My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




「バレエはイタリアに生まれ、フランスで育ち、ロシアで成人した」と言われる。
バレエの起源はルネッサンス期のイタリアで、宮廷での余興としてバロ (Ballo) と呼ばれるダンスが生まれた。宮廷の広間で貴族たちが歩きながら床に図形を描いていくもので、それをバルコニーから眺めるのが当時の楽しみ方であった。
その後合唱曲に踊りを加えたバレット (Baletto) が生まれ、やがてバレッティ (Balletti) と呼ばれるようになった。

1533年、イタリア、フィレンツェのメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりバレッティがフランスにもたらされ、その後バレ (Ballet) と呼ばれるようになり、ここからバレエはフランスで育つことになる。その中心的人物はバルタザール・ド・ボージョワイユーだ。

バルタザール・ド・ボージョワイユー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%BC

バルタザール・ド・ボージョワイユー(Balthasar de Beaujoyeulx、またはBalthasar de Beaujoyeux、16世紀初頭 - 1587年頃)は、イタリア出身のヴァイオリニスト、作曲家、振付家、演出家である。彼は卓越したヴァイオリンの名手として知られていた。ボージョワイユーはフランス王アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシスに仕えるため、1555年にフィレンツェから派遣された楽団の一員となってパリに出た。彼は王妃の2人の子の音楽教師となり、宮廷内での趣向を凝らした催し物の制作に手腕を発揮した。1567年、王太后となったカトリーヌはボージョワイユーに宮廷の音楽監督と首席従者の地位を与え、国王シャルル9世は宮廷主催の催し物の演出者に任じている。

ボージョワイユーは1573年には『ポーランド外交使節たちのバレエ』(Ballet aux ambassadeurs polonais)を振り付けた。これは最初に「バレエ」と銘打った作品とされる。

ボージョワイユーの名を後世に残したのは、1581年10月15日に上演された『王妃のバレエ・コミック』(Balet comique de la Royne) である。時のフランス国王アンリ3世の寵臣だったジョワイユーズ公アン・ド・ジョワイユーズと、メルクール公爵ニコラの娘で王妃ルイーズの妹でもあるマルグリットの結婚を祝して開催されたこの宮廷バレエは、詩の朗唱、器楽と歌(合唱・独唱)と舞踊、演劇、そして機械仕掛けによるからくりなどからなる大がかりな催し物だった。ボージョワイユーは台本、振付、舞台の進行管理と総合演出を手掛けた。
当時はこのような催し物は前から見るものではなく高い場所から見下ろすものであった。そのため、『王妃のバレエ・コミック』は、ルーブル宮殿のブルボン大広間を会場にして、多数の踊り手たち(この作品の出演者は職業的な踊り手や俳優などではなく、廷臣たちやルイーズ王妃を含む貴婦人たちがそれぞれの役に扮していた)が大広間にマスゲームのように規則正しくさまざまな形の幾何学模様を描き出し、壇上から見下ろす1万人余の観客たちを楽しませた。
この作品の上演は夜の10時に始まり、終演は翌日の午前3時と延々5時間半にも及んだ。作品に出演しなかった廷臣たちによって挿絵入りの豪華本が制作され、翌年刊行された。この本により、内容などの詳細な記録が後世までとどめられ、評判はフランス国外にまで知れ渡った。ボージョワイユーは本の前書きで、舞踊、音楽、歌唱や詩の朗唱、そして機械仕掛けを駆使した舞台装置の効果などを総合した「諸芸術の融合」の理念を打ち出した。そして彼は、この作品が上げた成果に満足したことも書き残している。






LE BALET COMIQUE DE LA REINE : AN ANALYSIS
https://web.archive.org/web/20110629170628/http://depts.washington.edu/uwdance/dance344reading/bcconten.htm

Bibliotheque nationale de France / Balet comique de la Royne
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b86083002/f9.image.r=.langEN


『王妃のバレエ・コミック』が成功を収めた後、1589年にフランス王朝はブルボン朝になったが、その時代にフランスの宮廷バレエは隆盛を極め、16世紀の末から17世紀の初めに至る20年の間に、約800作にも上るバレエ作品がフランスの宮廷で上演された。
やがて、自身もバレエを愛し踊り手としても舞台に立っていたルイ14世 (1638年-1715年) による王立舞踊アカデミーの設立に繋がっていった。

ルイ14世 逸話 バレエと太陽王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96_%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%29#.E9.80.B8.E8.A9.B1

ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も1651年に15歳で舞台デビューし、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている。その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。

そして、ルイ14世が太陽王を演じたのは1653年の『夜のバレエ』だ。

日本人のバレエ論
http://homepage3.nifty.com/aippesan/ballet/sotsuron.htm

『夜のバレエ』(1653年) は、夜のさまざまな情景を描き出し曙で終幕となる作品で、宮廷バレエの頂点ともいうべきものであった。(佐々木涼子 2001 『バレエの宇宙』)
ルイ14世が「太陽王」という名で呼ばれることがあるのは、この『夜のバレエ』のフィナーレで太陽=アポロを演じたためだと言われている。当時は、ギリシア,ローマの神話や伝説に基づいたオペラやバレエしか上演されなかったのだが、ルイ14世は両足で踏みきって跳び空中ですばやく足を打ち合わせて着地するアントルシャとよばれるテクニックが得意であったので、特にアポロを演じるのが好きだったようである。また、「太陽」はその時代の国王を理想化したイメージであり、戦乱の絶え間なかったその当時、宇宙の世界は人々の究極の理想であった。その宇宙観を芸術として表現したのがバレエだったのである。政治的に偉大であったからではなく、バレエで太陽の役を踊るのが好きだったから太陽王と呼ばれたというのは、当時のバレエの地位の高さをよく示している( 三浦雅士 2000 『バレエ入門』、佐々木涼子 2001 『バレエの宇宙』)



『夜のバレエ』はジェラール・コルビオ監督によるベルギー・フランス・ドイツ合作映画『王は踊る』(Le Roi danse)の中で復元されているので見てみよう。



17世紀の宮廷バレエの雰囲気を垣間見ることができる。

その後1670年にルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーのダンスに変化していった。宮廷バレエでは男性ダンサーが中心だったが、女性ダンサーが人気を博するようになった。

このように、バレエは生まれた国のイタリアではなく、フランスで宮廷バレエとして育っていった。洗練されたバレエに親しんでいる現在の我々からからすれば、初期のバレエは鑑賞に堪えられないレベルのものだとは思うが、あらゆるものの歴史は線で繋がっているものであり、当時のバレエがあったからこそ、その後の技術の向上があったことを肝に銘じておきたい。
その意味で、バレエの専門家や歴史学者の皆様に、是非『王妃のバレエ・コミック』の復元を期待したい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本の漫画の質はとても高く、人気作品は海外でも出版されている。尾田栄一郎の「ONE PIECE」の翻訳刊行版は世界30カ国以上での出版がなされ、40カ国以上でアニメが放送されているという。2013年6月時点で2億9000万部が発行されていて、「ドラゴンボール」以下を押さえて日本で最も売れた漫画である。今後も発行部数を伸ばしていくことだろう。

しかし、漫画のベストセラー世界一は「クラシックス・イラストレイテッド (Classics Illustrated)」で、発行部数は10億部(冊)にもなる。
同作品はアルバート・ルイス・カンター (Albert Lewis Kanter、1897-1973) によって創作された世界の古典作品を漫画化したシリーズで、古典を楽しく手軽に楽しむことを目的に1941年にアメリカで発行され、その後1971年まで続き、20言語30ヵ国で10億部を売り上げた。

全部で169作品のシリーズだ。#1からいくつか見ていくと、
#1 三銃士、#2 アイヴァンホー、#3 モンテ・クリスト伯、#4 モヒカン族の最後、#5 白鯨、#6 二都物語、#7 ロビン・フッド、#8 千夜一夜物語、#9 レ・ミゼラブル、#10 ロビンソン・クルーソー #11 ドン・キホーテ...と並ぶ。

Complete list of Classics Illustrated and Classics Illustrated Junior
http://www.tkinter.smig.net/ClassicsIllustrated/list.htm

さて、このシリーズは最初から「クラシックス・イラストレイテッド」だったわけではなく、1941年10月に発行された当初は「クラシック・コミックス (Classic Comics)」だった。
より具体的には、#1~#5は "Classic Comics Presents" というバナーのもとでタイトルが表記されたが、#6、#7は "Classic Comics Library" となり、#8~#34は "Classic Comics" となった。その後1947年3月に発行された#35 ポンペイ最後の日から "Classics Illustrated" というシリーズタイトルとなった。

漫画のタッチに関しては、日本人の目から見るといかにもアメリカの劇画という感じで、どの作品も似て見えてしまうのだが、様々なアーティストによって描かれている。その一方で発行者はほぼ全シリーズを通じてアルバート・ルイス・カンターだ。この人物の経歴を見てみよう。



History od Classics
http://www.jacklakeproductions.com/File22.html

Born in Baranovitch, Russia on April 11, 1897, Albert Kanter immigrated with his family to the United States in 1904. They settled in Nashua, New Hampshire. A constant reader, Kanter continued to educate himself after leaving high school at the age of sixteen. He worked as a traveling salesman for several years. In 1917, he married Rose Ehrenrich, and the couple lived in Savannah, Georgia, where they had three children.
They spent several years in Miami, Florida, but when the Great Depression ended his real estate venture there, Kanter moved his family to New York. He was employed by the Colonial Press and later by Elliott Publishing Company. During this period, Kanter also designed a popular appointment diary for doctors and dentists and created a toy telegraph set and a crystal radio set.

During the late 1930s and early 1940s, millions of youngsters thrilled to the exploits of the new comic-book superheroes. In 1940, Elliott Publishing Company began issuing repackaged pairs of remaindered comics, which sparked a concept in Kanter's mind about a different kind of comic book. Kanter believed that he could use the same medium to introduce young readers to the world of great literature.

With the backing of two business partners, Kanter launched CLASSIC COMICS in October 1941 with issue No. 1, a comics-style adaptation of The Three Musketeers. From the beginning, the series stood apart from other comic-book lines. Each issue was devoted to a different literary work, such as Ivanhoe, Moby Dick, and A Tale of Two Cities, and featured a biography of the author and educational fillers. No outside advertising appeared on the covers or pages. And, instead of disappearing after a month on the newsstand, titles were reprinted on a regular basis and listed by number in each issue.

When the new publication outgrew the space it shared with Elliott in 1942, Kanter moved the operation and, under the Gilberton Company corporate name, CLASSIC COMICS entered a period of growing readership and increasing recognition as an educational tool. Kanter worked tirelessly to promote his product and protect its image. In 1947, a "newer, truer" name was given to the monthly series -- CLASSICS ILLUSTRATED.

Kanter continued adding new educational series to the Gilberton Company's lineup. In 1967, he sold the enterprise to Patrick Frawley, who continued publishing CLASSICS ILLUSTRATED and CLASSICS ILLUSTRATED JUNIOR until 1971. After recovering from a stroke in 1970, Kanter and his wife traveled extensively, visiting their grandchildren, other family members, and business associates with whom he shared his interests in real estate and his passions for reading, humor, baseball, deep-sea fishing, the theatre, and Jewish charities. On March 17, 1973, Albert L. Kanter died, leaving behind a rich legacy for the millions of readers whose imaginations were awakened by CLASSICS ILLUSTRATED and CLASSICS ILLUSTRATED JUNIOR.


この経歴でわかるように、アルバート・ルイス・カンターは雇われたElliott Publishing Companyでクラシックス・イラストレイテッドをつくり、その後自らGilberton Companyを立ち上げ、最後は権利をPatrick Frawley (Frawley Corporation) に売却して事実上引退した。Frawley Corporationのもとではクラシックス・イラストレイテッドの新刊は2冊しか発行されず、同社は海外での発行や再発行に注力した。

さて、クラシックス・イラストレイテッドには日本語版も存在する。1997年に科学雑誌のニュートンプレス社が発行したものだ。
せっかくなので、Amazonマーケットプレイスでこの中の「#5 ハムレット」を購入してみた。





裏表紙に「Classics Illustrated (R) is a registered trademark of Frawley Corporation.」と記載されており、このシリーズの版権がFrawley Corporationにあることがわかる。
日本語に翻訳された本編 (漫画部分) と解説 (作者、時代背景など)、対訳 (セリフの原文と日本語訳) という構成になっており、漫画といえどもかなり読み応えがある。なるほどこれなら教育用としてベストセラーになることは充分納得できる。
残念ながら日本語版はあまり普及しなかったようで、日本でのクラシックス・イラストレイテッドの知名度は今ひとつのようだ。漫画という親しみやすい媒体で、楽しく手軽に古典に親しむことができたアメリカ人が羨ましく思う。クラシックス・イラストレイテッドがこれだけ数多く発行されたということはそれだけ読者の古典知識を培ったということであり、国家や人類にとって大いなる財産となるだろう。アルバート・ルイス・カンターの功績は偉大だ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





江戸時代は食文化が発展した時代だ。江戸は豊富な海産物に恵まれ、市中には手軽に食べられる屋台や高級料理店までさまざまな店が軒を連ねた。江戸前寿司など「江戸前」という言葉は現在でも使われているが、これは文字どおり江戸の前面に広がる海や川を指しており、そこで捕れる鯛・鯵・鰻などの新鮮さを表す代名詞となった。
屋台では鰻の蒲焼が人気だったようで、鰻が高騰している現在からすると羨ましい感がある(しかも天然もの)。屋台では他にも寿司、天麩羅、二八蕎麦、汁粉、いか焼き、団子などファストフードが発達した。
その一方で食文化が爛熟するにつれて高級な料亭も誕生した。

川原文月の学校では教えてもらえない歴史おもしろ雑学 大江戸編 食べ物
http://bungetsu.obunko.com/newpage114.html

江戸で「料理茶屋」、つまりは「料亭」と呼ぶにふさわしい茶屋が出現したのは明和年間(1764~)で、深川洲崎の「枡屋望汰欄」(ますやぼうだらん)という料理茶屋であった。それまでは宴会場といえば、吉原に限られていた。続いて、安永年間(1772~)から天明年間(1781~)にかけて隆盛を極めたのが、浮世小路の「百川」(ももかわ)、佐柄木町(さえきちょう)の「山藤」(さんとう)、向島の「葛西太郎」(かさいたろう)、中州(なかす)の「四季庵」(しきあん)などが通人の間の評判となった。しかし、老中田沼意次の失脚とともに贅沢禁止令が出たため衰退をした。それでも、「食」に対する人間の欲はいかんともしがたく、文化年間(1804~)から文政年間(1818~)にかけて、再び流行となった。この時江戸を二分したのが日本堤山谷(さんや)の「八百善」(やおぜん)と深川八幡前の「平清」(ひらせい)。

この八百善と平清だが、平清は明治時代に廃業して現存しない。可能な範囲で調べてみよう。

江戸食文化紀行 "平清"と潮汁
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no5.html

深川土橋にあった“平清(ひらせい)”は、江戸の料理屋番付では行司の位置にある高名な料理屋でした。文化年間(1808~1818)に営業を始め、明治32年(1899)に廃業したという店で、料理の評判も高かったようです。寺門靜軒は『江戸繁昌記』(1832)の中で平清について、店構えや食器もよく、料理は上等と大層ほめています。
屋号の“平清”は、主人の平野屋清兵衛の名によるものですが、平家の平清盛に見立てて、江戸川柳に「平清の奢(おご)りのすえもうしほなり」というのがあります。これは平家の一門が壇の浦でほろんだことと、平清の会席料理の最後に鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句です。


実際の場所は現在の江東区富岡二丁目になり、当時からあった富岡八幡宮の近くだ。以下の深川八幡宮周辺図に平清の記載がある。

落語の舞台を歩く 深川八幡宮周辺図
http://ginjo.fc2web.com/230narita_kozou/fukahawa_map.htm

一方の八百善は、現在でも営業をしている。

八百善
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%96%84

八百善(やおぜん)は、江戸時代に会席料理を確立し、江戸で最も成功した料亭のひとつである。享保年間に浅草山谷で創業して以来、栄枯盛衰を繰り返す。
八百善が文政五年(1822年)に刊行した『江戸流行料理通』は当時の料理テキストとも言うべきものだが、蜀山人・鵬斎(亀田鵬斎)が序文を寄せ、谷文晁、葛飾北斎らが挿画を描いて評判になり、江戸土産としても人気を博した。
徳川将軍家代々の御成りも仰ぎ、ペリー来航の際の饗応料理も担うなど、その名を江戸中にとどろかせた。ま高級料亭の先駆け的存在として、江戸の食文化の形成に重要な役割を果たした。
2004年3月まで江戸東京博物館のレストランとして江戸料理を現代に伝えていたが、現在は料理屋・レストランとしての店舗は存在せず、『割烹家八百善株式会社』が、三越、小田急などの大手百貨店、また各通販業界において、八百善ブランドの江戸料理の高級惣菜、おせち料理等を提供している。


創業享保二年 江戸料理「八百善」 将軍家と八百善
http://www.yaozen.net/history/history_03.html

八百善は、将軍家にも愛されていました。文政十年(1827年)、十一代将軍家斉は鷹狩りに向かう途中、四代目善四郎の別荘に立ち寄りました。 また、篤姫として知られる天正院も、勝海舟を伴って しばしば八百善を訪れました。八百善には、将軍のお成りの際に遣わされた書類が、今も数多く残っています。このように、将軍家の方々が一般の料理屋を訪れるのは、非常にまれなことでした。
幕末には、幕府に開国を求めたペリーの接待もおおせつかっています。ペリー饗応の献立に関する資料の多くは、関東大震災によって消失してしまいましたが、八代目善四郎が六代目善四郎から聞いたところによると、おびただしい料理と皿が並び、その費用は千両にものぼったそうです。
その後、明治時代に入ってからも、政府や宮中からの依頼を受け、外国の要人の接待を承った記録が残っています。このように、八百善の歴史は、日本の激動の歴史とともに重ねられてきたのです。


山谷の八百善の場所は、台東区東浅草1丁目になるようだ。以下の山谷地区地図に記載がある。

東京紅團  「重箱」と「八百善」を歩く
http://www.tokyo-kurenaidan.com/jyubako-yaozen1.htm

この店舗の外観は、料亭の土産であった「起こし絵」(ペーパークラフト)で再現できるようだ。



このように江戸時代から明治時代にかけて江戸の高級料亭の代表格として君臨した君臨した八百善だが、1923年に関東大震災で全焼し、その後築地に移転するも戦争の空襲で全焼するなど、不運が続いた。その後永田町、青山、銀座、江戸東京博物館、新宿高島屋などで店舗を設けるが、いずれも閉店してしまっている。
現在は料理屋・レストランとしての店舗は存在せず、「通信販売・小売事業者様向け商品企画開発・卸売販売」「八百善江戸料理 料理教室」「江戸料理についての講演」を事業としている。

現在食することができる八百善の料理の一例はおせちで、江戸おせち(年越し鴨南そば付き)四段重(全16品):31,500円 などがある。

取り寄せおせちの殿堂!
http://anj-wwf.com/tosikosi.html



300年の歴史を感じながら年越しと正月を迎えるのもいいかもしれない。今年の年末に(覚えていたら)検討してみよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





工業デザインは、産業・工業において美しさやユーザビリティの追求をし、その結果として製品の商品性を高めることが目的であり、美それ自体が目的である美術品等とは異なるが、文化・芸術として捉えることができるだろう。
もともとは設計と意匠形状の設計は技術者が共に手掛けていたが、1920年代末から1930年代にデザインの優劣が製品の売り上げさえ左右することが次第に認識されるようになったそうだ。
商品の価値は機能だけでなく工業デザインによって高められる。そして工業デザインはその時代を映す鏡でもある。その意味で工業デザインに関するAwardの歴代受賞作品はとても興味深い。

日本では日本デザイン振興会が主催するグッドデザイン賞が、日本で唯一の総合的デザイン評価・推奨の仕組みとなっている。この賞の授賞点数は毎年1000点にのぼるが、大賞(1980年~)は投票によて選ばれる。但しこの賞は工業製品だけでなくビジネスモデルやイベント活動など幅広い領域を対象としている。そのため、2004年にNHKのテレビ番組「ドレミノテレビ」「にほんごであそぼ」や、2002年の札幌市・モエレ沼公園など工業デザイン以外の受賞も含まれる。

この賞の前身は1957年に通商産業省(現・経済産業省)が創設したグッドデザイン商品選定制度(通称Gマーク制度)である。当時、日本企業による外国商品のデザイン盗用が外交問題となっていたため、デザインの創造を奨励することで、盗用の防止を図ったのである。当初は審査員が自らデザインの優れた商品を探し集めていたが、1963年には公募形式になり、また当初は一部の工業製品のみが対象だったが、1984年には全ての工業製品が対象になり、その後建築や公共分野など幅広い領域を取り扱うようになっていった。
1998年に民営化され、それまでこの制度の業務を委託されていた財団法人日本産業デザイン振興会(現・公益財団法人日本デザイン振興会)が主催者となった。同時に事業名が「グッドデザイン賞」に変更された。

グッドデザイン賞のウェブサイトでは、1996年にGマーク制度40年を記念して開催した「時代を創ったグッド・デザイン展」の総合カタログをダイジェストで収録されており、ここで1957年~1996年の受賞作品を参照することができる。

Good Design Award Super Collection
http://archive.g-mark.org/40th/index.html

例えば、2010年の大賞はダイソンのエアマルチプライアーだが、これを1958年の富士電機(株) 扇風機 デルタ型Fan FDS-2557 と比べると、この50年での機能、そして工業デザインの進化を痛感する。





眺めていくと、歴代の受賞作品の中でカメラが多いようだ。技術革新のレベルが特に高い製品と言うことができるだろう。
1957年の第1回グッドデザイン商品選定制度の受賞作品はキヤノン L-1 だ。「外観デザインが当時としては近代的で、簡素な単一面処理でレイアウトされている。各部機構も全体的形状に溶けあわさせるデザインとし、生産上の観点からも、量産体制にあった合理的なデザインを得ることに努めている」という評価だ。まさに秀逸な工業デザインといえるだろう。



またキャノンは同じく第1回で8ミリシネカメラ シネ8-T も受賞している。これはキヤノン初の8mmシネカメラで、「無駄のない単純で美しいフォルムと、合理的な操作性に主眼が置かれている。多機能化に伴う外観の複雑化の傾向を極力避け、シンプルにまとめあげると共に、操作機能の面においては人間工学的な検討が十分になされている。ボディデザインもホールディング性を高めた。」のだそうだ。



さて第1回のグッドデザイン賞受賞は3作品あり、最後のひとつは農薬散粉機 共立ミゼットダスター だ。他の2作品とはかなり異質で、農機具が受賞したという。そしてこの商品は55年経った現在でも市販されている。

快適クラブ.net DIY 自分で出来る害虫駆除 手動散粉器 ミゼットダスター
http://www.kaiteki-club.net/mizet.html



特長
ハンドルを回すことにより中のファンが風をおこし薬剤を攪拌させながら散布します。半径が2~3mほどの場所に均一に散布できます。小スペースでの作業に適しています。
使用方法
1. 左手で取手をしっかり握り、粉剤の吐出具合を見ながら、右手でハンドルを回して散布します。ハンドルの回転スピードは1分間に100~120回転が適当です。また、薬剤の吐出量は薬剤タンク下部の調量シャッタを調節して行ってください。(全開で毎分約100g吐出します)
2. 薬剤を補給する前に、必ず調量シャッタを閉じてください。
3. 作業終了後には薬剤タンク内に残留している薬剤を排出するか、取り出して薬剤タンク、シャッタ、コイルを清掃してください。
4. ファン軸受部分に異音が生じたら、潤滑油不足が原因です。ファン側のグリースカップを外して、グリースを補給してください。


現在は8,400円だが、受賞当時は1,200円だった。(そう考えるとキヤノン L-1の87,000円というのは恐ろしい)
グッドデザインの受賞理由としては、「このダスターは、使用機能に対する配慮が充分考慮されていると同時に、形態的にも直線と曲線の構成が全体のバランスの中でまとまりを見せており、なおかつ赤いハンドルが全体の調和を引き締めている。用途は家庭での消毒用にも適し、また農業用の防除機としても広く使用できる」というもので、ポイントとなった赤いハンドルは今でも健在である。

共立農機株式会社は1947年創業の農林業機械メーカーで、1971年に社名が株式会社やまびこに変更されているが、会社の沿革を見ていると、このミゼットダスターは1949年発売であることがわかる。(同沿革では「1957年 ミラノ市国際グッドデザイン展で入賞」とあり、通商産業省のグッドデザイン商品選定制度でない点が気になるが。。)

株式会社やまびこ 沿革
http://www.yamabiko-corp.co.jp/?page_id=19

創業作品の共立手動散粉機(1948年)は以下のようなものだったことを考えると1年で革新的なデザインの進化を遂げたことになる。



株式会社やまびこは1960年に株式公開、1961年東証二部上場、1968年東証一部上場と飛躍的な業務成長を遂げたのだから、ミゼットダスターのグッドデザイン賞受賞の功績は大きいだろう。時代を超えて優れたユニバーサルな商品として今後も残っていってもらいたい。

工業デザインはその時代を映しており、そしてその進化は年月の積み重ねによってなされるものである。我々は商品に対して機能だけでなく美しさや使いやすさを求める。工業デザインの更なる進化を期待する。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





私は自分で絵を描くわけではないし、美術展に足を運ぶのは年1回程度と美術には疎い。従って、美術展の絵が全て贋作だったとしても、そのことに気づかずに鑑賞してしまうだろう。実際に本物(真作)と贋作の判別は難しく、美術館や収集家が贋作を見抜けずに購入してしまうケースも多い。

また、歴史上著名な贋作家も多い。
ハンガリー出身のエルミア・デ・ホーリー(Elmyr de Hory, 1906年 - 1976年)はルノワール、モディリアーニ、ドラン、デュフィ、マティス、ヴラマンクなどの贋作を1000点近く描き続け、それらを世界中の美術館やコレクターに売却した。青年期にはナチスの強制収容所に送られたことがあり、数奇な人生を送った。
オランダのハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren、1889年 - 1947年)はフェルメールの贋作を制作したことで有名で、フェルメールの真作よりも巧みだったため贋作とわかってしまったと言われている。またナチス・ドイツの高官たちを騙して贋作を売ったということで英雄と評されている。
日本の瀧川太郎(1903年 - 1971年)は200点を超える西洋絵画の贋作を制作した。「俺の贋作には命がこもっている。原作以上の迫真力がある。」という言葉を残している。

著名な贋作家たちは、それぞれ特有の経歴や事情があり、残念ながらオリジナルの作品は売れなかったが、画家としての腕は疑いようがなく、歴史上の巨匠とも引けをとらない、という考えることができそうだ。
それでは多くの人に認められた美術の巨匠で、かつ贋作家でもある人物はいないかと調べてみたところ、2011年の世界の絵画競売市場でピカソを抜いて画家別の取引額でトップとなった台湾の近代書画家である張大千が贋作家としても著名であることを知った。

張大千
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%A4%A7%E5%8D%83

張大千(Chang Dai-chien, 1899年5月10日 - 1983年4月2日)は台湾、近代の書画家である。書、篆刻、詩の分野でも活躍した。彼はまた多くの専門家に贋作者の1人として知られている。

四川省に生まれ、若い頃より伝統的な中国画の技法の修行を積む。1917年に日本の京都へ留学し、京都芸術専門学校で3年間染色を学んだ。1920~30年代には上海等での個展で認められ、南張(南に張あり)とたたえられた。1933年には中央大学芸術専攻教授を務め1936年に上海中華書局が「張大千画集」を出版、徐悲鴻が序を書き500年に1人の画家と称賛される。

1940年から約2年7ヶ月に渡り敦煌の莫高窟に住み込み、壁画の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。1942年にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まる事になった。

国共内戦が始まった後の1948年に香港に移り、以降はブラジル、アメリカなど国外に20年以上滞在する。1951年にアルゼンチンに移り、1953年にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。ピカソに面会しに行ったこともあり、写真が残っている。1957年、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。
1978年に台湾に移住。晩年は台北に住み、水墨画に専念。1982年、中華文化の特別芸術家として中正勲章受賞。1983年4月2日同地で心臓病により没。享年84。
代表作に「廬山図巻(台北国立故宮博物院所蔵)」「撥墨荷花図」「中郎授女図」「渓橋行船図」などがある。

いくつかの作品を動画で見ておこう。



また、没後に遺族が住居を台湾の国立故宮博物館に寄贈し、現在張大千紀念館となっている。
http://www.npm.gov.tw/exh96/dai-chien/jp01.html

張大千の贋作の対象は、石濤(せきとう、清代)や八大山人(はちだいさんじん、明代末期から清代初期)、巨然(きょねん、宋代)、関仝 (かんどう、五代後梁) と幅広い。大英博物館や、ボストン博物館にも張大千の贋作が確実といわれる作品があるそうで、その入手の経緯はわからないが、作品として確かなものということだろう。ボストン博物館にある関仝の贋作は以下のようなものだ。



張大千は1957年(58歳)以降は贋作制作は行っておらず、それは目を悪くしたという理由によるものだ。なるほど贋作は目を悪くしては制作できないな、と納得してしまった。

巨匠にして贋作者:張大千
http://reijiyamashina.sakura.ne.jp/daquin.htm

現在張大千の作品は非常に高値で取引をされており、そうなると張大千が制作した贋作は、オリジナルとはまた異なる高い評価を受けることがあるだろう。また張大千のオリジナル作品に対する贋作も当然制作されるわけで、その中にはオリジナルを凌ぐような贋作が現れるかもしれない。美術の世界では常に贋作の存在を意識しなければならないようだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本が世界に誇る文化として食を挙げることができる。味だけでなく見た目の美しさも兼ね備える日本料理は芸術と言えるが、一般的には外国人には日本食と言えばSushi、Sashimi、Tempura程度の認識しかなく、同じレストランで提供されるケースもあるので中華料理の一部と誤解している人も多いようだ。まぁ我々も全ての外国料理毎の細かい違いがわかるわけではないので、同じようなものだ。
とはいえ我々が日常的に口にしている食事は日本料理の中のほんの一部であり、伝統的な日本料理については知らないことが多い。例えば、伝統的な日本料理のひとつとして頭に浮かぶのは懐石料理だが、これは茶道から発した料理で、本来は茶を楽しむためのものであったのが、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理を指すといった実利的な意味に変化したものだそうだ。

めでたい席やもてなしの場でご馳走がふるまわれることは今も昔も同じであり、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたそうだ。
そして平安時代中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列が確立し、その接待の形式として「大饗」(大規模な饗宴) が定められた。ここで提供されたのが大饗(だいきょう/おおあえ)料理である。

有職料理 大饗料理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%96%99%E7%90%86

唐文化の影響を受け、「台盤」と呼ばれるテーブルに全料理を載せたり、「唐菓子」など渡来の料理も添えられるなどの献立の多さもさることながら、食べる側にも食べ物の種類ごとに細かい作法が要求されたことが『内外抄』や『古事談』の記述から分かり、現代人から見ると大変堅苦しい物だったようである。出汁を取る、下味をつけるなどの調理技術が未発達で、各自が塩や酢などで自ら味付けをしていた。珍しいものを食べる事によって貴族の権威を見せつけ、野菜を「下品な食べ物」とみなして摂取しなかった事や、仏教の影響で味の美味いまずいを口にする事をタブー視していたことから、栄養面から見るとかなり悪い食事であった。

平安末期の『兵範記』に書かれた藤原基実の保元元年(1156年)「大臣大饗」は、永久4年(1116年)の藤原忠通のそれを参考とし、事前の準備は宴会予定日の9日前から始められ、赤漆塗の膳を特別にあつらえ、その膳の上には白絹を現在のテーブルクロスの如く敷き、これまた特別にあつらえた折敷や漆塗の食器に料理を盛りつけたとある。
この時の献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていた。献立内容は「飯」、調味料、生もの、干物、唐菓子(今のドーナツに近い)、木菓子(=果物類)。生ものには獣肉類は無く、魚介類、鳥類(雉など)で占められ、干物もアワビやタコ、蛙などで獣肉類は無い。調味料が別皿になっているところから見て、料理自体には味はなく、食べるときに好みで調味料をつけながら食べた物と考えられる。この調味料も身分によって差があり、尊者や公卿はひしおなど4種あったが、主人には塩と酢のみであった。また、食器として箸の他に鎌倉時代以降は衰退する匙(スプーン)が存在し、各料理を盛りつけた容器の大きさがほぼ同じで料理の序列が判然としていない点も後の時代の料理とは異なる特徴といえる。


料理は文字で記してもなかなかイメージが浮かばないが、京料理展示大会で再現されたという大饗料理の写真が見つかった。上記の記事にもあるとおり全体的に唐の影響が強く出ていることがうかがえる。



さぞかし大きな宴だったのだろうが、料理自体には味がなかったり、野菜が含まれていなかったりと正直あまり魅力を感じない。食の技術という点でこの時代はまだ充分でなかったようだ。

さて、平安から鎌倉・室町と時代が変わり、武士の世の中になると、武士と公家の各々で饗応の料理が発達した。武士は本膳料理、公家が有職(ゆうそく)料理である。

本膳料理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式。 しかし明治時代以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理にその面影が残されている程度である(婚礼の際の三々九度など)。更に、肝心の料理店自体が用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。

式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、硯蓋からなり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もある。ただし、特徴的なのはこうした膳の多くが「見る」料理であり、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。この本膳料理は少なからず儀礼的な物であり、この後に能や狂言などの演技が行われつつ、後段と呼ばれるうどんや素麺といった軽食類や酒肴が出されて、ここで本来の意味での酒宴になった。なかには三日近く行われた宴もあったようだ。


ということで、現在では衰退してしまった本膳料理だが、その一部を安土桃山時代に創業し400年の歴史を持つ平八茶屋が再現している。

平八茶屋
http://www.heihachi.co.jp/



本膳料理は当家の創業いたしました安土桃山時代に完成いたしました本格的儀式料理でございます。当時は最高のもてなしの膳として、丸1日かけて食されたものでございます。当家の本膳料理は今の時代にあうように、中心となる部分だけ、平成 8年 8月 8日、当家20代目当主によって再現されました。一の膳、二の膳と続く料理は、全部で23品にも及びます。時間にして、3時間ほどのお食事となりますが、蝋燭(ろうそく)のあかりのもと、古(いにしえ)の人々が感じた時の流れをしばしの間お楽しみくださいませ。

そして、大饗料理の流れをくむのは有職料理である。そして有職料理を正式に継承しているのが、京都・西陣にある萬亀樓である。

萬亀樓
http://www.mankamerou.com/index.html



当店は、京都西陣の一角にあります。創業は享保7年(1722年)で、初めは造り酒屋(萬屋)を営み、後に料理屋となり屋号を「萬亀樓」と改め285年になり、当代で9代目になります。 又、御所ゆかりの生間流式庖丁(当代29代目生間正保)・有職料理を正式に継承しております。

ここで出てくる式庖丁とは、料理とともにめでたい席で披露される食の儀式で、様々な流派が作法を継承しているが生間流は唯一京都に残る御所ゆかりの流派ある。(生間家は代々宮廷の調理を担当してきた)
生間流式庖丁は、烏帽子、袴、狩衣姿でまな板の上の魚や鳥に直接手を触れずに包丁刀と真菜箸を使って料理し、瑞祥というめでたい形に盛り付けるものである。



こうしてみるとやはり伝統的な料理は儀式的な要素が強いことを感じる。基本的に料理は栄養バランスがよくて美味しければいいと思うのだが、それだけでは文化の域には達しないようだ。

萬亀樓はぐるなびや食べログにも掲載されているなど現代ではだいぶ敷居が下がっているようだが、少し襟を正して平安時代の貴族や江戸時代の公家の気分で有職料理を食してみるのもいいだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ストラディバリウスと言えば誰もが知っているヴァイオリンの名器である。正確にはイタリアの弦楽器製作者であるアントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari、1644年 - 1737年12月18日)が製作した弦楽器のことをストラディバリウスと呼ぶ。これはストラディバリが製作した弦楽器には、当時の慣例に基づきラテン語にてAntonius Stradivarius Cremonenfisというラベルが貼られていることによる。

ストラディバリが製作したヴァイオリンは、約1,200挺あるといわれ、約600挺の存在が確認されているという。
日本人演奏家も所有しており、例えば辻久子は1973年に自宅を3500万円で売却し、3000万のストラディバリウスを購入して話題となった。他にも千住真理子や高嶋ちさ子が自己所有している。
特に千住真理子の所有する1716年製の"デュランティ"という愛称のストラディバリウスは約300年間誰にも弾かれずに眠っていた幻の名器だそうだ。



千住真理子オフィシャルサイト デュランティとの出会い
http://www.marikosenju.com/ja/profile/

ストラディヴァリウスと呼ばれる楽器は、ヴァイオリンに限っても数百本が確認されている。しかし、その中でも傑作と言われる楽器は十本程度に過ぎないといわれている。こんなストラディヴァリウスの中でも最高傑作のひとつ「デュランティ」を、千住真理子が実に運命的な出会いによって入手することになった。このデュランティの最初の所有者はローマ法王”クレメント14世”であった。法皇没後、フランスの貴族の手に渡り、1921年スイスの富豪の元へ。そして2002年スイスの富豪が手放すことになった。その際に「博物館などではなく実際に演奏してくれる人へ」という条件がつけられた。さっそくデュランティにふさわしいヴァイオリニストがリストアップされ、その中に千住真理子の名前が上がったのである。 運命的な出会いについて、千住真理子は言う。「デュランティとの出会いで、私はまたゼロからの出発点にたった。今まで演奏してきた全ての音楽は無いのに等しい。これからが私の本当の音楽人生なのかもしれない。」と。

最初の所有者はローマ法王”クレメント14世”であり、法皇の没後200年間フランスのデュランティ家の家宝として納められ、その後80年間スイスの公爵のもとにあった、と。しかし私はこの楽器の由来に惚れたのではなく、音に惚れたので、由来をきいたとき「例えば男性を好きになって付き合いはじめたあとから、あの人は実は王子様なのよ、と聞かされた感じ」です。 私の手元に来るまで、ほとんど弾かれたことの無い楽器だったので、自分の弾いた音がそのまま伝わります。いままで使っていた楽器とは、音の出し方、音楽の作り方、すべてを変える必要がありました。今までのような小細工は利かずむしろ邪魔です。何もかも、ゼロに戻って1からやり直すことになりました。人生観もかわりました。私のところにきてくれた楽器にたいして、誠意を持って接するために、全身全霊をかけたい。私の今から先の人生すべてを、音楽にかけてもまだ足りないくらいだと思います。必死になって私のすべてをヴァイオリンに捧げているところです。


ちなみにストラディバリウスを含めたヴァイオリンのオークションなど全く無縁のものと思っていたのだが、ネットどころかiPhoneのアプリからも応札できるようだ。(無料なのでひとまずアプリだけダウンロードしてみた)
http://itunes.apple.com/us/app/tarisio/id368742641

さて、ストラディバリウスはストラディバリが製作した弦楽器のことで、それはヴァイオリンだけではない。ヴィオラやチェロでも代表的な名器として知られている。
更にストラディバリはギター、マンドリン、そしてハープも製作している。これらの消息を追ってみよう。

ギターは2挺が完全な形で現存するという。(他にも部分的な断片がある) 愛称"Hill" (1688年製)がOxford大学に、"Rawlins" (1700年)がSouth Dakota大学のNational Music Museumにある。



National Music Museum The Rawlins Stradivari Guitar, 1700
http://orgs.usd.edu/nmm/PluckedStrings/Guitars/Stradivari/StradGuitar.html

マンドリンも2挺が現存している。1挺はロンドンの収集家の個人所有だが、愛称"Cutler-Challen Choral Mandolino" (1680年) もギターと同じSouth Dakota大学のNational Music Museumにあるという。



National Music Museum The Cutler-Challen Choral Mandolino by Stradivari, 1680
http://orgs.usd.edu/nmm/PluckedStrings/Mandolins/StradMandolin/StradMandolin.html

そして、ハープは1台しか現存していない。イタリア・ナポリのSan Pietro a Maiella Music Conservatoryにあるという。その写真が見つかった。



http://atlantisonline.smfforfree2.com/index.php/topic,10686.msg89786.html#msg89786

ストラディバリの紹介の中で「生涯で少なくとも1台のハープを制作した」とされているので、もしかするとこれがこの世に1台しかないストラディバリウスのハープかもしれない。

そう考えるとギターやハープの方が希少価値としてはあるのだが、例えばギターは楽器としての歴史が浅く17世紀にはまだ確立されていなかった、などの理由により注目度が劣るようだ。
一方でヴァイオリンは、楽器としての寿命が長く現在でも名器として現役であり、また現在の多くのヴァイオリンはストラディバリウスの寸法などをコピーしたもの(ストラド・モデル)であるなど、やはりストラディバリウスの価値は計り知れない。
もっとも私は一流ではないので、音色だけではストラディバリウスか小学生の練習用のヴァイオリンか聴き分けわらないのは言うまでもない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「人類最初の映画は?」とか「世界で最古の映画は?」という質問を受けたら、『工場の出口』(La Sortie de l'usine Lumiere a Lyon) というのが答えとなる。
これは1895年9月28日にパリで公開されたルイ・リュミエール監督のドキュメンタリー映画である。また1895年12月28日には有料での商業公開も行われた。
「それってどんな映画?」と言われたら、46秒の映画なので説明するよりもまずは実際に見てもらうほうが早いだろう。



この映画には3つの異なるバージョンが存在するという。その3つは馬車が登場する・しない、及び馬車を牽く馬の頭数から「一頭の馬」「二頭の馬」「馬がいない」バージョンと呼ばれるそうだ。上記の映像は「二頭の馬」だ。
リュミエール兄弟による映画の興行はこの作品を含めて10作品ほどが公開され、5ヶ月足らずで5万人の観客が集まったそうだ。



さて、この作品の監督であるルイ・リュミエール(弟)とオーギュスト・リュミエール(兄)の兄弟は、映画そのものの発明者である。
映画の発明者というとアメリカ人はエジソンと言うだろうが、エジソン(及びその弟子のウィリアム・ディクソン)が発明したのは「キネトスコープ」と呼ばれる覗き箱方式のものだ。
これは観客1人1人が箱を覗き、その中で上映される映像を見るもので、エジソンは1893年から全米で売り出した。しかし最初は大衆が熱狂したものの、まもなく画面の小ささ、内容の単調さ、短さに不満を持つようになった。
一方でリュミエール兄弟は映写方式を研究した。その場合撮影機、映写機ともに高度なメカニズムが要求される。その中でリュミエール兄弟は間欠運動 (フィルムを連続的に送りながら、一瞬ずつ静止させる仕組み) が鍵を握ると考えていた。
ある日弟のルイがミシンを見て送り爪に三角カムを組み合わせればフィルムをうまく送れるとひらめき、最終的に「シネマトグラフ」と呼ばれる映写方式のカメラ(兼映写機)の発明に成功したという。
映画は映写方式のものでなければならないと考えるのであれば、映画の発明者はリュミエール兄弟であり、彼らが発明したシネマトグラフで撮影した『工場の出口』が最初の映画ということになる。

シネマトグラフ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/history4cinematograph.html



さて、このように映画の歴史は1895年の『工場の出口』に始まるが、1902年にはSF作品である『月世界旅行』 (Le Voyage dans la Lune、ジョルジュ・メリエス) が発表された。



これは画期的な作品で、僅か7年で映画は物語を持つようになり、ドキュメンタリーからアートへの一歩を踏み出した言えるだろう。

その後1911年にはハリウッドで最初の映画スタジオができ、そこから100年の間に大きく映画は技術表現ともに発展していった。
今後も3Dを含めた技術の発展や、より表現の充実がなされるだろうが、その原点は僅か46秒の『工場の出口』であることを忘れないこととしよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





クラシック音楽の作曲家というと、音楽一家の生まれであったり、そうでなかったりというという違いはあれど、通常は幼少の頃から音楽や楽器に親しみ、早くから演奏で頭角を現し、〇歳ではじめて作曲をした というような経歴がほとんどである。
音楽史に残る作曲家たちであるので、音楽一筋であるのは当然のことだが、たまには変わったキャリアの作曲家はいないものだろうか。
と思って何気なく調べてみると、音楽が副業の作曲家がいた。有名な「韃靼人の踊り」の作曲家アレクサンドル・ボロディンである。



アレクサンドル・ボロディン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3

アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfir'evich Borodin, 1833 - 1887)はロシアの作曲家、化学者、医師。
サンクトペテルブルクにて、グルジア皇室の皇太子ルカ・ゲデヴァニシヴィリの非嫡出子として生まれる。ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻し、ペテルブルグの医学大学の薬学部に入る。 卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張、この頃、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はペテルブルグの医学大学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。 作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。
1869 年にバラキレフの指揮によって《交響曲第1番》が上演され、同年ボロディンは《交響曲第2番》に着手する。この新作交響曲は、初演時には失敗したが、1880年にフランツ・リストがヴァイマルでドイツ初演の手筈を整え、ボロディンの名をロシアの外に広めた。
やはり1869 年には、歌劇《イーゴリ公》に着手、これはボロディンの最も重要な作品と看做されており、しばしば単独で演奏される。おそらく最も有名なボロディン作品となっている「だったん人の踊り(韃靼人の踊り)」と「だったん人の行進(韃靼人の行進)」は、《イーゴリ公》が出典である。
1887 年に急死。謝肉祭の週間に、数人の友人を呼んで上機嫌に歌って踊って楽しんでいたが、突然ひどく青ざめて卒倒したのである(動脈瘤の破裂だった)。


ボロディンは、作曲家としてその道に秀でていたにもかかわらず、いつも化学者として収入を得ており、化学の世界においては、とりわけアルデヒドに関する研究によって、非常に尊敬されていた。結果的に「日曜作曲家」を自称することになり、同時代人ほど多作家ではなかったものの、2つの交響曲や音画《中央アジアにて》(通称;交響詩《中央アジアの草原にて》)、抒情美をたたえて人気の高い「夜想曲」で有名な《弦楽四重奏曲 第2番》はますます盛んに演奏されている。
化学者としては、ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)に名を残している。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見したとされる。


歌劇『イーゴリ公』の世界 ボロディン
http://www.prince-igor.jp/borodin.html

音楽史ミステリー探偵事務所 ボロディンはなぜ作曲が遅かった?
http://www.tcat.ne.jp/~eden/MM/borodin2.htm

このようにボロディンは生涯を通じて化学者であり、教授として多忙な日々を送り、 また女性の地位向上(特に女医の育成)にも尽力したという。
幼少の頃にピアノの教育を受けたとはいえ、作曲を学んだのは30歳になってからであり、人生の後半でしか作曲活動をしていない。
これだけの作曲家が多くの楽曲を残せなかったことは何とももったいない、という見方もできるが、ボロディンは化学者としても後世に名を残しており、極めて多才であったということができる。
化学者ボロディンの発見についても調べてみよう。

ハンスディーカー反応 (ボロディン反応)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%8F%8D%E5%BF%9C

ハンスディーカー反応とは、有機化学における化学反応の一種で、カルボン酸の銀塩 (RCO2Ag) に臭素 (Br2) を作用させ、有機臭素化物 (RBr) を得る反応である。ロシアのアレクサンドル・ボロディンにちなみ、ボロディン反応 (Borodin reaction) とも呼ばれる。


アルドール反応
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%8D%E5%BF%9C

アルドール反応はα位に水素を持つカルボニル化合物が、アルデヒドまたはケトンと反応してβ-ヒドロキシカルボニル化合物が生成する反応で、求核付加反応のひとつ。 アルデヒド同士がこの反応を起こすとアルドールを生成することから、この名で呼ばれる。 『韃靼人の踊り』で有名な歌劇『イーゴリ公』を作曲したアレクサンドル・ボロディンが最初に発見したと考えられている。



ちなみに「求核付加反応」というのは、「化合物に求核剤が付加することによってπ 結合が解裂し、新たに2つの共有結合が生成する反応」だそうだが、「求核剤」も「π 結合」もわからないので調べれば調べるほど深みに嵌る。
よくわかったのはボロディンが化学者としてもすごかったということである。人類史上にはこのようなすごいマルチタレントがいることを改めて思い知らされた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





映画は20世紀に飛躍的に発展した文化だ。総務省統計局の資料によると日本国内の映画の封切本数は年間で800本を超えている。1日2本以上であり、これまでに世に出た映画は星の数ほどになるだろう。
http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y2316000.xls

映画は観る人の好みがあり、みな自分にとっての最高の映画があるだろう。しかし万人が認める史上最高の映画というのはなかなか決められるものではない。
一方でハリウッドでは史上最低の映画については共通の見解がある。それはエド・ウッド監督による「Plan 9 from Outer Space」(プラン9・フロム・アウター・スペース)だ。

エド・ウッド (「Plan 9 from Outer Space」DVDの解説とWikipediaをもとに編集)

1924年10月10日、ペンシルバニア生まれ。22歳で海兵隊を除隊後、演劇に興味を持ち巡回ショーの一員となる。1948年に「The Casual Company」という芝居の脚本・演出・製作・主演を担当するが失敗に終わる。同年「The Street of Laredo」という短編西部劇で映画界デビューするはずだったが、ラッシュを観たプロデューサーがあまりの内容のなさに怒り手を引いてしまったため、未完成・未公開に終わる。ハリウッドで仕事を探す毎日を送っていたエド・ウッドは落ち目の存在だったベラ・ルゴシと出会い、彼のネームバリューを前面に押し出して「グレンとグレンダ」(1953)を監督する。
自身が最高傑作と信じた「プラン9・フロム・アウタースペース」に全く買い手が付かず、それどころか彼のフィルムを営業していたプロデューサーが疲労と絶望のうちに死んでしまう。この事態にはさすがのエド・ウッドも打ちひしがれ、アルコールに依存、酒浸りの生活を送るようになった。1978年12月10日に他界。

没後は暫く忘れられていたが、映画の上映権を安く買いたたかれた結果、深夜テレビの映画枠で繰り返し放送されることになった「プラン9・フロム・アウタースペース」が一部でカルト的な人気を得て評論家の目に止まり、1980年に「ゴールデンターキー賞」という本の中で「歴代最低映画」として紹介され、再評価が始まった。彼の映画の出来が一義的には「最低最悪」であることに異論をはさむものは少ない。彼が再評価されたのは、最低最悪の出来の映画ばかり作り、評価も最悪であり続けた(というよりも評価対象以前だった)にもかかわらず、映画制作に対する熱意やほとばしる情熱を最後まで失わなかったためである。このことをもって「ハリウッドの反天才」「芸術の突然変異」との称号(?)で称されることもある。


Plan 9 from Outer Space
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B39%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9

<あらすじ> 物語のナレーター、クリズウェルの予言から始まる。クリズウェルは未来への注意を呼びかけ、「あの運命の日に何が起こったか」を語りだす。
アメリカン・フライト812のパイロット、ジェフ・トレントは飛行中に突如強風に煽られる。外を見るとそこには「この世のものとは思えない」空飛ぶ円盤が出現していた。一方で、ひとりの老人(ベラ・ルゴシ)の妻の葬式のあと、二人の墓掘り人夫が奇妙な音を聞いた。墓を出ようとしたそのとき、死んだはずの女性が歩いているのに出会ってしまう。その後、妻を亡くした老人も(おそらく)交通事故によって死亡してしまう。なぜか地下墓地に埋葬された老人の葬式の帰りに、参列客が二人の墓掘り人夫の死体を発見し、ダニエル・クレイ警視(トー・ジョンソン)の率いる警察が現場に到着した。だがクレイ警視もまた死者に襲われ…

この作品には、普通の商業作品には見られないようなミスや手抜きと思われる箇所がいくつも存在し、それがカルト的な魅力ともなっている。

製作当時は、あまりのつまらなさに上映権の買い手がまったくつかず、結局テレビ局に権利を安く買いたたかれることとなった。そのため深夜テレビで繰り返し放送され、一部でカルト的な人気を得る。やがて1976年に「ゴールデン・ターキー・アワード」という本の中で「史上最低の映画」として紹介され、映画『エド・ウッド』である意味での脚光を浴びることとなった。


いい機会なので「Plan 9 from Outer Space」をDVDで観てみた。You Tubeにもいくつか映像があるので載せておこう。



うーん、これはひどい。脚本・撮影・効果などむちゃくちゃだ。Wikipediaからいくつかリストしてみると、
- 俳優が台詞を棒詠み。
- 同じシーンなのに、ショットごとに昼と夜が入れかわる。
- ショットの使い回し。
- ホイールキャップか灰皿に見えてしまう模型の円盤。それを台詞では「葉巻型」と表現する。しかもその円盤を吊るしている糸が見えてしまっている。
- コントのようなセット。椅子とカーテンしかない飛行機操縦席、机と無線機しかないUFO司令室。
- UFOと遭遇するシーンで、急上昇するマイクの影が操縦席の壁に映ってしまっている。
- 墓石がダンボール製。
などなど。

もうひとつティム・バートン監督による「エド・ウッド」(1994)も観てみた。この映画でエド・ウッドの人となりや生涯がわかる。



この作品はとても凝っており、特に「Plan 9 from Outer Space」のシーンを見事なまでに再現しており驚かされる。(従って「Plan 9 from Outer Space」→「エド・ウッド」の順で観たほうがいい)
オリジナルの映画にそこまでの価値があるとは全く思えないが、それほどティム・バートン監督のエド・ウッドへの思い入れは強いようだ。ジョニー・デップが演じるエド・ウッドに思わず感情移入してしまった。

エド・ウッドが面白い(すばらしい)のは、映画を作ることは明らかに下手だが、映画への情熱は人一倍だったことだ。たまたま(?)映画のセオリーや世の中の感覚と合わずに不遇の映画監督人生を送ってしまったが、その姿勢が没後に一部のファンの心を捉え「史上最低」という名誉ある(?)評価に繋がったものと思う。さぁ次はデビュー作の「グレンとグレンダ」を観てみよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »