阿波国徳島城 [トクシマジョウ] | ||
別称 | 渭山城・渭津城 | |
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 1869年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 徳島市徳島町城内1 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 徳島市立徳島城博・都市整備部公園緑地課管理担当 物館 | |
御城印販売場所 |
概要
徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1588~1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。
※現地看板より
鷲の門
鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付の薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。
廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日朝暁の徳島大空襲によって焼失した。
現在の鷲の門は、平成元年(1989年)9月27日、徳島市制100周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
※現地石碑より
城址碑
下乗橋(小見付橋)
城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたります。この橋を渡ると枡形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。明治2年(1869)花崗岩製になり、さらに同41年(1908)現在のように水平の橋に改造されました。
※現地看板より
大手門跡
太鼓櫓跡
ラジオ塔は、昭和8年NHKの徳島放送局が開局した記念に、旧徳島城の太鼓櫓跡に設置されました。戦前、ラジオを普及させるため全国の公園に置かれ、多くの市民がラジオ塔で聴きました。現在のものは昭和58年に修理復元されました。
※現地看板より
野面積み、算木積みをはじめ多様な石垣が残るのも、徳島城跡の魅力。五輪塔を組み込んだ部分のほか、JR線路沿いの旧寺島川の石垣には、全国的にも珍しい「舌石」が残され、折れ屏風塀の痕跡を留めています。
※現地看板より
舌石
徳島市立徳島城博物館
スタンプ設置場所
旧徳島城表御殿庭園
枯山水、築山泉水を組み合わせた約1.5haの桃山様式を伝える名園。大きな阿波の青石やソテツが巧みに配置されています。一番目につくのは約10mの石橋。初代藩主至鎮が踏み割ったとの伝説があります。
※現地看板より
蜂須賀家政像
蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1586)に一宮城(徳島市一宮町西丁)から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。それが昭和40年(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。
※現地案内板より
SL展示場
アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」に登場する車両と同じ形式の蒸気機関車(SL)が展示されている。
展示されているSLは「8620形」で、1923年から1969年7月まで県内の市街地や山間部を走り続け ていたが、徳島ー小松島間の運行を最後に役目を終えた。
西三の丸跡
西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。
西二の丸跡
西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
帳櫓跡
弓櫓跡
本丸跡
徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
埋門
本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。東二の丸には三層の天守が設けられていました。
清玄坊
東二の丸跡
一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。
天守跡
天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
数寄屋橋
徳島城の鬼門(北東)にあたる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」とも呼ばれたように、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。その数寄屋門の東側、堀に架け渡されていた橋が数寄屋橋です。長さ5間=約9.75メートル、幅1間=約1.95メートルの太鼓橋でした。現在は木製の橋が架けられており、往時をしのばせるものとなっています。
※現地看板より
旗櫓跡
2019/5訪問