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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




能、狂言などの舞踊、華道、茶道、香道などの芸道、弓術などの武術をはじめ日本の伝統芸能では「流派」が存在する。流派はそれぞれ異なる流儀を継承する集団であり、 流儀すなわち様式化された技術、技能を、家元・宗家などを頂点として継承する。
そして日本酒造りにおいても流派がある。
日本酒の醸造工程を行う職人集団である蔵人の監督者で酒蔵の最高製造責任者は「杜氏」(とうじ・とし) と呼ばれる。全国にはいくつかの杜氏集団があり、各地方による酒造りの様式は各々の流派として独自の技術をもって日本酒が造られている。

日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会 杜氏の流派と分布
http://www.sakejapan.com/index.php?option=com_content&view=article&id=40&Itemid=5

例えば全国最多の杜氏を抱える「南部杜氏 (南部流)」は、1606年頃に南部藩の御用商人であった村井氏・小野氏が、上方の伊丹で鴻池善右衛門によって開発された大量仕込み樽の製法を領内にもたらし、藩のバックアップを受けて盛岡城下で本格的な藩造酒の生産を始めたのが起源で、その後藩、商人、農民に至るまで一体となった藩造酒によって発展したものだ。

一方で歴史の中で衰滅し、現存しない流派も存在する。
「奈良流」は、平安時代から江戸時代に至るまで、大寺院で醸造された日本酒の総称である「僧坊酒」(そうぼうしゅ) の伝統や技法を受け継ぎ、江戸時代の諸流派の源となった流派である。

奈良流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%B5%81

中世の日本においては、大和国や河内国の大寺院が造る僧坊酒が日本の酒の中心であったが、戦国時代に織田信長はじめ武将たちの攻撃を受けて寺院勢力は大きく衰え、同時にその中で培われてきた醸造設備は破壊され、技術も散逸していった。それを直接受け継いだのが奈良の造り酒屋たちであり、彼らの製法・技法を奈良流と称する。
江戸時代に下り酒 (上方で生産され、江戸へ運ばれ消費された酒のこと) を生産する摂泉十二郷の伊丹流、鴻池流、小浜流、池田流など、あるいはそこからさらに技術革新し江戸後期に栄える灘流など、すべての流派はこの奈良流を源流とする。
しかし伊丹で奈良流に改良が加えられ大量生産方式が確立されたことや、奈良が地理的に大消費地である江戸への輸送に適していなかったことなどから、奈良流そのものは商業的に隆盛することはなかった。


「小浜流」は、摂津国小浜郷 (現兵庫県宝塚市) で栄えた。奈良流から発展した流派である。

小浜流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E6%B5%81

武庫川上流の小浜郷の酒蔵が、僧坊酒の直系の後継者である奈良流から習得して、独自の工夫を加えたものと思われる。当初は摂泉十二郷の走りとして伊丹、池田、鴻池などとともに栄えた。下り酒の一銘柄として、武庫川をくだって大坂湾に出て江戸へ出荷された。しかし幕府の酒造統制や、摂泉十二郷のなかでの競争に敗れ、江戸中期までには衰滅してしまったものと思われる。

2018年1月に放送された『ブラタモリ・宝塚』で、タモリさんがかつての小浜宿の元造り酒屋だった民家を訪問したが (その後私も行ってみた)、その酒は小浜流ということになる。

同様に奈良流から発展して摂津で発展した流派に「鴻池流」がある。

鴻池流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E6%B1%A0%E6%B5%81

1600年に鴻池善右衛門が、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。これはやがて日本国内において、清酒が本格的に一般大衆にも流通するきっかけとなった。
また、これを以て日本の清酒の発祥とみなす立場もあり、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ) が残っている。
鴻池で造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたわけだが、地元で消費されるよりも圧倒的に江戸に出荷する率が高かった。寛文以降の幕府の厳しい酒造統制、元禄年間の減醸令、また1738年に新酒一番船の江戸入津は15艘までと制限されたことなどにより、鴻池郷の酒造りは次第に衰退し消滅していった。
しかし、すでに財を成し大坂へ進出していた鴻池家は、鴻池という酒郷が衰滅したあとも豪商として諸方面に活躍し、やがて近代以降は財閥となり、平成時代に至るまで三和銀行として綿々と商脈は続いていくことになる。 もちろん鴻池家は、始祖が自分の出自である村「鴻池」を姓として名乗ったことから始まっている。


余談だが、三和銀行は2001年にUFJホールディングスとなり、さらに三菱UFJフィナンシャル・グループとなって現在に至るが、三和銀行 (1933年に鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併して設立) は鴻池善右衛門の両替商としての創業の年「since 1656」をロゴマークに記していた。国際的にも極めて古い金融業者であった。



奈良流、小浜流、鴻池流をはじめとした日本酒の醸造技術が記された江戸時代の書に「童蒙酒造記」(どうもうしゅぞうき) がある。

童蒙酒造記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E8%92%99%E9%85%92%E9%80%A0%E8%A8%98

童蒙酒造記とは、江戸時代初期に書かれた日本で代表的な醸造技術書。現存する同類の書物の中では、江戸時代を通じて質、量ともに最高の内容を誇る。「童蒙」とは、「子どもや馬鹿者」といった意味だが、そんな言葉をわざわざタイトルの頭につけたとなると、今ならちょっと鼻につくそのような謙遜から、著者の一種マニアックな「酒造りの鬼」と化した姿がうかがわれる。
著者についても不詳であるが、自分は「鴻池流」の人間であると書いていること、商才に敏感な記述が多いこと、などから鴻池流の蔵元の誰かであると思われる。
はっきりとした成立年代はわかっていない。しかし貞享3年(1686年)における米や酒の価格が詳しく分析されていることから、それより後であることは確かであり、かつまた、同年が米作という面でそれほど特殊な年であったとも思われないので、はるか後代になってから書かれるにしては必然性がない。このような理由からとりあえず貞享4年(1687年)の成立と推定されている。
酒造りについて執筆当時にわかる「すべて」が書き込まれたと言っても過言ではないほど、江戸時代を通じて質、量ともに最高の内容を誇る酒造技術書である。 全5巻。

日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」 寒造り、アル添、火入れ......現代に通じる江戸時代の多様な醸造技術─ 熟成古酒の失われた100年<5>
https://jp.sake-times.com/knowledge/culture/sake_g_lost-100years_05



童蒙酒造記の表紙には「これは口伝であるから他人には教えるな」という注意書きがあるが、まさに江戸時代の酒造の秘伝書であるといえよう。

このようにいろいろと調べると、かつての流派の日本酒を味わいたくなるのは当然のことである。上記の流派のうち奈良流の技法が再現された日本酒が、奈良県の梅乃宿酒造株式会社 (創業1893年) から販売されている。 

梅乃宿酒造株式会社 奈良流五段 露葉風 純米吟醸
https://www.umenoyado.com/sake/390031



平安時代まで遡る伝統や技法を受け継ぎ、諸流派の源となった奈良流の日本酒をたしなみながら、日本の新しい時代を迎えよう。


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今年2018年はイギリスの名著『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテ (Emily Jane Brontë、1818~1848) の生誕200周年にあたる。
エミリーの処女作である『嵐が丘』(Wuthering Heights) は1847年に刊行されたが、当初は酷評された。そしてエミリーは1848年9月に兄の葬儀の際に風邪をひき、これがもとで結核を患い同年12月19日に30歳で亡くなった。『嵐が丘』が評価されるようになったのはエミリーの没後である。
エミリーにとって『嵐が丘』は生涯唯一の長編小説となった。しかし本人による作品についてのコメントや解説がほとんど残されていない。

エミリーは「ブロンテ姉妹」の2番目である。エミリーの姉シャーロット・ブロンテ (Charlotte Brontë) は『ジェーン・エア』、妹アン・ブロンテ(Anne Brontë) は『ワイルドフェル・ホールの住人』を発表し、イギリス文壇に多大な影響を与えた。
ブロンテ姉妹として有名だが、ブロンテ家は長女マリア(1814年生)、次女エリザベス(1815年生)、三女シャーロット(1816年生)、長男ブランウェル(1817年生)、四女エミリー(1818年生)、五女アン(1820年生) の6人きょうだいだった。

ブロンテ姉妹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86%E5%A7%89%E5%A6%B9

母のマリア・ブランウェルは裕福な商人の娘であったが、1821年に胃癌と結核を併発して38歳で死去。その後は母の姉エリザベス・ブランウェルが子供たちの母親代わりとなった。
1824年にマリア、エリザベス、シャーロット、エミリーは父の意志によりランカシャーのカウアン・ブリッジ校の寄宿舎に入った。しかしここは衛生状態が極めて悪く、翌1825年マリアとエリザベスは栄養失調のため結核にかかり家に戻されたが、間もなく2人ともわずか11歳と10歳で死去した。
唯一の息子であったブランウェルは父パトリックに溺愛され甘やかされて育ったためか、うぬぼれの強い青年に成長した。ブランウェルは他の姉妹たちと同じく文学や絵画に才能を求めたが、いずれも失敗に終わり、他の姉妹たちに対して次第にコンプレックスを抱くようになった。また彼は他の姉妹たちと同じく家庭教師をしていたが、勤務先の家の母親と不倫の関係に陥り、その関係を父親に知られて解雇された。これらの諸問題から、彼は酒と麻薬に溺れて急速に生活が荒れ1848年9月に31歳で急死した。
その葬式の際にエミリーは風邪をひき、これがもとで結核を患い同年12月19日に30歳で亡くなった。
続いてアンも結核にかかり、療養の甲斐もなく1849年5月28日に29歳で死去した。
その後、1854年に副牧師のアーサー・ニコルズと結婚し、やがて妊娠が判明したが、翌1855年3月31日、妊娠中毒症のため胎内の子供と一緒に38歳で死去した。
結局、ブロンテ家の姉妹たちは1人も子孫を残すことなく全員が早世し、ブロンテ家の家系は断絶した。
なお、一家のほとんどが短命だったことで知られるブロンテ家にあって、父パトリックだけが例外的に長寿であった。パトリックは妻と6人の子供全員に先立たれた後も6年にわたって生存し、1861年6月7日に84歳で死去した。


このように妻と6人のきょうだいが揃って早逝してしまったのだが、当時のイングランド北部ハワース地域の当時の平均寿命は26歳あまりで、数多くの伝染病にかかり若くして命を落とす者が多かったそうだ。むしろ比較的長生きした方だという。

このブロンテ家の中で3姉妹以上に気になるのは、2人の男性、極めて長寿であるがために妻と子どもたちに先立たれた父パトリック、そして才能あふれる姉妹へのコンプレックスから生活が荒んだブランウェルの2人の男でである。『ブロンテ姉妹と15人の男たちの肖像』(岩山はる子・惣谷美智子編著 ミネルヴァ書房、2015年) を参照しながら2人の人物像に迫ってみたい。

パトリック・ブロンテ (Patrick Brontë、1777~1861)
パトリックは比較的長い学校教育を受けることができた。その優れた能力によって16歳で自分の学校を設立したと言われている。その後ケンブリッジ大学のSt. John's Collegeに進み、トップクラスの成績を修めて卒業した。最終的にはイギリス国教会の聖職者になることを選んだ。
パトリックは才能ある努力家であり、勉強にも牧師としての勤めにも熱心に取り組んだ。教育に対しても熱心で、特に娘たちの教育に心を砕いたのは当時としては特筆すべきことである。また牧師として教区民のために積極的に活動した実務家でもあった。貧しい教区の子供たちにも教育を与えるべく日曜学校で中心となって活動した。
パトリックはまたブロンテの名を冠した著作を最初に出版した人物である。1810年頃から詩を書き始め、1811年には『草屋詩集』を出版するなど、3冊の詩集と短編小説の『キラーニーの乙女』という作品を上梓している。パトリックは先任の牧師たちが布教活動の一環として著述を出版しているのを目の当たりにしており、ものを書くということは自然なことであった。但しパトリックはあくまでも宗教者であり、彼の作品は多くが宗教的な主題を扱っている。




このように才能にあふれた努力家で、家族愛にあふれた厳格な父のもと、ブロンテ姉妹がものを書くことになったことは極めて自然な流れだろう。
しかし、きょうだいで唯一の息子であったブランウェルは、全く違う人生を歩んでしまった。

ブランウェル・ブロンテ (Branwell Brontë、1817~1848)
幼いころのブランウェルは、空想の世界を創る遊びを考えだし、父に買ってもらった木の兵隊を姉妹たちに分け与えて、彼女たちをこのゲームへと駆り立てた。彼によって導かれたファンタジーの世界に住んでいなかったら、ブロンテ姉妹の小説は生まれていなかっただろう、とも言われる。ブランウェルは、家族みなから愛され、最も有望な才能の持ち主として、その将来が大いに期待された。
しかし、ブランウェルの人生は目立った成功をほとんど示すことができないまま、下降の一途を辿り続けた。はじめは画家になるためにロンドンで専門教育を受けようとするが、志を果たさず、のちに肖像画家の仕事をしたり、鉄道会社に就職したりしたときにも、いつも短期間で挫折し、失敗を繰り返す。そして家庭教師として雇われていた家で不祥事を起こして解雇されてから、31歳で壊滅的な死に至るまでの最終段階で、彼の命運は急下降した。
他方このようなブランウェルの有様を間近で見ていた姉妹たちは、学校で学んだり、学校教師や家庭教師をしたり、学校経営の計画に備えて留学したりするなど、代わる代わる牧師館の外の世界との間を往復しながら、女性としての義務に縛られつつ生活の手段を得るための苦心を続けていた。そしてブランウェルがいよいよ再起不能になった晩年は、3姉妹が小説を書き始め、その作品が世に出るという最もスリリングな時期と重なっている。ブランウェルの後半生は姉妹たちにとって重荷とストレスの元凶でしかなかったという印象が色濃い。




才能を持ちながらもうまく噛み合わず自暴自棄となり、また姉妹の成功に対するコンプレックスで辛い思いをしたことがよくわかる。そのような子どもたちを見守っていたパトリックも、とても辛い立場であり、難しい接し方を余儀なくされたことであろう。
文学史に燦然と輝くブロンテ姉妹は、僅かな期間で後世に残る作品を世に送り出したが、そのベースには極めて特異な家庭環境があったようだ。



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3年ほど前に本ブログで、日本建築学会賞とその第1回の作品賞を受賞した谷口吉郎氏の慶應義塾大学校舎「4号館及び学生ホール」を取り上げたことがある。残念ならこの建物は現存しない。

では海外に目を転じてみよう。建築家に対する世界的な賞として、ハイアット財団による「プリッカー賞」、アメリカ建築家協会 (AIA) が授与する「AIAゴールドメダル」、王立英国建築家協会 (RIBA) が授与する「RIBAゴールドメダル」が挙げられる。この中で最も長い歴史を誇るのはRIBAゴールドメダルで、第1回の1848年から170年に及ぶ。

王立英国建築家協会 (Royal Institute of British Architects) はイギリスの建築家の団体で、1834年にロンドン建築家協会として設立されたのが起源である。
そのRIBAが毎年授与するロイヤル・ゴールド・メダル (Royal Gold Medal for Architecture、RIBAゴールドメダル) は、 1つの建物ではなく著名な仕事のために与えられるものだ。
2016年の受賞者はザハ・ハディド氏で、女性として初めての受賞だった。また全ての受賞者が建築家であったわけではなく、技術者、作家、考古学者も受賞している。
とても例外的な受賞は1999年のスペイン・バルセロナ市で、都市再生の輝かしい例であるとされたものだ。

そのRIBAゴールドメダルの第1回受賞者はチャールズ・ロバート・コッカレル (Charles Robert Cockerell、1788 ~ 1863) だ。



Charles Robert Cockerell
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Robert_Cockerell

コッカレルは6歳の頃から建築家であった父サミュエル・ピープス・コッカレル (Samuel Pepys Cockerell、1753 ~ 1827) のもとで訓練を受け、1809年にはロバート・スマーク (Robert Smirke、後に1853年のRIBAゴールドメダルを受賞) の助手となり、コヴェント・ガーデン・シアターの再建を支援した。
1810年から1817年にかけて、イタリア、ギリシャ、アジアでの古代建築を研究し、ギリシャのエギナ島の神殿の発掘で国際的に知られるようになった。
1817年にロンドンに戻り、古典様式への深い造詣やギリシア彫刻の力強さへの共感に基づく作風で、多くの作品を手がけた。1860年にはイギリス建築家協会会長に就任した。

そのコッカレルの作品をいくつか見てみよう。

まずは1820年のハーロー校 (Harrow School) 「Old Schools」だ。
ハーロー校は1572年に創設された英国を代表する男子全寮制パブリックスクールであり、ウィンストン・チャーチルをはじめとする英国首相だけでなく、世界の指導的役割を果たしたリーダーを多く輩出した伝統的名門校だ。
Old Schoolsは1615年に建てられたもので、ここにコッカレルが1820年にオールドスピーチルームを加えた。1976年以降はギャラリーとなっている。



Harrow School - Old Speech Room Gallery
https://www.harrowschool.org.uk/Old-Speech-Room-Gallery

The Old Speech Room was completed in 1820 and used as a space where boys could learn the art of public speaking. In 1976, it was converted into a Gallery – a safe repository for the School's distinguished collection of antiquities and fine art.

また1683年に世界最初の大学博物館として開館したオックスフォードの「アシュモレアン博物館」 (Ashmolean Museum) の現在の建物は、1845年にコッカレルが手掛けた新古典主義建築だ。イオニア式柱頭の4本の柱に支えられたペディメントが美しい。内部は近年広範囲に渡って現代化され、レストランや大きなギフトショップもある。



RETRIP 見どころ豊富!オックスフォード「アシュモーリアン博物館」の見どころ
https://retrip.jp/articles/83333/

その他にもリバプールをはじめとする全英各地のイングランド銀行や、エクセターのKillerton Churchなど、コッカレルが手掛けた多くの建築物が現存している。





170年もの歴史を持つ建築学賞の第1回受賞者の作品が、現存するだけでなく、外観を残しながら内部を改装することによって有効に使われていることに好感が持てる。日本建築学会賞の受賞作品も是非このような形で後世に引き継がれることを希望する。そうすれば賞の価値もより高まるはずである。



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今年5月15日にアマチュア画家の後藤はつのさんが113歳で亡くなった。

上越タウンジャーナル 2017年7月18日 郷愁あふれる絵画 妙高市出身の後藤はつのさんが113歳で死去
https://www.joetsutj.com/articles/81532295

子供の頃に遊び回った明治時代の赤倉温泉の自然などを、郷愁あふれるタッチで描いた新潟県妙高市出身の画家、後藤はつのさんが2017年5月15日、誤嚥性肺炎のため東京都墨田区の自宅で死去した。113歳だった。このほど親族が明らかにした。
後藤さんは1903年9月2日生まれ。実家は現在の赤倉ワクイホテル。脳の老化防止に73歳で油絵を始め、81歳から99歳にかけて100号以上の大作に挑戦し、作品を展覧会に出品した。1986年、82歳で描いた作品が現代童画展で新人賞を受賞。1996年、96歳のとき「明治42年の遠足 苗名の滝」(以下画像参照) が現代童画展で文部大臣奨励賞を受賞した。102歳のとき銀座で初個展、108歳で諏訪市の原田泰治美術館で絵画展を開催。地元妙高市でも2度の個展を開催し、多くの人が足を運んだ。
100歳を越えてからも好奇心いっぱいで、絵筆を置いてからも海外旅行や、百人一首、詩吟、書道などに次々と挑戦。2011年には、読売新聞社が主催するニューエルダーシチズン大賞を108歳の最高齢で受賞した。
2015年2月には、そのスーパーレディぶりを紹介した「111歳、いつでも今から」(河出書房新社刊)を発刊。著書の帯には、2012年に聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏が、「はつのさんは私にとって人生のモデルです」と推薦文を寄せている。



後藤はつのCollection はつのおばあちゃんのプロフィール
http://www.akakura.gr.jp/wakui/mama/entry1.htm

絵を始めたのは73歳の時でした。きっかけは長男の 『年をとって何もしないとボケちゃうよ、絵でもやったら!』という一言。 それまでは絵を描いた経験もなく、最初は戸惑いながら近くにあった絵画教室に通い、絵の手ほどきを受けるうちに、描くことが楽しくなり、油絵に熱中するようになりました。しかし、一時は家族と一緒に海外へ赴くことになり、習い始めた絵も中断再び絵筆を握ったのは帰国後、80歳になってからでした。はつのおばあちゃんが主に描くのは、ふるさとの懐かしい風景や凧揚げ、スキー、お祭り、柿もぎといった子供時代の思い出です。『絵を始めてからは、昔のことがいろいろ、それも鮮明によみがえってくる。今はそれが描きたくて仕方がない』とはつのおばあちゃんは言います。 カンパスの上に再現された思い出の数々は、細やかな描写と鮮やかな色づかいで、いずれも見事な出来栄えです。はつのおばあちゃんは年末の現代童話展に出品するために、毎年必ず100号の大作に挑戦してきました。カンパスに向かう はつのおばあちゃんは元気そのもの。 気分が乗ると、昼頃から夕方まで半日近くもほとんど立ちっぱなしで、絵を描くこともあるそうです。

長寿もすばらしいが、73歳から絵を始めてそこから多くの作品を作成したという点がすばらしい。 
絵の内容ははつのおばあちゃんの幼少期の思い出を描いたもので、子供目線の明治末期の素朴な情景が鮮やかなタッチで描かれている。誰にとっても子供の頃に見た景色の印象は強く大人になっても残っているものだ。ただそれはとても曖昧で、なかなか細部まで表現することは難しい。いろいろと記憶を甦らせながら描いたものだろう。

まさに後藤はつのさんは日本のグランマ・モーゼスと言うべき方だった。



グランマ・モーゼス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%82%B9

アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(Anna Mary Robertson Moses、1860年9月7日 - 1961年12月13日)はアメリカ人なら誰もが知る国民的画家。通称グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)。
ニューヨーク州グリニッチの貧しい農家に生まれたモーゼスは12歳から奉公に出て、27歳で結婚。しかし子供を産んでも働き詰め。子供が10人できたがそのうち5人は幼児期に夭逝。70歳で夫を亡くす。
バーモント州ベニントンへ移り住み、リュウマチで手が動かなくなってからリハビリをかねて、油絵を描き始めた。
絵を描き始めて3年後、ひとりのコレクターが彼女の絵に目をつけ、1940年に80歳にて個展を開く。この個展に大手デパートが注目して一躍名画家となる。89歳の時には当時の大統領ハリー・S・トルーマンによってホワイトハウスに招待されるほどである。
101歳で死去するまで約1600点の作品を残した。


ヨコハマNOW セカンドライフ列伝 第6回 グランマ・モーゼス
http://yokohama-now.jp/home/?p=8277



後藤はつのさんもグランマ・モーゼスも、高齢で体力的には大変だったと思われるが、80歳代から新しい世界が開けたこと、そして何よりも自分の頭の中にある情景を形にできたということで、日々を楽しく過ごすことができたと、いい人生を送ったのではないだろうか。
人生はいつ何が待っているかわからない、いつからでも新しいスタートができる、ということを改めて感じた。



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いつの時代でも、若い人が志半ばに亡くなるということは辛いことである。
もちろん誰にでも等しく可能性あるが、特に既に名を馳せていたような若者が夭逝した場合は、生きていればどれだけの功績を遺せていたかということをどうしても考えてしまう。
例えば日本の代表的な作曲家の一人である瀧廉太郎 (1879 - 1903) は、1900年に「花」「箱根八里」「荒城の月」などを発表したが、ヨーロッパ留学中の1901年に肺結核を患い、1903年6月29日に僅か23歳で亡くなった。
文学界では、樋口一葉 (1872 - 1896) は、1894年12月の「大つごもり」の発表から、その後立て続けに「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などを発表したが、肺結核が進行し1986年11月23日に24歳の若さで亡くなった。
また石川啄木 (1886 - 1912) は、代表作の「一握の砂」の発表は1910年12月で、その後1911年末から腹膜炎と肺結核を患い、1912年4月13日に26歳の若さで亡くなった。
いずれも当時治療法のなかった結核によるもので、偉大な才能を失ったことは社会・文化にとって大きな損失である。

18世紀にイギリス西部のブリストルで生まれたトーマス・チャタートンも、天才詩人であったが僅か17歳で自ら命を絶った。

トーマス・チャタートン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3

トーマス・チャタートン(Thomas Chatterton, 1752年11月20日 - 1770年8月24日)は中世詩を贋作した事で知られるイギリスの詩人。生活に窮し、17歳で砒素自殺した事と相まって、ロマン主義における認められなかった才能の象徴と広く見なされている。

父親はチャタートン誕生の3ヶ月前に没しており、母親は裁縫および装飾の内職によってチャタートンと姉を育てた。
チャタートンは父の遺品の中にあった音楽について書かれた二折判の本に魅せられるようになり、それがきっかけで読書に熱中、黒体文字で印刷されたバイブルの読解もできるようになった。その後、彼は教会本堂の北側玄関最上部にある書類保管庫に置かれていた奇妙なオークの箱への関心を抱く。箱を開けてみると、そこには羊皮紙に書かれた薔薇戦争期の古文書の束が忘れられて横たわっていた。これは後に彼の詩作に大きな影響を与える。やがて堅信を受けたチャタートンは宗教詩や風刺詩の創作に乗り出す。
チャタートンは、トーマス・ローリーという偽名での作品を既に構想していた。チャタートンの空想によれば、ローリーはエドワード4世治世期のブリストル市長ウィリアム・ケアニングの庇護のもと活動する詩人である。チャタートンはローリーの偽名で中世英語の詩を自作し、エドワード4世時代のブリストルに思いを馳せ、理想化した数々の作品を生み出す。彼はこれらの作品を中世の古文書から発見したものだと触れ込んだ。

チャタートンはコールストン校卒業後、見習いとして法律事務所に勤務していた。しかし詩作や投稿に心を奪われていた彼仕事に身が入らず、その結果主人との折り合いも悪くなり、やがては事務所を辞めてロンドンに上京する事を考え始める。
チャタートンは、ロンドンに上京する前からミドルセックス・ジャーナルなどの中央紙への有力投稿者としてある程度名が売れていた。さらに、彼は別の政治的な雑誌にも投稿をはじめた。彼の投稿は雑誌に掲載されはしたが、チャタートンに支払れた報酬はごく僅少なものか、あるいはまったく支払れない事も珍しくなかった。しかし彼は、母と姉に自分の将来が有望である旨の手紙を書き、さらには母姉へのプレゼントまで贈る事で、わずかな所得を費やした。彼の誇りと野心は、雑誌編集者および政治運動家から向けられるお世辞に満足した。この時期チャタートンはロンドン市長ウィリアム・ベックフォードとも会見し、チャタートンの政治的な助言を聞いたという。

彼は政治風刺詩や散文、牧歌、歌詞、オペラ台本を書き続けたが生活的困窮は相変わらずで、ブルック通りにある屋根裏部屋に転居した。同じ時期にチャタートンの後ろ盾となっていたロンドン市長ベックフォードが没し、当局の言論統制とも相まって、ただでさえ窮乏していたチャタートンにもしわ寄せが押し寄せることになる。
行き詰ったチャタートンは、船医としての働き口を見つけ、ブリストル時代に親交のあった医師に見習証明を書いてくれるよう頼んだが、これを拒絶される。 1770年8月24日に、チャタートンはブルック通りの屋根裏部屋で砒素を仰いで自殺した。わずか17歳9か月の生涯だった。



トーマス・チャタートンの生涯については、宇佐美道雄氏の「早すぎた天才 贋作詩人トマス・チャタトン伝」(新潮選書、2001年)がたいへん詳しい。大英図書館に通い詰めて10年を歳月をかけたという大作だ。
特に、自作した中世英語の詩を古い羊皮紙に記した贋作を、資料収集家の外科医に見破られた際のやり取りなどは印象的だ。



贋作の是非はともかくとして、少年がロンドン市長に政治的な助言をするほどの立場となり、その一方で異才を擁しながら生活に困窮しなけらばならなかったのか、現代から見ると当時の社会には不可思議な点が多い。しかし無気力だった私の高校生時代を振り返ると、トーマス・チャタートン少年の人間としての成熟ぶりには尊敬の念に堪えない。

尚、チャタートンがトーマス・ローリーとして記したPoems supposed to have been written at Bristol by Thomas Rowley and others, in the Fifteenth Century は死後の1777年に刊行された。
その中の “Bristowe Tragedie: or the Dethe of Syr Charles Bawdin” は完璧なバラッド・スタンザと古風なつづりにより、中世の歴史を効果的に表現していると評価される。原詩と訳詩は以下のようなものだ。

http://literaryballadarchive.com/PDF/Chatterton_1_Bristowe_Tragedy.pdf
http://literaryballadarchive.com/PDF/Chatterton_1_Bristowe_Tragedy_ja.pdf

チャタートンや瀧廉太郎・樋口一葉・石川啄木のような悲劇は、社会制度の発展や医療の進化によって減っているとは思うが、それでも完全とはならないだろう。
全ての人が存分に能力を発揮できる機会が得られる社会を期待したい。


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日本には5000館を超える博物館 (博物館類似施設を含む) があるが、その中で最古のものは上野恩賜公園内にある東京国立博物館で、日本で最初かつ最古の博物館でもある。しかし、最初から博物館の建物があったわけではなく、また博物館と称したわけでもなく、最初は期間限定の博覧会であった。

東京国立博物館 館の歴史 1.湯島聖堂博覧会
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=144

明治5年(1872年)3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれた。博覧会の会期は20日間、午前9時から午後4時までの開館時間が設けられた。この博覧会の陳列品は、前年の大学南校(文部省の前身)物産会の資料を引継ぎ、さらに翌年オーストリアで開催されるウィーン万国博覧会の参加準備も兼ね、広く全国に出品を呼びかけ収集している。博覧会出品目録草稿によると陳列品は、御物はじめとする古器旧物(文化財)と剥製、標本などの天産物を中心に600件余りをかぞえ、広汎な種類の展示であったことがうかがえる。特に、大成殿中庭のガラスケースに陳列された名古屋の金鯱は観覧者の注目を集め、博覧会の人気に拍車をかけた。当事者の1人である田中芳男が後に述べているように、この博覧会は観覧者が多く混雑したため入場を制限し、対応策として会期を4月末日まで延長せざるをえなかった。博覧会の入場者総数15万人、1日平均約3,000人の観覧者が大成殿に足を運んだことになる。
明治5年の博覧会は、恒久的な展示を行なう博物館の誕生でもあった。ガラスの陳列ケースの並ぶ室内、さらにケース内の陳列品は、当時の観覧者に新鮮な印象を与えたことだろう。政府によるわが国最初の博覧会の開催、東京国立博物館はこれをもって創立・開館の時としている。




このように日本の博物館は博覧会にその起源を持つ。
その時点でヨーロッパ各国では既に19世紀前半に博覧会がたびたび開催され規模も大きくなり、1851年には第1回国際博覧会(万博)がロンドンで、その後も1852年にニューヨーク、1855年にパリ、1862年にロンドン、1867年にパリとたびたび開催されるようになっていた。
日本に国際博覧会の存在が伝わったのは1853年であると言われており、ニューヨーク万国博覧会の開催と、1851年に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた。そして1867年のパリ万博には日本も初めて参加し、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展している。



このように近代的な博覧会については幕末に伝わっており、西洋事情に関心を持つ者には、博覧会なるものの存在と意義がすでに理解されいた。そして明治維新後の1871年(明治4年)に日本国内で最初の博覧会が開催された。

京都経済同友会 京都再発見 京都・近代化の軌跡 知識と情報を商売の糧に~京都博覧会の開催
http://www.kyodoyukai.or.jp/rediscovery/rediscovery004

京都府は1870年に発表した産業復興の基本方針、「京都府庶政大綱」に「商工業に関する海外の動向を知らしめ、人々の産業知識を向上させる」ことを挙げています。これに沿って京都府は、農工商業者への“業界指導”はもちろんのこと、一般庶民にも西洋諸国がいかにすぐれた工業製品をつくっているかを知らしめる必要があると考え、博覧会開催を考えたのでした。
京都における最初の博覧会は、当時の知事の長谷信篤が、京都を本拠地にしていた三井家の三井八郎右衛門、金融業の小野組の小野善助、薫香商・鳩居堂の熊谷久右衛門の3人に話をもちかけ、主催させました。パイロット事業という位置づけで、会期は1871年10月10日から11月11日までのほぼ1カ月、会場は今や国宝となっている西本願寺の書院でした。
このとき宣伝のための高札を、京都はもとより大阪・神戸・横浜などの14カ所に建て、次のように呼びかけました。「西洋では博覧会といって、新しく発明された機械や古代の器物などを陳列し、人々に知識を広め、また新しい機械には宣伝・販売の場にもなっている、たいへん有意義な会が開かれている。これに倣って京都でも博覧会を行う。西本願寺の書院に古今東西の珍しい物品を展示するので、大人も子供も見に来てほしい。きっと知識が深まり、目が肥え、世界の広さや歴史の重みを感じることができるであろう」
出品されたのは日本の武具・古銭・古陶器など166点、中国(清)の古銭・書画など131点、ヨーロッパからは汽車の模型・拳銃など39点で、「新しく発明された機械」は見当たらず、ほとんど骨董品展示会であったと伝えられています。それでも物珍しさからか1万人以上が押しかけ、入場料収入から経費を差し引いても利益が残りました。




しかし、京都博覧会が必ずしも日本で最初の博覧会とは言い切れない。例えば既述の湯島聖堂博覧会が引き継いだ「前年の大学南校(文部省の前身)物産会」は1871年5月に九段招魂社 (靖国神社) で開催されてる。同回は当初博覧会の名で企画されたが直前に物産会に名称変更となった経緯がある。もともと日本では全国から珍品、古物を集めた物産会や薬品会が行われており、当初の博覧会は内容としては大きな差がなかった。
しかし、1871年以降の6年間で府県主催による博覧会が東京、京都,和歌山,徳島,名古屋,金沢など全国で計32回も開催された。

そして、政府主導の博覧会である「(第1回)内国勧業博覧会」が1877年8月に開催され、万国博にならって、機械館、美術本館、農業館、園芸館、動物館等のパビリオンが建ち並び、全国各地の特産品等が展示された。
この中では、欧米からの新技術と日本の在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面が強調され、物品を一堂に集めて優劣が明らかとなることで、出品者の向上心や競争心を刺激して、産業増進を達成することを目的とした。また戦争を経て国家的団結の場としての効果も期待された。



このように、まさに博覧会は日本にとって文明開花の象徴的なイベントだったといえよう。
情報化が進展し、様々なイベントや展覧会が日常的に開催されている現在では、博覧会にかつてのような意義はないが、明治以降の日本の発展を博覧会が支えたことは押さえておきたい。



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恥ずかしい話だが、いくつになっても茶道の作法が習得できず、ハードルの高さを感じている。
実際に茶道には独特の作法が多く、また使用される道具にも工夫が必要とされる。
安土桃山時代にわび茶を完成させた千利休も、長次郎の茶碗や京釜師・辻与次郎の釜など独特の好みを持って茶道具を選んでいた。そして千利休の子孫である三千家 (表千家・裏千家・武者小路千家) の好みの茶道具を作れる職人は限定されており、江戸時代を通じてその数は八家から十二家で変動していたが、明治期に現在の十職に整理され「千家十職(せんけじっそく)」と称されるようになった。千家十職はその家毎に制作する茶道具が決まっており、代々当主の名前を継いでいる。

茶碗師 樂吉左衛門(らく きちざえもん)  樂焼の茶碗
釜師 大西清右衛門(おおにし せいえもん)  釜を主体とする鉄製品
塗師 中村宗哲(なかむら そうてつ)  棗(なつめ)、菓子器などの塗物
指物師 駒沢利斎(こまざわ りさい)  棚、炉縁(ろぶち)などの木製品
金物師 中川浄益(なかがわ じょうえき)  建水(けんすい)などの金工品
袋師 土田友湖(つちだ ゆうこ)  服紗(ふくさ)、仕覆(しふく)などの布製品
表具師 奥村吉兵衛(おくむら きちべえ)  掛軸、風呂先屏風などの紙製品
一閑張細工師 飛来一閑(ひき いっかん)  菓子器、棗などの一閑張の製品
竹細工・柄杓師 黒田正玄(くろだ しょうげん)  花入、蓋置などの竹製品
土風炉・焼物師 西村(永樂)善五郎(ぜんごろう)  土風呂(陶器製の風呂)、色絵付の茶碗や水指などの陶器

各家ともに400年以上の歴史を持ち、継承および襲名がされている。当主は11代目から17代目となっている。但し駒沢利斎は14代が1977年に逝去後、長く空席が続いている。また中村宗哲(13代)と飛来一閑(16代)は女性当主である。

それぞれが伝統と技術を備えているが、一例として樂吉左衛門の樂焼についてみていこう。
樂焼は、電動ろくろや足で蹴って回す蹴ろくろを使用せず手とへらだけで成形する「手づくね」と呼ばれる方法で成形する陶器で、千利休の侘茶の精神をくみ取って、わずかな歪みと厚みのある形状が特徴である。
黒楽 (焼成中に釉薬(うわぐすり)が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する) と赤楽 (赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて焼成する) があり、千利休のエピソードによると秀吉は黒楽を嫌い赤楽を好んだそうだ。

樂焼 RAKU WARE|樂美術館 歴史
http://www.raku-yaki.or.jp/history/index.html

樂焼は桃山時代(16世紀)に樂家初代長次郎によって始められました。樂焼の技術のルーツは中国明時代の三彩陶です。桃山時代には京都を中心にそうした色鮮やかな三彩釉を用いる焼物が焼かれはじめていましたが、長次郎もその技術をもった焼物師の一人であったと考えられています。
長次郎の残した最も古い作品は二彩獅子像、天正2年(1574年)春につくられました。おそらく樂茶碗が造られるのはそれより数年後、天正7年(1579年)頃ではないかと考えられています。
これまでの焼物とはまったく異なる方法論と技術によって導かれた樂焼。しかし、利休や長次郎が生きていた時代は、まだ「樂焼」という名はありませんでした。この新しく生まれた茶碗は当初「今焼」と呼称されました。今焼かれた茶碗、新しい茶碗、当時として前衛的な茶碗でした。
樂家が秀吉が建てた「聚楽第」近くに居を構えていたこと、また長次郎の樂茶碗は、聚楽第に屋敷をもつ千利休の手を経て世に出されたことなどから、この焼物が後に「聚樂焼き茶碗」と呼ばれるようになり、やがて「樂焼」「樂茶碗」と称されるようになりました。また豊臣秀吉から「樂」の印字を賜わったとされています。樂焼の「樂」とは「聚楽第」の焼物として、その一字を取って「樂」とされたと考えられます。
以来「樂」は樂家の姓となりましたが、ある陶家の姓が焼物の呼称となって伝えられている例は当時において他にありません。今日、樂焼は陶芸の一分野として広く海外にまで普及していますが、当初は利休と長次郎によってはじめられたところの樂家一族の焼物を指して呼称されたのでした。


初代 長次郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E

長次郎の父は明出身の工人・あめや(「飴屋」「阿米也」)、母は「比丘尼」といわれるが詳細は不明である。出自については、かなり身分の低い出身ではないかと推測される以外は未だに不明な点が多いが、祖先は低火度釉の施釉陶器である交趾焼の技法をもつ人であったとも考えられている。
後世の記録の伝えるところによると、妻に田中宗慶の孫娘を迎え、後に宗慶とその長男・田中庄左衛門宗味、次男・吉左衛門常慶(後に樂吉左衛門家二代当主)らとともに工房を構えて作陶を行なった。田中宗慶はその苗字から千利休の縁戚ではないかと想定され、常に利休の側にいた事が知られる。
天正年間に宗慶を介して千利休と知り合ったと推定される。それまで国内の茶会で主流であった精緻で端正な中国製の天目茶碗などよりも侘びた風情を持つ茶道具を好む利休によって、ろくろを使わず手づくねで成形を行なう独自の工法が認められ、のち注文によって茶碗を納めるようになる。楽焼の素地は、決して良質のものとはいえない地元の土を用いており、土を選ばないものであった。



<黒樂茶碗 面影>

2代 楽常慶
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%B8%E6%85%B6

初代の長次郎の実子ではなく、その補佐役であったと考えられている田中宗慶の次男。但し、長次郎の存命中から父や兄・宗昧と共に楽焼製作に関わっていたとされる。しかし、長次郎の実子でもなく、また宗慶の長男でもなかった常慶が跡取りとなった経緯については樂家にも良質の史料が伝来しておらず全くの謎である。千利休が豊臣秀吉と対立して切腹に追い込まれたため、利休に一番関わりの薄かった常慶が当主となったという説もある。
それまで還元釉の黒色と酸化釉の赤色しかなかった楽焼に「白釉」を導入し、楽焼の作風を広げる業績を残す。


<赤樂菊文茶碗>

3代 楽道入
http://www.raku-yaki.or.jp/history/successive.html
常慶の長男として誕生。別名ノンコウと称され、後に樂歴代随一の名工とされています。
道入の作風にはこれまでには見られなかった斬新な作行きが示されています。装飾性を徹底して省いた長次郎の伝統的世界に黒釉、白釉、透明釉をかけあわせるなど、装飾的な効果をモダンに融合させ、明るい軽やかな個性を表現しました。


<黒樂茶碗 木下>

以後、歴代の当主が様々な作品を作り、今日の15代に至っている。尚、三代の道入以降の各当主には隠居した時に「入」の字を含む入道号という名前が贈られており、後世にはその名前で呼ばれる事が多い。
当主の15代目樂吉左衞門は、1949年に14代・覚入の長男として生まれ、東京芸術大学美術学部彫刻科を卒業後、イタリア留学を経て1981年に15代吉左衞門を襲名し、伝統に根ざしながらそこに安住することなく、常に斬新な感覚を示す造形美の世界を表現し続けている。



また、樂家は桃山時代から450年にわたって現在の京都市上京区油小路に居と窯場を構えている。現在の樂家の建物は1855年に再建されたもので国の登録文化財に指定されている。1978年に樂家に隣接して公益財団法人樂美術館が設立され、樂歴代作品を中心に、茶道工芸美術品、関係古文書など樂家に伝わった作品を中心に収蔵している。

このように茶道で使用される個々の道具には、いずれも400年を超える歴史、伝統、格式があることが改めてよくわかる。ハードルが高くて当然だが、少しずつ理解を深めていこう。


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日本建築学会賞は、一般社団法人日本建築学会が設けている国内で最も権威のある建築の賞で、建築・建設分野で功績をあげた個人・団体を称えるものである。
論文、作品、技術、業績の4部門からなるが、特に作品賞は通常年間1~3作品のみしか選ばれず (該当なしの年もある)、国内の建築家にとって最高峰の賞と言えるだろう。

今年(2015年)の作品賞は、武井誠氏と鍋島千恵氏による「上州富岡駅」、そして福島加津也氏と冨永祥子氏による「木の構築 工学院大学弓道場・ボクシング場」の2作品だ。その選考経過や講評も開示されている。素人目から見てもいずれもとても素敵だ。

一般社団法人 日本建築学会 2015年各賞受賞者 
https://www.aij.or.jp/2015/2015prize.html





さて、2015年の作品賞は第67回である。本賞は1949年から始まりこれまでに多くの作品が受賞してきた。

日本建築学会賞 作品賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E8%B3%9E#.E4.BD.9C.E5.93.81.E8.B3.9E

眺めていくと、高層ビル、モニュメント、公共建築物、学校、工場など多岐にわたることがわかる。1955年の世界平和記念聖堂 (村野藤吾氏) は重要文化財だし、1963年の神戸ポートタワー (伊藤紘一氏、仲威雄氏) は長きにわたって神戸市のランドマークだ。一方で一般の住宅も受賞作品となることが興味深い。

しかし悲しいことに建築物には耐用の寿命があり、経年とともに劣化することは避けられない。そして時代の変化によって役目を終えて解体されてしまうケースも多い。
記念すべき第1回の受賞作品である谷口吉郎氏 (1904-1979年) の慶應義塾大学校舎「4号館及び学生ホール」(藤村記念館とともに受賞) も現存しない。

慶應義塾大学 アート・センター 谷口吉郎とイサム・ノグチ 慶應義塾の近代建築とモダン・アート Ⅱ
http://www.art-c.keio.ac.jp/old-website/archive/noguchi/about/2.html

谷口の設計により1949年5月に竣工した4号館は、ホール一室と50名単位の教室13室からなる木造二階建ての建物で、キャンパスの北西部に建設された。東西にのびる横長の外壁に素焼き赤レンガの三角屋根を組み合わせたシンプルな形状の建物で、その壁面には縦長長方形の窓が整然と配置されている。この垂直方向を志向する長方形の窓のプロポーションは、谷口が三田山上の復興建築において一貫して用いたデザインであり、この時期の谷口建築の特徴を示す重要なモティーフといえる。

同時期谷口は、四号館の西側に新築された「学生ホール」の設計もあわせて依嘱された。学生ホールの建設された場所は現在の西校舎北側にあたる部分で、食堂や売店、学生の課外活動のための部屋などを備えた施設として1949年3月に建設が決定され、同年11月に竣工している。学生ホールも外装は赤い屋根にテラス付きの白亜の壁で、やはり谷口建築の特徴を示す縦長長方形の窓が整然と配置された建築プロポーションが踏襲されている。また内部空間も一階中央の吹き抜け部分と二階に設けられたギャラリーを食堂とし、その東西の壁には新制作協会の洋画家・猪熊弦一郎の壁画《デモクラシー》を飾るという、若々しく自由な構想であった。




慶應義塾 [慶應義塾豆百科] No.92 学生ホール
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/92.html

三田構内の北側低地(現在北新館所在地)、イタリア大使館の石垣にはりつく様に、ひっそりとたっていた建物を記憶する塾員諸兄姉も多かろう。この建物を昔「学生ホール」といった。今でこそ三田山上には新しい意匠の建物が群をなして建っているが、この学生ホールが山上西側に建築された1949年当時は、学生ホールは三田山上の最新建造物として注目を集め、「山食」を根城にした塾生の溜り場として活用されたものだった。
それはこの建物自体が、この年に建てられた大学校舎(当時は4号館とよばれていた)と共に、設計者谷口吉郎に対し、その年度の建築学会賞が授与された建物であり、内部を飾る壁画「デモクラシー」も、1950年11月に作者猪熊弦一郎に対し、毎日美術賞が授けられたものだったからである。
「学生ホール」の特色は、設計者谷口の幼稚舎校舎建設以来の一貫したモチーフである開放性が十分に配慮されており、採光通風と、どこからでも出入りできる開口部の広さが、この建物にも活かされていた。
この「学生ホール」も西校舎建設のため1961年に山食ごと構内北側の山の下に移築され、1991年北館建設のためその使命をおえて取り壊されたが、その前に壁画は作者自身の指揮を得て1988年秋にパレットクラブの現役学生やOBの協力による修復を経て、今日では西校舎地下にある学生食堂ホールに居を移して塾生たちを見守っている。




今写真で見ると古さを感じてしまう建物ではあるが、建築はその時代の技術の成果物であり、日本建築学会賞作品賞の歴史を眺めていくことで、建築技術の発展を知ることができる。

さて、1951年と1962年の三田キャンパスの配置図は以下のとおりである。(出所:http://www.keio.ac.jp/ja/news/2002/kr7a430000005x96-att/030308_2_genkyo.pdf )



上記の記事のとおり学生ホールは1949年から1961年の12年しか存在しなかったので、1962年の配置図では既に姿を消している。
当時は日本建築学会賞もまだ充分な地位を築いていなかったと思われるが、さすがに関係者もがっかりしたのではないだろうか。
確かに都心の限られたキャンパス内で、増加する学生や高度化する教育をまかなうための施設を拡充する必要がある中では致し方ないところだ。
しかし三田キャンパスないの国の重要文化財でもある図書館旧館と三田演説館は、シンボルとしていつまでも受け継いでほしいものだ。



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数年前に新しい趣味として一眼レフを始めた。とにかくいろいろな写真を撮りたくて仕方なく、また少しでもよい写真を撮るべく様々な被写体を求めている。
写真を芸術であるのかどうか、いつ頃から芸術として認識されるようになったか等については様々な議論があるが、私は論じられるレベルではない。ここでは科学技術としての写真の起源と、その技術の進化と並行して発生した写真に芸術性を追求する動きを展開していきたい。

写真の発明者はフランス人のジョゼフ・ニセフォール・ニエプス (Joseph Nicephore Niepce、1765-1833年) である。



ニエプスはもともと石版画制作に興味を持っており、やがて手で彫るのではなく光で自動的に版を作る方法を模索した。そして石油の派生物であるユデアのアスファルトは光に当てると硬くなって水に溶けなくなるため、これを使って印刷用の原版を作ろうとした。ニエプスはこれをカメラ・オブスクラに装填して自然の映像を定着させることを思いついた。
ニエプスの最初の写真は、1822年に教皇ピウス7世の肖像を写したものと言われているが、その原版は自身で複製を作ろうとしたときに破壊してしまい、残念ながらその写真の確認ができない。しかし同時期のニエプスによる写真はいくつか記録がある。
年代的には1822年に撮影されたとされる「Table ready (用意された食卓)」という写真が最も古い。



原版が現存する世界最古の写真は、1825年にニエプスが撮った「Un cheval et son conducteur (馬引く男)」であり、この写真は2002年にオークションで44万3000ドルで落札されている。



また1826年(または27年)に自宅からの眺めを写した「View from the Window at Le Gras (ル・グラの窓からの眺め)」という写真がある。



当時は明るい日光の下で8~20時間もの露出が必要だったという。このようにあまりにも露出時間が長く、建物や静物など動かないものの光景しか写すことができなかった。(従って、なぜ馬と男の写真が最古の写真として存在するのかわからない)

その後、ニエプスはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと協力し、光で化学反応する銀化合物を使う研究を行い、1833年にニエプスが急死した後は研究はダゲールに引き継がれ、1839年にダゲレオタイプという写真技術が完成した。これは銀板上に定着されたポジティブ画像を直接得るもので、1枚限りしか作ることができず複製はできない。
最初期のダゲレオタイプは露光時間が日中で10~20分かかったが、後に明るいレンズの開発と感光材料の改良によって最短で数秒程度の露光時間ですむようになり、1940年代にダゲレオタイプによって多くの肖像写真が撮影された。

平行して、イギリスの貴族ウィリアム・フォックス・タルボットは、1840年までにカロタイプ方式を発明した。 これは紙に塩化銀を塗布して中間的な陰画(ネガ)を取り、ここから別の感光紙に密着焼付けを行い陽画(ポジ)を得る方式だた。金属板を使うダゲレオタイプとは異なり鮮明さでは劣ったが複製が作れるという利点があった。
後にカロタイプの技術はフランスなどで改良され、1850年代よりフランス政府により自然、建築・遺跡、産業、災害などの記録を残すプロジェクトが始まり国内外の多くの風景が記録された。

このように写真技術が徐々に進化する中で、はじめて写真芸術家を名乗ったのがイギリス人のジョン・エドウィン・メイオール (John Jabez Edwin Mayall、1813-1901年) である。



The J. Paul Getty Museum - John Jabez Edwin Mayall
http://www.getty.edu/art/collection/artists/2022/john-jabez-edwin-mayall-english-1813-1901/

Spartacus Educational - John Jabez Edwin Mayall (1813-1901)
ttp://spartacus-educational.com/DSmayall.htm

メイオールは、1840年に初めてダゲレオタイプに触れた。1842年にアメリカに渡り、フィラデルフィアで多くのダゲレオタイプ写真の撮影を手掛けるようになった。
1947年にロンドンに戻り、American Daguerreotype Institutionを開設し (当時アメリカのダゲレオタイプは鮮明さやサイズの大きさが評判だった)、その後サー・ジョン・ハーシェル準男爵などの肖像写真を撮影したり、また1851年のロンドン万国博覧会 (世界で最初の国際博覧会) においてダゲレオタイプ写真を展示するなど、評価を高めた。
1855年にはカードサイズの写真の大量生産をはじめ、とても人気を博した。1860年にはロイヤルファミリーのアルバムを発行して7万部を売り上げたという。

メイオールは、自身を商業的な写真家ではなく芸術家と考えており、当初から主の祈りを表現するなど、詩的、情趣的で芸術的な作品を生み出した。
まだ写真の技術が充分でなく、多くの写真家がいかにありのままを再現するかを考えていた中で、写真というツールに芸術的な可能性を模索していたことは特筆すべきだ。

既出の自身の肖像写真(1844年)や、1853年に撮影された「Portrait of Caroline Emilia Mary Herschel」などは当時の他のダゲレオタイプ肖像写真と比べると明らかに芸術性の意識が伝わってくる。



比較対象として(失礼)、1848年に撮影されたエドガー・アラン・ポーの肖像写真を掲げる。



その後1860~70年代に、イギリスのジュリア・マーガレット・キャメロン (Julia Margaret Cameron、1815-1879年) が、著名人の肖像写真や寓意的な作品を多く残した。



キャメロンは1863年の48歳の誕生日に娘からカメラをプレゼントされ初めてカメラに触れた。キャメロンはそこから写真で美を捕獲しようと努力した。「わたしは、わたしの前に来たあらゆる美を逮捕したいと切望し、ついに切望は満たされた」と述べている。
キャメロンの写真家としての経歴は、晩年の約12年間のみであったが、その作品は写真術の発展に大きな衝撃をもたらし、特に肖像写真は現在でも模倣されている。

アジェ・フォト ジュリア・マーガレット・キャメロン
http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/Cameron.html

ジュリア・マーガレット・キャメロンは、非常に才能があり、理知的で、自由奔放で、さらに経済的にも恵まれた女性でした。
夫が英国の高級官吏だったために、キャメロン夫妻にはヴィクトリア朝初期のイギリスで最もクリエイティブといわれていた多くの著名な友人がいました。そして、彼女の有名で評価の高い写真作品は、ほとんどがこの友人たちのポートレートです。
キャメロンは、鶏小屋を改造したスタジオに友人を一人ずつ連れて行って座らせ、納得のいく明るさが得られるまで熱い天窓からの光に長時間さらし続けたといいます。撮影時にキャメロンの容赦ない指示に耐え、彼らの間ではしばしば撮影時のエピソードが話題になったほどです。
一方、キャメロンはこう述べています。「私はカメラの前にいる人の肉体的な特徴を描写することはもちろん、内に秘められた偉大なものを忠実に記録することに全精力を傾けました」

また、大半の時間を彼女は「美」に関する撮影、つまりアーサー王物語、神話、テニスンの詩やラファエルの絵を題材にした写真に費やしたのです。
友人や女中、その子どもたちをモデルに使い、聖書に出てくる聖女やルネッサンス期の天使、アーサー王物語の登場人物に見立てて撮影しました。
このような作品は、写真は現実を記録するためのもので「フィクション」の分野を表現するのには適していないと思われていた過去の時代には正しく評価されないこともありました。にもかかわらず、インパクトのある構成で、雄弁で、そしてとても感動的な見事な絵です。


以下は1872年の「I wait」という作品だが、とても140年以上前の写真とは思えない表現力だ。



このように、「いかに現実を再現するか」という写真の技術面の模索の中で、当初から「いかに表現するか」という芸術的な挑戦がなされていたことがわかる。
私のような愛好者が、新しい一眼レフやレンズのスペックを比較するという技術的進化を目指す動きと、個々の撮影の技術を磨いて芸術性を高めよう (というレベルでは全くないが) とする動きは、ともに写真の進化を支える要素であると言えるだろう。



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美術出版社の『カラー版 西洋美術史』は、美術愛好者の手引きとして、また、学生の参考書として最適であり、多くの研究者・学生・美術愛好者に読まれ続ける美術書最大のベストセラーである。
美術史の本なので原始美術からスタートする。最初に紹介されるのは旧石器時代の美術で、7ページに以下のような記述がある。

旧石器時代の美術
今から約三万年前に始まる旧石器時代後期になると、実生活において直接的な機能を持つとは考えられない、つまり、美術的作品が現れるようになる。それらは、洞窟絵画、岩陰彫刻、動産美術としての丸彫彫刻や獣骨に刻まれた刻線画などである。
洞窟絵画は、南フランスから北スペインにかけてのオーリニャック期<約3万年前-約2万5千年前>の遺跡からいくつか発見されている。たとえばクニャック洞窟<フランス>に描かれた山羊は、岩面を覆う結晶化した石灰を地に赤い輪郭線によって特徴が確実に把握されており、ラス・チメネアス洞窟<北スペイン>で発見された鹿の表現には、黒の簡潔な輪郭線だけであるにもかかわらず、豊かなヴォリュームが認められる。


このように、本書で紹介されている最初の作品は「クニャック洞窟の山羊」と「ラス・チメネアス洞窟の鹿」なのだが、残念ながらこの2作品については写真の掲載がないので、特徴が確実に把握されているか、豊かなヴォリュームが認められるかどうかがわからない。
そこで、恐れ多くも、このベストセラー美術書を補完すべくいろいろ調べてみた。

まずクニャック洞窟 (Les Grottes de Cougnac) は、フランス南部のペイリニャックという地方自治体にある。



この洞窟は実際に訪問でき、例えば夏期は10:00-18:00に入場可能で、料金は大人が7.5ユーロのようだ。

Les Grottes de Cougnac
http://www.grottesdecougnac.com/

そして「クニャック洞窟の山羊」は以下のような洞窟絵画だ。なるほど、赤い輪郭線によって特徴が確実に把握されていることがわかる。そして群れかどうかはわからないが、山羊を複数描いたものであることがわかる。





これが人類最初の美術作品だ。これは是非多くの人に知ってもらいたい。
更にクニャック洞窟の動画もあるので、よりイメージが湧くのではないだろうか。



もう一方のラス・チメネアス洞窟 (Cueva de Las Chimeneas) は、スペイン北部のカンタブリア州にある。フランス南部のクニャック洞窟とあわせて考えると、3万年前のオーリニャック期の人類の活動エリアがおおよ把握できるだろう。



こちらはカンタブリアの観光紹介サイトで見所として紹介されている。

Turismo de Cantabria
http://www.turismodecantabria.com/disfrutala/que-visitar/20-cueva-de-las-chimeneas/buscador-aWRab25hPTkmaWRNdW5pY2lwaW89NDAm

そしてラス・チメネアス洞窟の鹿」は以下のような洞窟絵画だ。豊かなヴォリュームはともかく、黒の簡潔な輪郭線だけであることはわかる。鹿は複数であるし、鹿以外のものも描かれている。





これも動画で更にイメージを深めたい。



いずれも、約3万年前から約2万5千年前という果てしない昔の美術であり、この頃から人類は美術活動を営んでいたと考えると、極めて感慨深い。
ここまで見ていくと『西洋美術史』の石器時代の美術の説明が理解できるようになるのではないだろうか。但しこのペースで見ていくとなかなか進まないが。。



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