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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




有馬記念は、日本中央競馬会2代目理事長の有馬頼寧氏が1956年に創設した第1回中山グランプリ(優勝馬:メイヂヒカリ)を、その直後に氏が急逝したために「有馬記念」と名称変更したものである。従って第1回有馬記念というレースは存在しない。
有馬頼寧氏は、旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵の有馬頼万の長男として生まれ、政治家、農政研究者、農林大臣、日本中央競馬会理事長、伯爵といろいろな顔を持つ。戦後GHQよりA級戦犯容疑者として拘置されたり(無罪と認められ釈放)、社会運動・慈善活動に身を投じるかたわらで女性関係が派手だったりと、とても忙しい人だったようだ。

有馬頼寧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%AF%A7

現在では競馬で有名な有馬頼寧氏だが、野球界にも多大な貢献をされており野球殿堂入りもしている。

殿堂一覧 財団法人野球博物館
http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_034.html

その有馬氏が設立した球団が「東京セネタース」(翼軍)である。

翼軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BC%E8%BB%8D

翼軍は、1936年から1940年まで存在したプロ野球球団。
1936年、政治家の有馬頼寧を主体に、西武鉄道(現存する西武鉄道とは別会社。現在の西武新宿線を経営していた)の後援により、東京セネタースとして設立された。セネター(Senator)とはアメリカの上院議員を意味する。有馬は当時貴族院議員だったが、貴族院が実質的な上院ということでアメリカメジャーリーグベースボールのワシントン・セネタースに倣ってこの名称が付いたとされる。
本拠地は東京都杉並区の上井草球場。
六大学野球のスター苅田久徳、明大のエース野口明と有力選手が在籍。1936年の内野陣は「セネタース100万ドルの内野陣」と評された。1939年には野口明の弟・野口二郎が入団し、投手力が大きく上がった。
1940年10月17日、戦争の影響でチーム名はすべて日本語に改めるように指示が出されたため、やむなく翼軍と改名(この名称は有馬が大政翼賛会の理事をしていた事にちなむ)。


綱島プロ野球研究所 球団ニックネーム AtoZ
http://www.ritomo.jp/rbc/index.html

貴族院議員の有馬頼寧伯爵が西武鉄道と組んで発足させた球団で、社長に就任したのは有馬伯の実弟で同じ貴族院議員の安藤信昭子爵だった。つまりニックネームのセネタース(上院議員)は、このふたりの貴族院議員が球団に関わっているコトから命名されたワケだ。
しかし戦時下の41年、日本職業野球連盟の理事会で日本語化が決定され、セネタースは一般から公募を募って、翼軍と改称する。これは有馬伯が大政翼賛会の事務総長を務めていたコトもあり、飛行機の翼にも通じるコトからの命名と言われている。
そしてさらに41年、主力選手の軍隊への招集が相次ぎ、翼軍は名古屋金鯱軍と合併して大洋軍とチーム名を変更、そして43年、九州の西日本鉄道に経営母体が移って西鉄と名のるコトになった。だが結局、この年の12月25日、ついに行き詰まって解散してしまった。



このように東京セネタースは解散となったが、戦後になって東京セネタースの監督だった横沢三郎らによって新たに「セネタース」というチームが設立された。このチームが現在の北海道日本ハムファイターズの前身である。しかし現在のファイターズは東京セネターズとは直接関係はない。

Fighters Collection (青鞜)セネタース(1945~46年)
http://homepage2.nifty.com/ORANGE-CLUB/fstokyu_001.htm

その東京セネタースが本拠地としていたのは東京都杉並区にある上井草球場だ。

レフティーズの野球場Walker 上井草球場跡地
http://www.k2.dion.ne.jp/~lefties/kami-igusa.html

広報すぎなみ No.1663
http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library/file/sg1663_p1.pdf

ここは現在上井草スポーツセンターとなっていて、訪ねてみるとその一角に展示コーナーがあった。これはとても好ましい。



そして当時の写真を含めた映像(1991年頃放送)がYou Tubeにあった。



この東京セネタースも含めて黎明期の日本プロ野球は、野球・スタジアム・ユニフォーム・旅・跡地巡りを好む私にとってはたまらなく興味深い。もっともっと調べてみよう。



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世界最大のスポーツイベントのひとつとしてFIFAワールドカップが挙げられる。FIFAワールドカップの4年のサイクルと生活のサイクルと結び付けているサッカーファンも多いだろう。
この世界中が熱狂するサッカーの試合で最も人々が熱狂するのはやはりゴールシーンだ。従ってやはりストライカーはワールドカップの主役を担う存在だ。そこで改めて各大会の得点王を確認してみた。

ワールドカップサッカー・歴代得点王
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/archives/sports/soccer_wc_p-rank01.htm

2002年大会でのロナウド(ブラジル・8得点)の活躍ぶりはまだ鮮明に覚えている。1970年大会のゲルト・ミュラー(ドイツ・10得点)は伝説のプレーヤーとして有名だ。しかし1大会での最多得点は1958年大会でのジュスト・フォンテーヌ(フランス)の13得点である。このジュスト・フォンテーヌはあまり馴染みがないので調べてみた。

ジュスト・フォンテーヌ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C

1958年に開催された第6回ワールドカップ・スウェーデン大会で6試合に出場したが、当初はスタメンではなく控え選手に過ぎなかった。ところが急遽スタメン入りするや6試合全てにゴールを決めるという八面六臂の大活躍を見せ、2度のハットトリックを含む13得点を挙げて得点王となる。
これほどの彼の活躍にもかかわらず、フランスは準決勝でペレを擁するブラジルに2-5で敗れ去り、惜しくも優勝は出来なかった。しかし、3位決定戦では前回優勝国の西ドイツに彼の4得点を含む6-3のダブルスコアで圧勝を収め、見事3位の座を確保した。
後に西ドイツのゲルト・ミュラーが2大会通算14得点、ブラジルのロナウドが3大会通算15得点を記録したことにより、彼の得点記録は通算ゴール数でこそ両者に抜かれたものの、1大会最多得点のワールドカップレコードである13得点は現在も破られていない。
因みに「全試合ゴール」の記録自体は既に第4回大会のアルシデス・ギジャが達成していたが、ギジャの場合は変則形式による全4試合(4点)なので、彼の成し遂げた6試合連続得点の凄さは些かも色褪せることはない。その後「全試合ゴール」を達成したのは第9回大会のジャイルジーニョ(7点)のみである。
しかし、その後は度重なる負傷のため第7回ワールドカップ・チリ大会には出場できず、1962年7月に28歳の若さで現役を引退した。引退後は指導者となり、1967年にはフランス代表監督も務めたが、2試合連続敗戦の後更迭された。さらにパリ・サンジェルマン、トゥールーズ、モロッコ代表の監督を務めた。その後はトゥールーズでスポーツ用品店を経営している。


名選手伝説ミニ ジュスト・フォンテーヌ
http://www7.ocn.ne.jp/~saka/meisenmini4.htm

当時はさほど騒がれなかったと本人は語るがフォンテーヌのこの記録は多くの運に助けられている。
大記録達成は58年、23才のとき。代表入りはその2年前だったが何と大会までに代表に出たことはたったの2回しかなかった。
当然本大会でも控えの予定だったのだが大会前夜になってルネ・ブレアがケガをして急きょ出場となったものだ。
本大会では、「ナポレオン」と呼ばれる英雄レイモン・コパの独創的で絶妙なアシストから初戦のパラグアイ戦でいきなりのハットトリック、決勝進出はならなかったが、3位決定戦では西ドイツ相手に4点を荒稼ぎした。
この13点のうち、PKによる得点が一つもないのは驚嘆に値する。
モロッコ生まれの俊敏な選手で、スピードをいかしてゴールに真っ向から向かっていくプレースタイルが災いしてか、ケガが多く、2度の足の骨折に泣かされて29才で引退した。
フォンテーヌの記録が取り沙汰されるたびに、そんな名誉に値するほどの選手ではなかったという者もいるが彼がそれを成し遂げたのは紛れもない事実であり、そのことは彼の評価を高めこそすれ貶めることは決してないであろう。


彗星のように現れ得点記録を塗り替えるような活躍であれば現在なら大騒ぎになると思うが、1958年はまだ世界は穏やかな時代だったようだ。
半世紀前ではサッカーのスタイルが現在とは異なるので、この13点という記録を現在の得点記録と直接比較するのは無理があるように思う。しかし今後1大会での10点以上挙げることはなかなか考えられず、すなわちジュスト・フォンテーヌの記録は未来永劫残る記録となるだろう。もしフォンテーヌの記録が更新される日がきたら、多くの人にこのブログ記事をみてほしい。

さて、気になるのはジュスト・フォンテーヌの得点シーンだが、ニコニコ動画で見つけることができた。



得点シーン集だから当たり前だが、抜け出すスピード、ボールの受け方、そしてシンプルかつ確実にゴール枠を捉える得点感覚はすばらしい。
そして背番号17というのが控え選手だったことを表している。この映像は後世まで伝えよう。



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日本においてプロ野球が社会に定着して久しい。優勝セールなどをはじめとした経済効果も大きいし、私も含めてファンチームの応援が生活の一部になっている人も多いだろう。今日は日本プロ野球のはじまりについて調べてみようと思う。

現在のプロ野球のようなリーグができたのは、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7チームが加盟して1936年に設立された日本職業野球連盟(現在の日本野球機構のルーツにあたる)であり、ここから定期的なリーグ戦やトーナメント戦が行われれようになった。

しかし、日本での最初のプロ野球チーム創設はさらに遡る。
日本で最初のプロ野球チームは1920年に設立された日本運動協会(通称・芝浦協会)、そして二番目のプロ野球チームが1921年に設立された天勝野球団(てんしょうやきゅうだん)である。この2つのチームは設立経緯や性質がとても対照的だ。

Wikipedia 日本運動協会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E9.81.8B.E5.8B.95.E5.8D.94.E4.BC.9A

日本の野球界は長く学生野球がそのメインであったが、1913年に「世界周遊野球チーム」が来日したことや、ベーブ・ルースの活躍の話題が日本にまで届いていたことなどがあり、日本にもプロ野球をという動きが高まるようになった。
一方、当時の学生野球、特に大学野球の選手はスターとしてもてはやされるようになっており、その人気に溺れて学業をおろそかにしたり不祥事を起こしたりする選手が増えていた。早稲田OBであった河野安通志は、学生野球の腐敗は問題だが、かといってを押さえつけるようなことをしては「角を矯めて牛を殺す」ことになると考え、学生たちの模範になるようなプロ球団を作ることで学生野球を浄化しようと提唱する。こうして、東京府芝浦に日本運動協会が設立された。
翌1921年、まずは本拠地となる芝浦球場を建設し、同時に新聞紙上に広告を出して選手の公募を行った。応募者の総数は200人以上だったが、職業野球というものが成立し得るのかどうかが疑問視されていた時代にあって、早稲田や慶應などといった大学のOB・現役選手の応募は1人もなかった。野球の技量だけでなく、学生野球選手達の模範足りうるような人格を持っているかということも重要視された採用面接を経て採用された選手は14歳から27歳までの14人。
こうして選手も集まり、1921年秋、芝浦球場に合宿所(兼クラブハウス)が完成したことをきっかけにチームは本格的に始動する。ただし、結成から約1年の間は、練習に徹し対外試合は一切行なわれなかった。この間、平行して英語、数学、簿記などの勉強も行なわれている。これは、「大学選手と対等な学力、社会常識がなければプロ野球を世間に認めさせることができない」という考えと、野球ができなくなった時に役に立つように、という考えから行なわれたものである。これについて、協会で捕手を務めていた片岡勝は後に「外出にはいちいち河野先生の許可が必要でした。プロ野球選手の合宿というより、きびしい学校の寄宿舎生活のようでした。日本のプロ野球のリーダーになるのだから、これくらいの苦労は当たり前だ、と思っていました」と語っている。
1922年6月21日、朝鮮・満州へ遠征し、初めて試合を行う。同じ土地で行なわれていた相撲の興行を圧倒するほどの人気があったという。この遠征は約1カ月間続き、総合成績は12勝5敗であった。




Wikipedia 河野安通志
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%AE%89%E9%80%9A%E5%BF%97



Wikipedia 天勝野球団・松旭斎天勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%9D%E9%87%8E%E7%90%83%E5%9B%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%97%AD%E6%96%8E%E5%A4%A9%E5%8B%9D

松旭斎天勝は女流奇術師で、日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、日本初の欧米風なマジックショーを披露した。「奇術といえば天勝」という代名詞にもなったほどの知名度を誇り、座員100名を越す『天勝一座』の座長となった。そのマネジャーを務めたのが野呂辰之助で、2人は結婚したのだが、奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。
1921年2月、松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)の夫であり、「天勝一座」の支配人である野呂辰之助により天勝野球団が結成される。
選手は大学出身者が中心であった。球団の結成理由について、松旭斎天勝は後に『天勝一代記』の中で一座の広告塔が目的だったように書いているが、当時のスポーツ雑誌『野球界』の中で天勝野球団の鶴芳生(野呂の変名と見られている)は「広告本位のチームではありません。商売と野球の試合は別問題です。ボールに負けた故に見物に来ない人は、そんな狭い量見の人は来て頂かなくとも結構です」と記しており、天勝はともかく野呂は広告塔としてではないチームを志向していたとみられている。チームは一座の巡業に合わせて国内各地、更には中国、台湾と転戦した。
1923年には、主将の鈴木関太郎が『野球界』誌上で「プロフェッショナル球団」であることを宣言。同年、大毎野球団を破るなどの成果を上げた後に、一座の公演とともに満州、朝鮮に遠征。当時の強豪であった大連実業団、大連満州倶楽部を含む各チーム相手に21勝1敗の好成績を残す。




このように、日本運動協会はスポーツマンシップにのっとり、自らが野球界の模範となることを目指していたのに対し、天勝野球団は(実態は)奇術団一座の広告塔であった。また日本運動協会が芝浦球場を擁してフランチャイズ志向だったのに対し、天勝野球団が一座とともに各地を巡業していたのも対照的である。

そしてこの2チームは日本初のプロ野球チームどおしの対戦を行う。

日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球史~第一部・日本プロ野球の誕生~ 決戦!プロ対プロ
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/qc-provspro.htm

1923年6月21日、場所はソウルの竜山満鉄グラウンド。そう、日本で最初のプロ野球チームどおしの試合はソウルで行われたのだ。
この試合は「ソウルの野球ファンの話題をさらい、スタンドは満員だった」そうだが、6対5で天勝野球団が勝った。
そして3日後に行われた第2戦は「スタンドのみで五千余の人出、加ふるに外野柵をグルリと取巻く群集万に近くという盛況、滅多に顔を見せぬ一流紳士や名流も多く総督府技師、鉄道部事務官、殖産銀行頭取、鮮銀課長なども観戦した」そうだが、今度は3対1で日本運動協会が勝った。

当然のように決着の第3戦を望む声が主催の京城日々新聞社に寄せられたそうだが、天勝野球団は奇術団の日程が優先するために、第3戦はソウルでは行われなかった。そして約2ヵ月後の8月30日に日本運動協会と天勝野球団の大一番が芝浦球場で行われた。「相当の人気を集めて、ファンは両スタンドを埋めた」というこの試合は5対1で日本運動協会が勝ち、日本運動協会が勝ち越した。

しかしこの両チームの対決はこの試合が最後となった。第3戦の直後の9月1日に関東大震災が発生し、芝浦球場は震災自体には耐えたものの、救援物資置場として戒厳司令部に徴発されてしまった。その後も球場が返還されないところかグラウンド上に倉庫が新たに建てられるという状況で、日本運動協会は本拠地なしでは長く興行を続けていくことは不可能と判断し、1924年1月に解散を決定した。また天勝野球団も震災によって自然消滅的に解散してしまった。

その後日本運動協会は阪急電鉄の社長であった小林一三に引き取られ、本拠地を宝塚球場へ移転、宝塚運動協会として再結成された。日本で三番目のプロ野球チームだ。しかし世界金融恐慌の情勢下でチーム経営は厳しく、加えてライバルチームの大毎(大阪毎日新聞のセミプロチーム)の解散により人気カードを失ったことにより阪急首脳陣が見切りをつけ、1929年7月に宝塚運動協会は解散してしまった。ここから日本プロ野球の歴史は、1934年12月に大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が結成されるまで5年の空白期間を挟むことになる。

以上は相当内容を簡略化したが、とても詳しい記述が「日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球史~第一部・日本プロ野球の誕生~」にある。実にすばらしい史料だ。
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kyusi.htm

この内容について、野球体育博物館では以下のような説明しかない。(原文)
プロ野球前史
日本初のプロ野球を目指して大正9年(1920)に日本運動協会(芝浦協会)が設立された。東京芝浦に野球場を建設し、全国から選手を集めてチームをつくり、大正11年から試合を開始した。その後、関西へ移り宝塚協会となったが、昭和4年(1929)に解散した。
そのほかにも、同じころに奇術の松旭斎天勝一座が、有名選手を集めてつくった天勝球団などがあったが、いずれも本格的なプロ野球の誕生には至らなかった。


日本野球機構は自らのルーツである日本職業野球連盟の設立以前についてはとても冷ややかなようだ。

さて、歴史的一戦の舞台となった芝浦球場は現在の東京都港区海岸3丁目の埠頭公園のあたりだそうだ。そしてこの公園内には少年野球場がある。



プレーしている少年がこのような歴史を知っているかはともかくとして、この少年野球場こそプロ野球の発祥の地と言えるだろう。しかしここには日本運動協会に関するものは何もない。(代わりに「南極探検隊記念碑」がある)
日本野球機構と港区にはせめて記念碑ぐらい建てて、日本運動協会や天勝野球団をプロ野球ファンに広く知らしめてほしい。


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野球ファンなら伝説の投手列伝や剛球投手列伝などで東映フライヤーズで活躍した尾崎行雄の名前を耳にしたことがあると思う。

伝説のプレーヤー 尾崎行雄
http://1st.geocities.jp/dogyamanet/player/sportsozaki.htm

1944年9月、大阪府生まれ。投手。右投右打。背番号19。浪商に進み、1960年夏から3季連続で甲子園に出場。1961年夏の甲子園では全国制覇。「怪童」と騒がれる。そのため、プロから多くの誘いを受け、高校2年で中退して1962年に東映入り。
1年目から20勝9敗、防御率2.42という新人らしからぬ成績を残して文句なしの新人王を獲得し、東映のリーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズも4勝2敗で制する。また、この年の西鉄戦では8連続奪三振という記録も残している。
1964年には20勝18敗、防御率2.55、197奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。
1965年には27勝12敗、防御率1.88、259奪三振という自己最高の成績を残して最多勝と最多奪三振の2冠を獲得した。
翌年にも24勝を挙げたが、1967年夏に右肩を故障。その後は、懸命のリハビリを重ねたものの剛速球は戻らず、1973年限りで現役を引退した。

小柄な体ながらスリークォーターから投げ込む剛速球は、左右に揺れながらうなりを上げ、160キロ近く出ていたと言われている。カーブ、シュートなどもあったが、ほとんどストレートだけでパリーグの強打者を手玉にとった。ただ「怪童」と呼ばれるほどの剛速球をプロで見せたのはわずか5年間だったのが惜しまれるところである。

通算成績(実働12年):107勝83敗、防御率2.70。1010奪三振。新人王(1962)最多勝1回(1965)最多奪三振2回(1964・1965)ベストナイン(1965)



1961年夏の甲子園で全国制覇を果たし「怪童」という愛称がつけられた尾崎行雄だが、そのプロ入りの過程はいろいろお騒がせで、またデビューも鮮烈だったようだ。このあたりはスポーツニッポンの特集記事で確認することができる。

スポーツニッポン 日めくりプロ野球 【11月11日】1961年(昭36) みんな踊らされた?怪童・尾崎行雄、1日12時間6球団と交渉
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081108200.html

スポーツニッポン 職業野球人 尾崎行雄 「バッター長嶋、17歳の“チビ”は笑顔だった」
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/yukio-ozaki/KFullNormal20080121161.html

スポーツニッポン 日めくりプロ野球 【4月8日】1962年(昭37) 怪童・尾崎、鮮烈デビュー ミサイル打線が沈黙
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080330201.html


パ・リーグファンとしては「パ・リーグの豪快な野球が好き」というコメントがうれしい。
甲子園優勝、剛球、鮮烈デビューというと最近では松坂大輔とイメージが重なる。ただプロ入り過程のお騒がせを考えるともっと大物感がある。
しかしこれだけの投手がとても短い野球生命に終わってしまったことはとても残念だ。全盛期の1964年~1966年の成績が、55試合20勝18敗233イニング、61試合27勝12敗378イニング、65試合24勝17敗292イニング であり、メディカルサポートが充分でない時代にこれだけ投げていれば右肩の故障も無理がない気がする。
無事であればどのぐらい活躍しただろうか。

さて、私は尾崎行雄の映像というのは見たことがない。この露出の少なさが神格性を高めているようにも思うが、実際に尾崎行雄は実際になかなかテレビで見ることはできず、またYou Tubeで探しても投稿されていなかった。
しかし何とか尾崎行雄の動画を探し出した。

野球懐かしのシーン
http://norihage-web.hp.infoseek.co.jp/new_page_10.htm

これは速い! スピードガン表示はわからないが、実にダイナミックなフォームで、伸びのあるストレートだ。これはそう簡単には手が出せそうにない。

そしてこの映像の打者はプロ入り時の尾崎について「たいしたことない」と発言してデビュー戦で仕留められた山内一弘(和弘)だが、奇しくもその山内氏は先日亡くなったばかりだ。毎日(大毎)オリオンズのミサイル打線の中心バッターで選手・指導者として球界に多大な貢献をされた方だ。ご冥福をお祈りしたい。
1960年代のパ・リーグはとても豪快で面白かったようだ。



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久々に知らないスポーツについて調べてみることにした。今回はフィンランドで人気のあるペサパッロだ。

札幌ペサパッロ協会
http://www2.ocn.ne.jp/~xebecs/pesa2001/PESATOP.html

1907年Lauri "Tahko"Pihkalaはアメリカを訪れ野球を見学した。その際、アメリカのスポーツリーダー達が野球をすることによって育んだ投てき力や走力がアメリカのオリンピックでの躍進に寄与しているとの説明を聞いて、彼はフィンランドの選手がオリンピックでの栄光を手に入れるための手助けになるスポーツを発展させようと決心した。Base Ballをそのままフィンランド語にしたPesaPalloは1922年に最初の試合が行われた。野球とフィンランドの古い球技の特徴を融合した新しいゲームは、Tahkoが期待していたとおり国技と呼ばれるまでに発展した。

このように野球から派生したので、野球のルールがベースとなっているようだが、随所に異なるところがあるので逆にかなりややこしい。
以下のルール解説を読んでみたが、見たことがないスポーツなのでどうしてもイメージがわかない。

http://hkbrains.hp.infoseek.co.jp/XEBECSPESA%2001/pesa2001/Ruletop.html

そこで動画を見ながらルール(野球との違い)を見てみよう。





- サッカー場をもとにフィールドがつくられたので、長方形が基本であり、バッターには強打・遠くへ飛ばすことよりも、打球をコントロールすることが求められる。奥のラインを超えるとホームランではなくファウルになってしまう。

- ホームベースと1,2,3塁、数は野球と同じだが1塁が左にある。ピッチャー、キャッチャーと1塁手、2塁手、3塁手。ショートが左右に2人、外野も左右に二人だけの計9人で守る。

- ピッチャーがバッターの横にいてバッターが打つためのボールをトスしてあげることです。トスはボールをピッチャーの身長より1メートル以上高くあげ、ホームプレート上に落ちればストライク、はずれればボール。ボールには、フォアボールに相当するバッターやランナーの進塁が罰として与えられる。

- バッターには1打席に3回のストライクの権利が与えられる。しかし、野球と違い1打目からフェアなら必ず走塁する必要はなくバッターとして留まり、ランナーを進め3打目まで走塁を選べる権利がある。3打目は最後のストライクなので必ず走塁しなければならない。もし3打目がファウルになったらその打者はアウトとなり、走塁の権利を失う。

- バッターランナーはまず左の1塁へ走る、打球が一塁手に返ってくるのより早ければセーフとなる。進塁は野球と同じで次の塁に送球より早く到達すればセーフ。3塁ランナーが送球より早くホームベースに到達すれば得点となる

- 試合は4イニングスごとの前後半という形を取っている。前半と後半の攻撃の前に15分間のハーフタイムが取られる。4イニングずつ終了時点の合計得点でポイント獲得チームを決定する。


さて、札幌ペサパッロ協会のホームページによると、ペサパッロは1992年からワールドカップが開催されているようで、第1回・第2回に日本も出場している。但し、第3回は「シーズンオフのため参加しなかった」そうで、それほどの位置づけではないようだ。。。
また同ホームページでは、「新人大募集!みんなでワールドカップに出場しよう!」というすごいコピーとともにメンバーを募集している。

誰でも夢に描いた(描いている)であろう「日本代表」「ワールドカップ出場」が意外なところで達成できるかもしれない。来年7月の第6回ワールドカップに注目しよう。



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ちょっとタイミングを逸しているが、オリンピックについて調べてみた。
北京オリンピックでは、マイケル・フェルプス(アメリカ)が8つの金メダルを獲得し、通算14個の金メダル獲得で歴代1位となった。
これはものすごい快挙で素晴らしいの一言だが、水泳は多くの種目にエントリーできるので、どう頑張っても1大会で1つのメダルしか獲得できない競技と金メダルの数を比べるのはあまり意味がない。
その観点からは、数多くの大会で金メダルを獲得することがより賞賛に値すると個人的には思う。

そこで複数の大会での金メダル記録を見てみた。
List of multiple Olympic gold medalists
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_multiple_Olympic_gold_medalists

このリストを細かくチェックしてみると、連続金メダルの記録はフェンシングのアラダー・ゲレビッチ(ハンガリー)が、1932~1960年にかけて6大会連続で獲得したのが最高のようだ。

Aladár Gerevich
http://en.wikipedia.org/wiki/Alad%C3%A1r_Gerevich

Aladár Gerevich (16 March 1910 – Budapest, 14 May 1991) was a fencer from Hungary, who won medals in sabre in six Olympics. He is also the only athlete to win the same event six times (despite two games passed because of the Second World War). The War could not interfere with perhaps his most impressive record, however; he won gold medals in 1932 and 1960, an unprecedented 28 years apart.

In the Hungarian Olympic trials for the 1960 Rome Olympics, the fencing committee told Gerevich that he was too old to compete. He silenced them by challenging the entire sabre team to individual matches and winning every match. He missed the finals of the 1960 Olympic individual sabre event, and a possible individual gold medal, by a single touch.


Official website of the Olympic Movement
http://www.olympic.org/uk/athletes/profiles/bio_uk.asp?par_i_id=10620

1940年と1944年は大会は中止なので、この空白期間を含めて30年近く世界のトップに君臨していたことになる。最初の金メダルは22歳の時で、最後は50歳になっている。フェンシングは瞬発力が必要とされるスポーツであるにもかかわらず、50歳で金メダル獲得というのは実にすばらしい。
しかも妻のErna Bogen、息子のPal Gerevich、義父のAlbert Bogenも金メダリストだという。

ちなみに連続でなければ、カヌーのBirgit Fischer(ドイツ)も1980年、1988~2004年に金メダルを獲得している。
これも18歳から42歳にかけての金メダルだ。



このような偉大な業績は、もっと広く一般的に知られるようになってほしいものだ。



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北京オリンピックが開幕した。
約20年前の北京を知っているので、この国のあまりの急激な変化に驚くばかりだ。

さて、いい機会なのでオリンピックの競技を改めて眺めてみた。

オリンピック競技
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E7%AB%B6%E6%8A%80#.E5.AE.9F.E6.96.BD.E7.AB.B6.E6.8A.80

1896年の第1回近代オリンピック(アテネ)からずっと行われている競技は、陸上、水泳、体操、フェンシングの4競技だけであることがわかった。フェンシングが最初からあったのは言われてみると納得できる。またラグビーが一時期オリンピック競技だったことはちょっと意外だ。

夏季オリンピック種目は、その場で競技を見ればほぼルールや勝ち負けはわかるが、今ひとつよくわからないのが近代五種だ。

東京都近代五種連盟 「近代五種とは」
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/pentaohta/kindaigosyutoha.html
五輪を再興したクーベルタン男爵は、五種競技こそが「論理的資質、技術、体力すべてを試し、理想的で完全な選手を作る」と強調。
①馬術②射撃③フェンシング④水泳⑤陸上
からなる近代五種を導入した。
現在も続く競技のひな型は、とある軍隊の連絡将校が、敵地で馬を無くし、銃と剣で闘い、荒れた川を泳ぎ、走り通してメッセージを届けたいう武勇伝だ。
要は、軍事技術をサバイバルに秀でていることが、五輪が理想とした「健全な肉体と精神を持つ」完全な人間に近づくことだとも近代五輪のあけぼのに、五輪の父は考えていたことになる。


なるほど。一般的にヨーロッパでは複合型種目が盛んで、様々な能力を発揮することに対する評価が高いが、その典型例が近代五種のようだ。

次の疑問は、どのように5種目の競技を行い競うのかという点だ。

 射撃      エアピストル20発
 フェンシング  エペによる総当たり戦
 水泳      200メートル自由形
 馬術      障害飛越(競技馬は当日の抽選により割り振られる。)
 ランニング   3000m走
このうち射撃・フェンシング・水泳は、基準記録を1000点とし、そこから記録に応じて得点が増減され、また馬術は1200点からの減点法で採点する。最後の3000m走は馬術までの 総得点がもっとも高い選手がスタートし、以降得点から算出された時間差毎にスタートし 最終順位が確定する。


近代五種競技
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BA%94%E7%A8%AE%E7%AB%B6%E6%8A%80

東京都近代五種連盟 「近代五種の見方」
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/pentaohta/kingonomikata.html

このように見てみると近代五種がとても大変な競技であることがわかる。水泳はスピードが求められ、ランニングはスピード、スタミナともに求められる3000mという距離だ。フェンシングは相手との組み手だし、射撃、馬術は高い技術が求められる。馬術で当日初めて乗る馬を御すのは大変なことだ。

そして北京オリンピックには日本から村上佳宏選手がただ1人出場する。日本選手としては実に16年ぶりの近代五種への出場だ。

JOC アスリートメッセージ 村上佳宏
http://www.joc.or.jp/stories/athletemessage/20070927athletemessage.html

どの競技も最高峰レベルであり、また全ての国の全ての選手、全ての関係者に敬意を払いたいが、私はこのオリンピック精神を最も表した近代五種競技と村上選手に注目することにしよう。8月21日の男子近代五種が楽しみだ。

それにしても、選手入場で204の国・地域を見ると、まだ知らない国があることに気づく。まだまだ旅すべき国は数多い。



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世の中には私がよく知らないスポーツが数多くある。そこで馴染みのないスポーツを不定期に調べていこうと思う。

初回はクリケット。世界第2位の競技人口がいると言われるが、日本では「野球の起源」「試合が長い」「白いセーターを着る」ぐらいしか認識がない。
イギリスではよくテレビで放送していたし、南アフリカではワールドカップ開催のスタジマムに行ったこともある(試合はやっていなかった)が、どのようなスポーツかわからなければ楽しみようがない。

クリケット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

野球と似たスポーツであり、投手が投げたボールを打者が打ち、打ったボールがフィールドを転がる間に打者が走る事で点を重ねるゲームである。

野球との相違も多く、代表的な点としては
- 投手は助走を付けられるが、肘は伸ばして投げなくてはいけない。
- 打者は投げられたボールがノーバウンドであろうと、ワンバウンドであろうと構わず打つ。
- 打者は全方位どこに向かって打っても良い
- 後ろに立つ3本の棒(ウィケット、三門柱と書かれている時がある)に投球が当たるとアウト。
- 3ストライクなどではなく、ウィケットに1球でも投球が当たればアウト。
- そのかわりアウトにならなければ、何球でも打者は打つ事が許される。
- 打者はペアを組んで打撃し、投球をいくら見送っても良く、打って走らなくてもいい(但し、得点するためには走る)。
などの違いがある。

また、道具にも違いがあり、バットは棒形ではなく平たいオール型をし、グローブは捕手のみが着用を許され、両手に付けることができる。

ルールについては、日本クリケット協会の解説がわかりやすそうだ。
http://www.cricket.or.jp/01/121.php

このように見ていくと、いかにこのスポーツを知らないかがわかる。もしかしたら野球が盛んでない国の人は、同じように野球について調べているかもしれない。


さて、インドではクリケットの国際試合の視聴率が80%を超えたりするそうだが、そのインドでクリケットのプロリーグ(DLF Indian Premier League)が始まったそうだ。
http://www.jetro.go.jp/biz/world/asia/topics/52540
http://www.kanshin.com/keyword/1397943

そこで公式サイトを見てみて、参加している8チームの中から、何となくオークランドレイダースに似ていてかっこいい「Kolkata Knight Riders」を応援することとし、記念すべき最初のシーズンを見守りながら、自分の中でクリケットの普及に努めることにしよう。

DLF Indian Premier League
http://www.iplt20.com/index.html

Kolkata Knight Riders
http://www.kolkataknightriders.com/

それにしても44日で59試合とはすごすぎる。



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