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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

賞味期限と思考の行方。

2020-12-13 10:19:32 | 雑感

 昨晩、カミさんの実家から干し柿や薩摩芋や蜜柑が送られてきた。
 その中に袋入りのピーナッツ煎餅もあって、何気に賞味期限を確認しようとしたのである。
 品名や原材料を記した一覧表には、ちゃんと賞味期限の覧があって、そこには「下部に記載」と書かれており、それではと視線を下げてみたのだが、日付が見当たらないのだ。

 これは記載漏れか、と思うと同時に、もしかしたら急激に老眼が進行したか、或いは見方そのものに問題があって、目には映っていても認識できていないのではないかとも思い、カミさんに「これ、賞味期限は記載されてるか?」と尋ねてみた。
 幸いな事に?カミさんも賞味期限は書かれていないと明言。
 まあ小さなメーカーの商品ならそういう愛嬌もあるだろう。

 で、こういう時に、後から自分の内面を探るのは結構楽しいものだ。
 若い頃であれば、老眼云々など考えずに「あ~賞味期限が書いてない」と即断した…かというと、多分そうでもないだろう。
 「ひょっとしたら、間違えているのは自分の方かもしれない」というのは、慎重さや謙虚さというのもあるが、その時の心身のコンディションに因るところも無視できない。
 いや、慎重だの謙虚だのといえば聞こえはいいが、これらのことは自信の無さや優柔不断と紙一重でもある。

 今回の私はどうだったろうか。
 よくよく自分を探ってみると、単にカミさんに話のネタとして振っただけ、というのが一番のようだ。
 そして今、ブログの小ネタにもしているわけで、老化とか慎重とか優柔不断といった分析はまあ、実は話を広げるための方便だったりするのだ。
 だがその方便も、その時の自分の心身の状態を反映していることには違いないから、嘘ではない。

 こうした自分の観察は、他人の気持ちや思考を推し量る練習にもなる。
 他人の気持ちや思考は「分からない」ものだが、分からないなりに想像し、うっかり単純化したり決めつけたりする愚を避けるためのシミュレーションになるのだ。

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