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サッカーでもラグビーでもアメフトでも、「フットボール」は年々技術や戦術が磨かれていて芸術の域に達している。またビジネスとしてもエンターテインメントとしても高いレベルにあり、世界各地で多くの観客を動員して熱戦が繰り広げられ、世界中に向けて放映されている。
しかし当然だがこのような高度なフットボールが短期間で生まれたわけではない。フットボールの起源から歴史をハイレベルに示すと以下のとおりとなる。

フットボール 起源 スポーツへの進化、そして分化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB#%E8%B5%B7%E6%BA%90

今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技がローマ帝国の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代中国の蹴鞠(日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主にイングランドで発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「祭り」としてのフットボールになった。一方、イタリアでは「カルチョ」として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。
これらに対し、時の権力は度々「フットボール禁止令」を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、パブリックスクールを中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカーとしてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、アイルランドの旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。


イングランドの各地でで行われたのは「民俗フットボール」と呼ばれる競技で、告解火曜日を中心にイングランドの農民、徒弟、職人らによって行われた。告解火曜日とは2月から3月にかけての移動祝祭日であり、キリスト教徒はこの日に懺悔をすることが求められ、また翌日 (灰の水曜日) から始まる断食期間を前にしたお祭りの要素の強い日だ。その中で民族フットボールは催しとして行われた。
このいくつかは現在も行われている。例えばイングランドでは以下のようなものがある。
 Scoring the Hales (Alnwick, Northumberland)
 Royal Shrovetide Football (Ashbourne, Derbyshire)
 The Shrovetide Ball Game (Atherstone, Warwickshire)
 The Shrove Tuesday Football Ceremony of the Purbeck Marblers (Corfe Castle, Dorset)
 Hurling the Silver Ball (St Columb Major in Cornwall)
 The Ball Game (Sedgefield, County Durham)

日本福祉大学の吉田文久教授による以下の論文によると、イングランドでは17箇所で民族フットボールが残存しており、以下のような特徴があるそうだ。

英国イングランドに残存する民俗フットボールについて 吉田文久
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&ved=2ahUKEwj2x-rV1L7oAhXXFogKHZU6BeMQFjAFegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fnfu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D2798%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2JnD8Thct5Ypr1r6I_7qNW

開始日 告解火曜日に集中(それ以降復活祭期間まで)
 使用されるボール: 通常のサッカーボール、ひと回り小さなラグビーボール、円筒型の筒、ビア樽 など
 プレイ空間: 町全体、空き地の一区画、2つの町
 ゴール: 特定の固定されたゴール、片方のゴールのみ、ゴールなし など
 ゴールまでの距離: 200ヤード、500~600ヤード、1.5~2.5km
 プレーヤーの人数: 100~150人規模が多く50 名、300 人規模も


上記だけだとフットボールの要領としては意味不明なので、実際の映像としてイングランド中部のアッシュボーン (Ashbourne) で行われているRoyal Shrovetide Footballの様子を見てみよう。



このように、祭事としての要素が強く、勝敗どころか試合の展開もよくわからないが、ルールの説明も見てみよう。

シュローヴタイド・フットボール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

街を東から西に流れるヘンモア川を境にして北側の地域の出身者のチーム「Up'Ards アッパーズ」と川の南側出身者のチーム「Down'Ards ダウナーズ」に分かれて、それぞれのゴールを目指してボールを運ぶ大会。アッパーズが目指すゴールは川上側にあり、街の東寄りの場所にあり、ダウナーズが目指すゴールは川下側、街の西寄りの場所にある。ゴールは川の中にある碑(石碑)で、碑の真ん中の丸い色の変わった部分にボールを3回タッチさせればゴールと認められる。ボールを移動させることに関するルールはほとんど無く、ほとんど何をしても良く、ボールは手に持って走っても、投げても、足で蹴ってもいい。ボールを服の中や袋に隠して運んでもよい。アッシュボーンの街全体をフィールドにして行い、入っていけない場所はせいぜい教会堂と墓地くらいのもので、あとはどこに入っても良く、たとえば個人の住宅の敷地内や商店やスーパーの中に入っても良い。
どちらのチームもゴールを決められずに夜10時を迎えた場合は試合終了となり、引き分けとなる。
ゴールを決めた人には、様々な意味を込めた図柄と当人の名前を記したボールが授与される。この大会でゴールを決めることは街の男にとって特に大きな誇りとなる。数百年も前の記念ボールも記念館に保管されていて、その名は街で語り継がれている。
男たちはそれぞれ毎年同じ服を着て参加するのが慣例となっている。服の色や図柄によって離れていても互いに誰か一目で判るからである。中には30年も同じ服で参加しているのでそれが穴だらけでボロボロになってしまっている人もいる。



同様にイタリアでも中世のフットボールである「カルチョ・フィオレンティノ」が現在でも行われている。

カルチョ・フィオレンティノ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

カルチョ・フィオレンティノ (Calcio storico fiorentino) は、16世紀のイタリアに起源を持つ初期フットボールの一種である。フィレンツェのサンタ・クローチェ広場がこのスポーツの揺り籠であり、「カルチョ」は後にイタリア語でサッカーを示す名称となった。
カルチョの公式ルールは1580年にジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵によって初めて発表された。ローマのハルパストゥムと同様に、カルチョは27名からなるチームによって足と手の両方を使ってプレーされた。ゴールは競技場の周辺の指定された場所にボールを投げ入れることによって得られた。競技場はゴールを構成する狭いスリットのある巨大な砂場である。主審が1人、線審が6人、フィールドマスターが1人いる。それぞれの試合は50分間行われ、最も多い点を得たチームが勝者となる。
元々、カルチョは裕福な貴族のものであり、公現祭と四旬節の間の毎晩行われた。
カルチョは200年あまりの間行われていなかったが、20世紀に入って1930年に復興された。今日では、サンタ・クローチェ広場で毎年6月第3週に3試合が行われている。4チームがまず最初の2試合でそれぞれ対戦し、勝者がフィレンツェの守護聖人である聖ジョヴァンニの日、6月24日に行われる決勝に進む。現代版ではヘッドバット、パンチ、肘撃、首締めといった戦術は許されているが、不意打ちや頭部への蹴りは禁止されている。

これも映像を見てみたい。



ボールと関係ないところで殴り合いとなっているのが恐ろしいが、多くの観衆も詰めかけており (2019年のチケットは29~80ユーロ)、フィールドが100m×50mというサイズであることもあり、試合の形になっている印象がある。ただし格闘技にしか見えないが。
優勝チームには以前は牛が与えられたが、現在はディナーのみで、プレーヤーは他に報酬を得ないとのことだ。しかし年に1回の祭事において、お祭り的な要素が強く名誉を競うものだ。



民族フットボールにしてもカルチョ・フィオレンティノにしても、本来の人間が持つ闘争心をボールを介して表現したものが「フットボール」なのであろう。禁止令がたびたび出されるような暴力的なものではあったが、それだけに人々を熱狂させてその地域に根付いたと思われる。この流れを汲む現代のフットボールに世界の人々が熱狂するのは当然である。


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