※イメ-ジカット-034
【-モノクロ修正後・一部淡く彩色-】
・
※001-大野からくり記念館
【-大野弁吉氏について-概略説明-】
大野弁吉氏(1801~1870年)は京都生まれ、幕末の科学技術者です。
20歳のときに、長崎に行き、理化学・医学・易数・鉱山学・写真等々を
習得して対馬から朝鮮にも渡ったといわれています。帰国後京都に帰り
中村屋八右衛門の長女・うたの婿となり、うたの生まれ故郷の大野に帰り
永住しました・・。
当時からその博識は良く知られ、加賀藩主が金石の豪商・銭屋五兵衞の助言で
20人扶持で召し抱えようとしましたが、それを断り生涯清貧の中で過ごしました。
当時としては最先端の科学知識を駆使し、木彫り・ガラス細工・塗り物・蒔絵等の他
特にからくり人形には異彩を発揮して、種々の優れた名作を数多く残しました。
尚、銭屋銭屋五兵衞はその後、河北潟の埋め立てで異論等が起こり加賀藩から
その家族ともどもに死罪・家財没収になりました・・・。
【-大野からくり記念館・説明書から一部転機しました-】
※002-からくり人形 (同氏の作品から)
※003-大野弁吉氏、当時の制作風景
※004-弁吉氏の作品から
・
※005-同館の展示雰囲気から
※006-享保雛 (写し込み)
【-享保雛について-】
この雛人形は江戸後期の享保時代(1716~1736年)以降に流行した雛です。
衣装は金襴や綿を使った豪華なもので、男雛は御所風の束帯に似た衣装で宝冠を
かぶり扇を持ち、大型で華美なつくりです。
この享保雛は幕府の禁止令(奢侈禁止令)で8寸以上の人形は無用たるべしとされたので
頭顔部・胴体・台座部を8寸以内に作り、飾るときに組み立てた大きな雛人形として大変
珍しく貴重な品です。京都から当地に伝わったを言い伝えられています。江戸後期作。
※007-江戸後期の西洋人形
▲・・・次回編に続きます・・・(-_-;)
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【-モノクロ修正後・一部淡く彩色-】
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※001-大野からくり記念館
【-大野弁吉氏について-概略説明-】
大野弁吉氏(1801~1870年)は京都生まれ、幕末の科学技術者です。
20歳のときに、長崎に行き、理化学・医学・易数・鉱山学・写真等々を
習得して対馬から朝鮮にも渡ったといわれています。帰国後京都に帰り
中村屋八右衛門の長女・うたの婿となり、うたの生まれ故郷の大野に帰り
永住しました・・。
当時からその博識は良く知られ、加賀藩主が金石の豪商・銭屋五兵衞の助言で
20人扶持で召し抱えようとしましたが、それを断り生涯清貧の中で過ごしました。
当時としては最先端の科学知識を駆使し、木彫り・ガラス細工・塗り物・蒔絵等の他
特にからくり人形には異彩を発揮して、種々の優れた名作を数多く残しました。
尚、銭屋銭屋五兵衞はその後、河北潟の埋め立てで異論等が起こり加賀藩から
その家族ともどもに死罪・家財没収になりました・・・。
【-大野からくり記念館・説明書から一部転機しました-】
※002-からくり人形 (同氏の作品から)
※003-大野弁吉氏、当時の制作風景
※004-弁吉氏の作品から
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※005-同館の展示雰囲気から
※006-享保雛 (写し込み)
【-享保雛について-】
この雛人形は江戸後期の享保時代(1716~1736年)以降に流行した雛です。
衣装は金襴や綿を使った豪華なもので、男雛は御所風の束帯に似た衣装で宝冠を
かぶり扇を持ち、大型で華美なつくりです。
この享保雛は幕府の禁止令(奢侈禁止令)で8寸以上の人形は無用たるべしとされたので
頭顔部・胴体・台座部を8寸以内に作り、飾るときに組み立てた大きな雛人形として大変
珍しく貴重な品です。京都から当地に伝わったを言い伝えられています。江戸後期作。
※007-江戸後期の西洋人形
▲・・・次回編に続きます・・・(-_-;)
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