城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

出羽国 脇本城

2024-09-22 13:20:15 | 城館
出羽国脇本城 [ワキモトジョウ]
別称
生鼻城・太平城
城郭構造
平山城
築城年
不明
廃城年
1602年
指定史跡
国指定
住所
男鹿市脇本字脇本 [MAP]
スタンプ設置場所

御城印販売場所


概要
天正5年(1577)下国安東愛季が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を総合して、小鹿島をも直轄地とし、ひのもと(蝦夷)将軍として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館までふくむ。もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季の伝承を伴っている。天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には大平城跡・生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700メートル余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り黄瀬戸・青磁・珠洲陶等が出土する。
※現地看板より

Youtube

登城口(駐車場)


日本海を見下ろすようにそびえる標高100m程の広大な山城です。戦国時代に秋田県中央から北部を支配した安東氏の城として、天正5年(1577)に安東愛季が大規模に整備しました。
内館地区からは海沿いを拠点に勢力をのばした安東氏の城らしい絶景が広がっています。また当時の建物は残っていませんが、歩いてみると城のあちこちに地形の凸凹があります。この凸凹は戦国時代に整備された曲輪という平らに整地された跡、土塁、空堀跡、井戸跡などです。江戸時代に入り廃城になりましたが、その後も開発が行われず、昔のままの姿を残しています。
※現地看板より





登城口 

菅原神社 

天下道


脇本城跡案内所
車で入れるのはここまで。

続100名城スタンプはこちらに設置されています。
24時間自由に出入り出来るのでありがたい。
また、攻城団のパンフレットもこちらに置いてあります。







天下道




馬乗り場

主郭
ここは内館と呼ばれており、館跡内には大土塁・井戸跡・館神堂跡などがある。
※現地標柱より

土塁を挟んで広がる曲輪は、城主が住む館と、儀式を行う場所(主殿・会所)があったところを想定されています。
曲輪の間には高さ6m、脇本城最大の土塁があります。

城主の館
切り出して造られた土塁は、主郭を囲む区画として威厳を感じさせるものです。
海に近く風の強い脇本城では風よけの役割もあったようです。両側に広がる曲輪は土塁を削った土を利用して盛土をし、広く整地されています。
※現地看板より

東端の曲輪
脇本城最大の土塁に囲まれた曲輪です。ここには城主の館があったと想定されています。南・北・西の3方が地形を生かした土塁に囲まれています。東側は低い土手状の高まりが残っていて、そのまんなか部分が途切れています。途切れた部分に門、その両側に塀があったと想定されます。ここは城下町を見下ろす絶好の場所となっています。
※現地看板より



城下町

内館地区東端のこの場所は日本海、秋田市と太平山、大潟村、遠くに森吉山を見渡すことができ、眼下にはかつての城下町であった脇本本郷の集落が広がっています。集落内の東西700mの道路の両側には間口が狭く奥行きが長い短冊形の地割が整然と並んでいます。
廃城となってから200年余りだった江戸時代後期、紀行家菅江真澄が描く風景には、集落の奥に砂丘をはさんで、日本海と今は干拓された八郎潟が美しく描かれています。
※現地看板より


井戸跡
盛土に囲まれた井戸跡です。雨の後には何日も水が抜けずにたまっています。生活用水として、また籠城への備えとして水の確保は大切でした。そのため、城内にはこのようなくぼみがたくさん残っています。
※現地看板より



2024/7最終訪問



 

 

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