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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




映画は20世紀に飛躍的に発展した文化だ。総務省統計局の資料によると日本国内の映画の封切本数は年間で800本を超えている。1日2本以上であり、これまでに世に出た映画は星の数ほどになるだろう。
http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y2316000.xls

映画は観る人の好みがあり、みな自分にとっての最高の映画があるだろう。しかし万人が認める史上最高の映画というのはなかなか決められるものではない。
一方でハリウッドでは史上最低の映画については共通の見解がある。それはエド・ウッド監督による「Plan 9 from Outer Space」(プラン9・フロム・アウター・スペース)だ。

エド・ウッド (「Plan 9 from Outer Space」DVDの解説とWikipediaをもとに編集)

1924年10月10日、ペンシルバニア生まれ。22歳で海兵隊を除隊後、演劇に興味を持ち巡回ショーの一員となる。1948年に「The Casual Company」という芝居の脚本・演出・製作・主演を担当するが失敗に終わる。同年「The Street of Laredo」という短編西部劇で映画界デビューするはずだったが、ラッシュを観たプロデューサーがあまりの内容のなさに怒り手を引いてしまったため、未完成・未公開に終わる。ハリウッドで仕事を探す毎日を送っていたエド・ウッドは落ち目の存在だったベラ・ルゴシと出会い、彼のネームバリューを前面に押し出して「グレンとグレンダ」(1953)を監督する。
自身が最高傑作と信じた「プラン9・フロム・アウタースペース」に全く買い手が付かず、それどころか彼のフィルムを営業していたプロデューサーが疲労と絶望のうちに死んでしまう。この事態にはさすがのエド・ウッドも打ちひしがれ、アルコールに依存、酒浸りの生活を送るようになった。1978年12月10日に他界。

没後は暫く忘れられていたが、映画の上映権を安く買いたたかれた結果、深夜テレビの映画枠で繰り返し放送されることになった「プラン9・フロム・アウタースペース」が一部でカルト的な人気を得て評論家の目に止まり、1980年に「ゴールデンターキー賞」という本の中で「歴代最低映画」として紹介され、再評価が始まった。彼の映画の出来が一義的には「最低最悪」であることに異論をはさむものは少ない。彼が再評価されたのは、最低最悪の出来の映画ばかり作り、評価も最悪であり続けた(というよりも評価対象以前だった)にもかかわらず、映画制作に対する熱意やほとばしる情熱を最後まで失わなかったためである。このことをもって「ハリウッドの反天才」「芸術の突然変異」との称号(?)で称されることもある。


Plan 9 from Outer Space
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B39%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9

<あらすじ> 物語のナレーター、クリズウェルの予言から始まる。クリズウェルは未来への注意を呼びかけ、「あの運命の日に何が起こったか」を語りだす。
アメリカン・フライト812のパイロット、ジェフ・トレントは飛行中に突如強風に煽られる。外を見るとそこには「この世のものとは思えない」空飛ぶ円盤が出現していた。一方で、ひとりの老人(ベラ・ルゴシ)の妻の葬式のあと、二人の墓掘り人夫が奇妙な音を聞いた。墓を出ようとしたそのとき、死んだはずの女性が歩いているのに出会ってしまう。その後、妻を亡くした老人も(おそらく)交通事故によって死亡してしまう。なぜか地下墓地に埋葬された老人の葬式の帰りに、参列客が二人の墓掘り人夫の死体を発見し、ダニエル・クレイ警視(トー・ジョンソン)の率いる警察が現場に到着した。だがクレイ警視もまた死者に襲われ…

この作品には、普通の商業作品には見られないようなミスや手抜きと思われる箇所がいくつも存在し、それがカルト的な魅力ともなっている。

製作当時は、あまりのつまらなさに上映権の買い手がまったくつかず、結局テレビ局に権利を安く買いたたかれることとなった。そのため深夜テレビで繰り返し放送され、一部でカルト的な人気を得る。やがて1976年に「ゴールデン・ターキー・アワード」という本の中で「史上最低の映画」として紹介され、映画『エド・ウッド』である意味での脚光を浴びることとなった。


いい機会なので「Plan 9 from Outer Space」をDVDで観てみた。You Tubeにもいくつか映像があるので載せておこう。



うーん、これはひどい。脚本・撮影・効果などむちゃくちゃだ。Wikipediaからいくつかリストしてみると、
- 俳優が台詞を棒詠み。
- 同じシーンなのに、ショットごとに昼と夜が入れかわる。
- ショットの使い回し。
- ホイールキャップか灰皿に見えてしまう模型の円盤。それを台詞では「葉巻型」と表現する。しかもその円盤を吊るしている糸が見えてしまっている。
- コントのようなセット。椅子とカーテンしかない飛行機操縦席、机と無線機しかないUFO司令室。
- UFOと遭遇するシーンで、急上昇するマイクの影が操縦席の壁に映ってしまっている。
- 墓石がダンボール製。
などなど。

もうひとつティム・バートン監督による「エド・ウッド」(1994)も観てみた。この映画でエド・ウッドの人となりや生涯がわかる。



この作品はとても凝っており、特に「Plan 9 from Outer Space」のシーンを見事なまでに再現しており驚かされる。(従って「Plan 9 from Outer Space」→「エド・ウッド」の順で観たほうがいい)
オリジナルの映画にそこまでの価値があるとは全く思えないが、それほどティム・バートン監督のエド・ウッドへの思い入れは強いようだ。ジョニー・デップが演じるエド・ウッドに思わず感情移入してしまった。

エド・ウッドが面白い(すばらしい)のは、映画を作ることは明らかに下手だが、映画への情熱は人一倍だったことだ。たまたま(?)映画のセオリーや世の中の感覚と合わずに不遇の映画監督人生を送ってしまったが、その姿勢が没後に一部のファンの心を捉え「史上最低」という名誉ある(?)評価に繋がったものと思う。さぁ次はデビュー作の「グレンとグレンダ」を観てみよう。



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近代のヨーロッパ美術は、新古典主義~ロマン主義~写実主義という流れをたどる。18世紀後半から19世紀にかけての流れだ。
フランスの写実主義を代表する画家であるジャン=フランソワ・ミレーは『落穂拾い』をはじめ『晩鐘』『種まく人』で知られており、労働する農民の堂々とした姿を、聖書や古代文学に語られる人間の労働の根源的な意味と重ね合わせつつ描いている。





19世紀絵画教室 ジャン=フランソワ・ミレー
http://www.korega-art.com/millet/

1814年フランスノルマンディー地方の農村にミレーはうまれました。
ミレーが 本格的に絵画の勉強をはじめたのは19歳で、絵画の才能があったミレーは22歳でパリの国立美術学校のアトリエに入門しました。しかし、パリになじめなかったミレーは、1839年24歳で美術学校を中退してしまいます。
1840年にはサロンに入選したのですが、それ以降の3年間は落選し続けました。1841年に結婚した妻も病気がちで1844年になくなってしまったのです。
ミレーはショックで一度故郷に戻り、そこでカトリーヌと出会います。カトリーヌと再婚したいとミレーは考えていたのですが、二人の仲はみとめられず、ミレーとカトリーヌはかけおち同然に再びパリに出たのです。
パリでの生活もやはり苦しいものでした。ミレーは生活のために描きたくもない肖像画を描いて、どうにか生活していたのです。ようやくミレーが世間に認められるようになったのは、1848年の無監査で開催されたサロンに出品した『小麦をふるう人』が絶賛され、政府が買い取った初めての作品となりました。
しかし、世間はミレーを裸体画ばかり描く画家と噂し、屈辱に感じたミレーは農民の中に生活しながら絵画を描こうと決心します。そして、家族でバルビゾンへと引っ越したのです。 バルビゾンでのミレーの生活は、午前中は畑を耕し、その後絵を描いていました。農業をしつつ、次々と農民画を描いていきました。
40代になってもミレーの生活はまだまだ安定していませんでした。農民の生活の苦しい状況をリアルに表現したため、敬遠されてしまっていたのです。 ミレーの評価が高くなったのはフランスではなく、アメリカでした。アメリカでミレーの絵画は絶賛され、ミレーは46歳でようやく貧困から抜け出せたのです。
ミレーは1875年、長年住んだバルビゾンで家族に看取られながらこの世を去りました。


Wikipedia ジャン=フランソワ・ミレー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC

パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。
バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年のことであった。1977年、その『種まく人』がサザビーズのオークションで競り落とされ、日本に請来された時は大いに話題になった。


Wikipediaの記事にあるように岩波書店のマークは『種まく人』だが、これは岩波書店の創業者岩波茂雄が長野県諏訪の篤農家の出身で,「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田園生活を好み,詩人ワーズワースの「低く暮し,高く想う」を社の精神としたいとの理念から選んだとのことだ。

岩波書店 会社案内
http://www.iwanami.co.jp/company/index.html

また、1977年に『種まく人』を落札して現在も所蔵している山梨県立美術館も当然のことながら『種まく人』をシンボルとしている。


山梨県立美術館には「ミレー作品の鑑賞の手引き」として『種まく人』をはじめとする多くの作品の詳しい解説がされていて興味深い。

山梨県立美術館 ミレー作品の鑑賞の手引き
http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=content&task=category§ionid=6&id=20&Itemid=49

この中でも記されているが、ミレーの絵画には顔の精密な実写描写がない。この顔を具体的に描写しないことによって農村の労働の様子がよりリアルに伝わっているように思う。

農耕民族である日本人にとって、ミレーの描く農村の労働の光景や労働に対する価値観は共感できるものだろう。ミレーが日本という国を知っていたかどうかすら疑わしいか、日本人の心がミレーの作品にはあるように思う。
ただ私は『落穂拾い』を鑑賞していると、見ているだけで腰が痛くなってしまう。この姿勢は5分とすら続かない。



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クラシック古典派の音楽家というと皆歴史上の人物という印象があり、コンサートなどでひとりひとりの生涯の解説を目にすることが多い。しかし18~19世紀のクラシック全盛期をバロック、古典派、前期ロマン派、後期ロマン派と分けて考えると各々は約50年という期間であり、また舞台となっているのは現在のドイツ・オーストリアを中心とした比較的狭いエリアである。シューベルトのように生前は有名でなく、死後に交響曲(「未完成」)が発見されて演奏された作曲家もいるが、当時から有名だった音楽家どおしはお互い面識があってしかるべきである。
ということで、古典派を代表するハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827) の人間関係を調べてみた。

まずハイドンとモーツァルトは、とても親交があった。ハイドンがモーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の進学(音楽留学)の世話をしたほどだ。モーツァルトはハイドンが確立した弦楽四重奏曲の古典主義的ソナタ形式の影響を強く受けていおり、お互い尊敬しあう間柄だったようだ。

生方史郎の「古典派からのメッセージ」 ハイドンとモーツァルト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/3ka.html

ハイドンとモーツァルトは、年が24歳離れており、親子ほどの間柄である。こんなに歳の差があったにも拘らず、この二人は音楽史の中でも希に見る「肝胆相照らす」仲であった。
ハイドンとモーツァルトが初めて会ったのはいつなのか、はっきりはわからないが、二人が会うようになったのは、モーツァルトがウィーンに出て来てからである。時にモーツァルトは20歳代半ば、ハイドンは間もなく50歳になろうとする頃であった。
モーツァルトのハイドンに対する尊敬は、六曲の弦楽四重奏曲集をハイドンその人に献呈したことに端的に表れている。「ハイドン・セット」と称される曲集には次のような言葉で始まる美しい献呈文がついている。
「親友ハイドン! 広い世間に子供たちを送り出そうと決心した一人の父親は、彼らを、高名な方の保護と指導に託するのが賢明であることに気づきました。しかも幸いにして、この方は最も良き友なのです。高名にして最愛なる友よ、見て下さい。ここに私の六人の子供たちをお送りいたします。……」


ハイドン・セット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88

モーツァルトは1785年1月15日と2月12日に、ハイドンをウィーンの自宅に招き、これらの新曲を披露した。ハイドンはそこで大きな感銘を受け、同席したモーツァルトの父レオポルト・モーツァルトに「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と最大級の賛辞を述べ、その才能を激賞した。

次にモーツァルトとベートーヴェンの関係だが、音楽家・ピアニストとして人気を誇っていたモーツァルトにかねてから憧れていたベートーヴェンが、1787年にモーツァルトのもとを訪ね弟子入りを申し出たと言われている。モーツァルトが31歳、ベートーヴェンが16歳の時だ。これは正式な記録がないそうだが、「モーツァルトは、即興演奏したベートーヴェンのあまりの上手さに「この青年は立派な音楽家になるに違いない」と予言した」という類の記事がある。
http://www.classic.13site.com/composer/beethoven.html
http://homepage1.nifty.com/kururu-music/sattukyokuka.htm

しかし、母マリアの突然の訃報によってボンへ帰らなければならなくなり、モーツァルトへの弟子入りはかなわなかった。モーツァルトはその数年後(1791年)に亡くなったので、この二人の接点は僅かだった。この展開によっては音楽の歴史は大きく変わったかもしれない。

尚、ベートーヴェンにとってモーツァルトに対する感情は必ずしも憧れだけではないようだ。

完全攻略!ベートーベン  モーツァルトとの出会い
http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/07sakuhu/sakuhu.html

父ヨハンがベートーベンを天才少年ピアニストとして売り出そうと考えたのはモーツァルトがいたからです。モーツァルトは、宮廷バイオリニストであったレオポルドによってその才能を見出され、各地の宮廷で演奏を披露しています。この時、モーツァルトは3時間弱の演奏でレオポルドの収入8年分を稼いだといわれています。名ばかりの宮廷歌手であったヨハンにしてみれば、これほど美味しい話はないでしょう。自分は働かなくても子供が稼いでくれればそれに越したことはないのです。そういう意味では、ベートーベンにとってモーツァルトは「尊敬すべき先達」であると同時に「余計な前例作りやがって」という嫌悪の対象であったのです。そんな複雑な感情を抱いているモーツァルトと出会ったことは、ベートーベンの転機となります。モーツァルトへの弟子入りは母の急病で叶わなかったものの、ベートーベンは音楽家として独り立ちする自信を獲得したのです。

最後にハイドンとベートーヴェンの関係だ。
1790年にハイドンはモーツァルトに見送られてロンドンへの演奏旅行に旅立った。この時ボンに立ち寄ったそうだが、ハイドンとベートーヴェンが会ったかどうかはわからないそうだ。従ってモーツァルトがベートーヴェンのことをハイドンに紹介したかどうかも定かではない。
しかし1972年7月にハイドンがロンドンからウィーンに戻る際にボンに立ち寄っており、この時ベートーヴェンはハイドンに作品を見せて弟子入りを弟子入りを許可され、11月にウィーンに移住した。ハイドンが60歳、ベートーヴェンが22歳の時だ。
しかしこの師弟関係はそれほど深いものではなかったようだ。

完全攻略!ベートーベン  ハイドンとの師弟関係
http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/07sakuhu/sakuhu.html

ベートーベンはウィーンに上洛し、ハイドンに師事したというのが定説となっていますが、実際には手ほどきを受ける機会は少なかったようです。ベートーベンがハイドンに師事した1972年は、ハイドンにとっても重要な時期でイギリスへの演奏旅行や代表曲の制作を精力的に行っていたのです。そのため、弟子になったばかりのベートーベンにまで目が行き届いていなかったため、ベートーベンとの師弟関係は僅か一年に満たないものになります。ベートーベンも後年「ハイドンから学んだことは何もなかった」と述懐しており、ベートーベンには実りの少ない時期であり、雌伏の時でもあったといえます。

ゑれきてる モーツァルトとベートーヴェン(1)
http://elekitel.jp/elekitel/special/2007/14/sp_02_a.htm

ハイドンはベートーヴェンについては、モーツァルトほど高くは評価できなかったようです。ハイドンはなんといっても18世紀の人です。ハイドンはロンドンでの演奏のために交響曲の傑作をいくつも書きますが、その作曲家としての活動は、ほぼ18世紀中に終わっています。ベートーヴェンの音楽に違和感があっても不思議はありません。また、ベートーヴェンにとっては、ハイドンは、やはり過去に属する人、その作風は克服すべき一つの音楽様式と意識していたと思います。自分の親のように、考えていたのかもしれません。

なるほど。偉大な作曲家たちもやはり人間であり、人生の中でいろいろなめぐり合わせもあるし、各々の感情もある。音楽家と作品だけを暗記するのではなく、時代の流れや人間関係まで見てみるとより深い音楽鑑賞が楽しめそうだ。人数が多くて大変そうだが、ロマン派の音楽家たちについてもいつか調べてみたい。



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17世紀の美術はしばしばバロック美術と呼ばれる。「バロック」という言葉は現在では17世紀全体を指す時代概念としても使われるが、17世紀の美術全体をバロック様式として括るのは異論も多く、例えばレンブラントやフェルメールなどを排出したオランダの絵画の醒めた写実性は、バロック様式の特徴とされる誇張や劇的効果の追求とは無縁のものである。

その17世紀オランダ絵画の特色の一つは、風俗画、風景画、静物画あるいは教会の内部をもっぱら描いた画家など、画家によって専門分野が分かれていたことである。西洋絵画史においては、「風景画」は「歴史画」や「肖像画」に比べて伝統的に一段低い位置に置かれていた。独立したジャンルとしての「風景画」の成立は17世紀オランダに始まると言ってよい。

17世紀のオランダにおいて風景画が栄えた背景には、市民階級の勃興がある。カトリックのスペインの支配から独立を果たし、プロテスタントの共和国であった当時のオランダにおいては、海外貿易による富を背景として富裕な中産市民層が勃興した。教会や大貴族に代わって新たな絵画の注文主・享受者となった中産市民階級の家屋を飾るにふさわしい絵画とは、大画面の宗教画や歴史画よりは、より小規模な風俗画、静物画、風景画などであったろう。

このようなオランダの風景画家でもっとも重要な風景画家とみなされるのがロイスダールであり、その弟子がメインデルト・ホッベマである。

メインデルト・ホッベマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%9E

ホッベマの描く風景は激しいものや穏やかなもの双方あるが、一般的にはオリーブ色の色調が中心で、しばしば「清教徒的な灰色」(puritanical grey)と呼ばれる色ないし小豆色が用いられ調和を保っている。ホッベマの絵画には樹木のさまざまな葉のつき方を表現するのみならず、大胆なタッチと細やかな仕上げがなされ目をみはらせる。特に驚かされるのは、雲を透過する弱い光が一時的にないしは確実に大地の異なる部分を照らし、木の葉を透過した光が別の木の葉を照らす様子などで、このような光が透過して別の場所を照らすような表現はホッベマの作品のなかには、繰り返し見られるものである。

ホッベマには、ロイスダールのような多才さはなく、たとえば高原や岩でできた小高い丘陵、急流や入り江などの表現についてはロイスダールほどは研究しなかったので、ロイスダールに次ぐ評価をされる。しかし、優れた風景画家であることは間違いなく、機会さえあれば、ホッベマは、小さな小屋の近くにある水溜りやゆったり流れる大河の水面にあらゆるものが映っている表現や水車をいそがしく回すような渦巻く川の流れの表現をみごとに描ききったであろうし、そのような場所があれば、複数の作品を残したように思われる。ホッベマの描くひとつの水車は彼の絵を見る者を魅了してやまない。

Web Gallary of Art : HOBBEMA
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/h/hobbema/index.html

このように風景画というジャンルの先駆者のひとりがボッベマであり、何の変哲もない自国の自然や都市の眺めを取り上げ、ありふれた風景から傑作をつくりだした。ただし当時の風景画の完成作は実景写生ではなく、戸外でのスケッチをもとにアトリエで仕上げられたものだそうだ。

それにしてもホッベマの作品はいずれも似ている。せっかくなので様々な風景を描いてもらえると17世紀のオランダのイメージが広がるのだが。。 仕方ないので「ホッベマの風景画の描写が、17世紀のオランダの全てだった」と考えることにしよう。



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「バレリーナ」という言葉は、もともとはロシア帝国バレエ団内で例外的にソリストを務めるダンサーに与えられた階級のことだったそうだ。

バレリーナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A

そして、バレリーナの最高階級であるロシア帝室バレエ団のプリマ・バレリーナ・アソルータはたった2人で、ピエリーナ・レニャーニとマチルダ・クシェシンスカヤだ。

マチルダ・クシェシンスカヤ(1872 – 1971)は、ロシア皇帝ニコライ2世の愛人であったことで知られているが、いろいろな噂があったり相当な資産を蓄えたり、なかなか忙しい方だったようだ。

マチルダ・クシェシンスカヤ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4

残っている肖像を見てもなかなか艶やかだ。



帝室劇場のバレリーナたち
http://www.geocities.jp/ttpballet/exhi/0003-2.html


さて、もうひとりのピエリーナ・レニャーニは、白鳥の湖のオデッタ・オディールの一人二役を初めて演じたバレリーナとして有名だ。そのあたりをもう少し詳しく調べてみた。

バレエ「白鳥の湖」は、1877年の初演当時評価はさんざんであった。チャイコフスキーの音楽は難解と言われ、舞台装置は統一性がなく、振付も流麗さからは程遠かった。いくつもの原因が重なり、結局は失敗に終る。
それを甦らせたのがM・プティパである。1895年にマリインスキー劇場で全幕が再演された。当時最高の振付師プティパとイワノフの振付は完璧なもので、特に2幕は現在でもほとんど手を加えられる事がなく当時の振付で上演されるほど完成度の高いものであった。オデット役はピエリーナ・レニャーニが選ばれたが、オディール役は開演一週間前になっても決まらず、苦肉の策としてレニャーニにオディール役も割り当てられた。それ以来、オデットとオディールは同じダンサーによって踊られる事が伝統となる。レニャーニは3幕に32回転のグラン・フェッテを取り入れて観客を狂喜させた。こうして大失敗作であったバレエ「白鳥の湖」は、バレエの代表作となるほどの名作となったのである。


Danse Mondiale 「白鳥の湖」
http://bleu.vis.ne.jp/his/his_h.html

プリマ・バレリーナ・アソルータになるぐらいなので、ピエリーナ・レニャーニは当然ロシアの人と思っていたのだが、実際はミラノ生まれのイタリア人だ。(よく考えたらロシア人の名前ではない)
また生年・没年も資料によって1863-1923だったり1868-1930だったり、あまりはっきりしない。

Andros on Ballet
http://michaelminn.net/andros/index.php?legnani_pierina

Find A Grave
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=8281006

それはともかくとして、大事なバレエ姿の画像を探すといくつか見つかった。





ちょっとふくよかな(?)感じだ。。。 さすがにこの2枚だけでは、観客を狂喜させたグラン・ファッテのイメージは伝わってこない。。。
伝説の芸術家のリアルな姿を辿るのに、19世紀は昔過ぎるようだ。



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好きな画家の1人にアンリ・ルソーがいる。
かなり以前に世田谷美術館で目にした「サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島」(写真)という作品に何となく魅せられたのだが、よく考えたらそれほど深く知っているわけでないのでちょっと調べてみた。

サルヴァスタイル美術館 「アンリ・ルソー」
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/rousseau.html

印象派時代に活躍した素朴派を代表するフランス人画家。
魔術的とも比喩される夢想的で異国的な密林の情景や、都会の風景やその中に配した人物像などを描き、画業の当初は批評家たちの嘲笑の的となっていたものの、晩年には高評価へと一変し、現在では同時代を代表する画家として広く知られている。
その詩情的で想像力に溢れた独自の画風は20世紀最大の画家のひとりパブロ・ピカソやイタリア出身の詩人ギヨーム・アポリネール(ポーランド人)らが高く評価していたほか、新印象派の創始者ジョルジュ・スーラや後期印象派を代表する画家ポール・ゴーギャンなど同時代の一部の画家たちからも注目されていた。
素朴派の確立は19世紀末、アンデパンダン展(無審査出品制の美術展覧会)出品作家に対して、評論家がそう称したことに始まり、西欧の伝統的な美術知識の乏しさゆえの素朴な作風を意味している。

1844年フランス南西部ブルターニュ地方の小都市ラヴェルに生まれ、長年パリで税関吏として働きながら、1880年頃には絵画を描き始める。1893年、税関吏を退職し画業に専念する。1886年からアンデパンダン展に初出展し、当初は新聞や雑誌から稚拙だと酷評されたが、ほぼ毎年(1899年及び1900年以外)同展へと作品を出品し、1905年頃から次第に評価が高まっていった。1908年、ルソーを高く評価していたピカソが画家の芸術性を称えるために夜会を催す。最晩年頃は評価を高めた画家であったが、1910年パリで孤独のうちに死去。享年66歳。



賢者の石ころ 「徒然に素朴派か『アンリ・ルソー』」
http://blogs.dion.ne.jp/sekisindho/archives/2295201.html

My Art Literacy 「アンリ・ルソーのデビュー 」
http://blogs.yahoo.co.jp/les_fleurs3106/33239137.html

ピースフル・アートランドびそう 「技術と効果 アンリ・ルソー」
http://www.b-sou.com/tec-Rousseau.htm

素朴派とは、一般には画家を職業としない者が、正式の教育を受けぬまま絵画を制作しているケースのようで、アカデミックな技術や理論とは全く無縁というのが私のような素人にはむしろ好感が持てる。
アンリ・ルソーの様式や技術についてはさすがに詳しくわからないが、その人生はなかなか注目に値する。20年以上にわたって税関吏として働く傍らで独学で美術を学び、40過ぎにして画家に転身。稚拙と酷評されながらも次第に地位を高めていった。この転身は人生にとって大成功だろう。

サラリーマンから芸術家系への転身という点では「島耕作」の弘兼憲史氏などが思い浮かぶが、多くのサラリーマンにとって趣味を本業にしたり、人生半ばを過ぎて完全にキャリアチェンジをすることはそう簡単にできることではない。専門性を高めることは難しいし、現実に生活していくことも考えなければならない。
とはいえ、周りに認められるように趣味のレベルを高めること、或いは広範な趣味を持つことは人生を豊かにしてくれる。
このようなちょっとした調べごとも、少しでも人生の役に立つことを期待する。



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オペレッタを見たことがない。機会をつくって見てみたいが、オペレッタがどういうものか良くわかっていない。

オペレッタ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF

オペレッタ(伊:Operetta 独:Operette)は、台詞と踊りのあるオーケストラ付きの歌劇。軽歌劇(けいかげき)、喜歌劇(きかげき)とも。オペレッタはイタリア語で字義通りには「小さいオペラ」を意味する。

基本的には喜劇であり、軽妙な筋と歌をもつ娯楽的な作品が多い。ハッピーエンドで終わるのが主流。

ドイツ圏(中欧のドイツ語を公用語とする西ゲルマン人地域)では地方歌劇場を中心にオペレッタの上演が多く、大都市ではウィーン・フォルクスオーパー、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、ミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場、ドレスデン州立オペレッタ劇場など、メインの国立歌劇場とは別にオペレッタを主力とする歌劇場が存在する。

従来オペラとオペレッタは厳然たる別物であるという考えも根強く、オペレッタは上演しないということになっている大歌劇場も少なくなかった。しかしたとえば、ウィーン国立歌劇場は、シュトラウスの「騎士パズマン」やレハールの「ジュディッタ」を強引にオペラと称して初演しており、両者を区別する基準は実はでたらめであったことがはっきりするにつれ、区別は過去の慣習となりつつある。


どうしてもオペレッタはオペラ或いはミュージカルと比較されるようで、オペレッタ劇場のHPなどでその違いが解説されている。いくつか参照してみよう。

東京オペレッタ劇場 コラム「オペラッタとオペラ」
http://www.operetta.jp/column1.html

オペレッタ普及委員会 「オペレッタって何?」
http://www12.ocn.ne.jp/~ideale/operettaindex.htm

D姫のオペレッタフェスタ日記 オペラとオペレッタ
http://www.operetta-festa.jp/2007/06/post_e0ad.html

東京オペレッタ劇場 コラム「オペラッタとミュージカル」
http://www.operetta.jp/column2.html


東京オペレッタ劇場のコラムにある「オペラは貴族のサロンで生まれ、ヨーロッパ文化の一つの象徴として発展して来たのに対し、オペレッタは大衆の求める新しい娯楽として生まれたものであった」「オペレッタはその本質的な部分ではオペラに対するアンチ・テーゼとして、オペラとは異なる環境から生み出されたジャンルであるが、テクニカルな部分や音楽のスタイルおいては、伝統的なオペラの延長線上に展開していった」という説明がわかりやすい。

またオペレッタは「エンタメ系」というキーワードが共通しているようだ。要はあまり肩肘張らずに楽しめばよさそうだ。



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今日はとあるクラシックコンサートへ行った。メインの曲はサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』。
サン=サーンスは『動物の謝肉祭』が有名だが、もう少し詳しく調べてみる。

カミーユ・サン=サーンス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、オルガニスト、ピアニスト。現在では、組曲『動物の謝肉祭』、交響曲第3番『オルガン付き』、交響詩『死の舞踏』などが特に有名。その作風は折衷的、あるいは穏健かつ知的といわれる。

1835年に官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏会を開き、16歳ではじめての交響曲を書いている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。やがて作曲家兼オルガニストとして活躍。とくにオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せた彼は1857年に、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任する。1871年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立した。

音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩人、天文学者、数学者、画家などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。

その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところであり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」といった話は有名である。これは彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもあった。

晩年、印象主義音楽の台頭の中で、近代音楽を批判して古典主義、ロマン主義を貫いたことも彼の孤立を強めた。このため、楽界の大御所としての世間的な評価は不遇であった。


http://homepage3.nifty.com/eugenio/saint-saens/index.html

http://www2.incl.ne.jp/~shino/jisaku/music/flame44.htm


また、リストが「世界最高」と称するほどのオルガンの即興演奏の名手だったそうで、今日の交響曲は「交響曲の中にオルガンを使う」というサン=サーンスならではのものだった。

一言で示すと神童という感じだが、あまり友人になりたいタイプではなさそうだ。

それにしてもこの写真は伊藤博文に似ている。。。



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