My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




以前このブログで陸上100m競走を取り上げて、その記録の変遷を調べたが、同様に花形競技である競泳100m (長水路=50m) も取り上げてみたい。
競泳は、水着の進化はともかくとして、生身の人間が身体と技術を磨いて水中での速さを競うものであり、そのタイムは時代を超えて比較可能である。すなわちタイムの短縮は人類の進化とも言えよう。

2014年現在の競泳100m世界記録は、ブラジルのセザール・シエロフィリョが2009年の世界水泳選手権 (ローマ) で記録した46秒91である。
そして国際水泳連盟 (International Swimming Federation) の競泳100m世界記録の変遷は以下のリンク先のとおりとなっている。

World record progression 100 metres freestyle
http://en.wikipedia.org/wiki/World_record_progression_100_metres_freestyle

いずれの記録もその時代における極限レベルの競技の結果であるが、100年前の1914年時点の世界記録は 1分01秒6 であり、何と100年間で14秒以上も短縮されている。これはすごすぎる。競泳に関係するトレーニングや技術の進化はすさまじいものがある。

さて、歴代の世界記録保持者を見ていくと、陸上100mのボブ・ヘイズ同様に競泳のみでなく他分野でも功績を残した人物がいる。1912年から22年まで世界記録を保持 (その間2回記録更新) していたデューク・カハナモク (Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku) と、1922年に初めて1分の壁を破り、1934年まで (その間1回記録更新) 破られなかったジョニー・ワイズミュラー (Johnny Weissmuller) である。

デューク・カハナモク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%82%AF

1890年8月24日、オアフ島に生まれる。純粋な先住ハワイ人である。ワイキキで育った彼は幼少時よりアウトリガー・カヌーや水泳に親しみ、長じては誰もが認める「ウォーターマン」となる。母親は彼を「決して水を怖れず、可能な限り遠くにまで行ってごらんなさい」と言い聞かせて育てたと伝えられる。
1911年、デュークはアマチュアの水泳競技会において、自由形100ヤードで当時の世界記録を4. 6秒も縮める驚異的な記録を叩き出し、注目を浴びる。同時に彼は220ヤードの世界記録も破り、50ヤードでは世界タイ記録を出した。しかも会場はホノルル港の海水である。
1912年、デュークは圧倒的な実力でオリンピック代表の座を手に入れる。この予選会では200メートル自由形で世界記録を更新し、挑んだ1912年 ストックホルム五輪では100メートル自由形であっさり優勝。リレーでも準優勝に貢献した。
1920年のアントワープ五輪でも100メートル自由形優勝、リレー優勝。
競技生活を引退した後は水泳とサーフィンの振興に力を注ぐとともに、ハリウッド映画にも数多く出演している。

デュークは水泳選手として以上に、サーファーとしても巨大な影響を後世に与えた人物である。彼の功績はまず、サーフィンというスポーツそのものが再評価されるきっかけとなったこと、そしてサーフィンをアメリカ社会に流行させたこと、さらに「デューク・カハナモク・インヴィテーショナル」大会のアイコンとしてサーフィンがプロ・スポーツとなるきっかけを与えたことの三つが大きい。言わば近代サーフィンの父がデュークなのである。

デュークはハワイの海洋文化の偉大さを、水泳競技における圧倒的な実力と、サーフィンという素晴らしいスポーツの魅力を通じて世界に知らしめた人物であった。




僅かではあるが、オリンピックのサイトには、貴重な1920年のアムステルダムオリンピックの映像がある。

Olympic.org Athletes Duke Paoa KAHANAMOKU
http://www.olympic.org/duke-paoa-kahanamoku

このようにハワイの英雄であるデューク・カハナモクは、生誕100年の1990年にワイキキビーチを背にして立つ等身大 (サーフボードを含めると5m) の銅像がた立てられた。
また、デュークは映画出演を通じて、それまでローカルな存在であったハワイアンファッションをアメリカ全土で注目されるほどのアイテムにまで押し上げた立役者でもあり、「デューク・カハナモク」の名を冠したアロハシャツ等のブランドも創設された。日本でもオンラインショップが展開されている。このサイトの中にもデューク・カハナモクの生い立ちや業績に対する詳しい記述がある。

Duke Kahanamoku (デューク・カハナモク)
http://www.dukekahanamoku.jp/

そのデューク・カハナモクの次の世界記録保持者でがジョニー・ワイズミュラーだ。

ジョニー・ワイズミュラー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC

1904年6月2日、現在のルーマニアのティミショアラの近くでドイツ系の家庭に生まれる。彼が7ヶ月の時に家族でアメリカに移住、ペンシルベニア州やシカゴで育つ。病弱だったため、医者に勧められて水泳を初め、12歳の時にYMCAの水泳チームに参加するようになる。
1922年、デューク・カハナモクが持っていた100m自由形の世界記録を更新。1924年のオリンピックでは100m自由形、400m自由形、自由形リレーの3つで金メダルを、水球で銅メダルを獲得。1928年のアムステルダムオリンピックでは100m自由形、自由形リレーの2つで金メダルを獲得。

1929年、ワイズミュラーは下着メーカーのBVDと契約を結び、モデルとなった。合衆国中を回って水泳ショー、水着のチラシ配り、サイン会、トークショーなどを行った。同年初めて映画『アメリカ娘に栄光あれ』に出演し、イチジクの葉を着けてアドニスを演じた。
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと7年契約を結んでから俳優としてのキャリアが本格的に始まった。1932年の『類猿人ターザン』でターザン役を演じ、世界にセンセーションを巻き起こした。ターザンの原作者エドガー・ライス・バローズも喜んだという。
ワイズミュラーはモーリン・オサリヴァンをジェーン役として6本のターザン映画に出演した。3作ではジョニー・シェフィールドが子役として共演した。1942年にはRKOに移籍し、さらに6本のターザン映画に出演した。12本のターザン映画でワイズミュラーは200万ドルを稼いだと推定され、ターザン役では最も有名な俳優となった。







ジョニー・ワイズミュラーは活動期間が長いターザンの俳優というイメージが強いが、バックグラウンドは競泳選手であり、世界記録そしてオリンピック金メダリストである。肉体美や、叫び声の声量は競泳のアスリートならではのものだ。しかし映画は映像が残っているのに対して、昔のスポーツ映像はなかなかみつけられないので印象が薄くなってしまうのはちょっと悲しい。

さて、デューク・カハナモクとジョニー・ワイズミュラーは1924年のパリ・オリンピックで直接対決している。そして金メダルがジョニー・ワイズミュラー (59秒0)、銀メダルがデューク・カハナモク (1分01秒4) とともに世界記録ではないが、軍配はジョニー・ワイズミュラーに上がった。ジョニー・ワイズミュラーがこの時20歳、デューク・カハナモクが34歳だったことを考えると、これは当然の結果とも言える。尚、銅メダルのサミュエル・カハナモク (21歳)はデュークの弟であり、このハワイのスイマー兄弟の高い能力を改めて知ることができる。



これらの写真や映像からわかるとおり、現在とは身に着けているもの(この場合は水着)も全く異なるし、技術的にも現在の目で見るとまだまだである。しかしあらゆるスポーツの記録は積み重ねで連続しているものであり、ジョニー・ワイズミュラーが100mで1分を切ったからこそ、現在の世界記録がある。人類の進歩はまだまだ続く。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





FIFAワールドカップ ブラジル大会が迫ってきた。1950年以来のブラジルでのワールドカップだ。
ブラジルがサッカー王国の地位を築いたのは、王様ぺレの功績が大きいことは言うまでもない。ペレは15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281ゴールを記録した。

しかしブラジルにはペレよりも約50年前に生涯通算1329ゴールを挙げたプレーヤーがいる。アルツール・フリーデンライヒ (Arthur Friedenreich、1892年7月18日 - 1969年9月6日) だ。



アルツール・フリーデンライヒ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92

ドイツ人の父とアフリカ系ブラジル人の母の間に生まれたムラート(ヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血)。1914年に白人以外で初めてブラジル代表に選出される。1919年のコパ・アメリカ決勝では、当時世界トップクラスにあったウルグアイ代表を降す決勝ゴールを挙げ、大会初優勝に貢献。この勝利はブラジルの人々の目を本格的にサッカーに向けさせるきっかけとなり、今日のサッカー王国ブラジルが築かれる端緒となったという点でも歴史的なものであった。チグリ(虎)のニックネームは、この時にウルグアイ人が呼び始めたのが始まりである。

他の選手が白人で上流階級の子息ばかりだった中、フリーデンライヒは激しい差別を受け続け(当時、黒人選手への反則は見逃されるという不文律も存在した)、その出自を隠すため髪をポマードで撫でつけ、さらにその上からネットキャップを被ってプレーをした。このような状況はムラートであり、自身を白人であると認識していた彼にとっては耐え難いものであった。43歳まで現役を続け、1934年に引退。通算1329ゴールはペレの1281ゴールを上回る史上最多ゴール数であるが、そのキャリアを通じほぼ無報酬でプレーを続け、サッカーから得た目立った報酬は一軒の家のみだった。ちなみにフリーデンライヒはサッカーの生涯通算最多得点数歴代1位としてギネスブックに掲載されている。


名選手伝説
http://fps01.plala.or.jp/~syuu/meiden/mei_05.htm

フリーデンライヒの評価が高いのは、何もその天文学的なゴールの多さだけではない。彼はブラジルにおいて、民族的な障壁をうち破った初めての選手だった。
名字から明らかなように、父はドイツ人、母はブラジルの黒人。ムラートと呼ばれる混血児だった彼は、父親の血をより強く受け継いでいたものの、白人社会では異端として扱われた。自身を白人と認識していた本人には随分なショックで、以後ロッカールームで髪に半時間もこてを当てるのが日課になったほどだ。それでもじきに破格の得点力が買われ、白人の助っ人としてチームに参加するようになる。こうして徐々にサッカーは、一部のエリートから庶民のもとへ下りていった。
1914年7月21日、今日では非公式の国際試合とされるが、フリーデンライヒは遂に代表のユニフォームを着た。非白人としては初めてのことだ。。
フリーデンライヒは代表で17試合にしかプレーしていないが、1919年のコパ・アメリカで得点王を取って優勝した。この時の彼の人気がいかに凄かったかは、彼が履いていたスパイクが宝石店のショーウィンドウに飾られたことからもわかる。まさに黄金の足というわけだ!
1930年のワールドカップにも出場できたが、38歳の高齢だったので辞退した。もっと後の、出自を恥じることのない時代に生まれていれば、代表得点がたった7ゴールでおさまることは(ほぼ確実に)なかったことだろう。
大切なのは、彼が先鞭をつけたことだ。レオニダスが、ペレがそれに続いた。ブラジルは自他ともに認める世界一の強国となった。


フットボール文化系 華麗なプレーと人種差別
http://foot2010.exblog.jp/4507300

ブラジルにおいて奴隷が廃止されたのが1888年。ですので、サッカーが大衆化しはじめる20世紀初頭にもまだ残滓がありました。クラブは白人ばかりだったし、プレーも今のような華麗なものではなく、ラグビーとさほど変わらない無骨なスタイルだったはず。
その中で黒人選手がプレーするときには気をつけなければいけません。身体的接触で白人を倒したら、試合後に制裁が待っているからです。
つまり、当時の「ぶつかり合い」スタイルのフットボールをしていたら、黒人たちは体がもちません。そこで、「ぶつかる」のではなく「かわす」プレーが必要になってきます。

そんな中現れたフリーデンライヒは「黒人選手」の先駆けとなっただけでなく、サッカーを「体格勝負」から「華麗なテクニック勝負」のスポーツに変えた先駆者でもあります。

彼の登場は、フットボールを裕福なアマチュアのものからプロフェッショナルなものに変える契機にもなりました。
当時、黒人選手の多くは貧しかったわけで、「アマチュアリズム」なんて悠長なことは言ってられません。ということで、黒人選手がクラブに入るには、だいたいが「プロ契約」を結ぶことになるわけです。
サッカーをしてお金を貰う、その代わり、アマチュアでは出来ない高質なプレーをする。貧しい家に育った子供が、成功するためにサッカーテクニックを磨く。こういう社会モデルが出来てくるわけです。


このフリーデンライヒの出場した1925年のパリでのフランスとの国際試合の映像がある。この試合でフリーデンライヒは3点を挙げている。とてもわかりにくいのだが、3:31や5:13にシュートを放った選手がフリーデンライヒのようだ。こうして見ると他の選手よりも身長があるし動作も鋭い。




一方で、生涯通算1239試合で1329ゴールというのはギネスに認定されているものの、正確な数字というのは誰にもわからないようだ。ペレのファンは1329試合で1239ゴールだと主張しているという。

フリーデンライヒは1909年から1935年まで6つのクラブでプレーしているが、The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation (サッカーに関する統計情報を収集するアマチュアの国際組織) によると562試合で557ゴールだ。

Relação de jogos e gols de Arthur Friedenreich (All Matches Played and Goals Scored by Arthur Friedenreich 1909-1935)
http://www.rsssfbrasil.com/miscellaneous/fried.htm



いずれにしてもフリーデンライヒの功績はゴール数だけで考えるべきものではなく、サッカーにおける民族の障壁を打破し、またサッカーのプロフェッショナリズムを築いたという点で、ブラジルのそして世界のサッカーの伝説そのものである。
FIFAワールドカップを観戦する全ての人に是非とも知ってもらいたいプレーヤーだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今年2月にレスリングがオリンピックの中核競技からの除外となり、その上で9月に残留が決定したことは記憶に新しい。
どの種目が対象になるかはともかくとして、オリンピック競技に新しい種目が採用されること、また外れる種目があることについて異論はない。人類が技を競うスポーツは時代とともに変化して当然だ。

オリンピックで過去の行われたことのある競技は、以下の13種目だ。(復帰予定のゴルフとラグビーを除く)
クリケット、クロッケー、 バスクペロタ、 ラケッツ、 ジュ・ド・ポーム、 モーターボート、綱引、 ポロ、 野球、 ソフトボール、ラクロス、ロック、芸術競技  

オリンピック競技 過去の実施競技
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E7%AB%B6%E6%8A%80#.E9.81.8E.E5.8E.BB.E3.81.AE.E5.AE.9F.E6.96.BD.E7.AB.B6.E6.8A.80

異質なのはやはり芸術競技だろう。
古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられており、クーベルタン男爵の希望もあり芸術競技が採用されたのだが、芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じて、正式競技から外れた。
1912年のストックホルム大会から1948年のロンドン大会まで7回にわたり正式競技として実施されており、1936年のベルリン大会では、絵画部門で藤田隆治の「アイスホッケー」が、水彩部門で鈴木朱雀の「古典的競馬」が、それぞれ銅メダルを獲得している。

日本スポーツ芸術協会の歴史と現在
http://www.sportsarts.gr.jp/about.html

他の廃止種目の中にも、聞いたことがないスポーツがいくつかある。これらを纏めて調べてみよう。

クロッケー (Croquet) は芝生のコートで行われるイギリス発祥の球技で、日本におけるゲートボールの原型だ。
イギリスで19世紀中ごろから人気が出て、1900年のパリ大会で採用された。

日本クロッケー協会 クロッケー歴史年表
http://www.croquet.jp/HistricalTable.htm



3つの競技(シングルス1ボール、シングルス2ボール、ダブルス)に7人の男性プレーヤーと3人の女性プレーヤーが参加した。国籍は1名がとベルギーで、他はフランスだった。そしてメダルは全てフランス勢が独占した。シングルス1ボールとダブルスで2つの金メダルを手にしたGaston Aumoitteは若干15歳だ。

Croquet at the 1900 Summer Olympics
http://en.wikipedia.org/wiki/Croquet_at_the_1900_Summer_Olympics

オリンピックのクロッケーはこの1回のみだが、続く1904年のセントルイス大会では、ロック (Roque) が行われた。これはハードコートで行われるクロッケーと言える。
競技に参加したのはアメリカの4選手のみで、必然的にアメリカ勢がメダルを独占。金メダルのCharles Jacobusは64歳。オリンピック史上最年長金メダリストはスウェーデンのオスカー・スパーン (64歳258日、1912年・ストックホルム大会 射撃競技) だが、ほぼ匹敵する。

Roque at the 1904 Summer Olympics
http://en.wikipedia.org/wiki/Roque_at_the_1904_Summer_Olympics


1900年のパリ大会ではバスクペロタ (Basque pelota) も行われた。これはスペインのバスク地方発祥の球技で、ミット状のものを手につけて壁にボールをぶつけ合うものだ。
細かいルールはわからないが、以下の映像を見るとイメージがわく。これは面白そうだ。



競技にはスペインとフランスの2チームのみが参加し、直接対決でスペインが金メダルを獲得した。尚、1924年パリ大会、1968年メキシコシティ大会、1992年バルセロナ大会でも公開競技としての実施されている。

1908年のロンドン大会ではジュ・ド・ポーム (jeu de paume、英real tennis) が行われた。これはテニスの先駆となったスポーツで、16世紀から17世紀にかけてのフランスおよびイギリスの絶対王政時代に全盛期を迎え、王侯貴族や市民に広く親しまれた。現在の競技映像があるので見てみよう。



競技にはイギリスから9名、アメリカから2名が参加し、アメリカ人のJay Gould IIがイギリス勢を押さえて金メダルに輝いた。大資本家Jay Gouldの孫でテニスの英才教育を受け、1906から1926年まで第一次世界大戦によって試合が行われなかった時期を除いて、大会を18連覇したという。いかにも高貴な雰囲気を醸し出している。



そして同じくロンドン大会では、ラケッツ (英Rackets、米Racquets) という競技も行われている。
ラケッツは18世紀に、ロンドンの刑務所で娯楽として始まった。囚人たちが刑務所の壁にボールをぶつけていたのを、スピードを高めるためにテニスラケットを使用したことが原型になっている。スカッシュと起源が似ているが、ボールが違うので何とも心地の良い音がする。これも現在の競技映像があるので見てみよう。



競技にはシングルスとダブルスにイギリスの7人のみが参加し、当然イギリスがメダル独占したのだが、シングルス金メダリストのEvan Noel、ダブルス金メダリストのVane Pannellはジュ・ド・ポームにも参加している。ラケッツは壁打ち、ジュ・ド・ポームは対面型という違いはあるが、テニスに加えてインドアのラケット競技が2つというのはちょっと多かったようで、ともにロンドン大会を最後に廃止になってしまった。

Rackets at the 1908 Summer Olympics
http://en.wikipedia.org/wiki/Rackets_at_the_1908_Summer_Olympics

このように見ていくと、クロッケーとロックはほぼ同じ競技と言えるし、ジュ・ド・ポーム、ラケッツ、バスクペロタもインドアでボールを打ち合ったりぶつけ合ったりするという共通点がある。
以前「オリンピックのゴルフ」という記事の際に調べたが、黎明期のオリンピックは本当にのどかなものだったようで、競技種目について気にされることはなかったのだろう。或いは当時はそれほどスポーツのレパートリーがなかったというのが実態かもしれない。スポーツ・文化は100年単位で見ると面白い。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ここのところ競馬において牝馬の活躍がめざましい。2007年の東京優駿 (日本ダービー) をウオッカが牝馬として64年ぶりに制すると、同馬はその後もジャパンカップ、天皇賞・秋、安田記念と牡馬混合のGIレースを制した。またダイワスカーレット(有馬記念)、ブエナビスタ (ジャパンカップ、天皇賞・秋)、現役のジェンティルドンナ(ジャパンカップ) も続いている。アメリカでもゼニヤッタが2009年のブリーダーズカップクラシックを含めてG1競走を13勝するなど牝馬の活躍が目立つ。競走馬の世界も肉食女子・草食男子の流れなのだろうか。

さて、牡馬にはいくら逆立ちしてもできないことがある。それは牝馬限定戦に勝つことで、当たり前だが牡馬は牝馬限定戦に出走することができないから勝つことができない。
逆に言うと、牝馬には出られないレースがない (朝日杯フューチュリティステークスが一時期牡馬・騸馬限定だったが現在は牝馬も出走可能) わけで、牡馬はいくら頑張ってもクラシックは三冠止まりなのに対し、牝馬は五冠全てのレースを勝つことが原理上は可能だ。
もちろん現在の競馬では、1000ギニー(桜花賞)と2000ギニー(皐月賞)、オークス(優駿牝馬)とダービー(東京優駿)の日程が詰まっているので現実的ではない。しかし調べてみるとクラシックレースを4つ以上制した牝馬は過去に4頭存在する。



まずイギリスのFormosa (フォルモサ、1865年生、父 Buccaneer、母 Eller) で、1868年の牝馬クラシック三冠 (1000ギニー、オークス、セントレジャー (イギリスではセントレジャーは牝馬にとっても三冠目となる)) に加えて2000ギニーを制している。
クラシックの初戦は4月28日の2000ギニーだったが、道中はMoslemという牡馬が優勢だったものの最後に追い込んで、何と同着で制した。レース史上最高の接戦のひとつと言われているそうだ。
そして、その僅か2日後の4月30日に行われた1000ギニー、5月29日のオークス、9月9日のセントレジャーを勝った。2000ギニーの同着優勝という強運とそのレースでの牡馬との対戦経験が牝馬クラシックで活かされたようだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Formosa_%28horse%29




次にイギリスのSceptre (セプター、1899年生、父 Persimmon、母 Ornament) で、 1902年の牝馬クラシック三冠と2000ギニーを制している。更にSceptreはダービー(4着)にも出走しており、イギリス競馬史上唯一クラシック全競走に出走した馬である。
4月(日にちは不明)に2000ギニーを制すると、その2日後の1000ギニーも制覇。6月4日のダービーでは出遅れと無理なレース運びで4着と敗れたものの、その2日後の6月6日のオークスを3馬身差で制覇。
更にすごいのはその6月14日にフランスに遠征しロンシャンでのパリ大賞に出走(着外)、イギリスに戻って6月17日にアスコットで コロネーションステークス(5着)、更に翌日の6月18日にアスコットで セントジェームスパレスステークスに優勝と、僅か半月で遠征を含め5走している。
更に7月に2走し、9月(日にちは不明)のセントレジャーに勝って牝馬クラシック三冠に輝くと、またそのその2日後のパークヒルSにも出走し2着に敗れた。
このようにムチャクチャな使われ方をされたのだが、4歳時も5勝を挙げるなど活躍をした。生涯成績は25戦13勝と比較的敗戦が多いのは仕方ないところだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC_%28%E7%AB%B6%E8%B5%B0%E9%A6%AC%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Sceptre_%28horse%29




3頭目はデンマークのRossard (ロスアード、1980年生、父 Glacial、母 Peas-Blossom) で、1983年のデンマークのダービー、オークス、1000ギニー、セントレジャーを制している。但し2000ギニーは不出走だった。
更にRossard はスウェーデンのダービーとオークスも制している (セントレジャーは敗戦) ので、「クラシック六冠馬」と呼んでもいいかもしれない。4歳時はアメリカで走り、G1のフラワーボウル招待ハンデキャップも制しており、北欧史上最強馬と言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%89




最後はカナダのDance Smartly (ダンススマートリー、1988年生、父 Danzig、母 Classy 'n Smart) で、何とこの馬は1991年の牡馬戦線の三冠レースであるクイーンズプレート(6月)、プリンスオブウェールズステークス(7月)、ブリーダーズステークス(8月)を制し、更にウッドバインオークス(6月)を制している。更に11月にアメリカ遠征し、並み居る強豪を打ち破りブリーダーズカップ・ディスタフ (現在はレディーズクラシックに名称変更) に優勝した。同レースをアメリカ以外の馬が制したのは今のところDance Smartlyだけである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Dance_Smartly

このように見てみると、桁違いの実力と関係者のムチャクチャな計画があれば、少なくてもクラシック全競走出走は不可能ではない。とはいえ現在の競馬先進国におけるスピード競馬で3歳春に連闘をさせるようなオーナー・調教師はいないだろう。クラシック四冠馬はやはり難しそうだ。
一方で、傑出した牝馬が最初から牡馬クラシック路線を歩み、牝馬による牡馬クラシック三冠制覇というのはいつの日か本当に叶うかもしれない。傑出した2歳牝馬のオーナーは是非検討をお願いしたい。牝馬の究極のキャリアメイキングを応援しよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





先日レスリングの吉田沙保里(女子55kg級)が国民栄誉賞を受賞した。オリンピック3大会連続金メダル、レスリング世界選手権10連覇など実に輝かしい戦跡で、この国民栄誉賞については全く異論がない。
吉田沙保里は2001~2008年に119連勝を記録した。さらに個人戦に限定すれば現在157連勝中で現在も継続中だ。まさに無敵の女王である。

しかし、世の中にはまだまだ上がいる。レスリングでは東京オリンピック金メダリストの渡辺長武(男子63kg級)が189連勝を記録している。そして他のスポーツに目を向けると、555連勝という桁違いの記録がある。スカッシュでジャハーンギール・カーン(パキスタン)が1981年から1986年にかけて記録したものだ。

Jahangir Khan
http://en.wikipedia.org/wiki/Jahangir_Khan

Jahangir Khan (born 10 December 1963, in Karachi, Pakistan) is a former World No. 1 professional squash player from Pakistan, who is considered by many to be the greatest player in the history of the game. During his career he won the World Open six times and the British Open a record ten times. From 1981 to 1986, he was unbeaten in competitive play. During that time he won 555 games consecutively, the longest winning streak by any athlete in top-level professional sports as recorded by Guinness World Records.He retired as a player in 1993, and has served as President of the World Squash Federation since 2002.

In 1981, when he was 17, Jahangir became the youngest winner of the World Open. That tournament marked the start of an unbeaten run which lasted for five years and 555 matches. The hallmark of his play was his incredible fitness and stamina. Jahangir was quite simply the fittest player in the game, and would wear his opponents down through long rallies played at a furious pace.

In 1982, Jahangir astonished everyone by winning the International Squash Players Association Championship without losing a single point.

The unbeaten run finally came to end in the final of the World Open in 1986 in Toulouse, France, when Jahangir lost to New Zealand's Ross Norman. Norman had been in pursuit of Jahangir's unbeaten streak, being beaten time and time again. "One day Jahangir will be slightly off his game and I will get him", he vowed for five years.


British Openは1930年に始まったスカッシュで最も権威のある選手権だが、ジャハーンギール・カーンは1982年~91年まで10連覇している。1991年の決勝の映像が見つかった。



見慣れていないスポーツなので、技術については触れないが、10年にわたり世界チャンピオンに君臨、6年間無敗で555連勝というのは改めて凄まじい記録だ。

そして、実はこの記録に迫っている現役選手がいる。車いすテニス女子のエステル・フェルヘール(オランダ)だ。



エステル・フェルヘール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%AB

エステル・フェルヘール (Esther Vergeer, 1981年7月18日 - )は、オランダ・ユトレヒト州ウルデン出身の車いすテニス選手で、シドニーパラリンピック、アテネパラリンピック、北京パラリンピックの車いすテニス女子シングルス金メダリスト。
女子車いすテニス界において圧倒的な強さを誇り、1999年4月6日より世界ランキング1位は継続されている。2003年1月30日のシドニーインターナショナル(ITF1)においてオーストラリアのダニエラ・ディトーロに敗れた のを最後に、以来、シングルスでの無敗記録を更新し続けている。2007年には女子史上初のグランドスラムを達成した。身長178cm、右利き。
8歳のときに受けた手術がもとで下半身不随となり、リハビリテーションの一環としてシッティングバレーボールや車いすバスケットボールなどとともに車いすテニスを知る。車いすバスケットボールではオランダのナショナルチームの一員として、1997年の欧州選手権で優勝している。
12歳で始めた車いすテニスでは1996年に最初に国際トーナメントに出場、競技に本格的に取り組み始めた1998年には、主要タイトルの1つである全米オープンに優勝した。2000年のシドニーパラリンピックでは女子シングルスとダブルスで金メダルを獲得した。2004年のアテネパラリンピックでも、シドニー大会に続いて女子シングルスとダブルスの両方で金メダルを獲得、NEC車いすテニスマスターズでは1998年以来10連覇している。2000年から8年連続で国際テニス連盟(ITF)が選出するITF世界チャンピオンとなっている。


今年のロンドンパラリピックでも車いすテニス女子シングルスで金メダルを獲得し、これでパラリンピック4連覇。この時点で470連勝だそうだ。



まだまだ力の衰えは感じられず、何年か後にジャハーンギール・カーンの連勝記録を破ることは充分考えられる。

もちろん実力差がそのまま勝敗に結びつきやすいスポーツやそうでないスポーツがあったり、また相手との力関係や年間の試合数などが全く異なるので、どの記録が優れているということは全くないのだが、「勝ち続けなければならない」という強いプレッシャーの中でプレーし、そしてまた結果を出すのは凄いことだ。
エステル・フェルヘールや吉田沙保里がどこまで連勝を伸ばすか、そして今後更に超えるようなスーパープレーヤーが登場するかどうか見守っていきたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今年はロンドンオリンピックが行われる。7月27日の開幕に向けて注目が高まり、期間中様々な競技でドラマが生まれるだろう。そしてあっという間に閉幕して舞台は2016年のリオデジャネイロへ引き継がれる。
ということで一足先に2016年のリオオリンピックに注目すると、何と言っても南米大陸で初のオリンピックということで国を挙げての盛り上がりが期待できそうだ。
競技種目について見ていくと、ゴルフとラグビーが復活する。ラグビーは7人制なので異種目と考えるが、ゴルフは1904年以来実に112年ぶりの復活となる。

ゴルフは第2回のパリ大会(1900年)と第3回のセントルイス大会(1904年)でオリンピックの正式競技だった。この時の記録をよく調べてみよう。

Golf at the 1900 Paris Summer Games
http://www.sports-reference.com/olympics/summer/1900/GOL/
http://en.wikipedia.org/wiki/Golf_at_the_1900_Summer_Olympics

On 2 October 1900, twelve gentlemen gathered to play 36 holes of golf at the Compiègne Club, about 30 miles north of Paris. Though only a few of them may have realized it at the time, they were the participants in the first Olympic golf tournament.

There were two golf events in 1900 - one for gentlemen and one for ladies, using the vernacular of the time. Charles Sands, of the St. Andrews Golf Club in Yonkers, New York, played the Compiègne course in rounds of 82-85 to win the gentlemen’s event by one shot over Walter Rutherford of Jedburgh, Scotland.
The next day, the ladies’ event took place and was won by Margaret Abbott of the Chicago Golf Club, who played her requisite nine holes in 47 strokes.
A third competition was held on the final day. However, this was a handicap event for men, and cannot be considered of Olympic caliber.

1900年10月にパリ郊外のコンピエーニュで、フランス、イギリス、ギリシャ、アメリカの4カ国から男女22名のゴルファーが参加しての行われたオリンピックゴルフ競技は、男子ではアメリカのCharles Sandsが、女子はMargaret Abbottが優勝し金メダルに輝いた。



Charles Sandsは7月に行われたオリンピックのテニス競技にも参加しており(パリオリンピックは開幕が5月14日、閉幕が10月28日)、シングル、ダブルス、混合ダブルスともに初戦敗退だった。さらに1908年のロンドンオリンピックでもジュ・ド・ポーム(インドアテニス)に参加し、これまた初戦敗退だった。このようにオリンピックでは振るわなかったもののCharles Sandsは全米テニスチャンピオンにも輝いたテニスプレーヤーである。しかし歴史上ゴルフの金メダリストとして名を残すのだから運命はわからない。

Sands was a well-known athlete, though. Primarily a tennis player, he was the United States’ champion in 1905 in court tennis, the original form of the game. He is one of only two American athletes to have competed in the Olympics in three sports - 1900 in golf, 1900 in lawn tennis, and 1908 in jeu de paume (the original name of court tennis).



Margaret Abbottはシカゴ在住の女子学生で、パリで絵画を学んでいた際に母親のMary (7位) とともにこのトーナメントに参加した。これはオリンピック史上唯一の母娘が同時に競技したケースだそうだ。
そしてMargaret Abbottはアメリカ女性として初のオリンピック金メダリストになったのだが、彼女(を含めて多くの参加者)はこれがオリンピックの競技であることに気付かず、そのまま亡くなったという。

Margaret Abbott was born in Calcutta (Kolkata), India in 1878 to wealthy parents. She learned her golf at the Chicago Golf Club but in 1900 was studying art in Paris, accompanied by her mother, who also played in the Olympic golf tournament (she finished seventh). By winning the Olympic golf tournament she became the first American woman to win an Olympic event (and only the second overall).

These games were apparently so poorly organized that many competitors, including Abbott, did not realize that the events they entered were part of the Olympics. Historical research did not establish that the game was on the Olympic program until after her death, so she herself never knew it.
competed in the event, finishing tied for seventh, making it the first (and still only) Olympic event in which a mother and daughter competed at the same time.


参加者全員のスコアを見ると、男子(2ラウンド)の最下位は252、女子(1/2ラウンド)の最下位は80と、クラブなどの道具がまだ充分でなかったとしても相当低レベルだ。
参加者の選出経緯は不明だが、たまたま10月のコンピエーニュに集まったゴルフ経験者によるコンペが、そのままオリンピックになってしまったというのが実態に近そうだ。

次のセントルイス大会(1904年)のゴルフについて見てみよう。

Golf at the 1904 St. Louis Summer Games
http://en.wikipedia.org/wiki/Golf_at_the_1904_Summer_Olympics
http://en.wikipedia.org/wiki/Golf_at_the_1904_Summer_Olympics_%E2%80%93_Men%27s_team
http://en.wikipedia.org/wiki/Golf_at_the_1904_Summer_Olympics_%E2%80%93_Men%27s_individual

女子の参加はなくなり、男子個人と男子団体の2競技のみが行われた。全参加者は77名と増えたが、アメリカ74名、カナダ3名と完全にアメリカのための競技だった。9月17日に行われた団体は参加者30名が全てアメリカ人で、10名ずつの3チームで争われた。当たり前だが全てのメダルはアメリカ勢の独占で、金メダルがWestern Golf Association、銀メダルがTrans-Mississippi Golf Association、銅メダルがUnited States Golf Associationのものとなった。

男子個人は9月19日~24日にかけて、75名(アメリカ72名、カナダ3名)が参加して行われた。まず全員で予選が行われ、その上位の32名によってがトーナメントのマッチプレーが行われている。(そのため長い日数がかかっている)
そして優勝したのは、僅か3名(トーナメント進出は1名)だったカナダ人選手のGeorge Lyonだった。
しかしこれは決してフロックではなく、George Lyonはカナダで通算8回アマチュアチャンピオンになったほどのプレーヤーだ。但しゴルフを始めたのは38歳からで、その8年後にオリンピック金メダルなのだから、当時のゴルフのレベルがわかる。



George Lyon
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Lyon_%28golfer%29

George Seymour Lyon (July 27, 1858 - May 11, 1938) was a Canadian golfer, an Olympic gold medallist, an eight-time Canadian Amateur Championship winner, and a member of Canada's Sports Hall of Fame.
Although he began playing golf at the age of 38, he won the gold medal in golf in the 1904 Summer Olympics in St. Louis, Missouri. He won the Canadian Amateur Championship a record eight times between 1898 and 1914, and won the Canadian Seniors' Golf Association Championship ten times between 1918 and 1930.
He traveled to London in 1908 to defend his Olympic title, but plans to stage a golf tournament there were cancelled at the last minute, since representatives from England and Scotland were unable to agree on the format, and golf has not been held in the Olympics since.
In 1955, Lyon was inducted into Canada's Sports Hall of Fame. In 1971, he was inducted into the Canadian Golf Hall of Fame.

興味深いのは、George Lyonが1908年のロンドンオリンピックにも参加を予定していたが、直前にゴルフ競技がキャンセルされてしまったことで、行われていたらGeorge Lyonはどのような成績を残していたか、またその後オリンピックのゴルフはどのようになっていったか、いろいろ気になる。

この112年の間にゴルフは格段の進歩を遂げている。2016年のリオオリンピックのゴルフは果たしてどのようなものになるのか、そしてオリンピック競技となったゴルフがその後更にどのような発展を遂げるのか興味は尽きない。2016年8月にこの記事を再度読み返そうと思う。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





陸上100m競走は陸上の花形競技であり、男子のトップは「人類最速の男」の称号が与えられる。類稀な才能を与えられたアスリートたちが、肉体を鍛え上げ、限りなく張り詰められた精神状態の中で行われるわずか10秒の勝負だ。従って勝負も記録更新も0.01秒の単位で展開される。

陸上100mの歴代記録を見ていくと、1912年のストックホルムオリンピックの男子100m予選において、ドナルド・リッピンコット(アメリカ)が記録した10秒6(手動計測)が国際陸連が初めて公認した世界記録である。それから100年を経た現在の記録は2009年8月にウサイン・ボルト(ジャマイカ)が記録した9秒58であり、人類は100年で100mを走るタイムを1秒縮めたということができる。

男子100メートル競走世界記録の推移
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%AD%90100%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E7%AB%B6%E8%B5%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB

さて、歴代の陸上100m男子金メダリスト・世界記録保持者の中で、陸上以外でも輝かしい業績を残した人物がいる。1964年東京オリンピック陸上100m金メダリストのボブ・ヘイズだ。

ボブ・ヘイズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BA

ボブ・ヘイズ(Robert Lee "Bullet Bob" Hayes, 1942年12月20日 - 2002年9月18日)は、アメリカ合衆国の元陸上競技選手および元プロフットボール選手である。ニックネームは弾丸を表すBullet。
ヘイズは、東京オリンピックでスプリンターとしての才能を十分に発揮。100mでは、1レーンという悪状況にもかかわらず、10秒0という世界タイ記録(当時)を樹立し、まず1つ目の金メダルを獲得。そして4×100mリレーでもアメリカチームの一員として、39秒0のこれも世界新記録(当時)を樹立し、2つの金メダルを獲得した。
東京オリンピックを最後にNFLのダラス・カウボーイズに入団した。俊足のワイドレシーバーとして活躍。プロボウルにも3回選出されている。スーパーボウルにも2度出場、1971年シーズンには優勝を経験し、オリンピックの金メダルと、スーパーボウル・リングを獲得した最初の選手となった。1966年の試合で達成した1試合でのレシーブ獲得ヤードは2009年にマイルズ・オースティンが250ヤードを獲得し破るまでカウボーイズのチーム記録であった。
世界最速の彼をディフェンスがマンツーマンでカバーすることは困難でありゾーン・ディフェンスが各チームに浸透した。1回あたりのレシーブ獲得20.0ヤードに匹敵するのはカウボーイズ史上では他にアルビン・ハーパーしかいない。
2002年腎不全で亡くなった。2009年1月、プロフットボール殿堂入りを果たしている。






東京オリンピックでのボブ・ヘイズの強さは圧倒的で、準決勝で9秒9を記録、決勝でも状態の悪い1レーンにもかかわらず2位以下に大きな差をつけている。
また名門カウボーイズでのレシーバーとしての活躍もすばらしく、通算でのレシーブは371回に及ぶ。
一方で、引退後にはアルコールと麻薬におぼれて生活が乱れ逮捕歴もあったという。そのため「プロフットボールの殿堂」は見送られ、死後しばらくしてようやく認められたようだ。

1968年の全米選手権で人類史上初めて10秒の壁を破り、その年のメキシコオリンピックでも金メダルに輝いた9秒9で金メダルに輝いたジム・ハインズもその後プロフットボールに転向したが、通算で11試合にしか出場できなかった。そう考えると、ボブ・ヘイズの陸上そしてフットボール双方での卓越ぶりは特筆すべきものだ。

さて、奇しくもこの東京オリンピックの陸上100mに出場し、その後ボブ・ヘイズ同様に他のプロスポーツに転じた日本人がいる。100m 10秒1の日本記録(当時)保持者で、メキシコオリンピック後のドラフト会議でロッテオリオンズ(ドラフト時は東京オリオンズ)に入団した飯島秀雄だ。



スポーツニッポン 日めくりプロ野球 【4月13日】1969年(昭44) 世界初の代走屋・飯島秀雄 デビュー戦で初盗塁
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080407142.html

ロッテの前身大毎・永田雅一オーナーのユニークな発想でのプロ野球入りで、「気がついたら辞退できない状況になっていて、あの時は周りの人に怒られたなぁ。なにせ、いきなり陸上選手がプロ野球選手になったんだからね」と本人は語っていそうだ。

しかし、さすがにボブ・ヘイズのようにプロスポーツの世界では充分な実績は残せず、一軍では代走での起用しかなく、期待された盗塁も通算23、盗塁死17と物足りない。野球の走塁技術は陸上のスピードとは違うようだ。1970年にロッテがリーグ優勝したので、スーパーボウルにあたる日本シリーズに出場する機会があったが、日本一に輝けなかったのは何とも惜しい。
引退後は運動具店を経営し、また陸上競技のスターターも務めていたとのことだ。プロ野球殿堂はありえないが、是非日本陸上界で功績をたたえていただきたいと思う。

さぁ2012年のロンドンオリンピックではどのような金メダリストが誕生するだろうか。その後の人生も含めて楽しみに見守りたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ラグビーやサッカーに携わったことがある人なら、「サッカーの試合中にある選手がボールを手に取って走り出したことがラグビーのはじまり」というような話を耳にしたことがあるだろう。しかし物事はこの文面から読み取れるような単純な話ではない。

そのある選手とはウィリアム・ウェッブ・エリス (William Webb Ellis, 1806年11月24日 - 1872年1月24日) である。

ウィリアムは1806年、イングランド、ランカシャー州サルフォードで生まれ、1812年に父ジャームズ・エリスがアルブエラの戦いで戦死した後、エリス夫人はウィリアムに無償で高い教育を施せるパブリックスクールのラグビー校に通わせるためウォリックシャー州ラグビーに移り住んだ。ウィリアムはラグビー校に1816年から1825年まで通い、優秀な生徒であり、優秀なクリケット選手であったとされているが、フットボールにおいては不正をしがちであったと言われている。
そして1823年後半、フットボールの試合中にウィリアムがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した、という証言が残っている。

但し、当時のフットボールは手を使うことを禁止していたわけではなく、ウィリアムがルールをやぶったとされるのはボールを手で扱うことではなく、ボールを持って走った行為である。冒頭に「サッカーの試合中」と書いたがこれは正しくなく、当時はまだサッカーとラグビーは分かれていなかった。

サッカーの確立
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC#.E3.82.B5.E3.83.83.E3.82.AB.E3.83.BC.E3.81.AE.E7.A2.BA.E7.AB.8B

フットボールをスポーツとして成立させたのは英国のパブリックスクールである。パブリックスクールでは子弟教育の一環のスポーツとして体裁が整えられて行った。しかし当初のフットボールは学校毎にルールが異なり、ラグビー校におけるフットボールは手を使うことを許可するルールであった。
しかし、学校毎にルールが異なるために他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていた。これでは手間がかかり、またルールの解釈の相違も生じるため、しばしばルール統一を目指した協議が行われた。そのため共通ルールが1846年ケンブリッジ大学で立案された(ケンブリッジルール)。これが現在のサッカーのルールの基になっている。

1850年代までにはイートン・カレッジを中心とする「手を使うことを禁止するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。
1863年10月26日にロンドンのフリーメイソンズ・タバーンでFA(フットボール・アソシエーション)とロンドンにある12のクラブの間で会議が開かれ、12月までに6回のミーティングを持って統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成により近代サッカーが本格的に誕生した。このとき、一部のクラブの代表が、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、FAを脱退した。これがラグビーとサッカーが分岐した瞬間である。


このようにウィリアム少年がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出してから40年が経過してラグビーとサッカーが分かれたのである。
そして1871年、脱退した者たちによって、サッカーのFA(フットボール・アソシエーション、1863年設立)に対抗して、ロンドンでラグビー協会(RFU:ラグビーフットボール・ユニオン)が設立された。

さて、その間のウィリアム・ウェッブ・エリスについてだが、ラグビー校を卒業した後、1826年にオックスフォード大学に入学し、クリケットの選手となった。
大学卒業後ウィリアムは牧師となった。1855年にはエセックスのマグダレン・レーバーの教区牧師となり、そこでクリミア戦争でのイギリス軍への神の加護を祈る説教の要約と、その説教を行ったそうだ。
そしてウィリアムは病気療養のために渡った南フランスで1872年1月24日、65歳で亡くなった。
このようにして見ていくと、ラグビーの発明者或いは創始者と言われるウィリアム・ウェッブ・エリスは、おそらくラグビーをプレーしたことはなかったと思われる。ラグビーがサッカーと分化し、ラグビー協会ができたのは彼の晩年のことである。

尚、ウィリアムがフットボールの試合中にボールを持ったまま相手ゴールへ走りだした最初の人物だと特定した人物は、ラグビー校のOBである弁護士マシュー・ブロクサムただ一人である。しかし、これは直接目撃したわけでなく身内の誰かから聞いた証言として記したものでり、それを裏付ける他の証言は見つかっていない。
1895年にラグビー校のOB会がラグビーの起源についての調査を始めた。生存する卒業生などと手紙をやりとりし、ブロクサムが書いたボールを持って走り出した最初の人物はエリスだということを裏付ける証言を求めたが、決定的な返事は見つからなかった。結局OB会は決定的なブロクサムの裏付け証言を得られぬまま、エリスをラグビーの起源であるボールを持って走った最初の人物であると認定し、そのことを記した鉄板をラグビー校に設置している。



THIS STONE
COMMEMORATES THE EXPLOIT OF
WILLIAM WEBB ELLIS
WHO WITH A FINE DISREGARD FOR THE RULES OF FOOTBALL
AS PLAYED IN HIS TIME
FIRST TOOK THE BALL IN HIS ARMS AND RAN WITH IT
THUS ORIGINATING THE DISTINCTIVE FEATURE OF
THE RUGBY GAME
A.D. 1823


現在でもウィリアムがラグビーの創始者とされることが正しいのかどうかという議論には決着がついていない。しかし起源たる発明者の対象として名前が分かっている人物はウィリアム・ウェッブ・エリスただ一人である。

そして、今やFIFAワールドカップ、夏季オリンピックに次ぐ世界で3番目に大きな大会となったラグビーワールドカップで優勝チームに与えられるトロフィーは「ウェッブ・エリス・トロフィー」という。



今年9月9日からニュージーランドで開催される世界的スポーツイベントを、このような逸話を頭の片隅に置きながら楽しもう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





以前、日本中央競馬会理事長でかつ野球殿堂顕彰者でもあった有馬頼寧氏、及び同氏がオーナーであった東京セネターズについて調べた。

そこで今度は、現在日本の2大スポーツといえる野球とサッカーの両方に名を残す人物がいないかどうか調べてみた。野球殿堂、サッカー殿堂双方に名を残しているプレーヤーはおらず(当たり前だが)、また関係者でもいなかった。
しかしもう少し詳しく調べてみると、日本サッカー協会理事長でサッカー殿堂に顕彰されており、かつプロ野球チームのオーナーである人物を見つけた。第3代日本サッカー協会会長、そしてイーグルス、高橋ユニオンズのオーナー 高橋龍太郎である、

高橋龍太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%BE%8D%E5%A4%AA%E9%83%8E

高橋 龍太郎(1875年7月15日 - 1967年12月22日)は昭和期の実業家、政治家。日本のビール王と呼ばれる。
愛媛県内子町生まれ。大学卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒(現アサヒビール・サッポロホールディングス))に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。後に社長となり、ビールを日本の大衆文化に成長させた。大日本麦酒分裂後はサッポロビールの役員となっていたが、不調に終わったアサヒ・サッポロ両社の再統合に向け働きかけていたとされる。
またプロ野球への造詣も深く、戦前にはイーグルス(現存しない東京の球団)、戦後には高橋ユニオンズ(1955年だけトンボユニオンズ。現存しない)のオーナーとなった。
また戦死した子息が学生時代にサッカーをしていた縁もあり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)に就任、2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。
留学やビール、サッカーでの縁もあり、日独協会会長に就任(1955年4月~1965年7月)。
政治家としての経歴は、1946年に貴族院勅選議員を務めるも、日本国憲法施行による改組のため翌1947年に参議院議員に転じ、1951年には通産大臣に就任した。また財界人としては、1947年に日本商工会議所会頭に就任した。


まずサッカーだが、高橋龍太郎はサッカープレーヤーではなく、戦士した三男・彦也のためにサッカー協会会長を引き受けたという。(日本サッカー協会は、初代・今村次吉(官僚・実業家)、2代・深尾隆太郎(政治家・実業家)、5代・平井富三郎(新日鐵社長)、そして現在(12代)の小倉純二氏もプレーヤーではない)
簡単に就任できてしまうところが凄いところだが、恐らく当時はまだサッカーの日本での普及が充分でなく、日本サッカー協会も今のような大組織ではなかったものと思われる。
高橋龍太郎のサッカーにおける功績は、1947年に昭和天皇と皇太子殿下の天覧試合を行ったことで、この天覧試合がのちに天皇杯のご下賜となり、今の天皇杯となっているという。戦後の混乱期の在任期間中に日本サッカーが国際舞台への復帰を果たすことができた功績は大きい。
高橋龍太郎は2005年にサッカー殿堂入りを果たした。これはサッカー殿堂は歴代の日本サッカー協会会長を無投票で選出してるからで、ちょっとそれはどうかと思う。

日本サッカー協会 日本サッカー殿堂
http://www.jfa.or.jp/jfa/hall_of_fame/index.html

日本サッカーアーカイブ 日本サッカー人物史 高橋龍太郎
http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=16


次に野球だが、高橋龍太郎は戦前にまずイーグルス(~黒鷲軍・大和軍)というチームのオーナーになった。

大和軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%BB%8D

このチームは1943年に解散となってしまったが、高橋龍太郎は再度1954年にプロ野球に参入している。

高橋ユニオンズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA

1953年当時、パ・リーグは7チームで構成されていたが、1チームの端数が生じるため全チームがそろって公式戦を開催できないでいた。そこで、勝率3割5分を切ったチームは強制的に解散という罰則を設けたものの、罰則適用チームはなかった。
そのため1954年のシーズン開幕前に高橋をスポンサーに「株式会社高橋球団」を設立。急造だったためパ・リーグ各チームから若手を供出するよう申し合わせがされたが、実際に集められたのは酒豪で扱いに手を焼く選手や戦力外の選手が大半だった。こうして高橋ユニオンズは結成された。ちなみに愛称の「ユニオンズ」は「寄せ集め」という意味ではなく、高橋が戦前経営していた大日本麦酒の主力商品だった「ユニオンビール」からつけられたものである。
本拠地は神奈川県にあった川崎球場。予算も選手も限られた寄せ集めとあってチームの士気は今ひとつ。成績も低迷し、悪いムードを払拭するべく1955年にトンボ鉛筆と業務提携しトンボユニオンズとチーム名を改称するも改善の見込みなく、1年で提携は解消し1956年にチーム名は再び高橋ユニオンズに戻った。
その後資金繰りが悪化したことや、8チームでの試合編成が多すぎたことから、1957年2月に大映スターズと合併し大映ユニオンズ、更に1957年11月に毎日オリオンズと合併し大毎オリオンズとなった。
なお、大映ユニオンズと大毎オリオンズの後身・千葉ロッテマリーンズのそれぞれの球団史において高橋ユニオンズは傍系扱いであり、結成年度・その他記録は一切カウントされない事になっている。
元高橋ユニオンズの選手の佐々木信也によると、観客が30人に満たない状況もあった模様。また、佐々木は高橋の大映への合併に関して「高橋所属の各選手は大映へのスライド移籍を含めて3チーム、並びに自由契約の4班に振り分けられた(分裂した)という経緯上、合併というよりは球団解散に表現を改めるべきだ」と唱えている。


高橋ユニオンズの発足経緯やシーズンの戦いぶり、またこの時代のプロ野球については以下のサイトがとても詳しい。これはとてもすばらしい内容だ。

JIMMY'S STRIKE ZONE 1950~60年代のパシフィック・リーグと高橋ユニオンズの誕生
http://www.geocities.jp/qdrbc105/ORIONS/ORIONSMAIN.html

プロ野球チームのオーナーというのは、男の夢のひとつである。ましてや自分の名前をチーム名にしてしまうというのは凄いことだが、何とも時代を感じる。孫ホークス、三木谷ゴールデンイーグルスみたいなもので、決して好ましいとは思えない。
それはともかく、プロ野球2チームのオーナーであった高橋龍太郎は、ふつうに考えれば野球殿堂の特別表彰に値しそうだが、今のところ選出されていない。「プロ及びアマチュア野球の組織または管理に関して野球の発展に顕著な貢献をした人」として是非選出をお願いしたい。

さて気になるのは、高橋ユニオンズのユニフォームだが、愛媛県内子町の高橋龍太郎の生家が文化交流ヴィラ「高橋邸」として文化活動施設に活用されており、そこに展示されているそうだ。

文化交流ヴィラ高橋邸 『Fがいっぱい!(^0^)/~』内子町観光農園!!
http://plaza.rakuten.co.jp/uchikoff/2002



このようにホーム用は「UNIONS」だが、ビジターには高橋という名が入っている。

綱島プロ野球研究所 板倉正男インタビュー
http://www.ritomo.jp/rbc/rbc41.htm



グレーが基調のユニフォームだが、そのレプリカを見つけた。

玉利 啓介の日記 1954年の高橋ユニオンズのビジターユニフォームを製作しました
http://blog.goo.ne.jp/tamari53032000/e/ebab5bee9e071a547f0cab39d5afe686



えー、TAKAHASI?
ということで、プロ野球史上唯一個人名が胸に入ったユニフォームは、ヘボン式ではなく日本式(訓令式)ローマ字で綴られたものでした。。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





大相撲は白鵬が全盛期を迎えている。昨年は年間86勝を記録するなど、過去の大横綱にも引けを取らない活躍だ。
さて白鵬は第69代横綱である。横綱を新しい順に遡ると、朝青龍、武蔵丸、若乃花、貴乃花...となる。そして初代まで遡ると明石志賀之助という名前を目にする。

明石志賀之助
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%BF%97%E8%B3%80%E4%B9%8B%E5%8A%A9

明石志賀之助(あかし しがのすけ、生没年不詳)は、江戸時代前期に存在したとされる、日本相撲協会が初代横綱に認定している力士である。活躍期間は寛永年間【1624年(寛永元年) - 1644年(正保元年)】とされる。
従来の力技だけでなく相撲の技に関して研究し、基本となる四十八手の技を考案した人物だとも云われる。
宇都宮の出身で、宇都宮藩士・山内典膳の子で幼名は鹿之介と云われているが詳細は不明。身長は八尺三寸(約251.5cm)、体重は185kgあったと言われる。又、上総国久留里城下(現在千葉県君津市)の生まれという説も存在する。
江戸、京、長崎を始め、諸国で相撲を取り抜群の強さを誇った。京に上って大関・仁王仁太夫を倒し、朝廷から「日下開山」の称号を受けたとされ、これをもって初代横綱とされる。実在の人物ではないともされ講談師が生み出した架空の人物、あるいは2人以上の明石という力士が混同されたものとも言われている。


251.5cm(218cmという説もあり)というのは歴代力士の中で最も高い身長である。この点を含めてその存在は極めて疑わしい。Webで確認できる範囲でいくつか見てみよう。

「横綱」について 初代横綱?明石
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/yokok/yokoki02.html

相撲協会は初代の横綱を明石志賀之助としている。しかしこれは陣幕が横綱力士碑建立の折に配布した横綱一覧表に昭和になってから便乗したに過ぎない。また、吉田司家も同様に昭和になってからこの一覧表に乗っかった。
それでは明石志賀之助を初代の横綱とする謂れは何か。陣幕が明石を初代にしたのは、講談で「時は寛永元年(1624) 3月31日、四谷笹寺に於て晴天 6日の興行、これぞ勧進相撲の始まり、又番附が出来たのも此時が最初で御座います」と仰々しく始まるものがあり、伝承として広く伝わっており、日下開山と称されたと伝えられるところからきたものであろう。しかし日下開山は元来横綱を指すものではないのであるから、根拠は潰れてしまう。
また、彦山光三氏は「明石以前には信ずるに足る記録が残っていないし、また、明石は、江戸時代初期における勧進相撲に出場した勧進方力士(これを元方または本方と言い、相手方は寄方と言う・筆者註)のなかで横綱を許された最初の人間だから、一応始祖としたが、明石志賀之助以前に絶対横綱がいなかったとはいえない」と言った。これも日下開山=横綱ではないという点からしてボツとなる。
明石以前云々に関しても、勧進相撲の制度整わぬうちから「強豪大関」若しくは「功労大関」に与えられたものと思われる「横綱」を許すということが無理であろうと思われる。
また、明石=勧進相撲の祖というのも奇怪な話で、勧進相撲が文献に出たのは15世紀の「看聞日記」が最初である。従って明石が勧進相撲の祖であるという「化けの皮」も剥がれることになる。


横綱伝 初代~3代
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/yokoduna/y01.html

存在したかも分からない怪力士、そもそも想像上の力士ではなかろうかとさえ思われる初代横綱明石志賀之助、その生没年も成績も、一切不明。本名山内志賀之助、栃木県宇都宮市の生まれというのが俗説となっているが、奥平藩藩士だった山内主膳の子という異説もあり、諸説紛々。
正徳 4年(1714)の「相撲家伝鈔」に記事があり、その後宝暦13年(1763)に出た「古今相撲大全」には、寛永元年(1624)に江戸四谷塩町で勧進相撲が初めて行われた時に出場したと書かれている。寛文云々は、喜多村信節(のぶよ)が文政13年(1830)に出した「画証録」の中で推定したものであるが、逆に「明石は講談師が生んだ出鱈目の産物」という(常識的な)解釈もあれば、「伝説の明石は 2人以上の実在した明石の融合体ではないか」という説さえ出る。
「相撲鬼拳」には「明石志賀之助と申す関取、高の有し、日下開山とは是なり、勝つ人なし」とされているとはいえ、これをもって「実在の力士・明石」を証拠立てるには弱すぎる。「日下開山」とは現在では「横綱」とほぼ同じ意味で使われているが、本来は「天下一の力士」というほどの意味であり、さらに遡れば「開祖」の意である。
講談で有名であり、日本の相撲の開祖という言われ方をするが、謎という闇に包まれた力士である。身の丈 7尺 2寸( 218cm)ともいわれるが信じ難い。


私は専門家ではないのであまり詳しいことに踏み込もうとは思わないが、400年近く前のことなので明確な記録がないのは当然だ。
残念なのは日本相撲協会がこの初代横綱について詳しい解説をしていないことで、両国国技館にある相撲博物館を訪問しても明石志賀之助についてはほとんど何もわからなかった。明石志賀之助は日本相撲協会にとってもいろいろな意味で難しい存在なのかもしれない。

一方で、明石志賀之助の出身地とされる宇都宮では、2007年に石像が建立されている。



石のやたべ 初代横綱 明石志賀之助 石像建立記念事業
http://www.yatabesekizai.com/topic001.html


さらに、大胆にも「明石志賀之助杯」という少年相撲大会も行われているようだ。

石のやたべ 第1回少年相撲大会
http://www.yatabesekizai.com/topic002.html

横綱は神に近い存在と言われるが、その中でも存在が謎という点で神格性が高められているのが初代横綱・明石志賀之助と言えるだろう。相撲の歴史は奥が深い。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »