Looking back, I'm almost happy I lost that fight. Just imagine if I would have come back to Germany with a victory. I had nothing to do with the Nazis, but they would have given me a medal. After the war I might have been considered a war criminal."と述べたそうだ。 なるほど、歴史の評価というのはその時点ではわからないものだ。

いずれにしても、選手に必要以上の重圧をかけるような過度の盛り上がりや政治的利用は繰り返してはいけない。真の応援とは心の中で祈るものである。


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サッカーの天皇杯 (天皇杯全日本サッカー選手権大会) といえば、元日に国立競技場で決勝戦が開催され、正月の風物詩となっている。第94回大会は2015年正月でなく2014年12月に行われたので、元旦の午後に空白感を覚えた方も多いだろう。
最大の特徴は、日本サッカー協会チーム登録種別の第1種登録があれば基本的に予選に参加可能なオープントーナメントであることで、その結果毎年プロがアマのチームに敗れる波乱も起きている。
Jリーグ開幕後は全てJリーグチームが優勝しており、それ以前も前身の日本リーグのチームの優勝が多い。しかし1960年代までは学生の優勝チームも多く、現在でも最多優勝回数を誇るのは慶應義塾大学で、慶應義塾大学として1回、慶應クラブとして1回、慶應BRBとして6回、全慶應として1回の合計9回優勝している。

遡ると、日本のサッカーは1870年頃に伝来し、その後1910年代にはいくつかの大会が開催されるようになった。そして1921年9月10日に現在の日本サッカー協会の前身である大日本蹴球協会が創設され、その場で全国優勝競技会の概要が決められた。その第1回大会はその年に「ア式蹴球全國優勝競技會」の大会名で、1921年11月26日と27日に日比谷公園グラウンドで開催された。

NHK 天皇杯全日本サッカー選手権大会 大会の歴史 第1回 優勝:東京蹴球団
http://www1.nhk.or.jp/sports/tennouhai/his/empcup_bdf_hisde01.html

歴史的な第1回大会の名称は「ア式蹴球全国優勝大会」。優勝者に授与されるのは「FA杯」と呼ばれる銀製のカップでした。
地方予選は東部に20、中部に3チームが参加して行われましたが、近畿四国、中国九州では予選は実施されませんでした。全国大会へと駒を進めたのは、東京蹴球団、名古屋蹴球団、御影蹴球団、山口高校の4チーム。このうち山口高校が棄権したため、行われた試合準決勝1試合と決勝の2試合でした。秋晴れの下で行われた決勝戦は、午後2時、御影のキックオフで始まりました。前半は互いに譲らず0対0でしたが、後半10分、東京の菅家選手のCKを安藤選手がヘディングで押し込み、決勝点を奪取。東京蹴球団が最初の覇者となりました。
試合終了後、エリオット駐日英国大使より、東京蹴球団の山田主将に初のFAカップが贈られました。




この試合には、後に日本代表の監督を務め、またジャーナリストとして戦前の日本サッカー黎明期に取材を続け、サッカーの普及、発展に尽力しサッカー殿堂入りをしている山田午郎氏も出場していた。

日本サッカーアーカイブ 日本サッカー人物史 山田午郎
http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=9



第2回大会は同様な予選を経て、1922年11月25-26日に豊島師範グラウンドで開催され、アストラ倶楽部 (関東北)、名古屋蹴球団 (名古屋)、大阪サッカークラブ (大阪)、広島高師 (広島) の4チームが出場し、名古屋蹴球団が優勝した。
第3回大会は関東大震災の影響により、1924年2月2-3日に東京高師グラウンドにおいて開催され、アストラ倶楽部 (東部)、名古屋蹴球団 (中部)、神戸高商 (近畿)、広島一中 (西部) の4チームが出場し、アストラ倶楽部が優勝した。



さて、黎明期のサッカー天皇杯 (ア式蹴球全國優勝競技會) を制した東京蹴球団とアストラ倶楽部は現在も活動を続けているチームで、しかも現在同一リーグに所属して対戦している。

東京蹴球団 東京蹴球団の歴史
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tousyu/rekishi3.html

1917年、日本代表チーム (東京高等師範) がこの年はじめて体験した国際試合 (同年5月、芝浦で行われた極東選手権大会) で、中国・フィリピンに大敗した。
日本のサッカーが国際的に極めて幼稚なものであることを目のあたりにするに及んで、なんとしても斯技の普及とその強化を図らねばと決意した内野台嶺(明治42年、東京高等師範国語漢文部卒、豊島師範教諭を経て、同44年研究科に復学。大正2年同卒、東京高等師範、文理大教授)の主唱で、東京高等師範、青山、豊島両師範のOBを以てクラブチームが結成された。大日本蹴球協会発足に先立つこと4年である。
東京蹴球団の名は、創立総会の席上、栗山長次郎(東蹴初代GK、大正6年青山師範卒後、ハーバード大学卒)の提案による。
日本で初の (即ち最古の) クラブチーム、わが東蹴はかかる使命をおびて生まれた。
1921年、団の創立に4年おくれて大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)発足。団からは理事長に内野台嶺、元老の吉川、熊坂、武井などが理事に就任、創立委員として、内野台嶺をはじめ、山田午郎、原島好文、小野田誠一などが名をつらねた。
この年はじめて、第1回全日本選手権大会の行われ、11月27日日比谷公園で行われた決勝戦で、東蹴は御影師範を1対0で斥け、全日本の覇者となった。
ラインナップは、豊島師範OB9人、青山師範OB2人の構成。主将山田午郎(27歳、大正6年青山師範卒、LH)が、エリオット駐日英国大使の手からFAカップを受けた。




このように単なるクラブチームの枠にとどまらず、大日本蹴球協会の設立に関わり、また関東少年蹴球大会、全国大学専門学校ア式蹴球大会などを主催してる。
1967年より発足された東京都リーグに初年度から参加し、現在は都1部リーグに所属している。

アストラ倶楽部
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

1918年に暁星中学校サッカー部OBが中心となり結成される。クラブ名のアストラとは、ラテン語のAstra Castra Numen Lumenに由来する。
1922年の第2回ア式蹴球全国優勝大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東部地区代表として初出場。
1924年の第3回ア式蹴球全国優勝大会にも出場、名古屋蹴球団を下し優勝を果たす。
1985年に東京都社会人サッカーリーグに再加盟、現在に至る。



そして現在両チームが所属している東京都社会人サッカーリーグ1部 (第50回東京都社会人サッカーリーグ1部、14チームによる総当たり) において、先週行われた東京蹴球団 対 アストラ倶楽部 の試合に東京蹴球団が勝利し、東京蹴球団が初優勝を決めた。

東京サッカー 東京都社会人サッカーリーグニュース 東京1部 東京蹴球団が初優勝
http://www.tokyofootball.com/news/20160926.html
http://www.tokyofootball.com/news/20160926_02-mov.html

東京都社会人サッカーリーグ1部は25日、各地で4試合を開催した。
優勝争いは前節3位の東京蹴球団がアストラとの最終戦をDF高野の決勝ゴールで3-2で制し、すでに全試合を終えているCriacao、三菱養和と勝ち点30で並び、得失点差での制覇を果たした。
東京蹴球団は来年創設100周年を迎える日本最古のクラブで、東京都リーグには1967年の初年度から参加。1部リーグでの優勝は今回が初めてとなる。
関東リーグ昇格をかけた関東社会人サッカー大会には1位の東京蹴球団、2位のCriacao、3位の三菱養和が東京代表として出場する。東京蹴球団は1983以来33年ぶりの出場。


これはあまりにも劇的だ。日本最古のサッカークラブチームで、第1回天皇杯優勝チームである東京蹴球団が、同じく100年近い歴史を誇る第3回天皇杯優勝チームのアストラ倶楽部と対戦し、逆転でのリーグ戦初優勝。
19世紀からリーグ戦を行っているヨーロッパのクラブチームに匹敵するような伝統的なチーム、そして対戦だ。

東京蹴球団が関東リーグに昇格するとアストラ倶楽部との対戦は見られなくなってしまうが、お互い高いレベルを目指してほしい。そしていつか天皇杯決勝の舞台で、東京蹴球団対アストラ倶楽部という日本サッカー伝統の一戦を見てみたい。



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以前このブログで、日本で最初のプロ野球チームである日本運動協会 (1920年設立) と天勝野球団 (1921年設立) について調べた。(日本運動協会と天勝野球団)
今度は更に長い歴史を持つアメリカ・メジャーリーグの歴史を遡って見ていきたい。

メジャーリーグは現在ナショナル・リーグ15球団とアメリカン・リーグ15球団で構成されている。しかし、メジャーリーグは日本プロ野球のように2リーグに分裂したわけではない。
アメリカン・リーグの方が新しく、1901年に発足した。1885年~1900年に存在していたたウェスタン・リーグが解体され、その5チームと新球団3チームの以下8チームでスタートしている。
1. (新)ボルチモア・オリオールズ(現ニューヨーク・ヤンキース)
2. (新)ボストン・アメリカンズ(現ボストン・レッドソックス)
3. シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・ホワイトソックス)
4. クリーブランド・ブルーバーズ(現クリーブランド・インディアンス)
5. デトロイト・タイガース (現存)
6. (新)フィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)
7. ミルウォーキー・ブルワーズ(現ボルチモア・オリオールズ)
8. ワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)
ちなみに現在のニューヨーク・ヤンキースの前身・ボルチモア・オリオールズだが、現在のボルチモア・オリオールズとは関係ない。

ナショナル・リーグは1876年に発足した。前身となるナショナル・アソシエーションからの6チームと新球団2チームの以下8チームでスタートした。
1. アスレチック・オブ・フィラデルフィア(フィラデルフィア・アスレチックス)
2. ボストン・レッドキャップス(現アトランタ・ブレーブス)
3. シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)
4. (新)シンシナティ・レッドストッキングス
5. ハートフォード・ダークブルース
6. (新)ルイビル・グレイズ
7. ミューチュアル・オブ・ニューヨーク(ニューヨーク・ミューチュアルズ)
8. セントルイス・ブラウンストッキングス

このようにナショナル・リーグは、アメリカン・リーグの前身であるウェスタン・リーグよりもさらに以前からあった。
そしてナショナル・リーグにも前身のリーグがある、1871年から1875年まで運営されていたナショナル・アソシエーション (全米プロ野球選手協会、National Association of Professional Base Ball Players) である。

全米プロ野球選手協会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%B1%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A

アメリカ各地で野球が普及していった1860年代後半、当時アマチュアの野球クラブの組合団体であった全米野球選手協会が、1869年に報酬をもらってプレーするプロの野球選手のカテゴリーを創設する。同年アメリカで最初のプロ野球チーム「シンシナティ・レッドストッキングス」が結成されアメリカ各地を巡業した。その後シンシナティの成功を見習う形で各地にプロの野球チームが出来始めていたが、リーグ創設前のプロ球団は対戦相手を探しながら各地を巡業する運営で、収入源が安定しないという欠点があった。1871年にジェームズ・カーンズを会長として、ニューヨークのカフェで「全米プロ野球選手協会」(以下ナショナル・アソシエーション)が組織され、加盟チーム同士のリーグ戦を運営するようになる。巡業チームはこれにより対戦相手を探す苦労から解放された。

ナショナル・アソシエーションの特徴は、参加資格が緩く、10ドルを支払えば加盟できるというオープンリーグだった点である。各チームにとっての加盟のためのハードルは低かったが、運営基盤が弱かったり倫理的に問題のあるチームが参加するといったデメリットも生んでいた。実際にリーグで賭博や八百長が横行したことは、リーグ運営自体が短命で終わった一つの要因でもある。また、現在のような戦力均衡策などはまだ取られていなかったようで、その結果強いチームと弱いチームとの実力差が極端になってしまっていたことが集客上のデメリットになっていた。リーグ運営が5年で破綻した後、1876年に新たに作られたナショナル・リーグは、これらナショナル・アソシエーションの欠点を補完する形で運営されていくことになる。

ちなみに1869年に最初に誕生したプロ野球チームであるシンシナティ・レッドストッキングス (チームの創設は1866年) は1869年~1870年に84連勝を記録するなど強さを誇ったが、財政が悪化し1871年には選手とプロ契約をしないこととなり、選手たちは離散してナショナル・アソシエーションに参加するチームに雇われた。
この最初のプロ野球チームシンシナティ・レッドストッキングスと、1876年にナショナル・リーグが発足した時に誕生したシンシナティ・レッドストッキングス (シンシナティ・レッズ) とは関係がない。またこのシンシナティ・レッズは1880年に消滅した、その後の1881年に再びシンシナティ・レッドストッキングス (現在のシンシナティ・レッズ) が設立されている。

ナショナル・アソシエーションには1871年から1875年の5年で25球団が加盟した。このうちの半数は活動期間が1年未満であり、各年に10チーム前後がリーグ戦を戦っていた。 その記録以下で参照することができる。

Baseball Reference
http://www.baseball-reference.com/leagues/NA/

初年度 (1871年) の優勝はフィラデルフィア・アスレチックスだ。 
このチームは1860年代に実力のあるアマチュアチームで、1871年にプロの球団としてナショナル・アソシエーションに加盟した。2年目以降もリーグの強豪として活躍し、ナショナル・アソシエーションが解散した後、1876年からナショナル・リーグに加盟した。しかしチームは成績が低迷し、また財政が苦しくなって遠征費が出せなくなり、シーズン終盤のゲームを消化することを拒否しナショナル・リーグから除名されチームは消滅してしまった。
その後も「フィラデルフィア・アスレチックス」という名前のチームは多く誕生している。 現在のオークランド・アスレチックスの前身である1901年に誕生した「フィラデルフィア・アスレチックス」は関係がない。



2年目から5年目 (1872~1875年) に4連覇を果たしたのはボストン・レッドストッキングスだ。 
1871年に創設されてナショナル・アソシエーションに加盟し、初年度は3位に終わったが、翌1872年から1875年まで4連覇を果たした。1876年からナショナル・リーグに加盟し、初年度は4位だったが、1877~1878年にリーグ連覇を果たしている。 
その後チームは何度も名前を変えて、1912年にボストン・ブレーブス (その後一時期ボストン・ビーズと改称) となり、1953年にミルウォーキーに移転、1966年にアトランタに移転して、現在のアトランタ・ブレーブスとなっている。



また、1871年に創設されたシカゴ・ホワイトストッキングスも、現在のシカゴ・カブスとして現存しており、さらに創設以来本拠地を移転していない。
シカゴ・ホワイトストッキングスは1871年からナショナル・アソシエーションに参加したが、同年に起こったシカゴ大火によって球場や備品が全て焼け落ち、チームは1872年と1873年の丸2年間に渡って活動ができなかった。
1876年にナショナル・リーグが創設されると同リーグに加盟し、初代チャンピオンに輝いた。

そして、このナショナル・アソシエーションの最大のスターはボストン・レッドストッキングスのアルバート・スポルディングだ。

アルバート・スポルディング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

レギュラー投手だったスポルディングは1871年から1875年の5年間で205勝もの勝ち星を挙げ、打つ方でも打率3割を超える成績(1872年の48試合で84安打して.354など)を残していた。当時レッドストッキングスのほぼ全ての試合で投げていたスポルディングは、1874年は71試合で52勝16敗、1875年も年間約80試合のうちの72試合に登板し、55勝5敗(54勝説もある)で2年連続で50勝というとてつもない投手成績を残した。
選手として活躍する一方で、スポルディングはスポーツ用品のビジネスを手がけていた。彼の会社"A.G.Spalding & Brothers"は、野球の普及とスポーツ用品の宣伝を兼ね、1874年にイギリスとアイルランドへの野球普及のためのツアーを行っている。また一方で野球の公式ルールガイド(ボールの質の均一化を図る目的で、スポルディング社製のボールのみを使用するルールが書かれていたという)など、野球に関する出版物の発行などもしていた。

1876年にナショナル・リーグが創設されると、スポルディングはシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)の監督兼任選手として迎えられる。この年の投手成績は47勝12敗、防御率1.75で、ナショナル・リーグ最初の最多勝利投手にもなっている。1872年から1876年までの年間平均勝ち星は46以上と選手として最盛期を見せていた。しかし、それまでずっと肩を酷使してきた反動からか、翌1877年は故障で4試合に登板しただけで、主に内野手として試合に出ていた。1878年、スポルディングはスポーツ用品メーカーの仕事に専念するために28歳の若さで野球選手を引退する。わずか7年で252勝65敗であり、勝率は.795という歴代最高の記録である。 打撃でも通算打率.313を記録した。

スポーツ用品のビジネスでも成功したスポルディングは、1882年から1891年の間、選手として所属していたシカゴ・ホワイトストッキングスの理事長職をつとめる。シカゴはスポルディングの経営の元、10年間で5度のリーグ制覇をする強豪チームになっており、スポルディング自身も野球のイメージの改善のため、ギャンブルや野次の排除などに奔走した。
1939年、発展貢献者としてアメリカ野球殿堂(Baseball Hall of fame)入りを果たした。



時代やシステムが違うので、現在のメジャーリーグとの比較は無意味だが、ナショナル・アソシエーションの5年間とナショナル・リーグの初年度の6年連続最多勝というのはものすごい。 チームの試合のほとんどに先発してほとんど完投し、しかも打撃も秀でており、さらに監督も兼任してリーグ優勝、ビジネスも手掛けている。二刀流どころではない。 

ナショナル・アソシエーションを含めて、初期のメジャーリーグは同じ名前や似た名前の球団がたびたび誕生してとてもわかりにくいが、それだけプロリーグ運営にあたって度重なる試行があったということだろう。 そしてその中でプレーにおける傑出した存在があったことがよくわかる。 やはりメジャーリーグは歴史が長い。



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世界各地で様々な自動車レースが行われている。最高峰のFormula 1レースは、国際自動車連盟 (FIA) が主催する自動車レースの最高峰で、世界各地を転戦して年間でポイントを競っている。開催地にとっては大きなイベントである。

さて当たり前のことだが、自動車レースは自動車を運転して競うものであるから、自動車の進化と切り離せない関係がある。
第2次世界大戦後に、自動車競技における新しい規格が「Formula = フォーミュラ」と名付けられていくつかの階級に分けれれることなり、それをもとに1950年にフォーミュラ1が初開催されたのだが、その頃のマシンは以下のようなものだった。



さらに自動車レースと自動車の歴史をその起源まで遡ってみよう。
最初の自動車は蒸気自動車で、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作したキュニョーの砲車であると言われている。馬の代わりに蒸気機関を使って大砲の牽引に使えるかどうか検討するために試作されたものだが、前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、塀に衝突して自動車事故の第一号となったそうだ。



その後イギリスやフランスで蒸気自動車が普及するようになり、短い時間でスタートできるようになるなど改良もされた。しかしイギリスでは蒸気自動車は道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が1865年に成立し、蒸気自動車は速度を制限され、人や動物に予告するために赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。この影響でイギリスは蒸気自動車、そして続くガソリン自動車の開発でフランスやドイツに遅れることとなった。

1870年、ドイツ生まれのオーストリア人のジークフリート・マルクスによって初のガソリン自動車「第一マルクスカー」が発明された。



さらに1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)をつくると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1885年にダイムラーによる特許が出されている。
また1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。

このような自動車の歴史の中と並行して、自動車レースの起源をみてみよう。

自動車競技 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、ヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートンであった。だが集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。

記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアルである。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル」が、当時人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた。
最終的には21台でのレースが開催された。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベルト・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった。
速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったジョルジュ・ルメートル (以下の写真) と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた。




尚、このレースは以下のように何も規制がされていない公道で行われたそうだ。



レースの結果は何とも茶番であり、蒸気自動車関係者からすればきわめて納得がいかないものである。とはいえ、その後はガソリン自動車が技術を高め、また1901年にアメリカのテキサスで油田が発見されるなどガソリンの供給が安定した。その一方で蒸気自動車や電気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を越えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった。

自動車レースの点でもパリ - ルーアン・トライアルの終了後の夕食の席で誕生した (と言われる) フランス自動車クラブ (ACF) があらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなり、翌1895年にはパリ - ボルドーの往復レース (1,178キロメートル) が開催されるなど、多くの試みがなされた。
その中で最初の国際レースとして1900年にゴードン・ベネット・カップが誕生した。

ゴードン・ベネット・カップ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97_%28%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%29

ゴードン・ベネット・カップ (Gordon Bennett Cup) は、1900年から1905年にかけて6度開催された国別対抗自動車レースである。
自動車レース黎明期の1890年代後半、フランスのパリを基点とする都市間レース(パリレース)が人気を博し、新聞社が後援するイベントも行われていた。ゴードン・ベネット・カップはアメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の社主であり、パリ在住の大富豪であったジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア (James Gordon Bennett Jr.) の発案により創設された。
ベネットは国ごとの自動車製造技術を比較する機会として、各国自動車クラブが参加する国別対抗戦という方式を思い立った。彼はフランス自動車協会 (ACF) に純銀製の優勝杯を寄贈し、統一ルールを作成するよう働きかけた。
また、観客が車両の所属先を判別しやすいよう、国別にボディカラーが決められた (フランス:青、ドイツ:白、アメリカ:赤、ベルギー:黄、イギリス:緑、イタリア:黒)。これがナショナル・レーシングカラーの起源となった。




当初は参加台数が少なくあまり注目度は高くなかったが、第3回大会でフランス以外の国が初めて優勝したことで、国際的なメジャーイベントとして脚光を浴びることになり、参加国も増え、国によっては代表を決める予選会が行われた。また第4回大会からは周回コースで行われる形で行われるようになった。
1905年の第6回大会に優勝したフランスは次回の開催義務があったが、フランス自動車連盟は各国3台までという出場台数制限に不満を抱き、その開催義務を放棄すると宣言して、1906年にル・マン近郊において初のグランプリレースとなるACFグランプリ (フランスグランプリ) を開催した。フランスグランプリは国際規模のグランプリレースとして最古の歴史を持ち、F1世界選手権でもイギリスGPとイタリアGPに次ぐ歴史を持っていたのだが、2008年を最後に実施されていないのは残念である。

このようにゴードン・ベネット・カップは発展的に消滅してしまったが、この大会を通じて自動車レースの形ができあがってきたと言えるだろう。
1894年のパリ~ルーアン・トライアルと比べるとわずか10年程度の間に自動車の技術、そして自動車レースは大きく進化した。人類はスピードを競うという本質を持っていることと、経験を重ねながら発展していくということを改めて実感することができる。



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テニスのウィンブルドンの特徴を問われたら、「グランドスラム4大会の中で最も古く、白を基調としたウエアとシューズが義務づけられているなど伝統と格式を持ち、グランドスラムの中で唯一芝生コートで行われる」というのが一般的な答えになるだろう。
しかしウィンブルドンはもっと大きな存在だ。1877年に第1回大会が開催されたが、これは最古であるだけでなく最初のテニストーナメントであり、またこの大会のためにテニスのルールが定められ、現在のテニスの原型ができあがった。すなわちウィンブルドンはテニスの歴史そのものである。
例えばこの時の協議の流れによっては、テニスコートは長方形ではなく、ネット付近が狭い蝶ネクタイのような形となっていたかもしれない。
以下のWikipedia (英語版) の記事を参考にして、1877年第1回大会に至るまでの流れと、テニスのルール制定の経緯を追ってみたい。

1877 Wimbledon Championship
http://en.wikipedia.org/wiki/1877_Wimbledon_Championship

現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、8世紀ごろにフランスで発生し、16世紀以降にはフランス貴族の遊戯として定着したジュ・ド・ポーム(jeu de paume)であり、これはオリンピック競技の廃止競技として以前このブログで取り上げたことがある。
現在のテニスは正式には「ローンテニス (lawn tennis)」と称されるもので、その原型は1874年1月にウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が紹介した「スフェリスティキ (sphairistike、球戯術の意味)」がその原型だ。これはボールは中空のゴムボール (後にフェルトカバーボールとなる) で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめるというものだった。そしてウイングフィールド少佐の考案したスフェリスティキのコートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型 (あるいは砂時計型) をしていた。



遡って、1868年7月23日にAll England Croquet Clubというクロッケーの協会が設立された。クロッケーはイギリス発祥のゲートボールのような競技 (これもオリンピック競技の廃止競技として記している) で、1870年に大会を開催したりしたが、競技が物静かであったために人気が衰退していった。
1875年2月、All England Croquet Clubはスポーツライターのヘンリー・ジョーンズの提案によりローンテニスを導入することが決まり、徐々に重きが置かれていった。そして協会は1877年4月14日に、All England Croquet and Lawn Tennis Club (AEC & LTC) と名称が変更された。

再び遡って1875年3月3日にMarylebone Cricket Club (MCC) は、クリケットフィールドでローンテニスの様々な形をテストする会合を開き、ローンテニスのルール標準化を模索した。そして6月24日に最初のローンテニスのルールが制定された。これは主にウィングフィールド少佐によるスフェリスティキのルールを元としており、蝶ネクタイ型のコートが採用された。しかしこのコートの形は多くに支持されたわけではなかった。

1877年6月2日にAEC & LTCは、男子アマチュア向けのローンテニストーナメントを開催することを決めた。それは芝生のメンテナンスに必要なローラーの補修費用を生み出すことが目的だった。そして開催場所が検討されてウィンブルドンが最もふさわしいという結論となり、全てのクリケットフィールドはテニスコートに移ることとなった。

しかしこの時点でも依然としてAEC & LTCは、1875年にMCCが定めたローンテニスのルールに満足しておらず、協議が継続された。そしてこのトーナメントのための暫定的なルールとして以下を定めた。

- The court will have a rectangular shape with outer dimensions of 78 by 27 feet (23.77 by 8.23 m).
- The net will be lowered to 3 feet and 3 inches (0.99 m) in the center.
- The balls will be 2 1/2 to 2 5/8 inch (6.4 to 6.7 cm) in diameter and 1 3/4 ounces (49.6 g) in weight.
- The real tennis method of scoring by fifteens will be adopted.
- The first player to win six games wins the set with 'sudden death' occurring at five games all except for the final, when a lead of two games in each set is necessary.
- Players will change ends at the end of a set unless otherwise decreed by the umpire.
- The server will have two chances at each point to deliver a correct service.

このような経緯でローンテニスコートは、蝶ネクタイ型ではなく78 x 27 feetの長方形となった。またこれらはいくつかの修正はなされたが今日のテニスでも有効なものである。

そして6月9日に以下のような公告がされた。
The All England Croquet and Lawn Tennis Club, Wimbledon, propose to hold a lawn tennis meeting, open to all amateurs, on Monday, July 9th and following days. Entrance fee, £1 1s 0d. Names and addresses of competitors to be forwarded to the Hon. Sec. A.E.C. and L.T.C. before Saturday, July 7, or on that day before 2.15 p.m. at the club ground, Wimbledon. Two prices will be given - one gold champion prize to the winner, one silver to the second player. The value of the prizes will depend on the number of entries, and will be declared before the draw; but in no case will they be less than the amount of the entrance money, and if there are ten and less than sixteen entries, they will be made up to £10 10s and £5 5s respectively. Henry Jones - Hon Sec of the Lawn Tennis sub-committee

そして第1回ウィンブルドンには22名のエントリーがあり (そのうち1人は不戦敗)、予定どおり1877年7月9日からトーナメントが開始された。組み合わせ表と結果は以下のとおりだ。



1回戦、2回戦、準々決勝、準決勝を経て、7月19日に約200名の観衆の前でスペンサー・ゴアとウィリアム・マーシャルによる決勝が行われ、6-1、6-2、6-4でスペンサー・ゴアが勝利をおさめた。
翌日のThe Morning Post紙は以下のように報じている。
Lawn Tennis Championship - A fair number of spectators assembled yesterday, notwithstanding the rain, on the beautifully kept ground of the All England Club, Wimbledon, to witness the final contest between Messrs. Spencer Gore and W. Marshall for the championship. The play on both sides was of the highest order and its exhibition afforded a great treat to lovers of the game. All three sets were won buy Mr. Gore, who, therefore, becomes lawn tennis champion for 1877, and wins the £12 12s. gold prize and holds the silver challenge cup, value £25 5s.



スペンサー・ゴア (上の写真の前列左から4人目) は当時27歳。測量技師だったが、あらゆるスポーツに優れた技量を持ち、クリケットでも一流選手だったそうだ。
というよりローンテニスはコートの形ですらトーナメントの1ヵ月前にようやく決まったばかりであり、エントリーした選手の中に経験者がいるわけはなく、運動神経に秀でたスペンサー・ゴアが適応力で勝利したと考えていいだろう。スポーツの勝者というのは相対的なものだ。
スペンサー・ゴアは翌年の第2回大会にも出場した。当時は前年優勝者は決勝のみ戦うという方式だったが、1回戦から1セットも落とさずに決勝へ勝ち上がってきたフランク・ハドーに 5-7、1-6、7-9で敗れている。

このように第1回ウィンブルドンは非常に短い期間で開催の決定や準備が行われた。この短い期間での準備がその後ずっと続くテニスの歴史のまさに源となったと言えるだろう。
それにしても、もしテニスコートが1875年にMCCが定めた蝶ネクタイ型のままだったらどうなっていたか、という点はとても気になる。ボレーの戦術は大きく変わるはずだ。是非コートを特設して、エキジビジョンをやってみてほしい。



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