土佐国岡豊城 [オコウジョウ] | ||
別称 | なし | |
城郭構造 | 連郭式山城 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 1591年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 南国市岡豊町八幡 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 高知県立歴史民俗資料館 | |
御城印販売場所 |
概要
岡豊城跡は、長宗我部氏の居城跡として知られる中世の城跡で、平成20年(2008)7月28日に国の指定史跡となりました。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以降、長岡郡を中心に勢力を拡げ、戦国大名へと成長していきました。
岡豊城が築城された明確な時期は、不明ですが、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えたのは15世紀ころと考えられ、16世紀初頭に一度落城したとされています。後に再興され、大高坂城に移転する天正15・16年(1587・88)ころまで機能した山城と考えられています。
※現地看板より
高知県立歴史民俗資料館
続日本100名城スタンプ設置場所
長宗我部元親 飛翔之像
二ノ段
二ノ段は、堀切によって詰からへだてられた曲輪(土塁や堀などで囲まれた城の一区画)で、長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。昭和60年(1985)と昭和63年(1988)に行われた発掘調査により、土塁は幅が約3m、高さが1mであったことがわかりました。建物跡などの遺構は発見されませんでしたが、焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質土器、陶磁器など多くの遺物が見つかりました。深いところでは、地下1.8mから遺物が出土しており、二ノ段は詰などから運ばれた土により造られ、土塁に囲まれた広い空間は、兵溜まりの場所と考えられます。
※現地看板より
堀切
堀切は、尾根などを横堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設です。
岡豊城跡の堀切は、詰と二ノ段の間に1本、北に延びる尾根上に2本、伝厩跡曲輪の北西部などに造られています。堀切はいずれも幅3~4m、深さ2m前後あります。
※現地看板より
井戸
井戸は、堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしています。上部は幅3m、底部は0.8mで、二ノ段からの深さは、4.7mです。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北に2段、南に3段の石積がみられます。井戸の底は、岩盤で湧水はなく、雨水をためる溜井として使われていたようです。
※現地看板より
詰下段 礎石建物跡
詰下段は、詰の東に付属する小曲輪で、礎石建物跡1棟や土塁などの遺構が発見されました。
礎石建物跡は、2間×5間(5.8m×9.2m)で、面積は53㎡と大きく、東の土塁と西の詰斜面に接して建てられています。礎石は40~60cmの割石が使われており、半間ごとに置かれています。
土塁は、幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留のために2~3段の石積があります。
詰下段は、堀切に面し造られた土塁や建物跡などからみると、二ノ段から詰への出入口を守るために造られた小曲輪であったと考えられます。
※現地案内板より
詰
詰 礎石建物跡
詰は岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。1辺40mのほぼ三角形状で、東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、四ノ段が詰を取り巻くように造られています。発掘調査では、石敷遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されました。また、地鎮の遺構や溜井(雨水を溜めた井戸)とみられる土坑(穴)、柱穴なども発見されています。出土遺物には、「天正三年(1575)・・・」の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏などがあります。
※現地看板より
三ノ段 礎石建物跡
三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見されました。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられています。大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半分が4間(8.6m)、南半分が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。建物跡の面積は125㎡と大きく、詰に接しています。礎石は、50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。北半分では礎石間に列石がみられます。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。
※現地案内板より
四ノ段 虎口
四ノ段
長宗我部氏岡豊城址碑
展望広場
2019/5訪問