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世界各地で依然として続く紛争は領土をめぐるものが多い。その際に単純に「当該国がその地域の主権を共同で持てばいいのではないか」という考えが生まれるだろうが、それはもちろん簡単なことではない。
2つまたはそれ以上の国家が同等の主権を行使することを「共同主権」と言うが、歴史上はけっこう事例がある。比較的新しいものとして1906年から1980年までイギリスとフランスによって共同で管理された「共同統治領ニューヘブリディーズ」(英語: New Hebrides Condominium フランス語: Condominium des Nouvelles-Hébrides) が挙げられる。この島は18世紀にイギリス人とフランス人の両方によって植民地化されたが、英仏共同統治とする形で設置されたものである。

共同統治領ニューヘブリディーズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E9%A0%98%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA

共同統治領である為、イギリス及びフランスのそれぞれから任命された担当者がいた。共同統治政府も両国政府からの出向者で構成されており、郵便サービス、公共ラジオ局、公共事業、インフラ、国勢調査などの権限はすべて両国が共に行使していた。
法制度としては英国法とフランス法の双方が適応され、裁判所もそれぞれ存在した。さらに先住民の法に関する裁判のための裁判所も設置されており、英仏合同裁判所も存在した。

合同裁判所を除いて、保健サービス、教育システム、通貨などがすべて2つ存在し、さらに、英国政府とフランス政府が別々に存在していたため、2つの移民政策、2つの裁判所、2つの会社法があった。島の住民はどの政府の下に行きたいかという選択肢が与えられ、例えば有罪判決を受けた場合、英国法とフランス法のどちらで有罪判決を受けるかを選択できたという。

バヌアツ 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8C%E3%82%A2%E3%83%84#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

1960年代、バヌアツの人々は自治と独立を要求し始めたが、英語系とフランス語系の島民が対立し、1974年にフランス語系のタンナ島でタンナ共和国として独立を宣言した(フランス軍による島の制圧で終わった)。1975年にはサント島を中心とした島々でナグリアメル連邦として分離独立の宣言も起きた。1980年に入るとバヌアツの独立を求める声が高まったが、タンナ島で再びタフェアン共和国として独立運動が起きた(これはイギリス軍の制圧で分離独立運動は終結した)。8月21日にはエスピリトゥ・サント島のフランス語系住民が独立に反対し分離運動が起き、ベマラナ共和国と名付け分離独立が起きた。
1980年7月30日にイギリス連邦加盟の共和国としてバヌアツが独立、フランスは政情不安を理由に最後まで独立に反対の立場であったが、これにより事実上、イギリス・フランスの共同統治下から独立し、大統領を元首とする「バヌアツ共和国」として出発した。




このように共同統治はなかなかうまくいかないことを歴史が証明している。

一方で共同主権は現在でも例がある。

共同主権 現在の共同主権地域
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%B8%BB%E6%A8%A9#%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9C%B0%E5%9F%9F

(1) ドイツ=ルクセンブルク共同主権領域 ルクセンブルクとドイツの国境をなすモーゼル川とその支流ザウアー川と更にその支流ウール川の左右両岸の間の水域を主な領域とする。また、川の中にある約15の中州が含まれる。
(2) フェザント島 ビダソア川の中州にある島。フランスと スペインの共同主権下にある。
(3) マスフット オマーンとアラブ首長国連邦の首長国であるアジュマーンの共同主権地域。
(4) フォンセカ湾の各国の領海に属さない水域 エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの共同管理。
(5) ボーデン湖の大部分 ドイツ、オーストリア、スイスの国境地域にあり、共同管理地域とされている。明確な国境線は引かれていない。
(6) かつてセッテ・ケーダス滝が存在したパラナ川からイグアス川河口までの水域 ブラジルとパラグアイの共同管理水域となっている。
(7) カスピ海の資源 イランが、ロシア・アゼルバイジャン・イラン・トルクメニスタン・カザフスタンによる共同管理化することを主張している。
(8) ブルチコ行政区 ボスニア・ヘルツェゴビナの構成共和国であるスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共同管理地域。


この中で揉めそうなのは住民がいる地域で、上記の (3)マスフットと (8)ブルチコ行政区 が該当する。

ブルチコ行政区は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ北東部に位置する自治行政区だ。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」と「スルプスカ共和国」から構成されるが、ブルチコ行政区は2つの構成体の境界とされ、ブルチコ地区のうち、ブルチコ市街を含む48%がスルプスカ共和国、残りの52%がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属すると定められた。これは1992~1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後の和平合意であるデイトン合意に基づく仲裁の過程で決められたものだ。
かつてはクロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人が平和的に共存していたブルチコ地区は、現在でもなお分断状態が続いている。



もうひとつのマスフットは、アオマーンとアラブ首長国連邦の首長国であるアジュマーンの共同主権地域で、人口は約9000名だ。

世界飛び地領土研究会 中立地帯 アラブ首長国連邦とオマーンの中立地帯(マスフット、ハッタ、ディバ)
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/churitsu.html#08

現在は別々の国家になっているアラブ首長国連邦とオマーンだが、かつては大海洋帝国を築いたオマーンのスルタンの宗主下にあった。しかし19世紀にオマーン宮廷が弱体化すると、各地の部族が独立状態になって数多くの首長国が生まれ、19世紀後半に相次いでイギリスの保護領になった後も、戦国時代のような状態が続いて、首長国同士は勢力拡大を争っていた。このため各首長国やスルタン領の領地は流動的で、絶えず変動し続けていた。
イギリスはアラビア湾岸を他の列強に奪われたくなかったから保護領にしただけで、首長国同士の争いにも干渉せずに放置し続けていたが、戦後になって石油が発見されると、採掘権を確保するために各首長国やスルタン領の境界線を明確にすることが必要となった。そこで1950年代に各首長との部族や氏族のつながりや、交易関係をもとにして首長国の領域がはっきり決められ、その結果各首長国の領土は飛び地だらけの複雑なものになった。さらに重要な町ではそれぞれ別の首長やスルタンに忠誠を誓う複数の部族が混住していることもあって、どこの領地に帰属すべきか決めかねる場合もあった。こういう場所はとりあえず「中立地帯」ということにして境界線の画定は棚上げされた。もっとも住民たちは政府ではなくそれぞれの部族のリーダーに従って暮らしていたわけで、同じオアシスに住んでいても、A首長国とつながりの深いA部族の人はA国の住民、B首長国とつながりの深いB部族の人はB国の住民となっても、特に不都合はなかった。最終的な主権はどちらにしてもイギリスだった。
1970年代にマスカット・オマーンと呼ばれていたスルタン領はオマーン国として、トルーシャル・オマーンと呼ばれていた各首長国はアラブ首長国連邦としてそれぞれ別々に独立すると、境界線があいまいな中立地帯は住民管理の面でも石油利権の確定の面でも厄介な存在になった。そこで80年代後半から中立地帯の分割が行われ、1999年に最終的な境界線が画定した。
しかし1つの町やオアシスが国境線で分断されてしまうと住民にとっては不便極まりない。そこでこれらの旧中立地帯では、出入国管理の面ではUAEに属している。オマーン領も含めて地元では自由に行き来できる仕組み。ただしオマーン本土との間の通行では審査を受けなければならないことになっている。




この説明を読む限りでは、マスフットは住民が領土を争うという性質のものではないようだが、それでも様々な不便が生じているようだ。
国境なき世界を目指したい一方で、それはそれで様々な不都合を招いてしまう故、古今東西で領土をめぐる争いが繰り広げられているのは人類の必然なのかもしれない。


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